メキシコ_日本


去年の8月にフランスからニュージーランドに帰ってきて、そのままずっとオークランドにいるので半年が経っている。
考えてみると、こんなに長いあいだ一カ所にじっとしているのはひさしぶりで、普段はもっとずっとあちこちをうろうろして暮らしている。

どこかの町に行っても、そこに最低一箇月はいるのでないと話にならない。
一週間や二週間なら、カンクンかプーケのチョーでかいプールがあるホテルに泊まって、
一日中プールサイドでごろごろしたり、プールのまんなかにあるバーへ泳いでいってカクテルを飲んでバーテンのにーちゃんや他の客と話して遊んでいたりするほうがいいと思う。

わしが普段つかっているイギリスやニュージーランドの旅券では簡単にとれる観光滞在許可は3ヶ月の国が多いが、3か月というのはよく出来た期間であるとも言えて、同じ町に3ヶ月いると自分のまわりに「世間」やそれに伴う人間関係がちゃんと出来てしまうので、やや鬱陶しい感じもしてくる。「引っ越してきたばかりの人」になってしまう。

自分ででかけた国のなかで最も、というよりは飛び抜けて変わっていたのは日本だが、自分が知っている社会とかけ離れているという点ではメキシコも変わっていてよかった。
メキシコにはところどころ観光地というよりも観光租界と言ったほうが良いような町があって、たとえばカンクンはアメリカです。
911が起こるまではアメリカ人はカンクンに行くのに旅券がいらなかった。
自分が自分であることを証明するもの(というと随分哲学的だが)があればよくて、運転免許証ですませるひとが多かった。
むかしは貧しい漁村だったところに開発業者が水の色が美しいカリブ海の名前と細い美しい干潟の形に目をつけてコンピュータグラフィックを使って仮想的に町を設計した。
CGを使って設計した町はカンクンが初めてだったが、ホテルのオーナーたちは、それがすっかり気に入ってあっというまに、まるで世界中のリゾートホテルのギャラリーのような不思議な町ができあがった。
カンクンの町を走る、たしか10ペソ(これを間の抜けた観光客が真に受けてほんとうに丁度10ペソで1ドルのアメリカドルで払うことを期待して地元のひとたちは「10ドル」と呼ぶ)のバスで端から端まで眺めて通ってみると、文字通り世界中のホテルが軒をつられていて、ホテルカタログみたいな町です。
http://www.cancun-map.com/maps/cancun-map.asp

前にも書いたが、たいていのホテルはカンクン全体がそれで有名な「all inclusive」で、到着日と滞在日数によって色が異なる腕輪をつけて、ホテル内にだいたい4つから8つくらいあるバーやレストランほかの施設はタダで使えることになっている。
わしなどはケチなので、そんなことをすると、いちばん高いレストランのいちばん高いロブスターばかり食べて、いちばん高いワインを飲み、食後はもっともゴージャスなバーに行って最高価格のカクテルばかり飲みそうな気がするが、アメリカ人は「汚染されても鯛」と日本の諺にいうとおりで、やはりオカネモチの国民であって、ホットドッグを食べたければホットドッグを食べ、高いレストランでは寛げないし、第一高級レストランで異様にみえないために相応なカッチョイイかっこをするのはメンドクサイというので、ショーツとアロハでプールサイドのバーでサンドイッチですませたりする。
「元を取る」というチョー下品な考え方をもたないので、衣食足って礼節を知る、という背が高くて2メートルあった上に儒冠をかぶっていたせいで遙か彼方からでも目立ったに違いない、あの悔しがりな中国人の言葉はほんとーだなあー、と思います。

カンクンのことをうっかり書いてしまったので余計なことを書くと、ホテルリゾートから離れた下町にでかけて行くとわかるが、カンクンはもともとは鮫が名物でむかしはお土産品の代表は鮫の顎骨だった(^^;)
ちょっと沖合までいくと鮫に遭遇するというのは、ふつーのことで、カンクンと言えどメキシコなので防護ネットなんてありません。
鮫はまだそれほど危険ではないとしても、バラクーダがたくさんいる。
賢いわしは出かける前にスーツケースに潜水用具を詰めていたときに妹に注意された、というか嘲笑されたので、もちろん元から知っていたのにたまたまど忘れしていただけで妹に言われて初めて知ったわけではないが、海にははいらず、砂浜で悠然とカクテルを飲んでいただけだったが、あるときイギリス人のおじちゃんが、血相を変えて海の中から全速力で砂浜めざして波間を走りながら
「バラクーダだ! バラクーダだ!」と絶叫すると、そこいらじゅうの人が阿鼻叫喚となって砂浜に殺到するのを眺める機会にめぐまれて、「ジョーズみてえ」、けけけけ、と午後を楽しんだりした。
地元のひとに、泳ぐことあるの?と訊くと、とんでもない、と言う。
鮫やバラクーダがいるからかのい?とたたみかけると、
鮫は正面から向き合えばダイジョーブだし、バラクーダは…まあ、あれは、ほら人生の避けがたいリスクだから、っちゅうようなことを言います(^^)
達観しておる。
達観しているわりには海をこわがって絶対にはいらないが。

