Sei matto

エンリコ・フェルミは、ローマの人で、20世紀を代表する科学者のひとりです。
理論にも実験にもすぐれていて、ほぼジョーダンのようなひとであった。
マイケル・ジョーダンのようにバスケットボールで超人だった、という意味ではなくて、物理学の世界で非現実的なくらいの才能を発揮したひとだった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Enrico_Fermi

人間の歴史上、最高の科学者は誰か、といえば、イギリス人なのでべたぼめするには甚だしく都合が悪いが、アイザック・ニュートンに決まっている。
ニュートンというひとは、神様のやることを微分してしまった初めのひとであって、その「微分」といういまでは世界を理解するためには人間にとって最低限不可欠で絶対に必要になった道具を使って、たったひとりで世界を初めから最後まで説明してしまった。
2番目、ということになると、候補が200人くらいいると思うが、フェルミはフォン・ノイマンやアインシュタイン達と並んで、最後の5人にはいるくらいのひと、と言って間違いにはならないだろう。
わしが物理を教わった先生はフェルミを2番目に偉大な科学者だ、とゆっていた。
2番目だったらアルキメデスちゃうかなあー、と不服に思ったので、よくおぼえている(^^)

ツイッタで、「光より速い素粒子」が誤りかというニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120223/t10013237921000.html
について、「イタリア人なんかに機器を扱わせるから実験を間違うのだ」という、なんだか「日本人の傲慢」を絵に描いたようなコメントを見てぶっとんだが、それに同調して笑ったひとも多かったようだった。
わしは思わずカッとなって、たったひとりのフェルミも出なかった国のくせに、くだらねえことを言って得意がってんじゃねーよ、と悪態をついてしまった。
まことに心性として下品である。
温和で成熟したおとなであることをもって四海に鳴るわしとしたことが、はしたないことであった。
ツイッタでイタリア人を小馬鹿にしていたのは防衛省の元役人のおっちゃんだったが、いまだにハーケンクロイツのお友達なのが誇らしくてたまらなかった軍国のむかしを懐かしんでいるらしい日本の自衛隊の雰囲気がよく判るような発言だと感じました。

恋人と母親を同一視してしまう不思議な習慣や素材を重視する料理への考え方において、イタリア人と日本人は似ていると思うことがある。
英語圏では男が女の乳房にふれることは女が男のち○ちんに触れることとまったく同等であって、男が女の乳房にあまえて吸い付くなどという不気味な愛情表現はありえないが、イタリアの男には、そういう人もいそうな気がする。
「20年も一緒にいれば、女房なんてかーちゃんみてえなもんだから」というようなことを、イタリアの人はおおっぴらにいう。
ふと思いついて「日本では実際に、『かーちゃん』と呼ぶのよ」というと、さすがにぎょっとしたような顔になるが、すぐに笑って、「気持ちわかるよ」といいます。
英語人なら、「そういう気持ち悪い話題を口にだして言うなよ」と考えて顔をしかめて返事をしないところである。

なんだかものすごくマジメなのに一方で破天荒なくらいデッタラメな印象も、日本とイタリアは似ている。

観察していると、日本のイタリア人に対する感覚は、たとえばドイツ人のレッドネックが言うことのオウムの口まねに過ぎなくて、「イタリア人はなまけものだから」というようなことを述べることによって、あたかも自分がドイツ人並である妄想にひたるものであるらしい。
ひどい「西洋コンプレックス」(という言葉は、もう死語だべ、と思っていたのに)に陥っているおっちゃんやおばちゃんたちほどイタリア人を小馬鹿にしたような冗談を言いたがるようで、それをネタに先進文明人ぽく盛り上がるのが好きなよーだが、横で見ているわしのほうはゲンナリしてしまう。
カンベンしてくれ、と考える。

