Monthly Archives: March 2012

痛み

沖縄のひとは、「魂を落とす」という。 落とすと、わるいことが起きる。 気持ちが落ち着かなくなったり、ぼんやりしていたり、体調が悪くなったりする。 落としてしまったら、魂を落とした場所へ行って 「まぶやー、まぶやー、うーてぃくよおー」 とゆって魂を呼び戻すそーです。 現代では心へのアクセスを失ってしまうひとが多い。 自分の心や感情がどこか遠くにあって、ときどき帰りつこうとしても、もう自分の魂の住所がわからなくなっている。 他人の苦しみは文字通り「他人事(ひとごと)」で、なんとも思わない、というよりも、どうにも思えない。 他人の苦しみを思って泣く、などという人間は偽善者に違いない、と思い込んでいるひとまでいる。 もっと酷くなれば、実際に、自分の苦しみでさえ「他人事」になってしまうひともいるよーである。 人間にとっての最大の不幸は自分自身にアクセスできなくなってしまうことであると思う。 ヘンな例を挙げるなら、ちょうど自分のオンラインの銀行アカウントにアクセスできなくなったひとと同じで、パスワードもIDもちゃんとおぼえているのに、いざやってみると自分に見慣れた心象はあらわれないで、なんだかのっぺらした、自分のまわりにいくらでもある表情と顔にでくわしてしまう。 自分はいったいどんな人間だったかが思い出せなくなる。 シリアルキラー(連続殺人犯)に同じ問題を抱えたひとが多いのはよく知られている。 ベトナム以来、戦場で苛酷な戦いに曝されると、やはり同じ問題を引き起こすことも知られるようになった。 実際、海兵隊で、気の良い、やや単純な若者を殺人機械に変えるための訓練は、言葉を言い換えると自分の心に鍵をかけて自分自身から隔離するための訓練そのものです。 そういう眼で見直すと旧日本陸軍の習慣と訓練もやはり自分の心を虐殺することに特化されていた。 集団強姦や無抵抗な民間人を射殺するのが通常の軍隊生活の一部であった日本陸軍の軍紀の弛緩は、ようするに最低限の人間性まで兵士達から奪い取ったことの結果であるように思える。 中世の武士はびっくりするほどよく泣いたという。 感激してはおいおい泣き、友達が喧嘩して去ると悔しがって号泣した。 いまの日本人からは想像もつかないひとたちであったよーです。 わしがもつ、自由闊達で自分の心が自分自身に向かっていつもドアを開けっ放しであるような日本人のイメージは、どうやら俊頼髄脳と並んでわしが大好きな古典である「平家物語」から来ているらしい。何でも書いて自分でも飽きたが生田神社で箙に花の枝をさして戦場にかけもどる景季の後ろ姿は、わしが歴史のなかでなんども見送った日本人そのものの姿でもある。 日本は、空恐ろしいほど貧しい国だった。 豊かな濃尾平野で国をなした織田信長でさえ、多分、(印象では)軍事費が国費の半分をかるくこえていて、農民や商人は、くうやくわずに近い状態だったと思われる。 卓越したデザインセンスに彩られた鎧甲や兵器の美しさは別にして、戦国時代の争闘などは庶人の目からはいまのアフリカの内戦と同じようなものだったのかも知れません。 その程度の生産性しかなかったはずである。 江戸時代になっても貧しさが変わらなかったのは、一般に印象される中期までというようなことではなくて、現代の感覚からすると「ボロをまとっている」としか形容できない幕末の写真に残っている庶人の姿をみれば、文字通り一目瞭然、江戸時代もまたいまの常識では理解できないほどの貧しい時代だったでしょう。 明治時代にやってきたフランス人は、日本という国の貧しさに息をのんで、「この国には、しかも資源と呼べるものがなにもない。人糞だけがゆいいつの資源で、日本人という民族は人糞を畑にまいて食べた結果の人糞を畑に戻す、ただ人糞の循環だけで生きながらえている」と書いている。 周りからは海で隔てられ、十分な資源といえば石灰岩くらいしかなく少しの鉄と質の悪い石炭が採れるくらいの農業国に温暖なモンスーン気候が災いして人口ばかりが巨大に膨れあがった近代日本は、世界のなかでは、町外れによそ者として住み着いた貧乏な大家族に似ていた。 最も近い半島人から見れば文明の最低の基礎である礼儀すらわからない最低の隣人であり、中国にとっては、ほんとうに国として扱ったほうがいいのかどうかも判然としない島の集合にしかすぎなかった。 日本に個人主義が育たなかった理由を訝る本はたくさんあるよーだが、あんなに貧しい土地にあんなに人間がたくさんいて個人主義が発達したら、それこそ怪奇というべきで、日本が取りえた道はふたつで、強固な階級社会を形成して頂点の階級において個人主義らしいものを形成するか、乏しい富をわけあって、一種の情緒的な全体主義社会を形成するか、どちらかしかなかったでしょう。 近代日本は、革命の原動力が底辺の武士であった、という特徴をもつ。 後に支配層になったひとびとも、いまで言えばテロリストの、乱暴なだけで他に取り柄がないようなひとびとです。 いまの日本は江戸時代の薩摩藩にありようが似ていると思う事があるが、 人間性を弱さの証拠として否定し集団によるイジメが社会のなかで慣習化されていた薩摩藩の社会を、高度成長期からバブル時代の拝金主義に対するアンチテーゼのようにして徹底的に讃美したのは司馬遼太郎というひとでした。 大阪のひとだったので、ちょうど正反対と言えなくもない薩摩の「議を言うな」文化がひどく好もしいものに見えたのかもしれません。 薩摩は極端な全体主義国家だった。 軍事に特化したような「戦士の国」で、明治時代の最大の幸運はこの「戦士の国」の最後の戦士達が生きているときにロシアが侵略を決心したことだったでしょう。 他のタイミングならひとたまりもなかった。 … Continue reading

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幸福ということ

あと1年で30歳なのかあー、と考えると、なんだか面白い気がする。 自分が年をとってゆく、ということくらいヘンなことはない。 人間の肉体は人間の意識の精細度が把握できる限界値よりもずっとゆっくり老いるので、人間はいつも「ある日、気が付くと年をとっている」というふうにしか年をとることができないが、精神のほうはもっと機能の低下が機能の変化と一緒に起きるので、両者がからみあって、ますます判りにくい、ということもある。 子供のときから、「将来は○○になりたい」というようなことを考えたことはなかった。 周りのオトナにも訊かれたことがなかったからだと思う。 考えてみればまだ十分に情報が頭のなかに出揃っていないチビガキに「オトナになったら何になりたいか?」と訊くくらいバカな質問もないので、オトナの暇つぶしあるいは悪趣味にしかすぎない。 オトナどもに分別があった、というべきなのかもしれません。 砂漠の英雄サラディンやジュリアス・シーザー、アレクサンダーのようなひとびとやもう少し大きくなるとガロアやディラン・トマスというようなひとびとに惹かれたが、ただ惹かれるだけで、特に劇的な一生を送ろうと思ったこともなかった。 昼間は運動ばかりしていて、朝と夜は机に向かっていることが多かった。 朝まで数学の問題を考えていて、いつのまにか外が明るくなって、鳥たちの声が聞こえる、というのが好きであって、夜更かしをしてもいいときには、いつでもそうしていた。 夢中になると時間は一瞬に過ぎて、楽しい時間ほどあっというまなのは不公平であると考えた。 新しい本よりも古い本のほうが圧倒的に好きだったので、ガリア戦記やプルターク英雄伝、ホメロスやヘロドトスを夢中になって読むことも多かった。 面白い本を手に取ると読み出してすぐにわかる。 わかると、なるべくゆっくり読もうとする。 わしの読書の欠点は「速読」をしなくても読むスピードが他人の何倍、というくらい速いことで、酒をがぶ飲みするひとと同じで燃費がわるい、というか、大量の本が必要になってしまう。 もったいないので、ゆーっくり、ゆーっくり読みます。 ところが夢中になりだすと、いつのまにかものすごいスピードで読み出していてあっというまに終わってしまう。 もう一回読んだり、途中の面白かったところを改めて拾い読みしたりすると、いやしいひとが皿に残ったソースを指ですくってなめているようで、われながらいじましい感じがしたりしたものだった。 先祖から親に受け継がれた財産で食べなくてもよいことになったのは良かった。 「発明」で稼いだときに、かーちゃんととーちゃんはガメらしいとゆって大笑いして祝ってくれたが、妹は、わたしはおにーちゃんは拾ったロットーが当たるとか、そーゆー稼ぎ方をすると思っていたがやや外れた、というようなことを言った。 そのうちに自分のもっている数学の知識がリスクの軽減やその他内緒なことに多少は役に立ちそうなことがわかったので投資ということに興味をもちはじめた。 カネモーケというような下品なことをくだくだしく述べても仕方がないが、オカネを稼ぐというのはいまの価値の日本円で言えば初めの1億円を稼ぐのが大変でゼロから始めて(余剰)1億円という金額が出来るまでの幸運と努力の総量は1億円から10億円に至る道程の4倍くらいであると感じる。 10億円から100億円は、もうちょっと楽である。 オカネの世界では何をするにも「適切なかたまり」という考えが大切で、たとえば住居用の不動産投資、というようなことを考えると、ニュージーランドではオークランドのような密集地の4つのアパートが1タイトル(タイトルは、多分日本の「一筆」というのと同じ)のブロックで70万ドル(5000万円)くらいから始まる。 4タイトルに分かれていれば90万ドル(6300万円)くらいからと思う。 20万ドルというかたまりで不動産投資を考えるのはポケットに30円しかないのにおいしいチョコをスーパーの棚に見いだそうとしているのと同じで、全然なくはないだろうが、無駄であることのほうが遙かに多い。 もっとアグレッシブな株式への投資のほうが安全であるはずです。 年齢とは直截関係がないが、世界の経済がどんどんどんどん危なっかしくなってゆく最中だったので、アグレッシブな投資から利益がうまれるたびにチョーコンサーバティブなほうへオカネを移し替えて行く事が多くなっていった。 気が付いたひともいたが、このブログ記事を見ると、あちこちうろうろしてばかりいるのには投資上はそういう意味があった。 いまニュージーランドとブログ記事には移動しても、なあああーんとなくごまかしているので出てこないがオーストラリアにいることが多いのも、下品な理由がないとはいえない。 家の、日本にはない、不思議な開け方をするドアを開けて、なだらかな傾斜になっている芝を横切ってモニがそこで本を読むのが好きなガゼボまで歩いていく。 手には紅茶とビスケットが載ったトレイをもっておる。 記事には書きにくいが、オトナになってしまったので、わしの家にも両親の家と同じに家の手伝いをするひとが増えた。 子供が生まれる前後からは、小さな会社みたい、と自分で考えて可笑しくなることがあります。 でもこの家は、こういう事態になったときのために考慮して改造してあるのでたとえば台所もふたつある。 小さいがチョー機能的な台所のほうはモニとわしが自分たちでデザインしたもので、使いやすい。 ビスケットをひと口たべたモニが眼をまるくして「うまいな、これ」という。 ガメが、自分でつくったのか? そーですねん、と、わし。 小麦粉を変えてみたのね。 … Continue reading

