個人のための後退戦マニュアル・その5

あれから、ちょうど、1年になる。
あのときモニとぼくは、カウチに腰掛けて、あの奇妙なほど現実感のない水の広がりをじっと観ていた。
最も残酷な破壊は、いつも、奇妙なほど現実感がない。
911のときも、初めぼくは、それを映画のトレーラーだと思っていた。
何回も何回も繰り返すので、いったいこんな非現実的なストーリーの映画のために、こんなに巨額な広告費を使うなんて、なんていまいましいことだろう、と思った。

津波は、まるで凍った表面を広がってゆく水か、誰かが厨房の床にオリーブオイルの缶をひっくり返した、とでもいうように、するすると、やすやすと広がって、その不思議な感じは、ふたつの違う次元のものが折り重なったような奇妙な感覚でずっと頭のなかに残っていた。

福島第一原子力発電所の事故は、津波の巨大な破壊よりも、ぼくにとっては、もっと現実感のあることだった。
どこまでもぼんやりなぼくは、アメリカの友人たちに「あそこには2つ旧式な原子炉の原子力発電所があるはずだ。両方とも、あの津波ではひとたまりもないだろう」とeメールで告げられるまで、原子炉事故に考えが及ばなかった。
日本での原子力発電所事故の可能性と言えば、もんじゅ、と決めてかかっていたからです。

それから、どんなことが起こっていったか、きみもぼくも、もう、すっかり知っている。
放射性物質という、視覚にも嗅覚にも聴覚にも訴えず、数年という単位では疾病も見えない厄介な影は、終わりのない議論、結末のない憂鬱、どれほど注意していても生活のあちこちから忍び込んでくる脅迫になって、いまでも日本を苦しめている。

事故で明らかになった日本の科学者の信じがたいほどの社会に対する無責任と、こっちはどんな政府でも似たようなものであるに違いない、救いがたい、しかも十分予期できるほど退屈で予測通りの日本政府の不誠実と欺瞞、なんとか放射能が安全であることの論理的依拠をみいだして、生活を立て直す端緒にしたいと願う、「この程度の放射性物質は安全だ」という個々の日本人の国論形成への懸命な努力、… 絶対に起きてはいけない事故が起きてしまったのだから、当然すぎるほどのことで、社会に隠されていた問題までもがいっぺんに噴き出してきたが、そちらは日本のひとたち自身にまかせることにして、ぼくは、きみに話しかけたかった。
「個人」という立場に限定して、この敗退の局面でどうすれば生き残ってゆけるかを考えようとした。
「 個人のための後退戦マニュアル」というブログ記事がそれです。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/20/個人のための後退戦マニュアル・その1/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/20/個人のための後退戦マニュアル・その2/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/22/個人のための後退戦マニュアル・その3/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/06/17/個人のための後退戦マニュアル・その4/

きみとぼくの現実離れした願いは、政府が率直に「避難してもらいたいが、政府にはそれを補償するオカネはない」と述べるということだったが、もちろん、そんなことは起こらなかった。
嘘に嘘をかさね、非望に非望を積み重ねて、日本の社会は一種の架空な事故の終熄をつくりあげた。
炉心をくいやぶってどこかにいってしまった核燃料は、存在の確認をする方法がないので、なかったことになり、わずかにいくつか残った、まともに作動しているかどうかも判らない炉内の温度計で一喜一憂することに関心の対象を切り替えた。
漏出する放射性物質の濃度の絶対値を考えるのは気が滅入るので、「先週と較べて濃度が高いかどうか」を報告して、「一定だ」という表現を使うことにした。

もっとも決定的だったのは「痛みをわかちあう」という、愚にもつかない、浪花節、という古い言葉を思い出させる薄気味のわるい言語感覚の命名で、放射能物質を積極的に全国にばらまくことにしたことで、原子力発電所の安全管理は杜撰をきわめるのに、そういうことには周到な役人頭をフルに発揮して、思慮深くまえもって、おもいきって引き上げてあった「安全基準」より下回るという数値を玉条に、日本全国、みなで放射能汚染をひきうけることになった。

たとえば産地を偽装しようとする中間業者は、「おかみの姿勢」に敏感である。
おかみにやる気があるとみれば、入れ替えたかった米袋もいったん倉庫にしまって、様子をみる。
おかみにほんとうには取り締まる気がなさそうだ、と考えれば、どんどんやってしまえと号令をかけて、法外な稼ぎめざして夢中で違法な労働に熱中する。

まして政府が公式に「痛みを分かち合う」などという姿勢を示してしまえば、要するに違法な行為を後ろから背中を押して督励されているようなもので、歓び勇んで本来は市場に漏出させてはならない汚染も、「消費の海」に向かってはき出し続けるだろう。