理由は簡単で、わしはガキンチョのときからイタリアとイタリア人の築いた文明を途方もなく尊敬しているからです。
いま、われわれが西洋文明と呼んでいるものは、要するにローマ人がつくった文明のことである、という大枠もあるが、何よりも、たとえば父親のイタリア人友達の家を訪ねていけば、階段のてすりには精妙で典雅な彫刻が一面にほどこされ、息を飲むような壮麗なデザインの壁紙があって、室内が一個の美の宇宙をなして、「美の洪水」と呼びたくなるような空間をつくっている。
町を歩いても、イタリアに行って、多少でも観光地でない下町を訪れたことがあるひとなら誰でも見知っている3輪のトラックや、道路の脇にさりげなくとめてあるビアンキの美術品に最も近いモーターサイクル、フロレンスの間口一間で、ほんの少しの空間を店にしてあるだけで後ろに広大な工房がひろがる職人たちの店の傍らに飾ってある得も言われぬ形の靴や鞄、人形、文房具。
イタリア人がもっている「美」への偉大な感受性は、現代の工業製品にも活かされていて、そこへいくとイギリスやドイツなどのイタリアに較べれば圧倒的に文明が遅れている国の製品ときたら、「機能的」と言い訳することになっているデザインができないことへの体裁の良い言い訳でつくられた不格好な外見に、残りの特徴は「壊れない」という頑健で病気をしないのだけが売り物の農夫の美点じみた売り文句だけである。

言うまでも無く「典雅」や「優美」というようなものはイタリア人のものであって、夏の保養地ひとつにしても、コモの湖に行けば、他のアメリカや欧州の保養地のような地域全体が見るにたえない安普請な書き割りじみたいまできの開発とは異なって、そもそも保養地というものがどういうものであったかを教えてくれる。

オペラひとつとってもワグナーが大好きな日本のひとの趣味は、それはそれでいいに決まっているが、わしはミラノ人のジュゼッペ・ヴェルディやトスカナ人のジャコモ・プッチーニのほうがワグナーの百倍は好きである。
もっともそれは「軽み」や「弱々しい線で描かれた繊細」がないところには文明を感じない、わしの感じ方の問題が大きいのは自分で知っているが。
ワグナーも、付き合いでときどきは聴きに行くが、あんまり伽藍っぽい音楽を聴かされると、つい、ダッセエー、肥だめの臭いがするわ、とかいけないことを考えてしまう。
ワグナーのクライマックスで、緊張の面持ちで陶酔している観客席のまんなかで、ひとりでつまらなさそーにしている態度の悪い顔のガキがいたとしたら、わしであるに決まっておる。

ちびガキンチョの頃は、両親の強制お供で、あんなマクドもタイムアウトもないとこに行くのやだなー、だせー、と思いながらよくひきずられるようにしてイタリアへ出かけた。
着いたら着いたで、ぺらぺらとイタリア語をよくしゃべる妹を横目に、くっそー訳わからん言葉でしゃべりまくりやがって、おしゃべりな国民だのおー、と、まさか口には出さないが心のなかでは悪態ばかりついていた。

それがだんだん「文明」というものを理解できるようになってくるにつれて、自分達が作っている万年筆について「熱狂的」というしかない態度で「お若いひと、お若いひと」と繰り返し呼びかけを挟みながら、わしのような愚鈍なガキに二時間も熱心に説明してくれるおっちゃんや、相手は子供であるのにはにかみながら、テーブルにゆるゆると近付いて「料理、おいしいかい?」とゆって、おいしい、というと、これもあれも、と料理屋のおごりで出してくれた若い料理店主、夜の山の斜面にぽつんと小さな灯がともっていて、何も書いていない、ツタにおおわれたドアを開けると壮麗なインテリアの広大な空間がある田舎町のレストラン、
二年も経って訪れたのに、「まあー、よく来たわね!元気だった?風邪はもうなおったの?」と大喜びで迎えてくれる村のひとたち。
フクシマの原発の話をして、でも、日本の科学者は安全ってゆってるみたい、と言うと
「安全でも、わたしはやっぱり子供達が心配だよ。どうして逃がしてあげないのかねえ」とゆって、俯いて、すっかり涙ぐんでしまっているおばちゃん。

コモの村では夏には、中世騎士時代のトーナメントやヘイスタックを転がして競争する中世以来のスポーツ大会、あるいはむかしの農機具や家具をひっぱりだして、中世の服をみなで着て生活を再現するフェスティバルがあるが、そうやって「文明が2700年前くらいからずっとまっすぐに現代に続いている」、重層的というよりは、たおやかな流れのような明るい文明の感じは、当然、ところどころで断絶した文明の切り口の黒々とした傷がのぞいている連合王国のような国とは違っていて、イタリアという文明のすごさを感じる。