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のおんびりした時計

ニュージーランドと日本という国の最もおおきな違いは「時間」であると思う。 ニュージーランドは言わずと知れた英語国でもチョーのんびりで有名な国で、テキトーなのとのんびりなので、アメリカ人たちなどは毎日気が狂いそうにしている(^^) でも「時間」が違うというときの違いは実は速さではなくて時間のまとまり、というか、時間の扱い方が最も違うよーです。 のんびりと海辺のベンチに腰掛けて海を見る。 もってきたクリームバン http://www.flickr.com/photos/41187064@N03/3805465086/ をほっぺにクリームをくっつけながら食べて、カモメというのはどうしてあんなに眼付きが悪いのだろうと考える。 カモメが街灯の上にとまろうとして争っている。 見ていると終いにはカモメの上にカモメが重なって立ったのでコーヒーをふきだしてしまいそうになる。 明るい生姜色の髪の毛のチビガキ娘がでっかいラブラドールと一緒に波のなかへ走ってゆく。 「きゅわあああああーい!」と叫んで波から走り出てくると、犬さんとふたりではあはあしておる。 ランギトトの島は、やさしくて、たおやかで、不思議な事にどの方角から見ても似たような山容である。 ベンチの後ろに小さくついているプレートには、「サカグチ」さんという日本人の寄贈者の名前がついていて、1996年になくなったと書いてある。 どんなひとだったんだろうなあー。 きっと会社を退職して、ニュージーランドにやってきて、いつもこの浜辺を散歩していたのではあるまいか、としんみりしたりする。 ニュージーランド人の時間には「余計な時間」がいっぱいあって、ベンチに座っている、という時間のかたまりでも1時間くらいある。 そのくらいは座っていないと、なんだか落ち着かない感じがする。 15分で立っていってしまうと、おいしいお菓子を大切に食べていたのに半分欠けて道におっこちてしまったような、中途半端でやりきれない気持ちになってしまう。 日本にいたときはペースが速い、というよりも時間のひとかたまりが何だか中途半端に短くて、つんのめるような感じだったのを思い出す。 食事というようなものを考えると、日本のひとは食べるのが超人的に速いが、それを別にして、店の閉店が10時であると、10時になればもう日本人の友達は腰が浮いている。 ガメ、もう10時だぞ、という。 わしは、そーだね、とかマヌケな返事をしてます。 せっかくおいしいものを食べたのだから、ちびちびとポルトを飲みながらのんびり話をしたいと思うが、店のひとに悪い、と思うのでしょう、お友達はもう上の空である。 クライストチャーチのミラベルという所にある、いまはもうなくなったレストランで、 友達8人で食事をしたことがあった。 友達の誕生日だったので、シャンパンやワインがどんどん空いて、午後6時にみなでやってきたのに、楽しくて、11時頃まできゃあきゃあゆって笑い転げながら遊んでしまった。 閉店は10時半です。 店のマネージャーの女びとがやってきて、レジをもう締めて鍵をかけてしまったので、お支払いを受け付けられなくなりました、という。 じゃ、どうしますか?と訊くと、店のおごりですね、と笑っています。 もちろん、わしらは、その店が大好きになって、ことあるごとにそこへ出かけた。 マネージャーが、今日はタダじゃないぞ、とビルを払うたびに冗談を言ったりしていた。 マンハッタンでも無論、のんびり客のモニとわしが時間のかたまりを最後まで味わいつくして、どおりゃ、ほんじゃまあ、バーにでも向かうとするか、アメリカ人は「Check,Please!」という不思議な英語を使う、「お勘定」に呼ぶまで、片付けものをしたり、あるいはもっと高級なところなら壁際にじっと立って、待っていてくれる。 ビレッジの小さなレストランなら、店がひけたあとに自分のデートの約束があれば、 「今日は、ガールフレンドとデートの約束してるんだ。もう閉めるしたくしてもいいかい?」と訊きにくるだろう。「バーを片付けるから、あと30分くらい」という。 そーゆーときは、もちろん、心の準備をして30分しないうちに帰る。 日本という国では、なんだかみんなが慌てている。 子供のときは妹とふたりで見ていていつも可笑しがった。 横断歩道を渡るのにも小走りに渡る。歩き方も、ちょちょことしたオモシロイ歩き方で、忍者の影響だろーか、と考えたりした。 あとでトーダイおじさんたちに聞いた知識によるとお侍は右手と右足を一緒にだす、というもっと超絶不思議な歩き方をしていたそうで、重い刀を二本差しにすれば他の歩き方は出来ないという解説だった。 だとすると、あの日本のひと特有で、ミルピタス … Continue reading

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Lost In Paradise

1 宇宙が想像を遙かに超えて美しい存在であるのは別に宇宙船に乗ってでかけてゆかなくても自分の知っている調和的な数式を思い出してお温習いに証明してみればわかる。 数学という言語に縁がなければピアノの鍵盤の蓋を上げて、なるべく簡単な音階の組み合わせで出来たチューンを弾いてみるだけでも、どんなひとにも、この宇宙それ自体が一個の美でなければ、そもそも存在するはずがない旋律であるとわかるだろう。 その音楽はどんな人が耳を澄ませても地上のどこかから聞こえているのではなくて、天上から聞こえてくるものだからです。 人間という存在の傷ましさは一個の巨大な美にすぎない宇宙のなかに生まれ落ちながら、肝心の美を発見することを拒絶したまま、ありもしない意味を求めて自分に与えられた「一生」という名前の時間を浪費してしまうことにある。 咲き乱れる花の下で、輝かしい夏の太陽に反射する芝の緑の上で、この世界に存在するどんな愛撫よりも巧妙なやりかたで肌にそっとふれてゆく、暖かいそよ風が吹き抜ける午後に、宇宙にまっすぐ連絡する透き通った青空をみあげてきみは、Breathless、という言葉を思い出す。 2 人間の一生に意味や価値を求めるのは、壁のしみに見知らぬひとの顔の形をみいだすのに似ている。 天国も地獄も、あるいは現世の正義も、人間が「意味」の泥沼であがきまわって夢にみた、ありもしない空想であることはわかりきっているのに、ただ生まれて死ぬということが、ただそのままのものとして受け取ることが出来ないばかりに、この世界には「正しさ」があるはずだと思いつめて、その正しさにたどりつくための知恵を求めて、きっと届かない叡知に必死に手をのばしてみる。 ところが宇宙は、そうしている人間にはまるで無関心なまま、人間が意味への渇望を捨てるまでは決して見ることができない巨大で圧倒的な美の調和の具現として立っている。 その壮麗な、ただ美としてある現存は、人間の意識に幽かな灯明がともると、すっ、と姿を消してしまう。 音楽の場合でも科学でも、宇宙の姿にたどりつけるのは人間の意志を越えた手の動きだけであるのは、たくさんの人が経験して知っていることであると思う。 3 友人の仕事場をたずねて、腐敗してウジ虫がわいた屍体が解体されてゆくのを見つめていた午後がある。 それまでに見なれた死体とは異なって、激しい腐臭を放って崩壊してゆく過程の腐敗死体は、あの解剖学教室の死体特有の「なつかしさ」あるいは「親愛」のようなものを失って、どんな形でも「敬意」のようなものをもちえない何かに変わっていた。 人間には魂の死だけではなくて、形の死、とでもいうべきものがある。 そして、その形象が魂に優位していないとどうして言えるだろう。 保存された死体がもっている慎ましさは意味と価値の追究をあきらめて、そっと横たわっているのに、腐敗がおこると、また意味を鼻先につきつけて勝ち誇り始める。 崩壊する肉体は生きている人間などより遙かに雄弁に沈黙を侮蔑する。 腐敗した肉体はむきだしの憎悪に似ている。 4 宇宙が想像を遙かに越えて美しい存在であるのは別に数式をながめてみなくてもわかる。 ほんとうは、心の片隅にうずくまっている、小さな「沈黙」に気が付けばよいだけである。 何者かによって生かされているのだ、というような心を落ち着けはするが虚しい考えをやめて、自分の意志で生きてゆけばいいだけのことである。 自分の足で歩いて、大気をかきわけて、他人や自分の意識に由来する意味を拒絶して、筋肉の運動と感覚器に起こる電気信号に依存して時間を過ごせば良いだけのことである。 もちろん、この宇宙には神などはなく、天国も地獄も、正しさも価値の体系もありはしない。 須臾といい永劫というが、どちらも同じだろう。 でかけていってみるしかないのだから。 心の奥の薄暗い片隅にある、あの「沈黙」めざして。

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decency

英語でdecencyという。 いまオンラインの研究社 新英和中辞典 http://ejje.weblio.jp/content/decency を開いてみると、 1 「(社会的基準からみて)見苦しくないこと、(言動・服装など)きちんとしていること、礼儀正しさ;品位;体面 とぜんぜんピンとこない日本語の訳が書いてあります。まだるっこしそうに意味がたくさん並んでいて、どれでもうまく言えないでいらいらしているよーに見える辞書の説明があるときは、その単語に該当する単語が自国語に存在しないときで、ここでもそれがあてはまりそーである。 研究社新英和中辞典のまねっこをしながら強いて日本語で表現しようとすれば、きっと、 1 (社会的基準からみて)ひとを見苦しくさせない力をもつなにか、( 人に言動・服装などを)きちんとさせるなにか、人を礼儀正しくさせる力;品位を保たせるなにか;結果として体面というような外見にもあらわれてくる何らかの力 とゆーふーだろーか。 日本語には概念そのものがない言葉だと思います。 もうひとつのcommon sense http://en.wikipedia.org/wiki/Common_sense のほうは、ちゃんと訳語を新しく作ってあって、あるいは半島語でも中国語でもベトナム人の言葉でも同じ単語を使うので仏教語かなにかから転用したのかもしれないが、意味を新装して西洋語のcommon senseをあらわすように定義しなおしてあって、日本語の「常識」がそのままあてはまる言葉であると思う。 このブログでもツイッタでも何回も書いたが、日本語を書いているときは日本人になったつもりで西洋的な考えを翻訳したようなことは書かないことにしている。 日本人になりきるのが本人の楽しみだからです。 でもたまには英語頭が考えたことを日本語に変換して書いてみると、日本への5年間11回に及ぶ大遠征中には、common senseとdecencyということを考えることが多かった。 「陽はまた昇る」 http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD1924/index.html という2002年に公開されて評判がよかったらしい映画を観ると、期待したVHSの具体的技術的な困難の克服については一秒も出てこないが、日本の社会って、こーゆー感じかなあー、とぼんやり想像させるところはいくつも出てくる。 ぶっくらこいてしまうシーンもたくさんあって、最大の「ぶっくら」は主人公の日本ビクターの事業部長が若い社員を自分の部下を思う気持ちのあまりぶんなぐるところがあります。 頭で考えてみてもわかりにくかったが、第一、字幕もないDVDだったので、懸命に頭を日本語頭に調整して観ていて、それでも「ありゃあー、殴っちゃったのね、このひと。すげー」という感想しか起きようがない。クビだなー、当然、事業半ばでタイヘンである、と思って観ていると事業部長が懲戒免職になるどころか、殴られた若い社員は殴られたことによって事業部長の情熱を感じる、という全然わけのわからない展開で、海兵隊(マリーン)でも、こーゆーことはありえねー、という不思議にものすごい物語りの展開でした。 平たく言えば、なんじゃ、こりゃ、と考えた。 ほかに、思いようがないであろう。 おもいきしグーで殴られた若い社員が松下幸之助に事業部長の熱誠について手紙を書いて、それを読んだ松下幸之助が主人公に「あなたは良い社員をつくられた」っちゅーよーな返信を書くが、もう終盤のその頃になると、わしは眼が点になりきっていて、あんまりこーゆーDVDを観ていると眼がちっこくなってヘンな顔になってしまうのではないかと危惧されるほどだった。 社会はdecencyとcommon senseで維持されている。 decencyがなくなれば、社会は一瞬で人間性を失い、社会の側で要求するままに個人の人間性を蹂躙することになる。 common senseが失われた社会では、不毛で詭弁的な修辞にみちた議論が横行し、理屈にさえあえばどんな奇妙な考えでも大手をふって輿論として大通りを行進することになる。 野田首相が「痛みをわかちあう」という西洋ならばツアーリが農奴たちに述べるような言葉を述べたり、閣僚が放射性物質がてんこもりのおにぎりにかぶりついてみせたりというような名状しがたい品の悪さは、映像を観た世界中のひとをびっくりさせた。 失笑、という反応が多かった。 ああいうパフォーマンスを政治家がやろうとする国の社会というものに、どの程度のdecencyがありうるだろーか、ということに直覚的に頭がいってしまうからです。 福島県人を一年間もほとんどホームレスと変わらない生活のなかに閉じ込めて、ほうったらかしにしておいて、将来のエネルギー政策について夢中になって議論する、などという途方もないことが起きるのは、やはり単純に社会が後進的で、社会がもっているべきdecencyというものが欠片もないからだ、と感じられる。 放射能と隣り合わせの生活なんて、たとえ安全だって嫌に決まっている、と誰だっておもうが、 いつのまにかそう思うためには放射能が危険であると証明しなくてはいけないことになっていて、それではまったく話が逆で、そんなに「痛みをわかちあう」というような無茶苦茶なことを言って放射性物質を全国に流通させたければ、放射能が安全であると100%間違いなく証明するのは、むろん放射性物質をぶちまくほうの仕事であるのに、理屈で考えてこの程度の放射能はダイジョーブだ、と焦点が狂った、トンチンカンな議論をして得々としている人間がおおぜいでてきてしまうのはdecencyの欠落に加えてcommon senseもなくなってしまっているからである。 … Continue reading