ぼくは、あとでひとが福島第一事故をふりかえってみたときに、「あれが分岐点だった。岐れ道であった」と思うのは原子炉を被覆する建物の爆発ではなくて、「全国民で福島の痛みをわかちあう」という言葉が政府自身の口から発っせられたときであると思う。
日本は、「放射能が安全なら勝ち、安全でなければ負け」という、外国人たちからみれば勝てるはずのない狂気の賭け、日本人だけが賭けてみて五分五分と感じている賭けの賭け金をおおきくして、ほとんど国民を挙げて全財産を賭けてしまったことになる。

ぼくは、きみに、どうするのがいいと思うか、ぼくはもうちょっと日本に残ってみようと思うが、と訊かれたとき、残ってみるのでもいいのではないか、と答えた。
日本のひとはバカではないから、しばらくすれば真相に思い当たるに違いない。
必要なのは、2年か3年という時間で、そのあいだ、自分のフォックスホールにこもって、個人個人の後退戦を辛抱づよく戦うことだけと思う。

移民、というのは、まず第一にひとに勝る能力がいる。
自分がうまれついた社会のなかでさえ、見知らぬ町に行けば、友達もなく、気楽にすごして店の主人と軽口を利くレストランもなければ、誰にベビーシッターを頼めばいいのか、セキュリティカンパニーと契約したとして、非常のときの連絡先は同じ町のひとでなければならないが誰にするのか。
仕事のリファレンスは誰が書いてくれるのか。
初めて直面する問題が山のようになって、その段階で、疲れ果てて動けなくなってしまうひとがたくさんいる。

ぼくは義理叔父の知り合いでニュージーランドに引っ越してきたひとの世話を引き受けたことがあったが、銀行と取引履歴がないので、先ずクレジットカードがつくれない。
家を借りるのにテナントとしての履歴がないので、良い家を借りられない。
話を聴いていて、たいへんなんだなあ、と改めて考えた。

まして日本のひととなれば、おきまりの「言葉」の問題がある。
インド人を例外として、アジアのひとは、みなこの壁に苦しむ。
ちょっとアクセントを間違えただけで、英語人には、「えっ? いま、なんと言った? 判らなかったんだが」と聞き返す癖がある。
単純に相手が言ったことをわかならいまま放っておくのが失礼なことだからで、周りを落ち着いて見渡せるようになれば、英語人同士でも、年中聞き返している。
普通の習慣なのだが、気後れを感じるもとになる、とアジアのひとはみな言う。

言葉ができない、と言っても「通じない」という意味ではない、と言い直したほうがいいかもしれない。
英語が日本では「大得意」だったひとで、英語人の国にやってきて鬱病になってしまうひとはいくらもいる。
気楽に話して、気楽に聞いていられないからで、言葉にはスモールトークでお互いにのんびりした気持ちになる、という重大な機能があるが、それがやれやしない。
なんだか、いつも全力で話しいるようで、実をいうと、聞いているほうも疲れてしまう。

他人事(ひとごと)の気楽さで、きみまでが「そろそろ他国へ移住しないとダメかもしれない」と言い出したときには、寂しい気持ちがした。
買ってきた食べ物をひとつづつチェックして、「安全な食品リスト」を作ったり、ぼくが送った各国大使館のメールを読んで、感想を述べていたりした頃のきみは、言い方が悪いかもしれないが、放射能の蔓延と、それに続く放射性物質の環境化のなかで生き延びてゆくのを楽しんでいるようなところすらあった。
「安全な中国食品」と言ってしまってから、自分で可笑しさに気づいて大笑いしたり、「安全なヴァージョンの久保田」を何ダーズも買い置きしたりして、活き活きとしていた。
だから、きみの「日本人全体がこうなってしまっては、もう、どうにもならない」という文言をみつめて、考え込んでしまいました。

仮に移住をするとして、きみの場合は、英語力もなにも、条件をみたすプログラムはたくさんあるのは、もう手紙にも書いた。
そういう意味では問題はないわけです。
ぼくの助けなどいらないだろう。

どこかの国に移住したときの根源的な問題は、やはり言葉で、ぼくが日本で感じた「目の前のものが目の前にあるような気がしない」感じ、なんとなくすべてがぼんやりしていて、しっかり現実になってくれない感じは、言葉がわかるかどうか、というようなことよりも、むしろ、おおげさにいうと、魂そのものが、その言葉で出来ているかどうか、のほうにかかっているように思える。

現実の問題として、たまたまなのかも知れないが、おとなになってから移住してきて、すっかりその社会になじんでいるのは、その社会のひとと結婚して、子供をつくった女のひとに限られるようにも見える。
ここで面白いのは、たとえば中国語しか出来なくて英語がカタコトというひとでも、子供が英語人になってしまえば、自分も(多分、子供を通して)社会に根をおろす人がいることです。