閑話休題。

欧州人にとってのカンクンがコズメルで、コズメルの島と対岸のプラヤ・デル・カルメンにはイタリア人やスペイン人がいつもごろごろしている。
ときどきバスで、大陸欧州人に較べると明らかにパッとしない身なりの集団があらわれるが、それはイギリス人である(^^)

わしはプラヤ・デル・カルメンの町
http://en.wikipedia.org/wiki/Playa_del_Carmen
が大好きだったが、2005年のハリケーンと、その影響をうけた不景気で、好きだった店が、どれもこれもなくなってしまった。

中南米の国と同じで、北米のメキシコもイタリア人とスペイン人が多い。
簡単に想像がつくようにスペイン料理やイタリア料理のおいしい店が小さい町でも探せば必ずひとつはあって、メキシコのいいところのひとつです。
メキシコ料理もおいしいが、わしがうまれてから食べたスパゲッティのいちばんおいしい店のひとつはプラヤ・デル・カルメンにあった。
あまりにおいしいので二皿たいらげて、Tシャツの正面におおげさに飛びちったトマトソースをくっつけたまま目抜き通りをホテルまで歩いて、わしを見て大笑いするメキシコ人たちに手を振りながら帰ってきたのをおぼえている。

観光地よりも内陸の古い小さな町のほうが良いに決まっている。
メキシコの教会は、そのへんにころがっている、もったいぶったアメリカや欧州のクソ教会と違って、ほんとうに神様がいそうな「神の家」の匂いがする教会です。
欧州と違って貧困の悲しげな空気に満たされているが、信仰っちゅうのは、もともと、こーゆーもんだったんだべな、と思わせるに充分な空気がある。
「写真撮ってもいい?」と訊くと、にらみつけるようにして「嫌だ!」という子供達や、通りの脇から、じっと見つめているたくさんの目、観光地と異なって全然フレンドリーでないし、第一危険だが、メキシコの田舎町というのは一度訪れると忘れられない独特の場所であると思う。

最後にメキシコにでかけたときはクエルナバカという町で、何日か過ごしただけだった。

http://en.wikipedia.org/wiki/Cuernavaca

モローレス州の州都で、美しい庭園のある町です。
メキシコ料理のおいしい町なので、毎日レストランにでかけて、夜更けすぎても飲んだくれていた。
昼間はテポツラン(UFOが好きな人は聞いたことがあるであろう)やなんかに出かけて、結婚する前のわしのいつものええかげんさで、ねーちゃんたちと浮かれ騒いでおった。
丁度、いまの麻薬戦争がひどくなり始めた年で、帰りがけに寄ることになっていたメキシコシティのホテルのすぐそばで機関銃を使った銃撃戦が始まったので予定を切り上げてシカゴにでかけたのだった。

それからメキシコに出かけていない。
サンガリータとテキーラを並べて一気のみする、メキシコ人の男どもが大好きなサンガリータ&テキーラを飲みながら、メキシコ欠乏症だなあーと思う。

もうひとつの別世界は言わずと知れた日本で、子供のときに父親の用事で住んでいたことがあり、かーちゃんシスターが日本人のヘンテコなおっちゃんと結婚して、その息子はわしのマブダチなので、メキシコに較べるとぐっと近しいが、ほんとうにこれが同じ地球上の国なのだろうか、というくらい何から何まで違うという点ではメキシコよりもまた桁違いで、どーなってるんだ、と思うことがたくさんあった。