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「真実」という厄災

真実ほど厄介なものはない。 たくさんの人間を短いあいだ欺すことはできる。 少数の人間を長いあいだ欺すことも可能であるのは現実の歴史が証明している。 だが、たくさんの人間を最後まで欺すのは容易ではない。 遠くの空にかかる月と地球とを見えない力が結びつけている、と考えるのはながいあいだ人間には難しいことだった。 両者を連関させている力が「見えない」からであると思います。 地球が球形である、ということを信じるのも難しいことだった。 どう見ても大地は扁平で、どこまでも広がっていて、ものの形を扱うのに長じている人にしても、仮に水平線や地平線の湾曲が錯覚でないとしても、それが球形の一部ならば、ばかばかしいほど、というよりも、非現実そのもののバカげた大きさの球体を考えなければならなかったからです。 では、その巨大な球体が「浮いて」いるのか? 何に? どうやって? あなたには神を畏れる気持ちがないのか? 太陽が地球のまわりをまわっているのは歴史上なんども科学的に証明されてきたし、そうではなくて地球が太陽のまわりをまわっていると述べるのは、科学者や社会的権威者の嘲笑をまねくだけでなく自分の生命にとって危険なことでもあった。 フィレンツエの頑固な男が「それでも地球が太陽のまわりを周回しているのだ」と述べて周囲を呆れさせたのは有名です。 杞憂、という。 空が落ちてくると心配した杞の男に似ている、という文脈でそのひとのことを思い出すのでなければならなかった。 真実は、ゆっくりと、だが確実に姿をあらわしてしまう。 われわれが塩基情報に基づいて産生されたタンパク質の構造体であり、意識が電気信号であり、微小な粒子は通常知覚されるような法則とは途方もなく異なる法則に従った存在であり、どんなに富を傾けても人間は死ぬしかないものだ、とわれわれはもう知っている。 前にも書いたように「人種」という概念そのものが「時間」を把握する感覚に著しく劣る人間の直覚の欠点に基づいた迷妄であり、遺伝子構成上、肌の色や身体の形の違いは実は「日焼け」の程度の違いに生物学的には近いものだ、というような人間の直覚を正面から嘲笑うような「真実」もすでに遺伝子解析の進歩によって判っている。 日本では不思議なことが起こっている。 支配層が挙げて「現在日本を覆っている放射能は人間にとって安全だ」という信念をもっている。 では大学構内や研究所内、あるいは病院のなかで、日本では他国よりも遙かにルースな基準で放射線が扱われてきたかというと、事実は反対で、ほとんど福島第一事故をはさんで一日で放射能が安全であることに宗旨が変わった。 遠くから見ていると菅直人という日本ではいかにも受けなさそうな人柄の首相を事故の当時あたまに戴いていることは事故後数日の風向きとあわせて国ごと破滅させることすら出来た大災厄のなかのささやかな幸運であるように見えた。 日本には理系文系という不思議に厳密な人間に対する線引きがあって、たとえば政府機構のなかでは同じ1種合格でも理系出身者はあくまで「技官」で、文系の人間よりも劣ると見なされる。 その結果、日本では微分方程式ひとつ扱えない「経済学専攻」が現実に存在する。 そういう不自然な、というよりは現代世界の在りようへの適応を欠いた教育体制なので、「文系」出身者が原子力発電所事故へ適切な理解や対応を行うことは、まったく望めない。 当て推量と当の事故を隠蔽したい一心の官僚の耳打ちに従って決定を下すことになるが、バックグラウンドに原子力科学どころか科学の系統だった知識もないのに科学からほとんど遮蔽されて成長した日本の「文系」人に、「当て推量」という、その推量を支える勘などあるわけがない。 ところが菅直人は、あんまりベンキョーはしなかったよーだが(^^)、応用物理科の出身で、原子力技術を理解するに十分なだけの知識はもっているはずだった。 経歴を見ると後で弁理士の資格をとっていて、弁理士という職業は技術に対する一般的な勘を育てるのには良い職業なのでもあります。 現場にヘリコプターを飛ばしたとき、遠くから観ていたわしは、「あっ、やってるんだな」と考えた。 周囲の官僚への不信から自分の目で現場をみなければと判断したに決まっていて、適切な、というよりもやむにやまれぬ判断でしょう。 日本の政府が考えるエネルギー行政の要である原子力発電所が事故を起こして、状況を正直に話すと考えるひとは子供でもいないだろう。 もちろん、都合のわるいことはひた隠しに隠すに違いない。 そのときに隠蔽しようとする官僚よりも技術に対する勘がある首相が、官僚達の胡散臭さ、というべきか、もっと簡捷にゆってしまえばオオウソをかぎ取らないわけはなくて、菅直人というひとはかなり早くから自分が真実の情報から遮断されているのを知っていたに違いない。 だからヘリコプターで現地に飛んだ。 だから東京電力の本社に直接のりこんでいった。 状況は絶望的、と呼んでもよいくらいだったが、巨大な行政組織が迅速に動くことは期待できなくても、日本はゆっくりと放射能を封じ込める政策に動いてゆくように思われた。 その頃の自分のツイッタに書いたことを思い出すと、初めは半年、あとでも一年くらいたてば日本を訪問できる状態になっているだろうから、それまで待たなければ、と書いている。 封じ込めが出来ていなくても、当時の政府の動きならば段々官僚の抵抗が押し切られて、どこにどんなふうに放射性物質が存在しているか「可視化」されていきそうだと判断していたからです。 放射性物質がどこにどの程度の濃度で存在しているかが精確にわかれば食料や瓦礫の拡散禁止とあわせて、放射性物質が安全だと決め込んでいる日本の科学者の意見は尊重してセシウム漬けになったまま放射脳を嗤う悪態をつかせて放っておくとして、放射性物質が危険だと判断するほうは、自分で判断して危険を避けて生活すればよい。 … Continue reading

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言語と伝達

1 世界でただひとり生き残って、自分が死ねばこの宇宙に人間がひとりもいなくなる、という状態で小説を書くひとはいないが、詩を書くひとはいるに違いない。 詩と散文の「魂の定型」になじんで言葉が並んでいるかどうかという重大な違いのほかの、もうひとつの違いが伝達を目的としているかどうかで、詩を書く人は散文を書く人のような直截な伝達を念願しているわけではない。 頭が考えて表現を探して考えているような文章はどだいダメな文章と決まっているが、詩ではもっとダメ、というか、それでは詩になるわけはない。 詩は、手が書いている。手が書いている文字をみつめている頭のほうは、自分の手が書いているものを批評しているだけであると思われる。 言語表現における「批評」というのは主に自分が自分に対して行う。 言語は自律的に自分を表現する能力に恵まれているので、羊の群れを規制するシープドッグではないが、ときどき方向を定めてやらないと言語が自分で行きたい方角のほうへ勝手に歩いていってしまう。 批評能力がないひとは、だから、うまく自分を表現できないが、簡単に言って「自分でなにを言っているかわからない」のだから、あたりまえと言えば言える。 2 子供のときは、わしがあまりに口を利かない子供だったので、この子は知恵が遅いのではないか、と思う人がおおかった。 「だって、ほんとうじゃない。おにーちゃんを賢いと思うひとなんて、わたし考えられない」という妹のような意見もあるが、却下する。 家でも外でも、たとえばかーちゃんと妹が話すのを聞いていて、話を一生懸命理解して、 あ、じゃ、わしはこー思うな、えーと、こーで、あーだから、こういうふうに言えばいいんだな、と決めて発言しようとすると、もうかーちゃんと妹の話はふたつもみっつも先に行っている。 わしは確かにバカっぽいが、頭の働きがチョーのんびりなだけで、普段の生活には支障があるほどではないよーだ、とおとなたちが気がつくのは、ずっと後のことである。 子供のときの自分の写真をみると、どれも、なんだかつまらなさそーな顔をして、いまにもタメイキをつきそうな顔をして映っている。 ふつー英語ガキは、そーゆーとき、にっかり笑ってみせるものだが、小さいときは著しくサービス精神に欠けていたよーです。 運動も大好きだったが、家にもどれば、年がら年中紙を広げて、あるいはかーちゃんのおさがりのApple SE30の9インチ画面にしがみついて、なにか書いたり、(コンピュータ言語の)ロゴの亀を動かしたり、あるいは鉛筆をにぎりしめて算数をしたり、絵を描いたり、あるいはあるいはあるいは、全然板の長さがあってない傾いた犬小屋を製作して犬に嫌がられたりしていた。 トゥリーハウス、という。 http://tree-house-pictures.blogspot.co.nz/2011/04/backyard-project.html 庭の木の上にでっちあげたガキの私用に供するための家にたてこもって、それをはくと空が飛べるようになるという聖なるパンツを探す旅に出た勇者ガメ・オベールの冒険の物語を書こうと志したこともあったが、一行も書くとだいたい眠くなってねてしまうので無理だということになった。 ところで、ここでヘンなのは、このわしガキという子供は文章を書いても誰かに見せたいとは思わなかったようで、見せるのが恥ずかしい、というのではなくて、なんだか言葉が自分の頭のなかだけで完結しているとでも言うような、子供らしくない、という考え方もありえなくはない、引っ込み思案ぶりを発揮していたことです。 日記を書くのは誰のためか、あるいは日記をなぜ書くのか、というのはむかしからよく知れ渡った問題で、かしこげでもっともらしいがくだらない心理学上の「定説」が、たくさんの心理学者の手で書かれている。 言語は純粋に思考するためにある、というひともいるが、言語はもともとが伝達の道具として開発されたために、他人が内蔵されてしまっているので、もともと「純粋」ではありえない困った構造になっている。 純粋に思惟することができる言語は数学語だけでしょう。 うるさいことをいうと、数学も実は純粋というわけにはいかないが、いまここで述べようとしていることを考えるためくらいならば「純粋」ということにしても十分と思われる。 3 アイザック・ニュートンは、多分、プリンキピアを他人にみせるつもりはなかったという話、あるいはケンブリッジとオックスフォードのふたつの大学に伝わる伝説については前にも述べたことがある。 1684年の夏、ハレー彗星の名前になっているエドモンド・ハレーがオックスフォードからかつての不逞学者たちが歩いた道をえっちらあっちらおっちらたどってケンブリッジにニュートンを訪ねて、自分の彗星についての仮説を聞いてもらおうと話しかけてみると、ニュートンは、引き出しからチョーうすい紙の束をだしてみせて、ぼく、こういう証明のやりかたでずっと前にきみがいま述べた着想を証明してみたことがあるんだけどね、というのでハレーはぶっくらこいてしまう。 話してみると、ニュートンは彗星の運動の仮説へのアイデアどころか、とっくに宇宙を説明しおわって、知性が、いわば、ひまをこいている状態であったからです。 なにが書いてあるんだか、さっぱり訳の判らない、ヘンタイなみたいなやりかたと表記で当時から知れ渡っていた「ニュートン語」をニュートン自身がふつーの数学者や物理学者にわかるような形に書き直した(といっても、それでも無茶苦茶読みにくいが)のが、いまに伝わる「プリンキピア」(第一巻)です。 よく考えてみると「科学」という言葉の概念や科学者をとりまく環境が現在とはうんとこさ違った当時ですら、ニュートンの態度は異常なことで、ふつーのひとは、せめて自分のまわりの小さなサークルでは、「ぼく宇宙をぜーんぶ説明しちゃったもんね、いえーい」くらいは言いそうなものだが、ニュートンは「偉大」というのもバカバカしいくらい偉大な科学史上最も重大な考えを自分の引き出しにほうりこんで、ほうってあった。 エドモンド・ハレーが自腹をきって私費で出版しなければプリンキピアは日の目を見なかったかもしれなかった。 途中を全部はしょっていうと、アイザック・ニュートンというひとが、広義の言葉による伝達ということを信じていなかったのが判ります。 4 I did not enter silence, … Continue reading

