虚ろな鏡

シャチョー、と言って誰のことかすぐ判るひとは、このブログ記事をよほど昔から読んでいるひとである。
シャチョーは40代の後半だが子供のときはまだ家の中で牛を飼っていて、夜中にトイレに行くのに牛のしっぽが触れたりするのが気持ちわるかった、とものすごいことを言う。

早稲田にある大学にはいって、アルバイトばかりやっていた。
ドラッカーの話をするのが好きだが、大学でもっとも身につけたのはビルの窓拭きの要領のようでした(^^)

このひとが義理叔父に紹介されてマンハッタンにやってきたとき、義理叔父のダチの紹介でくる人であれば疎かにしてはいかんであろう、と考えてトライベッカの当時流行りまくって予約が2年先でないと取れない、というレストランに連れて行った。
「2年先でなければとれないのなら、そんなにすぐつれていけないではないか」というひとがいそうだが、2年先しか予約がとれなくても、不思議の術を用いれば明日の食事のテーブルの予約が出来るのがニューヨークやロンドンのような街なのです。

義理叔父とかーちゃんシスターと甘木な女びととわし・シャチョーで占めていたテーブルのふたつ向こうのテーブルに有名な映画女優が座っているのを認めたわしは、なんの気なしに、あっXXだ、と言った。
失敗だった。
シャチョーが顔を向けて、そっちを見ている。
義理叔父が、「失礼だからやめなさいよ」という。
はい、と答えるものの、またすぐ顔を向けて、じっと見ている。
義理叔父がみるみるうちに機嫌が悪くなって、
「きみ、他人をじろじろ見るのはやめろと言っているではないか。きみはバカか」
という。
それでも見るのがやめられない様子なので、わしは笑ってしまった。
皮肉な笑いではない。
子供みてー、と考えた。
シャチョーには、その有名な女優にも他人にジロジロ観察されながら食事をしないですむ、個人の時間が必要なのだということは、なかなか判らないようでした。

日本のひとの他人への興味の強さは、たじろぐほどのものがある。
欧州人もカーテンのすきまから、じっと隣の家の様子をうかがっているのが好きである。
見知らぬくるまが駐まっているのをみると、いったいあのくるまは誰のところに来たのだろう、と考える。
ニュージーランドの名前の良い住宅地なら近所同士のコミュニティが強いので、顔をあわせるたびに、「昨日の、あのアウディはなんだ?」というふうに挨拶代わりに言い交わされるであろう。
英語でnosyという。
連合王国では、通常、みながお互いにnosyな自分達を憐れみあいながら生きている。

日本人の他人への興味のもちかたは、しかし、欧州人のnosyぶりとはやや性質が違うようです。
ツイッタでも書いたが、まるでお互いのデコに普段は透明な偏差値が書き込まれているかのごとくであって、その「不可視の偏差値」を炙りださんがための会話が盛んなよーである。
大学は、どちらへ?
まあ、じゃ、お生まれは、わたしより2年早いようです。
お勤めにでかけるのは、お早いんでしょうか。
逗子にいったんもどられるということは、グリーン車で東京まで行かれる、ということですか?

鎌倉の家に泊まると、町に出て、そういう会話を交わすひとびとを観察するのがnosyなわしの楽しみであった。
わしは、おっきい上に日本ではかなり目立ったが、どーゆーわけか、こんなヘンな奴に日本語がわかるわけはない、と決めてかかっているよーで、珈琲店などでも、まずわしの側で声をひそめて話すひとはいなかった。
おかげで、いろいろな会話が聞けて楽しかった。
手にもった本を読んでいるふりをするのがたいへんなくらいで、ときどき会話の内容にこみあげてくる笑いをこらえるのに、必死に足の親指を反らせてたえたりして、プレイボーイに肉体を翻弄される役の女優がベッドシーンを演じてるみてー、と考えたことがあった。

日本社会は外国人をガイジン扱いして受け容れようとしない、と特にアメリカ人たちがよく怒っていたが、わしはそーでもない。
ガイジンでいる、というのは楽なもので、特に社会にうけいれてもらわなくてもいーや、と思っていたわしは、どちらかというと、くだらない詮索をうけないですむことのほうがありがたかった。
主に、日本人同士の、精妙な偏差値ピラミッドを観察していて、恐れをなしていたのだと思います。

イギリスというのは無惨な国で、いまだに階級制度がある。
従って階級が下のひとは、上のものに対して「気後れ」というものがある。
どうやって判るかというと、アクセントで判ります。
30秒でわかる。
大学や財産とこの階級とは関係がない。
小間物屋の娘として育ったことをキャリアを通じて皮肉られたサッチャーが通ったので有名なようなアクセントをなおす教師がたくさんいるが、女優たちをみれば判る通り、アクセントはある程度の練習で変えられても、実際の出自がばれた場合、階級が上のもののアクセントで話していたことがまるで「経歴詐称」のようにして受け取られる。
日本ではイギリスが好きだとゆってくれるひとが多いが、そんなに住みやすい国なら、ほんならなんであちこちの国で何十年ものあいだ移民エスニックグループの1位になっているか、というようなことは考えにのぼらないものであるらしい。
のぼらないままのほうが、平和なので、ここでは特に理由を明記しないが。