外国人というものはヘンなところで躓くもので、日本とは縁が深いのであるから家を買おうとおもったが、まずのっけから不動産売買の思想がまったく異なるので、そこでもう理解不能な状態になってしまう。
大きな理由として他の国で家を買うときは家か会社の人間に頼むので、そもそも自分でやることはなにもない、ということがあるが、それにしても、そもそも不動産屋の役割が判らない。
不動産屋というものは売り主のために働いて売り主から手数料を取るものだが、日本では「中立」であるとゆわれて、「?」、になってしまった。手数料も売り主と買い主の両方からとるという、ニュージーランドの不動産屋が聞いたら歓喜してアヴェ・マリアを歌い出しそうなことを言います。
おまけに事務弁護士がおらん。
事務弁護士がいないのに、どうやって売買の条件を詰めるのだろう。
全然わけがわからないので、義理叔父にまかせることにした。

そうやって始まった日本遠征計画だったが、やはり無暗矢鱈に面白かったとゆわねばならない。

そのうちに、わしはモニと結婚したが、記憶のなかの日本は子供のときの記憶を別にすれば、いつもモニが傍らにいる日本で、夜中に軽井沢という小さな町の南側に広がる農地にホタルを見に行ったり、やはり夜中の「1000メートル道路」でイノシシの親子をみつけて喜んだりしたのが忘れられない。

ブログ記事で日本についての話がたいてい夜中なのに気が付いた人がいるかも知れないが、モニとわしには5月から始まって10月にやっと終わる日本のチョー長い夏が暑すぎたからで、12月から2月はどうしても気持ちの良い南半球で過ごしたかったモニとわしは、日本の人が「春」と呼ぶ5月を皮切りに日本に出向くことが多かったが、モニとわしにとっては軽井沢でさえ日本の5月の気候はもう夏で、その後は、どう表現していいか判らない「地獄の季節」というべきか、日本でいちばん困ったのは気候の厳しさだった。
気温が高ければ湿度が小さいはずである、というわしの体が保持している信念に反して気温も湿度も高い日本の気候は、笑うかもしれないが、同族のなかでも低気温に適応するように調整されているモニとわしの肉体には、よっぽど不向きで、最後の年、T国ホテルから丸の内警察署の近くの焼き鳥屋に行こうとして、その300メートルが最後まで歩けずに、気分が悪くなって、ひどい吐き気と、わしのほうは尾籠な症状もひどかった。
誇張ではなくて死ぬ寸前まで、あっというまに行ってしまった。
シンガポールやチェンマイ、プラヤ・デル・カルメンでもそんなことはないが、もしかすると町には「夏向きの町」というような作り方があるのかもしれません。

銀座にいくたびに広尾の家に帰らずにT国ホテルに泊まるのを見て、こおおおおのおおおガキがあああ、と思ったひともいるだろうが、ちょうど探検隊が前進基地を設けるのと同じことで、モニとわしにはふつーに必要だと思われたのでした。
前にも書いたが、T国ホテルには外国人専用の会員制度があって、すげー安かった、という理由もあります。
日本のひとが聞くと怒るかも知れないが。

飛竜頭(ひろうす)、という食べ物や焼き鳥が好きだったので、モニとわしは銀座が好きだった。
あとは天ぷらで、白木のカウンタの向こうでいつもニコニコしているおっちゃんからT国ホテルに「お客さんいなくなって、店、暖簾おろすからさ。モニさんとおいでよ」と電話がかかってくると、いそいそとふたりで出かけた。
おっちゃんはまちかまえていて、その前にでかけたときに、あんこが食べられないと言えば、自分でつくったあんこの「羽二重餅」をつくってまちかまえていて、えー、うまいなあー、これ、ほんとにあんこなのか、というと、「相好を崩す」という表現そのままの様子で、おいしいでしょう? あんこってのはね、ほんとうは、おいしいんです、ちゃんと作ればね。おぼえててね、とゆって喜んでいる。
おっちゃんが揚げる天ぷらは繊細を通り越して油であるとはおもえないようなもので、モニとわしは大好きだった。
「あれはね、油がはねるから日本の天ぷら屋は揚げないんだよ」とゆっていた牡蠣の天ぷらを揚げてくれたことがあったが、ニュージーランドやオーストラリアのクソ高いレストランでは定番になったこのメニューで、もっともおいしい、どころか、他の牡蠣の天ぷらなど、所詮はパチモンなのね、といいたくなるほどおいしかった。
他の言葉などなくて、ただただ、すげー、と考えた。

日本にいた頃の記事をいま読み返すと、食事代が高いことばかり文句を言っているが、
ほんとうは、それはフェアでなくて、いま考えてみると、特に日本料理はあれだけのものを出せば、かえって安いくらいのものだったのかもしれません。
福島第一事故が起きるまでは、ニューヨークのカネモチたちがヒマを見つけては日本まで文字通り「飛んで」食事に行っていたわけである。