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ニンテンドーの冷や水

1983年に任天堂が発表した「ニンテンドー」、日本でいうファミコンはいまみても、ものすごく良く出来ている。1.8MHzで駆動するリコーのRP2A03に2kバイトのVRAM、256x240ライン、64色のうち無効色を除いた50+色、スプライト、というビデオ機能、いまみると音源はCPUそのものに組み込まれていたとあります。 その頃の英語世界ではコモドール64が主流だった、とゆーと、えええー、AppleIIだろ、だって、という声が聞こえてきそうだが、アメリカはともかく、わしが知っているオトナどもは、みなコモドール64をもっていたよーでした。 なんでだかは知らん。 1986年に発売されたGEOS http://en.wikipedia.org/wiki/GEOS_(8-bit_operating_system) を使えば、ワードプロセッシングも表計算もPCやApple Macintoshの20分の1のコストでほぼ同じことがやれたが、大半のコモドール64ユーザはゲームにしか使っていなかったのは言うまでもないことでした。 そんなら、ゲームに必要なもの以外は、みんな取ってまえばいいやん、というのがファミコンの設計思想である。 簡単なことのようだが、遠大な夢、とりわけ個人がコンピュータをもててしまったというカンドーからくる、ほぼ誇大妄想に近い、DBやれるCGやれる、232Cもやれる、それにそれになんたってプログラミング!という「希望」は、大きすぎて、なかなか「ゲームやれればええやん」という境地には至れないもののよーでした。 ところが任天堂のエンジニアは、ほんとうにコンピュータをゲーム用に裸にしてしまった。 無茶苦茶売れたのは当たり前だと思います。 それ以来、いまのアニメブームどころの騒ぎでなくて、ゲームは日本のもの、というのは当たり前のよーになっていた。 Wizardryみたいにクソおもしろくもないパロディばっかしの気取ったジョークゲームより、(と書きながら英語wikiを見たら日本ではマジなゲームだという扱いになっていたことがわざわざ別項を設けて書いてあってこけたが http://en.wikipedia.org/wiki/Wizardry) マリオのほーがオモロイに決まってるだろ、ということでした。 ずっと後になって生まれてきたわしにとっては、初期ガキ時代のタイムアウト(ゲーセン)には、日本製の中古ゲームがいっぱいあった。 杜撰、というか、ゲームの声も日本語で、「いくぞっ!」とか 「おうりゃああああ!」とかいう声が煉瓦造りの建物中に響き渡っていたものである(^^) 日本のゲームはものすごくおもろかった。 まず第一に設定が無茶苦茶で、一応国旗がシャツについていたりしても、何国人だか全然わけがわからんにーちゃんやねーちゃんが、そんなわけねーだろ、というスーパーキックやウルトラパンチを繰り出して、おまけに、よくこれで倫理規定にパスしたなあー、というか、多分、倫理委員会とかシカトしてんだな、っちゅうようなニッカーズまる見えのねーちゃんとかが画面せましとあばれまわる。 ガキというものは本然的にアナーキーな混沌を喜ぶので、夢中になって2ドルコインをつぎこみ、どこのタイムアウトも阿片窟のような様相を呈して、蒼惶として目の下に隈をつくったガキどものゾンビのごとき姿が見られた。 1991年に出た英語版三国志は大プロモーションにも関わらず、まったく売れなかった。 わしはサンフランシスコで1994年頃、ワゴンで投げ売りしていたソフトの一本として買ったことがあったが、感想は、「なんでこんなもんをつくって売れると思ったのかなあー」でした。 なんだか我慢に我慢を重ねて、よく訳の判らん中国人になって国を治めるゲームで、 なんのこっちゃ、という感想しかなかった。 当然台湾か香港のゲームだべ、と思ったら、日本人がつくったゲームだ、というので、周りガキはみな中国と日本の印象が癒着しているので驚かなかったが、従兄弟という父親が日本人のガキをマブダチにもっていたわしは、ぶっくらこいてしまった。 な、なんで。 第一、日本人は中国人嫌いなんちゃうのか、と考えたが、なんとなく従兄弟や義理叔父に訊くのも憚られるような気がしたので訊いてみることもしなかった。 わしの場合は、その頃から日本製のゲーム世界からどんどん離れていったような気がします。ビデオゲームも4、5本買ってどれもつまらなかった、というか同工異曲で、なんでもかんでも同じだのい、という感じだったので、買う気がしなくなっていた。 ずっとあと、2000年頃、PalmOSのKyle’s Quest http://games.brothersoft.com/kyle-s-quest-classic.html というゲームでよく遊んだが、これはパチモンのドラゴンクエストで、これくらいが日本語ゲーム世界製ゲームで遊んだ最後なのではないだろーか。 日本に行ったとき、いちど、ヨドバシカメラのゲームソフトの棚をみたことがあったが、 チョー高い価格設定(英語ゲームの平均3倍程度)を別にしてもターンベースの、あのまったく売れなかった「三国志」と似たよーなゲームが多い上に戦争ストラタジーゲームがやたらと多くて北朝鮮の陸軍生協みてーと思ったりした。 あとは、ちょっとパスな、子供がおおきな胸をしてニッカーズまるだしでにっこり微笑んでいる棚においてあるだけで犯罪を構成しそうなゲームばかりだったので、オモロイ日本語ゲームないかなあーと思ってでかけたわしは落胆した。 1980年代初頭に、ものすごいゲーム革命を起こした当時25歳から30歳くらいの若い企画者や技術者は、いま50代の管理職や役員になって、自分の成功体験にとらわれているのに違いない、と、いまのわしには判る。 突然どんどんどんとすごい勢いでつまらなくなっていって、終いにはPSP Goのような過去の成功体験とマーケティングと自社の都合だけで出来上がったチョーマヌケなヘンなものまで作るようになってしまったのは、どーも、「むかし成功した体験にしがみついて若い衆の意見が全然聞けないおっちゃん管理職」に原因があるよーだ。 特にわしの推測ではなくて、ゲーム業界のお友達の証言でもあります。 日本の80年代はたとえばMX5、世界を狂喜させて、クルマファンのおっちゃんたちがみんなで手をつないでフレンチカンカンを踊り出しそうなくらい喜んだ日本名ユーノスロードスターを出して終わりを告げる。 … Continue reading

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多文化社会

秋になって、庭から蝉の声が聞こえている。 ニュージーランドの蝉は、身体が小さい、声も日本の猛々しく巨大な音響を響かせる蝉に較べると、小さくてやさしげな蝉です。 夏のあいだじゅう咲き誇っていたブーゲンビリアの花も散って、もう数えるほどしか残っていない。 いつもなら、この気候に変われば、どおりゃそろそろマンハッタンに移動すべか、と考えるところだが、今年はオークランドにずっといる。 なんだかヘンな感じがします。 マクドナルドとタイムアウトの店の数を基準に文明度を定義していたガキわしの頃は、 一度かーちゃんに内緒でこっそりやってでかけてビッグマックを頼んだら出てくるのに15分もかかったオークランドなど、文明というものが理解できないチョー田舎であって、ケーベツの対象であった。 まさか、こんなところに縁が出来るとは思わなかった。 ニュージーランドが多文化社会に舵をきったのは、結局よいことだった。 クライストチャーチという、ニュージーランドのなかでさえ、日本人である義理叔父によれば、おまえたちは鈴木その子か、というほど白い顔ばかりが好きなので有名で、マオリ人も少ない白人町に毎年ニュージーランドの夏をすごしたせいもあるが、ガキなりにわしはオークランドが中心になって始めた「マルチカルチュラルソサエティ」への実験を、うまくいかないのではないかと考えていた。 案の定、1995年という頃のオークランドは、訪れるたびにどんどんバラバラになっていく印象で、そこここに虫が食ったように漢字やハングルの看板が並び、英語人のニュージーランド人からすると、外から見ただけではいったい何を商っているのかもわからない店がクイーン通りの片側にずらっと並んで、銀行のロビーでは接客用のカウチでキスどころか、お互いの身体をまさぐりあうアジア人の高校生カップルがねそべっていたり、 パジャマ姿の中国人ばーちゃんが大通りで声高な中国語で何事か話し合っていたりして、 これでは国がなくなってしまうと考えた首の後ろが赤いおっさんやおばさんたちが集団で立ち上がって、一足先に暴れ出していたクイーンズランドのオーストラリア人たちに呼応して、 すさまじい反アジア人運動を起こしたりしていた。 オークランドは都会なので、それでも表面で目につくほどではなかったが、ネルソンやオタゴの小さな町では、首を切った鶏をさかさまに中国系移民のドアに釘付けしたり、 韓国移民の農場の家の庭に羊のくびを放り込んだり、現に、わしが「牧場の家」と呼んでいた農場のある町は、中国人家族や日本人家族が4家族引っ越してきたが、嫌がらせに耐えかねて、何れも3ヶ月もしないで引越して出ていった。 わしはニュージーランドでは一年のうち短いあいだしか学校に行く必要が無かったが、わしが大好きだった先生が、ある日、校庭で遊んでいたわしに向かって歩いてきて、仲がよかったアジア人の友達Kについて話しておきたいことがある、と言った午後のことをおぼえている。 「仲が良いのはいいことだけど、あんまり仲が良くなりすぎてはいけませんよ」という。 わしが、どういう意味だろう、と考えていると、 先生は物事を理解するのが遅い、わしの頭のはたらきの遅さにしびれを切らしたのか、 今度はごくはっきりと、「アジア人の子と、お友達になるのは感心しないわね」と微笑みながら言う。 いま考えてみると、その同じ学校に次の年にやってくる父親が日本人の従兄弟の影響だけではなくて、そのときの先生のひと言が、日本への興味を後押ししたのかもしれません。 夕方、どういう理由だったかおぼえていないが、その日は午後にテレビを観ていて、トロントの特集をやっていた。 トロントは当時でもすでに成熟した多文化社会で、街を楽しげに闊歩しているインド人たちや、中国人たちの姿を観て、どうしてカナダではニュージーランドでうまくいかないことがうまく行くのだろう、と訝しんだ。 アメリカのマンハッタンのような都会よりも、1990年代のその頃はカナダのトロントのほうが多文化社会化が進んでいたと思います。 きゅうりのサンドイッチを食べながら、どーしよーかなー、と考えたがおもいきって、かーちゃんに 「トロントではみんなが仲良くやれるのに、ニュージーランドではうまくいかないのは、なぜですか? 国の大きさが違うからでしょうか?」 と訊いてみた。 かーちゃんが、にっこり笑って、 「時間が必要なだけですよ、ガメ」という。 でも、お隣のボブさんは、自分はロスアンジェルスに去年までいたが、ニュージーランドがロスアンジェルスのようになったら大変だ、と言ってました。 「それはお隣のボブおじさんが頭が悪い人だからですよ、ガメ。内緒だけど」 とかーちゃんが、ゆったのをありありと表情付きでおぼえている。 母親ながら、いたずらっ子のような顔で、シィーと人差し指を唇にあてて、くすくす笑っている。 「ロスアンジェルスになって、いろいろな文化の人が増えて、悪い事はひとつもないじゃないの。 素晴らしいことです」 わしは、ついでにディズニーランドもできるといいなあ、と間抜けなことを言いながら、 でも今度ばかりは、かーちゃんも間違えていて、どうもオークランドは滅茶苦茶になりそーだ、とクイーン通りのアジア語の看板の列を思い出していた。 かーちゃんは正しかった。 混沌のるつぼに見えたオークランドは、落ち着いてみると、多文化かどうか、というようなこととは関係なく、住みやすい、素晴らしい街になった。 … Continue reading