そーゆー小難しいことを並べられて、ブンメイ、ブンメイって、カステラのコマーシャルみたいなことゆわれてもねえ、という、そこのきみ、きみは、そーであるなら、えっこらせと腰を上げて、北でも南でもかまわない、イタリアのどこかの小さな町へでかけてみればよい。ちゃんとクルマや鉄道に乗ってでかけてゆく、小さな町や村でなければダメです。
ロンバルディアのようにもともと富裕な土地がらのところのほうが、あるいは、初めての旅行者にとっては、とっつきがよくていいかもしれん。

入り口の感じでおいしいそうだと判る、観光客がいない地元のひとで賑わっている店は、よそ者には入りにくいが、勇気をだして入れば、あるいは言葉が全然できなくてもイタリアの人はちゃんとにっこり笑ってテーブルに案内してくれる。
メニューをあけると、日本のイタリア料理屋に較べて妙に安いピザや妙に高いパスタが並んでいるでしょう?
運がよければ、えっ、なんで卵二個がトマトソースに浸かってるだけの料理が、こんなにすんだよ?というようなトマトソースの料理があるだろう。
値段にすればパスタの二倍、ピザの四倍くらいする、その料理を頼んでみるがよい。
ト、トマトって、こおおおおんんなに旨いのか、というような濃厚な、しかも「何か」がはいっているせいで天上の味がするので、きみはぶっくらこいてしまう。
おかーさんの味、なんだぞ、あれ。
2000年以上、母親から母親、姑からお嫁さん(^^)、おかーさんから娘、に延々とうけつがれてきた味が、トマトソースに化けて、きみの目の前の皿のなかにある。
きみやわしには触れてみるまでは価値がわかりにくかった、スープ皿のなかにも、町のところどころにある水飲み場にも、敷き詰められた道の舗石にさえたゆたっている、よく目をこらしてみなければみえないもの、あれこそが「イタリア」なんですのい。

ほんでわ。
Buon divertimento!

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9 Responses to Sei matto

  1. Akira says:

    ガメさん
    >「光より速い素粒子」が誤りか

    イタリア人をそう言うのは憧れも有り、尊敬の意味でそう言ってる時もあると思います。前述のピザしかりで、日本はイタリアの精神(本当の根幹ではない。)無し(パクリだろう)に現代のブンメイ(金儲け)とやらは立ち行かないでしょう。
    ことデザインにかけてはイタリアに日本は100年遅れてる。デザイナーがヘッタクレ言おうが日本のデザインはケツの穴が小さい。
    オイラが昼は蕎麦で夜がパスタ食べようとしたらカミサンが「何でヌードルばっかなんだ!」って呆れられましたが、パスタを日本人は(イタリアのパスタと違うものだけど)ソバとは比較してないと思う。パスタを主食と思ってる。むしろパスタにパンも無いとダメというカミサンに脱帽です(^^) それは大阪の「お好み焼きにご飯」に似ていなくもないけれど、、、(^^;

    何れにしても「誤り」は大事。そっからどんだけ学べるかにかかっている。だからフクシマも俺たち(あんま一緒になりたか〜ないんだっけど。。)はあそこを徹底的に掘り下げないといけない。

    ところで医学で、以前メル友のイタリア在住の日本女性が「ここではカゼをひいてクリニックに言っても「恋をしなさい」で帰されちゃう!」って言ってましたが、それを真に受ける程マヌケではありません。確か不整脈薬の分類だって1990年、イタリアのシシリー島での会議で提唱されたんです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%97%E4%B8%8D%E6%95%B4%E8%84%88%E8%96%AC いまでも重宝されている。オイラはこの会議で分類されたのがイタリアと聞いて畏敬の念を抱いた記憶があります。ま、心イベント(心筋梗塞とか)が多いからなんでしょうけどね、、(^^;