イギリス社会ひとつを考えても、社会というのはどれも、そういう残酷を極めたものだとも言えるが、それでもなお日本のひとの他人への執拗な興味のもちかたには異質な部分があって、考えてみると、これが他人の人間性への奇妙なほどの無関心とあいまって、手に手をとって、ときに人間を自殺にまで追い込んでいくものであるらしい。

日本よりも遙かに「言われない決まり」で、がんじがらめの社会に住みながら、欧州人が魂の身動きする余地を保っているのは、「自分以外のことに興味をもっていない」からだと思われるのは前にも書いた。カーテンのすみっこから隣を除くのは、「自分の家の近所」だからであって、「近所」が自分の生活に影響するからである。
日本のある種類のひとは、どっからどう考えても自分の生活とはなんの関係もないインターネットで遭遇した自分よりも暮らし向きがよいと思われるひとに牙をむいて、なんとか相手に嫌な思いをさせようと躍起になる。
全身全霊で、何年にもわたって嫌がらせをする。
読まなければいいだけなのに、なぜかそっちに向けた顔の向きを変えることは出来なくて、魅入られたように見つめたまま他人をなんとかして陥れるための、くだらない知恵を磨き続ける。

ある種類のひと、と言ったが、具体的に言えば「自分と自分の生活を大事に出来ないでいるひとびと」で、考えてみれば気の毒だが、現実の世界でもインターネットの世界でも、この種類のひとは実は「じぶんの生活」というものが存在していないよーだ。
他人からの同意、他人が手のひらを叩いておくってくれる拍手、他人の尊敬のまなざし、他人の相槌、他人の反応、…他人、他人、他人、であって、ほかになにもないのが容易にわかってしまうひとが多かったような気がする。
朝、起きて浴室の鏡の前に立ってみても、自分が映っていないのではなかろうか。
鏡のなかに、ただ浴室の壁が映っているのではないか。

どうも、うまく言えなかったが、社会が個人に対して残酷なのは、実は世界中同じだろう。だが自分を大切にしなければ、と願っている人間が住む社会は、自分にばかり無我夢中の十代が終われば、他人も自分と同じように自分を幸福にしたいと願っているのだから、他人のやっていることは基本的に、ほっぽらかしておかねばダメなのだ、とみながよく判っている。
「知らないふり」が出来なくては困るのです。
それがよく判ることによってしか他人への「せめても慰めあって」という気持ちが起きないのを知っている。

英語世界の映画や番組には、女びとが単身、男のもとを訪ねていって、自分はよく考えてみたが、あなたと何回かつきあってみて、自分を幸福にしてくれるのはあなただけであると思った。
あなたの前に立っているのは、自分を幸福にしたいと考えているひとりの女であって、その女のひとのために、わたしは勇気をだしてこうやってやってきた。
付き合ってもらえないか、というシーンがよく出てくる。
現実を反映しているのです。
男のほうは、唇をかみしめて、じっと考えて、
「無理だと思う」という。
女のひとは表情に落胆をあらわさないようにせいいっぱい気をつけながら、
「わかりました」と言って、帰ってゆく。

みなも経験があるはずだが、わしにも経験がある。
そーゆーときには、男は相手が好きでいられない自分が情けなくて、自分で自分の顔を殴りつけたくなっている。
でも不正直な返答をするわけにはいかないので、相手にとっては残酷に決まっている返事をする。

自分とむきあって暮らすということは、そうやって他人に対しては残酷な反応を示し続けることであって、そうでなければ個々の人間が幸福になってゆくことは出来ないという仕組みになっている。

他人に自分でも歯止めがきかない興味を示し執着をあらわすひとは、自分と向き合えないひとだが、そういうひとはまた他人のなかでも「友達」と感じるひとに対しては、少しでも傷つけないように、考えていることと反対のことでも口にし、仲間をつくって、その「仲間」が自己の代替としての機能をはたせるように願って「よそ者」の気にくわない人間を徹底的に攻撃する。

ツイッタでよく遊びにきてくれる内藤朝雄は、「山形マット死事件」のフィールドワーク
http://d.hatena.ne.jp/izime/20070316

で、「いじめ学者」になろうと決意したそーだが、この事件の登場人物たちを見ても「自分にやさしくできない」人間というのは容易にここまで行く。

テーブル越しに、「いま50以上の人間なんて全員殺してやりたい」と言う20代の日本人の友達を見ていると、もう、そういう面からも日本社会の個人を部品として消費してゆくやりかたは、限界にきているだろうと考えます。

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