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1 夕方になると、河の向こうの空一面が真っ赤になっている。 夕陽そっくりの色だが、方角が違う。 繁華街全体が燃え上がっているのです。 雪が降って、急に雪が降り出して、画面で見ていても冷たい水のなかを人が、あるいは人の身体が、流れて行く。 河と見えたものは、河というよりも、そこにあった川に沿って広がった津波で、水が真っ黒で、その濁流のなかに町であったものの残骸が、無惨な感じのする平衡の失い方で、あるいはゆっくりと回転し、あるいは部分に崩壊しながら、流れて行く。 フランス人のJが、「地獄だ」と一言言って呻いている。 テレビを囲んで、目をそらしたいのにそらせないで、魅入られたように画面を見つめている顔は、みな目を真っ赤にして、鼻を赤くして、啜り泣いている。 同情よりは恐怖の感情だと思います。 わしはラウンジのテレビから離れた一画にある柱に凭れて、呆然として画面を見ていた。 「Japan’s Tsunami Caught On Camera」 http://tvnz.co.nz/japans-tsunami-caught-on-camera/japan-s-4764393 という番組で、フランス人たちが「日本の津波の番組をやっているぞ」と呼びに来てくれたときは、もう番組の後半だった。 いまオンデマンドでもう一度観ようと思ったら、アーカイブにはいっていないので多分BBCかどこかの番組でしょう。 幸いなことに、と言ってもいいと思うが、モニはもう寝室で眠っていた。 恐ろしい光景を観ないですんだ。 クルマに乗って渋滞に巻き込まれていた人が、バックミラーに映る膨張する水に気が付いてビデオを撮り始める。 「道路が海に近いところをはしっている、という意識もなかったんです」と、医療品の営業社員であるらしいドライバーがインタビューで話している。 「気が付いてから、ほんの数十秒だったと思います」 ビデオがクルマの横からするすると伸びてくる「黒い水」を捉えている。 右斜め前のクルマが、車線を強引に変えようとして諦めて止まる。 撮影している人の直前のクルマのドアが開いて、中年の男が徒歩で逃げて行く。 急に立ち止まって、クルマに戻ると、開けっ放しだったドアを閉めてゆく奇妙な判断が、いかにも内心の焦慮をあらわしている。 数秒、というあいだにみるみるうちに水かさは増して、クルマが浮き始める。 流しのなかのコルクかなにかのようにクルマは浮いて、無尽蔵な量の感じがする増え方の水のなかを漂い始めます。 (道路脇の倉庫からは道路を遮るように巨大なトラックが漂い出てきている) 中年の女のひとが、胸までつかったつま先立ちで急流に変わった水のなかで舗道を流されて行く。 もう何分かのあとには生きていられないのは様子から明かで心臓をつかまれるような気がします。 結局、撮影している人が乗ったクルマは水に浮いたまま流れが速いところに流され、建物と激しく衝突して割れたドアの窓ガラスから大量の水がはいってくる。 唐突に、視界が暗黒になるところまでが映っている。 「真っ暗になって、何も見えなくて、どちらが水面かも判らなかった」 という。 でも、もがいているうちに水の上に頭が出て、わたしは助かった。 津波を生き延びた東北人ひとりひとりがもっていた携帯電話やカメラで撮った映像が映し出す破壊の姿は、その言い方がどんなに月並みでも、「地獄」という言葉でしか表現できるはずがないもので、しかも、その映像に映しだされている真っ黒で冷たい津波、雪、大火災に加えて、一年後にビデオを観ているわしは、大気中にビデオカメラには決して映らない大量の放射性物質があったことを知っている。 映像には耕作地を押しわたってくる津波の前を横切るように逃げるひとたちも映っている。黒い水のなかを顔だけかろうじて出して流れていくひとも映っている。 2 … Continue reading

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だし入りの日々

句点も読点もない、とりとめのないガキわし時代、90年代の初めのクライストチャーチにも、「寿司チェーン」はあった。Sushi Expressとかなんとか、そーゆー名前だったと思います。 寿司チェーンとゆっても、いまのようにあそこにもここにもある、というふうではなくて、たしか2軒だったと思う。 もしかするとサウスシティモールの一軒だけだったかもしれません。 クライストチャーチでは珍しかった「魚屋」の隣にあって、その頃は街中にあふれかえるようにいた日本人の学生たちがパートタイムで寿司を握っていた。 いま考えてみると、大型の俵型おにぎりにサーモンがへばりついているようなヘンテコな寿司であって、ホースラディッシュの味がするわさびが魚片とご飯のあいだに多くぬりつけすぎた接着剤の趣ではみ出していた。 わしが照り焼きチキンの寿司おいしーかなあー、と思って妹とふたりで眺めていたら、杖をついたデブイおばちゃんが歩いてきて、昨日、ここで寿司を買ったのだけれど、結局、どうやって料理すればいいか判らなかった。オーブンを使ったりフライパンで焼いてみたりしたけど、あんまりおいしくなかった。マイクロウエーブで料理するべきだったのかもしれないと考えたけれど、主人と相談して、あなたがたにお訊きするのがいちばんよいだろうと言うことになったので、こうして伺っています。 寿司って、どう料理するのがいちばんよいのでしょうか? おばちゃんには、魚をナマで食べるというような恐ろしい風習がこの世界にあるとはおもいつかなかったようで、はきはきとして感じのよい日本の若い女びとが、笑いもせず、サーモンでしたら、小皿に醤油をいれて、それにつけて食べるといいですよ、というと、 おばちゃんは、いまにもこけそうにしておった。 その頃は、イギリスにも日本人たちが行く超高級日本料理店以外は、ふつーな鮨はなかった。イギリスが自分以外の世界を受容すべく激しく変化しだしたのは目に見える形では世紀が変わってからのことで、 シティを中心に長い伝統の紅茶店に変わってコーヒー店があらわれだしたのと軌を一にしている。 まだ日本でいえばビジネスホテルということになるのかも知れない、あとでGranadaに買収された、Forteの本店でも、ポットに入ってコージーを被せられたマジメな、素晴らしい味で香りの高い紅茶が飲めた頃で、社会全体がいまに較べてずっとばーちゃんじみていた。 その頃はニュージーランドは、ニューヨークの流行から5年、ロンドンの流行から3年、シドニーから1年遅れて流行がやってくる、と言われていた頃だったから、鮨の食べ方どころか、じーちゃんやばーちゃんたちのなかには「スパゲティを食べたことがない」というひともたくさんいた。 「フォークにスパゲティを巻き付ける」ということに考えが及ばずに、スパゲティをフィデウのようにナイフとフォークで小さく小さく切ってフォークで食べるひとがたくさんいた頃です。 いま見ると、もう閉店してしまっているが、その頃はニュージーランドでまともな鮨が食べたければオークランドまで飛行機ででかけて「有明」という成田貨物航空が経営している店 http://www.menumania.co.nz/restaurants/ariake-japanese-restaurant に行くしかなかった。 毎朝、本業を活かして空輸される築地の魚を使った本格的な鮨を出すので有名な店で、 ガキわしは日本料理が特に好きでなかったし、第一魚が嫌いだったが、かーちゃんの教育方針で、ときどきレバノン料理や、トルコ料理、ウクライナ料理、というようなエスニック料理につれていかれた一環で、あるいは、かーちゃんが秘かに鮨が好きだったかなんかで、わしも行ったことがある。 いまとは反対でクライストチャーチからであるとメルボルンに行く方がオークランドに行くよりずっと安かったので、メルボルンの日本料理屋にいけばいいのに、そーすればあっちにはあの天国の食べ物のようにうまいハンバーガー屋もあるのになあー、と思ったが、行儀よくしないと嫌われてしまうので、そういう気持ちはおくびにも出さなかった。 おとなしくして、遠くから中国人家族たちの大声が聞こえてくるテーブルに腰掛けていると、ポーションが小さくて色彩が綺麗な料理の皿が次々に並んでゆく。 なにがおいしい日本料理でなにがおいしくないのか判らない頃だったが、見た目がプロっぽいことはガキわしにも見当がついた。 その次はサーファーズパラダイスで、わしらの監視役のおばちゃんと妹とわしと3人で昼ご飯を外で食べてよいことになったが、まともなレストランはどこもひとでいっぱいで、並ぶのがいやだったわしらは、黄色い看板が出ている回転寿司の店に行った。 コンベヤに載ってゆっくりくるくるまわる鮨になんだか黒いものがくっついていて、動いている。よく見るとハエさんで、見ていると豪州人のおばちゃんが、手でさっさとハエを追い払って鮨を口に運んでおる(^^) そのうちにカスタードプディングがまわってくると、これには黒々とてんこ盛りでハエがたかっている。 妹とわしは、じっとお互いを見つめ合って、二度と寿司はやめるべな、と固い暗黙の誓いを交わしたものだった。 世紀が変わって、英語圏ではどこでも多文化社会化がすすむと、様相はいっぺんして、日本食はブームになった。 ニュージーランドでも St Pierre’s Sushi http://www.stpierres.co.nz/ という全然訳が判らない名前の寿司チェーンが大繁栄を遂げています。 欧州からニュージーランドへ行く途中で、何日か過ごすことにしていた東京で、楽しみは銀座の天ぷら屋で天丼を食べることだった。 天一本店で天丼を食べて、夜は、有楽町のガード下で焼き鳥を食べるのが楽しみだった。 「日本では狂牛病の問題がちゃんと解決していないから牛肉を食べてはいけません」という妹のお達しを秘かに破って抜けて、築地のスエヒロ本店ですき焼きを食べた。 岡半や卯月のようなところは、霜降りという、脂が多すぎて、好みにあわなかったからです。 うなぎや蕎麦もおもしろがって食べたが、そんなに好きなわけではなかった。 醤油というものが、あんまり好きでなかったのが決定的で、いちばん酷かったときは東京の通りに立っていてもあちこちから醤油の臭いがして、街中にたちこめているような気がした。 … Continue reading

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社会と科学者

科学者になるのはいちばん「社会的責任」というようなことを考えたくない種類の人間たちであるのは洋の東西を問わない。 おもしろければ地球の一個くらいなくなってもいいや、という人間がいくらでもいるのであって、大学という組織は、たとえて言えば動物園のようなもので、こういう人間を野放しにすると危ないので、税金や財団から出るオカネで囲いのなかで飼う機能をもっている。 世間のほうは、そういう子供オトナが多い科学者の理屈に耳を貸している寛容をもちあわせないので、通常、「科学者の社会に対する責任」ということをうるさく言う。 生物学者を例にとれば放っておくと、きっとこのくらいなら大丈夫だろう、というつもりで致命的なウイルスを研究所の環境から、こそっと外に逃がしてどうなるかやってみるバカ研究者が出ると困るので、社会の側で監視する。 もうひとつ重要なことは、生物学者が物理的事象について「科学者の意見としては」と前置きして話し出すような詐欺的な言論が生じると困るので、科学者は自分の専門科学を通じてしか話をさせないように厳重な常識の枷をかけてある。 福島第一事故のあと、最も印象的だったのは、日本の科学者の野放図な社会に対する無責任で、「言いたい放題」という表現がすぐに頭に浮かぶ体のものだった。 特に「ニセ科学」を追究するのが趣味の大学教員たちが酷かった。 ニセ科学が存在するためには対極の、拠って立つところの、「真正科学」が存在しなければならないはずで、科学が「真正」なら、それはもう定義上宗教で、自分自身が「正しい事を述べるニセ科学」になりさがっている。 もともとニセ科学の話は科学者の社交的な楽しみで、むかしから息抜きにさまざまなことをやって科学者たちは遊んできた。 たいへん面白い遊びで、幽霊やUFOの仕業とされることを、科学的な方法で再現したり、日本で言えば血液型で性格がわかるのなら、なるはずのない結果を示すことになる調査を学生をギニアピッグにしてやったり、どこの国でも研究者の暇つぶしにもってこいの遊びであることになっている。 だがそれをスペインの宗教裁判じみた査問の茶番にしてしまうのは日本のクソ科学者たちだけで、そういう驕慢が蔑まれもせずに社会を通用してしまうのは要するに社会全体が科学者が日本社会で占めている地位を一種の「自分もその位置にいきたかった」特権として羨望しているからだろう。 理屈としては、なにか行政の側で失策があると、頼まれもしないのに役人の立場に仮想的に立って役人がいいそうなことをことごとく肩をそびやかして言い始めるオチョーシモノたち…経済のためには僅かな国民の犠牲はやむをえない、社会があってこその個人、という例のボランティア説教師たち..と同じことで、案の定、というか、アカデミック村には縁もゆかりもないのに、放射能の害よりも放射能の害を心配するストレスのほうが有害だというもっともらしくすらない奇説を唱えるひとたちは、「物理屋さんは」「生物屋さんは」という符牒じみた言い方をして一瞬の「研究者気分」を満喫したよーでした。 早川由起夫という火山灰のビヘイヴィアを研究する研究者だけが、科学者としてまともな関わり方をした。 不思議な縁、というか、大気中にまき散らされた放射性物質の振る舞いが火山灰と同じだということに気がついたからでした。 こういうときに「幸福」という言葉を使うのはおかしいが、わしは早川由起夫という人は火山学者としては社会と「幸福」な関わり方をしたと思っています。 たとえば菊池誠というひとは、福島第一事故について、明示さえしなければ何を示唆してもダイジョーブだという、この種のひとたち特有の不思議に幼稚な理屈で、いろいろなことをおもいつくままに言い散らしたが、その発言は別に科学者としてのものではなかった。いま見ると専門は「学際計算統計物理学」ということになっているが、自分が研究者として普段のぞいている窓から事故を見つめていたわけではないよーです。 うようよと湧いて出た「自分は科学者だ」という、「おとーさんは部長だ」というのと殆ど変わらない、なんだか訳がわからない立場の「科学者」たちが、堂々積極的に「放射性物質は安全だ」という専門家でも二の足を踏むような大胆な意見を「確定した説」として説いてまわった。 早川由起夫のほうは、自分の専門の分野についての研究者としての信念を述べているだけであって、それがそのまま社会的行動に変わっていった。 むかし共産主義国家の科学者は「どうやって自分の学問を通して革命に貢献できるか」ということを年がら年中うるさく言われて閉口したが、早川由起夫の場合は研究がそのまま社会への貢献になった。 どんな社会でも小児科医というひとびとは話していてぎょっとするくらい反体制的だが、「子供を守るのが仕事」なので、よっぽど権威主義に頭がいかれた研究者でも弱いものを守る職掌上、どんどん反体制的になってゆくもののよーである。 子供だけに限定されなくなって冬のスラムで炊き出しを行って、警察が排除にくると石をぶんなげて抵抗して留置場にぶちこまれたりするのも、世界的に見渡して小児科医が多いよーだ(^^) 見てはいないが、日本でも小児科医達は、原子力発電所事故のあと東北の町をまわって、「政府がなんと言っても信じてはダメですよ。おかあさん、あなたがしっかりしなければ、あなたの子供は他の誰も守ってくれないのよ」と、政府が聞いたらタイホしたくなるよーなことを全員で言い聞かせてまわったそーです。 「具合が少しでも悪くなったら直ぐに町の医者に連れて行って。お医者さんはきっと、『風邪かなんかでしょうね』と安心するように言うでしょうけど、直ぐに私たちの大学に電話してください」 「相手がお医者さんだからって、鵜呑みにしてはダメですよ。お医者さんのほうでも判っていないのだから」 こっちは早川由起夫とは、また科学と社会の接点の持ち方が違うが、やはり自分の専門の学問に押されて社会と関わりをもつ科学者の例だと思います。 よく知られている例では児玉龍彦というひとが、インタビュアにどういう質問をされても、自分の専門に引き戻して、まるで、自己の学問の観察窓からしか世界を見ないぞ、と決意したひとでもあるかのよーに答えていくのが印象に残った。 すっかり有名になった「わたしたちが、やっていることは違法なんです」という言葉には、専門家の社会への関わり方のさまざまな面が示唆されていて、素晴らしいと感じた。 今回の大災害で日本から失われた幻想は多いと思うが、自分達の社会の「エリート」達への信頼の喪失は、これから先、ゆっくりと、でも着実に社会を蝕んでゆくだろうと思います。 あれほどの無責任と破廉恥をみせつけられれば、群れのなかでいちばん頭の悪い羊でも、信頼を捨てるだろう。 ベンキョーが出来る人間を自分達の指導者として頭上に頂く。 自分達は機会があれば、エリートっぽい物言いをマネしてみて、日頃の惨めな生活の鬱憤を晴らす。 いままで日本社会の習慣であった、そういうことどもは、何れも農本主義的な後進国だった頃の日本の名残の影だが、今回、「化けの皮がはがれた」とでも言いたくなる自分達の社会の「エリート」の惨状をみて、どのひとも段々かんがえなおしてゆくだろう。 科学者が社会から甘やかされたあまり自分を社会に保証された「自由人」であると錯覚するのは自分の職業への自覚もなく頭の悪い研究者の通例だが、将来はもう、国立の大学から給料をもらって教員をする、いわば役人にしかすぎないのに、神に対して責任をすら負わない司祭として説教を垂れて歩くような、日本だけに特徴的な鬱陶しい人間たちを見ないですむのが、国全体に環境化した放射能のなかで、これから数十年を苦闘しなければならない日本人の小さな慰めなのかもしれません。