    >ワグナーの百倍は好き

    io anche(^^)
    最近ようやくHigh C が落ち着いて出るようになったんでスカラ座のオーディションに行こうかと思うてます。
    おっちゃん達はワーグナーが好きと言わないとバカだと思われると錯覚してるんでしょう。
    オイラのカーちゃんは音大出でピアノ科だったんだけど、オイラと妹を産んでからめっちゃ太った。でもって周りは「イタリアだったら大モテなのにね!」と言う。日本人はコレよく言います。ほんと失礼だと思うよね。でも実際モテるのかな?とも想像してしまいます。歌が巧ければモテるんだろうね。乳房については実はガメさんに聞きたいことがあるのですがここだと余りにも低俗なのでいつか会えた時に致します。
    しかしまーhttp://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%8A%E6%9C%88%E3%81%95%E3%81%BE-DVD-%E3%83%93%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8A/dp/B0000C16SQ
    こんな映画も有る訳で、、、苦笑 でもこの映画の中で、雨の中、砂浜でスペイン語(たぶん)の歌を若い男が唄うシーンはオイラは大好きです。観たことありますか?

  2. Cypraeaidae says:

    > ふと思いついて「日本では実際に、『かーちゃん』と呼ぶのよ」というと、さすがにぎょっとしたような顔になるが、

     そこに畳み掛けて、でもってその「かーちゃん」は、自分の生んだ長男のことを「おにーちゃん」と呼ぶのだ、と告げてみる、というのはどうでしょう(^^)

  3. Akiraさん、

    >ことデザインにかけてはイタリアに日本は100年遅れてる。

    「美的感覚」は文明の深さそのものだから、当然イタリア人はすごい。でも、日本人も「小さいもののデザイン」はすごくすぐれていると思う

    >イラはこの会議で分類されたのがイタリアと聞いて畏敬の念を抱いた記憶があります。

    イタリアって、「大学発祥の地」(University of Bolognaが初め)
    でしたのい

    >最近ようやくHigh C が落ち着いて出るようになったんでスカラ座のオーディションに行こうかと思うてます。

    えっ?マジですか。すげー

    >amazon

    URLがでねえ

  4. Cypraeaidaeさん、

    >その「かーちゃん」は、自分の生んだ長男のことを「おにーちゃん」と呼ぶのだ、と告げてみる

    そーゆー、神を畏れぬことを考えてはいけません。
    神よ、この罪人(つみびと)を許し給え。
    アーメン。

    • Cypraeaidae says:

      「とーちゃん」とか「かーちゃん」とか「おねーちゃん」とか「おにーちゃん」とか、
      日本語世界で育ってなんとも思わずにおりましたが、あるとき人に
      「あれは、成員の中の最若年者から見た時の呼び方を、全員で共有しているのだ」
      という説明を受けて、なるほど、と思ったことがあります。たしかにそうなってる。
      更には、成員間で呼び合うときだけでなく、自分で自分のことをいう時の主語も、その呼び方システムに預けてしまう。

      日本語で考える人が易易と視座の在処を移し変えたり誰かに成り代われたりし易いことと、幾ばくか関係あるかもしれません。

      • Cypraeaidaeどの、

        >呼び方システムに預けてしまう。

        カナリア諸島出身のおっちゃんが、「うちのかーちゃん」とゆっていたのを突然思い出しました。

    • 親愛なるAkiraさま、

      >観れるかの?

      観られます。なに観てるんだガメ、とゆって画面をのぞいたモニに怒られました。
      説明したのに、「ふーん」とゆわれた。
      この家にも座敷牢ができるのは時間の問題のような気がしてきました。

  5. Akira says:

    ガメさん
    そうでしたか(苦笑)それは失礼しました。
    でもこの映画、YouTubeなんかに出ている映画の断片を観ると奥様に誤解されそうだけど事の根幹は面白いですよ(^^)
    FADOではないと思うけど、今まで主人公の男の子が観察してる女性に軽くあしらわれていた青年が雨の中で「男に」なります。スペイン語の唄もいっすね〜。。。
    ところで「 Be Polite」でコメント入れるのにドジこいてしまい失礼しました。「同じ事言ってるじゃん?!」ってコメントが出てオイラのコメントはアップされず、「ガメさんの秘書?ギリオージさん??が「これつまんねー」って監視してんのか??」なんて思っちゃったヨ(^^;

コメントをここに書いてね書いてね

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