夜中でも暑いことが多かったが、それでもなんとかなりそうな気温と湿度のときは、すかさず出かけて、ふたりで散歩した。
たいてい深夜零時くらい。
広尾山の坂を歩いておりて、タクシーをとめて、青山や麻布でおりて散歩した。
青山の裏通りには、感じのいいバーがいくつかあった。

外苑も好きだった。
わしはクリケットのみならず野球も好きなので、たまには昼間にでかけて、バッティングセンターに行くこともあったが、モニがバッティングセンターを気に入ったのには驚いてしまった。
モニがボールをうまくライナーで弾きかえすと、わしもなんだか嬉しかったりした。

もう行けないだろうなあ、と思うと、日本は良い国だったなあーと思う。
日本語を書いていると頭が日本人になって、大庭亀夫先生が脳髄のなかの魔方陣のまんなかにあらわれて生前に日本でアッタマにきたことをわしのチョーゼツすぐれた日本語体系を利用して憤懣をはらすが、亀夫おじさんももう、フクシマが心配で、ひとりで日本に帰ったのではなかろうか。
こうやって観光客として日本を思い出すと、変わっていたぶんだけ楽しかったような気がする。

箱根富士屋ホテルの、天井に美しい装飾画があるレストランで、モニが天使のように、という笑顔そのままで微笑んでいる写真が、わしの机の上に載せてある。
写真をみるたびに、なんという美しい人だろうと思う。

わしはこのホテルの「フレンチ・レストラン」でカツカレーを食べた(^^)
2900円もするのを発見して、すかさず不服を述べると、「ガメはほんとにケチだなー」とゆってモニが笑う。
だって、日本式カレーが2900円もしたら犯罪ではないか。
ものには適正価格というものがあるであろう。

でも可笑しそうに微笑っているモニのやさしい光のある緑色の眼をみていると、なんだか世の中の不出来など、どうでもよいような気になってくる。
こんなことをいうと偏執狂のようだが、モニという人は眼の、虹彩の形まで美しい人なのです。

後半はモニが一緒だったせいかも知れないが、こうやって思い出してみると、ちょっと意外な気がしなくもないが、わしは、明らかに日本が好きであった。
なんだか軍隊式の、息をするにも他人の顔色をうかがわねばならないように見える社会とはインターネットでのやりとり以外は交渉をもたないですんだせいかもしれないし、所詮は「よその国のこと」だからなのかもしれないが、ニュージーランドのような国に普段住んでいると、自分の国やよその国、という区別はどうでもよくなってしまう。
もっと言うと、「国」などは、あってもないようなものなので、日本、というときも、それはなによりも従兄弟のことであり、義理叔父であり、鎌倉ばーちゃんや、日本語を通じて知り合った友達、いまはロス・アンジェルスに住んでいるが、まだあのひとが日本のゲーム会社にいた頃、これから跳躍しようとする人の張りつめた顔がみえるような、いまでも何回も読み返す手紙をくれたjosicoはんや、普段はチョコの銘柄しか考えたことのない頭で必死に考えてふたりの小さな子供の手をひいて、フクシマの直後、必死に西に逃げたナス、長いあいだ遠いイタリアに住んでいるのに、まだ日本の旅券をにぎりしめていて、いてもたってもいられない気持ちで原発事故でばらまかれた放射能の危険を日本人に教えようと躍起になって他人の発言をリツイートしくるっているすべりひゆ、もう言葉も聞けなくなってひさしいthingmeurlという、ただツイッタで出会っただけの友達(ツイッタでけでも、誰かを避けがたく「友達」と感じることはあるのだ!と、わしはびっくりしたものだった)、半島人を罵倒するのだけが生き甲斐のオオバカタレなやつなのに、どうしてもどこかに人間の誠実を感じさせてしまう不思議なひとだったwindwalker、
そういう人のひとりひとりの顔や、あるいはthingmeurlならば、顔ですらなくて、たった数回ツイッタで言葉を交わしただけの、その言葉がもっている寂しさの重みだけだが、そういう日本語で息をし、怒り、喜んだり哀しんだりしているひとたちが「日本」なので、日本という国や社会や文化が「日本」であった初めの頃に較べて、自分でも、少しは頭のなかの「日本」が、まともな日本らしくなったではないか、とひとりごちるときがあります。

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