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個人のための後退戦マニュアル・その5

あれから、ちょうど、1年になる。 あのときモニとぼくは、カウチに腰掛けて、あの奇妙なほど現実感のない水の広がりをじっと観ていた。 最も残酷な破壊は、いつも、奇妙なほど現実感がない。 911のときも、初めぼくは、それを映画のトレーラーだと思っていた。 何回も何回も繰り返すので、いったいこんな非現実的なストーリーの映画のために、こんなに巨額な広告費を使うなんて、なんていまいましいことだろう、と思った。 津波は、まるで凍った表面を広がってゆく水か、誰かが厨房の床にオリーブオイルの缶をひっくり返した、とでもいうように、するすると、やすやすと広がって、その不思議な感じは、ふたつの違う次元のものが折り重なったような奇妙な感覚でずっと頭のなかに残っていた。 福島第一原子力発電所の事故は、津波の巨大な破壊よりも、ぼくにとっては、もっと現実感のあることだった。 どこまでもぼんやりなぼくは、アメリカの友人たちに「あそこには2つ旧式な原子炉の原子力発電所があるはずだ。両方とも、あの津波ではひとたまりもないだろう」とeメールで告げられるまで、原子炉事故に考えが及ばなかった。 日本での原子力発電所事故の可能性と言えば、もんじゅ、と決めてかかっていたからです。 それから、どんなことが起こっていったか、きみもぼくも、もう、すっかり知っている。 放射性物質という、視覚にも嗅覚にも聴覚にも訴えず、数年という単位では疾病も見えない厄介な影は、終わりのない議論、結末のない憂鬱、どれほど注意していても生活のあちこちから忍び込んでくる脅迫になって、いまでも日本を苦しめている。 事故で明らかになった日本の科学者の信じがたいほどの社会に対する無責任と、こっちはどんな政府でも似たようなものであるに違いない、救いがたい、しかも十分予期できるほど退屈で予測通りの日本政府の不誠実と欺瞞、なんとか放射能が安全であることの論理的依拠をみいだして、生活を立て直す端緒にしたいと願う、「この程度の放射性物質は安全だ」という個々の日本人の国論形成への懸命な努力、… 絶対に起きてはいけない事故が起きてしまったのだから、当然すぎるほどのことで、社会に隠されていた問題までもがいっぺんに噴き出してきたが、そちらは日本のひとたち自身にまかせることにして、ぼくは、きみに話しかけたかった。 「個人」という立場に限定して、この敗退の局面でどうすれば生き残ってゆけるかを考えようとした。 「 個人のための後退戦マニュアル」というブログ記事がそれです。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/20/個人のための後退戦マニュアル・その1/ https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/20/個人のための後退戦マニュアル・その2/ https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/22/個人のための後退戦マニュアル・その3/ https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/06/17/個人のための後退戦マニュアル・その4/ きみとぼくの現実離れした願いは、政府が率直に「避難してもらいたいが、政府にはそれを補償するオカネはない」と述べるということだったが、もちろん、そんなことは起こらなかった。 嘘に嘘をかさね、非望に非望を積み重ねて、日本の社会は一種の架空な事故の終熄をつくりあげた。 炉心をくいやぶってどこかにいってしまった核燃料は、存在の確認をする方法がないので、なかったことになり、わずかにいくつか残った、まともに作動しているかどうかも判らない炉内の温度計で一喜一憂することに関心の対象を切り替えた。 漏出する放射性物質の濃度の絶対値を考えるのは気が滅入るので、「先週と較べて濃度が高いかどうか」を報告して、「一定だ」という表現を使うことにした。 もっとも決定的だったのは「痛みをわかちあう」という、愚にもつかない、浪花節、という古い言葉を思い出させる薄気味のわるい言語感覚の命名で、放射能物質を積極的に全国にばらまくことにしたことで、原子力発電所の安全管理は杜撰をきわめるのに、そういうことには周到な役人頭をフルに発揮して、思慮深くまえもって、おもいきって引き上げてあった「安全基準」より下回るという数値を玉条に、日本全国、みなで放射能汚染をひきうけることになった。 たとえば産地を偽装しようとする中間業者は、「おかみの姿勢」に敏感である。 おかみにやる気があるとみれば、入れ替えたかった米袋もいったん倉庫にしまって、様子をみる。 おかみにほんとうには取り締まる気がなさそうだ、と考えれば、どんどんやってしまえと号令をかけて、法外な稼ぎめざして夢中で違法な労働に熱中する。 まして政府が公式に「痛みを分かち合う」などという姿勢を示してしまえば、要するに違法な行為を後ろから背中を押して督励されているようなもので、歓び勇んで本来は市場に漏出させてはならない汚染も、「消費の海」に向かってはき出し続けるだろう。 ぼくは、あとでひとが福島第一事故をふりかえってみたときに、「あれが分岐点だった。岐れ道であった」と思うのは原子炉を被覆する建物の爆発ではなくて、「全国民で福島の痛みをわかちあう」という言葉が政府自身の口から発っせられたときであると思う。 日本は、「放射能が安全なら勝ち、安全でなければ負け」という、外国人たちからみれば勝てるはずのない狂気の賭け、日本人だけが賭けてみて五分五分と感じている賭けの賭け金をおおきくして、ほとんど国民を挙げて全財産を賭けてしまったことになる。 ぼくは、きみに、どうするのがいいと思うか、ぼくはもうちょっと日本に残ってみようと思うが、と訊かれたとき、残ってみるのでもいいのではないか、と答えた。 日本のひとはバカではないから、しばらくすれば真相に思い当たるに違いない。 必要なのは、2年か3年という時間で、そのあいだ、自分のフォックスホールにこもって、個人個人の後退戦を辛抱づよく戦うことだけと思う。 移民、というのは、まず第一にひとに勝る能力がいる。 自分がうまれついた社会のなかでさえ、見知らぬ町に行けば、友達もなく、気楽にすごして店の主人と軽口を利くレストランもなければ、誰にベビーシッターを頼めばいいのか、セキュリティカンパニーと契約したとして、非常のときの連絡先は同じ町のひとでなければならないが誰にするのか。 仕事のリファレンスは誰が書いてくれるのか。 初めて直面する問題が山のようになって、その段階で、疲れ果てて動けなくなってしまうひとがたくさんいる。 ぼくは義理叔父の知り合いでニュージーランドに引っ越してきたひとの世話を引き受けたことがあったが、銀行と取引履歴がないので、先ずクレジットカードがつくれない。 家を借りるのにテナントとしての履歴がないので、良い家を借りられない。 話を聴いていて、たいへんなんだなあ、と改めて考えた。 … Continue reading

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20年

初めてやってきた頃のニュージーランドは、「不思議の国」そのものだった。 わしは6歳か7歳か、そんなものだったはずである。 クライストチャーチの、今度の地震で解体が決まったカセドラル(大聖堂)に近いミルクバーに連れて行ってもらったらミルクシェイクが錫のカップにはいって出てきたのをおぼえている。 「ミルクバー」というものそのものが、もうイギリスでは田舎に行かないとなかったが、錫のカップで出てくるミルクシェイクにいたっては、じーちゃんやばーちゃんの思い出話にしかでてこないはずだったもので、ぶっくらこいてしまった。 ダウンタウンを歩いて行くと、20年前のその頃は、「肥っている人」というのが皆無で、ものすごく健康そうな薔薇色の頬をした、なんでこんなに美人が多いんだ、というくらい綺麗なおねーさんばかりがいっぱい歩いて、しかもファッションも決まっていて、ロンドンなどよりよほどかっこよかったが、しかし、その最新ファッションで決めたおねーさんたちが、自分のばーちゃんの世代の英語で話している(^^;) パンクなかっこうで、髪の毛が緑色にきまっているおねーさんが、 「ヒサヨさんや、あんたも、明日の麻薬パーティには、おいでになるのかね?」というような調子で話しているので、なんだかおもしろすぎる、というか、SFみたいというか、強烈に不思議な印象をガキわしに与えたものだった。 同世代のガキどもは無暗に親切であって、一応しつけが厳しいことになっているロンドンの学校の百倍くらいお行儀がよく、横断歩道で待っていてクルマが止まると、「ありがとう」「さんきゅー」と言って、みなでいっせいに運転手に笑いかけながら、手をふって挨拶する。 あまりに礼儀正しいので腰がぬけるかと思いました。 いまでもまだおぼえているが、いまの3分の1の大きさしかなかったノースランド・モール http://www.northlands.co.nz/ で、かーちゃんの買い物に付き合っていたらお腹がすいたので、カフェでサンドイッチを食べることにした。 いまとは違って、その頃はイギリスも食べ物が無茶苦茶まずい店が多かったが、それだけはイギリス譲りというか、冷たくなったコロッケの骸のようなコロッケだとか、干からびてミイラ化しつつあるソーセージーロール、崩れて崩壊しかけたステーキパイというものすごい面子のケースを見ていくと、すさまじいパイの面々よりは、なんとか食べられそうなサンドイッチのみなさんがいて、どれにしようかなあー、と思ってみていたら、「マスタードサンドイッチ」というのがある。 「ハム&マスタード」というのは聞いたことがあるが、マスタードサンドイッチというのは聞いたことがなかったので、おばちゃんに、これはマスタードと何がはいったサンドイッチですか?と聞くと、おばちゃんは、にこにこしながら、マスタードだけ、という。 わしは、すべてを悟って、うーむ、すごい国に来てしまった、と思いながらジンジャービアとハムサンドイッチを買った。 クライストチャーチにはマクドナルドがたしか一軒しかなくてリカトンにあったと思う。 まったく人気がなくて、わしと同じ世代の子供がみな敵意むきだしで、「あれは毒を売っている店だ」というのを聞いて、ロンドンではかーちゃんととーちゃんが発した禁令を冒して、小銭を握りしめて、ヤクを買いに行く子供のようにひそひそとマクドナルドに ビッグマックを買いに行く悪い習慣をもっていたわしは、ぬわるほど、というような顔をしながら、内心、げげげ、と考えたりした。 この国ではマクドナルドでハンバーガーを買ったりするとタイホされのではなかろーか。 しばらくして慣れてみると、ちょっと見たよりもクライストチャーチという町は、もっとものすごくヘンなところで、オトナは誰も彼も狂ったようにスポーツをする。 肥った人間が見当たらないのは当たり前で、いいとしこいたオトナが平日の夜中の12時過ぎまでスクォッシュやテニスに狂っている。 一方でサムナーの洞窟を探検に行くと、なんだかゴムの膜が張った輪っかのようなものがいっぱい落っこちているのであって、拾い上げようとする妹を制して、賢明にも毒物が付着しているかもしれないと判断したわしは、それとなくそれが何であるか、図書館で研究した。 すると驚くべし、それはなんらかの理由によってオトナの男がち○ちんにかぶせるものであって、なんでそんなヘンな帽子が必要なのかちゃんとはわからなかったが、やはり妹が指で触っていいようなものではなさそーであった。 わしは、隠そうとしても、色には出にけり、ものすごく賢い子供だったのでウイットコルという東販がそのまま直営の小売チェーンを展開しているような本屋の店頭に立つだけで、社会の問題も知っていたと思う。 アルコール中毒についての本が何種類も平積みになっていたからで、このあと、12歳くらいになると、わしの頭のなかでは、毎日退屈を極めて、酒を飲み、セッ○スに狂い、スポーツに明け暮れるニュージーランド人像ができあがってくる。 スタートレックのテレビシリーズの第一話は、連邦刑務所に主人公が服役しているところから始まるが、ドラマのなかではニュージーランド全体が刑務所になっている(^^) 考えてみれば、これは名案で、いちばん近い隣国であるオーストラリアまで、2000kmあるので、超人ハルクが泳いでいっても途中で溺れそうです。 忍者ハットリが水面を歩いて行っても、5分の1もいかないあいだに行き倒れになるであろう。 ニュージーランドという国の第一の特徴は、「外界から隔絶した国」であることで、英語世界のなかでは、「なにもかもが特殊な国」で有名だった。 ニュージーランド人は、一生に一回、数年に及ぶ大旅行にでかける人が多いので有名だったが、それは「現実の世界がどんなところか見てくる」という意味合いが強かった。 距離が離れているせいで情報も隔絶していたので、ものの値段などはデタラメ、といいたくなる付け方が多かった。 日本から来た中古車が多かったが、たいてい距離計が巻き戻してある中古車は、日本では30万円くらいの中古車で100万円くらいする。 コンピュータは、最悪で、アメリカの3倍くらいする上に、たとえばハーヴィイ・ノーマンのようなシンガポール、オーストラリア、ニュージーランドにまたがるチェーン店は、まずシンガポールに最新機種を出して、それで売れ残るとオーストラリア、そこでまた売れ残るとニュージーランドに持ってくる、というようにしているように見えた。 見えた、というのは、夏にニュージーランドにいるあいだにはシンガポール、オーストラリアに年がら年中、買い物に付き合わされたわしが見たかんそーです。 だから、ほんとうは古い機種しか売れない、というだけだったのかもしれないが、 わしはいまでも、ニュージーランド人のひとの良さにつけこんで在庫調整をしていたのではないかと疑っておる。 本がぶわっか高いのも特徴で、恥知らずにも、と言いたいが、ポンドとカナダドルで裏表紙に価格が書いてあるのに、平気で3倍くらいの値段をつけてあった。 ふつーの人間は為替レートなど知らないので、それにつけこんだものであると思われた。 なにもかもが変わったのは、インターネットが普及するようになってからで、接続はいまでも遅くて、先進国でも後ろから数えたほうがずっとはやいが、ダイアルアップの頃からニュージーランド人はインターネットに熱中する人が多かった。 けちんぼが揃ったニュージーランド人のことなので、まず初めに見るようになったのは「ものの値段」であって、アメリカやイギリスで、何がいくらで売られているか全部ばれたので、社会を挙げてえらいことになったのをおぼえている。 その頃は、ふつーに店頭で、だって、これアメリカではXXドルではないか、いくらロジスティックにコストがかかるからって、値段が無茶苦茶でねーの、と言うひとをみかけた。 … Continue reading

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時計の終わりに

ものごとは、ゆっくり、じっくりやらなければ解決できない、というのは英語圏の子供が最も初めに教育の場において習うことであるとおもわれる。 おもわれる、と元から知っていたようなことを言っているが、そのことに気が付いたのは日本の学校を見物したときのことでした。 えらそーに言うと、小学校のテストで算数の問題用紙を配ると、わっ、とか、それっ、とかいう心の声が聞こえてきそうだが、ああいうことはたいへんよくないであろう、と思う。 クリケットもそうだが、ベースボールもそうなはずで、世にも素晴らしいアーチを描いてスタンドに消える大飛球を放つには、うまく言えないが、軽い「タメ」がいる。 すっ、と一瞬レイドバックする瞬間があって、そこから腕が伸びるときに、ボールが狂気したように飛んでゆく瞬間がうまれる。 そういうときにはボールがバットに叩かれる反動も感じないはずで、「すこん」というような微かだが明晰な手応えで、その実ボールはロケットのように飛んでゆく。 力んで前のめりで、わっ、とバットを振っても、ボールはボテボテボテと不服でもあるかのように足下を力なく転がってゆくだけである。 はっはっは。ほんまに、えらそー。 でも、身体も頭も、力みや一拍の間もない飛びかかり方で簡単に動きが死んでしまうのは、実際、共通しているのだと思います。 数学にいたっては、もっとそうで、多少でも数学が出来る子供が、問題用紙を渡されて一目散に問題を解きはじめるとは、到底、考えられない。 初めは鉛筆もおいて、問題を読んで、天井を眺めたり、情けなさそうな表情で膝をじっと見つめたりして、問題用紙に絵を描いてみて、よしよし、こーゆー感じなんだな、とゆって計算をして確かめるのでなければまるでダメである。 前に、このブログ記事で、もともと戦後までは日本の工員は工作のスピードが速すぎて不良品が多かったことを書いたことがある。 朝鮮戦争で日本の会社から納入される部品の余りの不良率の高さに音をあげた占領軍がイギリスから熟練工を派遣して、工作のスピードをゆっくりにさせたのが、いまの日本の手のひらで鉄板の表面をなぞって何ミクロンという差が判る、神技と呼びたくなるような熟練工の始まりだった。 イギリス人たちは、日本の工員に「時間」を教えにきたのだ、と言ってもよいようでした。 ドキュメンタリを観ていると、いまは中国の工場のなかに明らかに作業の速度が速すぎる工場が映って、中国の工場は最近日本の製品よりも質が高い製品をつくるところが多いが、多分、ああいう工場でつくられた製品は品質が低いだろうと推測される。 驟雨の日に蚊が野外を飛ぶ高速撮影フィルムを見ると、大粒の雨の水玉を蚊は悠然と避けて飛んでいる。蚊の反射を支える神経系の速度からすると、雨の水玉が落下する速度など、牛さんが歩いているのと同じくらいなのがよく判る。 試しにプールで蚊をみかけたときに、ホースで水をかけてみると、水が当たっているように見えて、蚊はちゃんと避けて飛んでいってしまう。 蚊には痛覚がないので、学習もするとは思えない。従って意識もあるはずがないが、意識があるとすれば、それは人間に較べればかなりの高速なはずで、3日で死ぬ蚊が、人間だと十年を生きたことになる、とか、そんな感じになりそーです。 時計は物理的に定刻を刻むが、ほんとうは、ああいうことをされると人間には迷惑なのは、よく知られている。 同じ物理的な一時間が、あるひとにとっては本来は40分であり、また他の人にとっては1時間半であるからで、身長が145センチのひとから2メートル20の人まで一律にサイズMの服を着せようとしているようなものである。 社会として定刻を遵守する、というのは個々の人間にとっては相当なストレスを生じるはずの取り決めで、放射能を心配するのは放射脳である、などと、無神経まるだしのバカ言葉で放射性物質を心配するひとびとを小馬鹿にした口を利いて悦にいっているひとびとは、ばらまかれた放射性物質の害を心配するという正当な心配のストレスで早死にする、というようなノータリンなことを考えるヒマと悪意を捨てて、自分が言わば「他人が設定した時間」の枠にあわせて無理矢理切り詰めた精神の丈のなかで生活を強いられているストレスが自分のコンジョワルな人生を短くする心配をしたほうが良いだろうと思われる。 第一個人にとって最適な睡眠時間など4時間から12時間、なかには大庭亀夫のように14時間は眠らないと辛い人生が悲しくて枕が濡れてしまう、という人までいるのに、朝の9時になる前に会社に来い、などと、そーゆーのを人間性の無視、というのではなかろーか。 そーすると、わしなどは、幸せな気持ちで会社に行くためには、夜の7時には寝床に行かねばならないわけで、もうすぐ特殊寿状況が終了すれば、どうしてもいちゃいちゃもんもんは避けられないが、そうすると5時には寝床にいかなければいけなくて、そんなに早く寝室に向かっていてはCriminal Mindsのシーズン7も、Cold Caseの再放送も観られない。 誰にも時間のお仕着せを着ろといわれないとき、たとえばひとりで田舎の知らない駅で降りて、急に視界が開けて遠くに青みがかった山が見える野原を横切って歩いたり、朽ち果てた別荘のある旧別荘地の木洩れ陽がちらちらと乾いた土を照らしている木陰の道を歩いていると、自分の身の丈にあった時間がもどってきて、滑るように、ぴったり寄り添うように一緒に歩き出す。すると、いろいろな楽しい考えが浮かんできて、小さなときに飼っていた犬のジャンセンが死んだのは悲しかったけど、もう一回犬を飼ってみてもいいな、とか、同僚の女の子に野球の試合を一緒に見に行こうと誘われたのに、ああいう断り方をしたのはよくなかった。 「誘われてるんだ」なんて緊張しないで、友達になれたら楽しい、くらいの気持ちで、どうしてウンと言わなかったのだろう。俺って、バカだな、と考えたりする。 女の子だって「友達」が欲しいときがあるのではないか。 世の中には自分には判らないことがたくさんあって大変だが、ゆっくり少しずつ片付けていけば、なんとかなるのかも知れないな、と思う。 ときどきは、いったい自分は、どうしてあんなにつまらないことで思い詰めていたのだろう、と思うこともあるやもしれぬ。 いまの社会は、単位時間あたりの生産性を上げるのに必死になっている。 もっとも大きい背景には、「豊かな生活をする」ゲームへの参加者が30年前の数倍になって、新しい競技者、中国人やインド人、ブラジル人、中南米人、メキシコ人のような北米人の新顔が大量にゲームに参加しだしたので、ぼんやりしているとゲームから蹴りだされてしまう、ということがある。 アメリカやオーストラリアというようなタイプの国では、最早「貧富の差」なんて言ってられなくなってしまっているのはそのせいです。 フィンランドが「良い人間をのばすことに集中する」という、ちょっと怖いかもしれない教育システムを導入したことにも、そういう意味がある。 「弱い者を守る」などといっていて社会ごと競争に負けてつぶれたらどうするつもりだ、という支配層の考えがある。 この厳しい競争が、きみたちには見えないのか。 無能な経営者が考えることは平たく言えば「こき使う」ことであって、むやみやたらと残業させて残業はなかったことにする。そうすると時間あたりの労働単価がさがって生産性があがる、という狸の子供が皮の算用電卓を使ってほくそえむような、単純粗漏な考えです。 むかし日本軍はもう30分戦闘を続ければ勝利できるのに午後5時になると、くるりと踵を翻して、さっさと帰ってしまう連合軍の「根性のなさ」を大笑いした。 制空権の切所に来て、つばぜり合いをしているときに戦闘機があまっているというのにパイロットを「休暇」で本土に帰してしまうアメリカ軍のやりかたを見て、なんてヘンなやつらだろう、と考えた。 その結果、根性があれば疲労しないという根本的な仮定の誤りに気が付かないまま、覚醒剤を打ちまくり、お互いを殴り合って「気合い」をいれつづけなばならなかった日本人は、あっさり敗退してしまった。 … Continue reading

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友だち

付き合う友達は年を取れば変わってゆく。 それでは寂しいではないか、と思うが、現実の問題としてはどうもそういうものであるらしい。 わしは友達が「変わる」のではなくて、少しずつ増えてゆくだけだが、それはどうやら、わしがそもそもあんまり友達というものと会わないからであるよーだ。 考えてみれば当たり前で、人間は成長してゆくのだから、かつては波長が合った友達を追い越してしまうこともあるだろう。 逆に、友達のほうが人間的に成長して、自分を追い越してゆくこともあるに違いない。 子供のときからの友達、というのを考えてみると、このブログに名前が出てくる人で言えば従兄弟がそうであるし、デブP、というひどい名前で出てくる友達がそうである。 従兄弟とは、義理叔父によれば、まだ四つん這いになって這い回っている頃からふたりでオイチョカブを始めそうなくらい仲が良かったというし、デブP抜きでは、なつかしいバカガキ時代、忍び込んだ農場で豚においかけまわされたり、駝鳥に蹴り殺されそうになったあの黄金時代を思い出すことができない。 友達というものは、一面、迷惑をおしつけるために存在する。 わしは、そんなことはおぼえてなくて、デブPや従兄弟のでっちあげだと思うが、ふたりとも(多分しめしあわせて)、わしが20代前半まではいかに酷いやつだったか力説する。 3人で料理屋に行く、さんざん飲み食いして、帰るときになると、レジに誰もいない。 「すみませーん」 「ハロオオオー」としばらくゆって、誰も出てこないと、わしは「ラッキー」と呟いてレストランをあとにしたりしたという。 サービスも悪ければ食べ物もおいしくない店で、店主に「こんなんでカネをとるのは間違っておる。わしは払いたくないから払わない」とゆって、従兄弟を周章てさせたことがあるという。 どっちもおぼえてない。 作り話だと思います。 自分でゆっていれば世話はないが、わしはチョー短気である。 実際には、あんまり暴力をふるわないが、怒り出すと「絶対、殺される」と思うとみながいう。落雷みたいなもの、だそうだ。 表情が変わらないまま、ここに書けないような怒り方をするので「シロクマ」と言われたこともある。 そのうえにやくざみたいなものが嫌いなのでパブにやくざが居たりすると、そばにいると危なくてしようがない。 これもおぼえてないが、カネを貸してくれ、ということはないが、カネをくれ、ということはあったという。 なんで?というと、「カネがないからだよ」といったそーである。 何に使うのか?と聞くと、「友達というものは、そういうことを聞かないものだというぞ」とゆってえばっている。 もっていったカネがかえってきたことはないというが、これも、全部作り話だと思います。 わしは友達をつくりたいと願ったこともなければ、誰か特定の人間と友達になりたいと思ったこともないが、義理叔父の友達の話を聞いて、うらやましいと思ったことはあります。 義理叔父が夏をすごす軽井沢の家の窓際のカウチでうとうとしていると、もう絶交した友達が窓から覗いている。 こんなところで、何をやっているんだ、と訊くと、 いや近くまで来たから、センセイはどうしているだろうと思ってね、という。 義理叔父とこのひとは、義理叔父の仕事を通じての友達であって、聞いていると不思議な関係です。 義理叔父は「幕末」とか「維新」とか聞くと、それだけでげんなりするほうだが、このひとは「新撰組」が大好きで、「滅びの美学」なんという言葉を使ってしまうタイプのひとだった。 仕事ひとつとっても、義理叔父は日本の伝統的なやりかたが嫌いで、小回りが出来るタスクフォースをつくって、ミーティングも座ってやらないほどだったが、このひとは局長部長課長と並べて担当役員を座らせて伝統的な会議を積み重ねるのがよい、というやりかただった。 机の上に「既決」「未決」と書いた箱をおいて仕事をしたりするので、訪ねてきた義理叔父に「あんたは、いったい何時代のサラリーマンなんだ」と揶揄かわれていたりしたもののよーである。 それまでは仕事のつきあいと言っても、違う会社同士、情報を交換する程度のつきあいだったのが、あるとき一緒に仕事をするようになった。 アメリカの会社も提携しての話だったが、それが原因でこじれてしまった。 義理叔父が、いやそれはアメリカの会社の標準的な考えだから、と説明しようとしてもガンとして受け容れようとしない。 「ぼくは日本人だから」と言い出す。 「アメリカ人がどう考えたって、ぼくには関係がない」 「向こうさんに、日本のまともな会社っていうのは、そんなふうに考えないんだ、と説明してください」 そういうことから始まって、事業がようやく形をなしてうまく行って暫くしたある日、とうとう絶交することになったようでした。 義理叔父は、「あんな頑迷でものが理解できないやつは後にも先にもあいつだけだったよ」という。 そのうち、相手に義理叔父の悪口をふきこむ人間も出てきて、義理叔父は嫌気がさしてプロジェクトそのものから降りてしまった。 … Continue reading

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虚ろな鏡

シャチョー、と言って誰のことかすぐ判るひとは、このブログ記事をよほど昔から読んでいるひとである。 シャチョーは40代の後半だが子供のときはまだ家の中で牛を飼っていて、夜中にトイレに行くのに牛のしっぽが触れたりするのが気持ちわるかった、とものすごいことを言う。 早稲田にある大学にはいって、アルバイトばかりやっていた。 ドラッカーの話をするのが好きだが、大学でもっとも身につけたのはビルの窓拭きの要領のようでした(^^) このひとが義理叔父に紹介されてマンハッタンにやってきたとき、義理叔父のダチの紹介でくる人であれば疎かにしてはいかんであろう、と考えてトライベッカの当時流行りまくって予約が2年先でないと取れない、というレストランに連れて行った。 「2年先でなければとれないのなら、そんなにすぐつれていけないではないか」というひとがいそうだが、2年先しか予約がとれなくても、不思議の術を用いれば明日の食事のテーブルの予約が出来るのがニューヨークやロンドンのような街なのです。 義理叔父とかーちゃんシスターと甘木な女びととわし・シャチョーで占めていたテーブルのふたつ向こうのテーブルに有名な映画女優が座っているのを認めたわしは、なんの気なしに、あっXXだ、と言った。 失敗だった。 シャチョーが顔を向けて、そっちを見ている。 義理叔父が、「失礼だからやめなさいよ」という。 はい、と答えるものの、またすぐ顔を向けて、じっと見ている。 義理叔父がみるみるうちに機嫌が悪くなって、 「きみ、他人をじろじろ見るのはやめろと言っているではないか。きみはバカか」 という。 それでも見るのがやめられない様子なので、わしは笑ってしまった。 皮肉な笑いではない。 子供みてー、と考えた。 シャチョーには、その有名な女優にも他人にジロジロ観察されながら食事をしないですむ、個人の時間が必要なのだということは、なかなか判らないようでした。 日本のひとの他人への興味の強さは、たじろぐほどのものがある。 欧州人もカーテンのすきまから、じっと隣の家の様子をうかがっているのが好きである。 見知らぬくるまが駐まっているのをみると、いったいあのくるまは誰のところに来たのだろう、と考える。 ニュージーランドの名前の良い住宅地なら近所同士のコミュニティが強いので、顔をあわせるたびに、「昨日の、あのアウディはなんだ?」というふうに挨拶代わりに言い交わされるであろう。 英語でnosyという。 連合王国では、通常、みながお互いにnosyな自分達を憐れみあいながら生きている。 日本人の他人への興味のもちかたは、しかし、欧州人のnosyぶりとはやや性質が違うようです。 ツイッタでも書いたが、まるでお互いのデコに普段は透明な偏差値が書き込まれているかのごとくであって、その「不可視の偏差値」を炙りださんがための会話が盛んなよーである。 大学は、どちらへ? まあ、じゃ、お生まれは、わたしより2年早いようです。 お勤めにでかけるのは、お早いんでしょうか。 逗子にいったんもどられるということは、グリーン車で東京まで行かれる、ということですか? 鎌倉の家に泊まると、町に出て、そういう会話を交わすひとびとを観察するのがnosyなわしの楽しみであった。 わしは、おっきい上に日本ではかなり目立ったが、どーゆーわけか、こんなヘンな奴に日本語がわかるわけはない、と決めてかかっているよーで、珈琲店などでも、まずわしの側で声をひそめて話すひとはいなかった。 おかげで、いろいろな会話が聞けて楽しかった。 手にもった本を読んでいるふりをするのがたいへんなくらいで、ときどき会話の内容にこみあげてくる笑いをこらえるのに、必死に足の親指を反らせてたえたりして、プレイボーイに肉体を翻弄される役の女優がベッドシーンを演じてるみてー、と考えたことがあった。 日本社会は外国人をガイジン扱いして受け容れようとしない、と特にアメリカ人たちがよく怒っていたが、わしはそーでもない。 ガイジンでいる、というのは楽なもので、特に社会にうけいれてもらわなくてもいーや、と思っていたわしは、どちらかというと、くだらない詮索をうけないですむことのほうがありがたかった。 主に、日本人同士の、精妙な偏差値ピラミッドを観察していて、恐れをなしていたのだと思います。 イギリスというのは無惨な国で、いまだに階級制度がある。 従って階級が下のひとは、上のものに対して「気後れ」というものがある。 どうやって判るかというと、アクセントで判ります。 … Continue reading

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Be Polite

Be polite Be confident Be ready という。 初対面の自分とはバックグラウンドが異なるひと、たとえばパーティで火星人に紹介されたときに、どういう態度をとればよいか、ということについて述べた言葉です。 最後のready が enthusiasticに変わることもあるよーだが、わしは「 ready 」のほうがよいと思う。 こういうことを書くと、グーグルで検索してみて、「そんな格言ないぞ、ウソつき」と言ってきたり、「私はボストンに一年留学していたが、そんな言葉、聞いたことがない。 謝罪して訂正してください」というひとが必ずいるので、すっかりわしを喜ばせてしまうが、「ちゃんとお辞儀をして、はきはき話すのですよ」と言われるのを格言だと思うほうがどうかしているし、子供のとき一年日本にいて、そういう言葉を話す母親を見たことがないのは気の毒なひとびととしか会えなかったからだろう。 Be polite Be confident Be ready というのは、そういう言葉なのである。 Be politeは言うまでもない。 お互いに礼儀正しくしなければならないのは、家族のあいだですらあたりまえであって、まして初めて紹介された相手には細心の注意を払って礼儀正しくしなければならないのは最低の文明的態度とみなされる。 日本のひとは、国の外では実は礼儀の悪い国民として中国のひとや韓国のひとと並んで有名だが、日本に行ってみると、国のなかでは別人28号ふうの慇懃で、どうなってるんだ、と思う。 かなりながいあいだ日本に住んでいたかーちゃんシスターの説明はこうだった。 ホテルから出てきて、タクシーを止めようとしていたら、後ろからやってきたサラリーマンが、かーちゃんが止めたタクシーに、さっと乗ってしまった。 乗り込むときに英語で「アイムソーリー」と言って、にやっと気障に笑って西洋風な仕草で指で敬礼したそーである。 家に帰って、かーちゃんシスターがぷんぷんしながら、義理叔父に その話をすると、義理叔父というひとは、これを読んでくれているひとはみな知っている通りのアホなので、 「礼儀正しい人やん」とゆって、かーちゃんシスターに離婚を考えさせた。 「文化的背景の違いによる相互不信」という離婚調停書の文言まで思い浮かんだそうです。 丁寧な言葉で失礼なことを述べるのは乱暴な言葉で失礼なことを述べるよりも、さらに無礼だが、日本ではそういうルールではない。 まだわしが大学生だった頃に、マンハッタンのバーで出会ったパキスタン人は、日本に一年留学したことがあった。 学費と生活費の工面がつかないのでレストランでアルバイトをしたが、賄いに必ず豚肉がはいっている。 イスラム教では豚肉をたべるのを忌み嫌うということを本人の口から聞いてからはずっと、毎日そうだった。 「ところが、それが一種の親しみの表現なんだよね、日本人にとっては」という。 ムスリムの国では生意気な女が少ないって言うじゃないか、妹か誰か紹介しろよ、とゆわれる。おまえの母親でもいいぞ。 パキスタンにも地下鉄はあるのか? … Continue reading

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