ぼく自身が5年間11回の日本遠征の最後の年に感じた「ホームシック」は、ほんとうはホームシックではなくて、退屈であったようだ。
モニのフラストレーションが伝染ったのだろう、と当のモニがいうが、案外、そういうところもあるかもしれません。
でも、その「退屈」がどこから来たかというと、やはり日本のものに「馴染めなかったから」かもしれない。
ぼくは、日本のいいところをたくさん知っていると思うが、日本のひとが問題にしない細かいところで、親しみをもてないことがたくさんあった。

フランス人よりもひどいのではないか(^^)と思うほどの立ち小便の癖もそうだが、清潔だが醜い街並み。
通りを歩くひとの表情の乏しさ。
抜け目がなく、せかせかした調子や、不思議な歩き方。
奇妙で、背中がけいれんを起こしそうな音を立てるものを食べるときの習慣。
そういうものには最後まで馴染めなかった。

具体的には、どういうことに違和感を感じるのかは、義理叔父にでも訊かないと判らないが、だとすれば当然、日本の人が英語人の世界に来てもやはりそう思うはずで、英語人、とテキトーなことを書いたが、同じ英語世界のなかでもイギリス人やニュージーランド人で、アメリカに行って住んでみて、あまりの違いにびっくりして帰って来てしまうひとなど、ざらにいます。

いま、こうやって、きみの顔を思う浮かべながら書いていて、日本のひとは日本をもっと大事にすればいいのになあ、とあらためておもう。
ロシア人にとってロシアがかけがえのない土地であるのと同じ意味で、日本人にとっては日本は(文字通り)かけがえのない国であるはずと思う。
むしろ、他国よりもさらにそうであるはずで、外から見ていると、そもそも「日本人」というひとびとは「日本」なしでは成立しない概念であるようなところすらある。
抽象的なことを述べているのではなくて日本語の「松」は、日本のやさしげで風に耐える姿の日本の松でなくては、そもそも成り立たない。
松籟が、西洋の黒々と聳える黒松では、聞こえるはずもない。

福島第一の事故とその後の一連の事象が一種の必然であった、といえば、それは日本のひとは怒るだろうが、長野の山の美しい野原にピクニックに行って、「砂防ダム」という名前の巨大なコンクリートの骸にびっくりしたり、鎌倉の夕暮れの大気の具合によっては屈曲されて江ノ島の右上の高いところに現実よりも遙かに巨きな大きさに見える茜色に染まった富士山が見える海岸に、延々とこれ以上ないほど醜い姿をさらして折り重なっている、いまでは消波性どころか、まったく無用のものであると判っているテトラポッド、水に映った空と現実の空の、二枚の青空のまんなかを歩いているような畦道をぬけたばかりの県道に、赤錆びたまま朽ち果てた、誰も撤去しないパチンコ店やラブホテルの広告塔、道ばたに無造作につみあげられた廃棄されたクルマ、タイヤ、そうしたものは、ぼくにとっては「小さなフクシマ」で、アメリカやオーストラリアの経済人に「頭がわるすぎて、どう言えばいいかわからない」と言われる、ニュージーランド人の頑固さ、カネがないビンボ人の集まりのくせに、新しく見つかった大きな埋蔵量の金鉱も「風景が破壊される」と言って掘らせず、電力が不足気味どころではなくて、年がら年中停電しているのに、風力発電にまで反対してなかなかつくらせない頭の悪さが、よいことであるように思えてくることもある(^^)

ニュージーランド人には「電力がなければ経済も発展しないのがなぜ判らないのか」と言われても「それとこれとは関係が無い」といいはる「滅茶苦茶な理屈」という強力な武器がある。もし、福島第一事故のようなことがあれば、「安全だというなら、おまえが証明しろ」と言って「市民」が暴徒化して官庁を襲撃するに決まっている。
百歩譲って、放射能が安全だと仮に証明されたとしても、「それでも放射能と一緒に住むのは嫌だ」と言うに違いない。
では、どうすればいいのか、と問うと、そんなことはおまえが考えろ、それもいますぐ、とゆってみなで腕組みしてえばって睨み付けるに決まっている。

英語国民のなかでも、ニュージーランド人の大半は、ニュージーランドに移住することによって、収入が少なくとも半減することを覚悟してやってきた。
英語世界におけるニュージーランドのイメージは「ビンボだけどクリーン」

「ボロは着てても国土はグリーン」だからで、現実もあまり変わらない。

むかし、ガキンチョの頃、家に来たプラマーのにーちゃんに、「ニュージーランド人からニュージーランド人自身をみると、どんな国民に見えるの?」と、いま考えると、アホとしか言いようがない質問をしたことがあったが、にーちゃんは、あっさり
「ひとかたまりのヘンな奴の集まり」という。
名答だと、いまでも思っています。

日本語が言語として成り立たなくなりつつあることの大きな原因のひとつは、日本が国土を失いつつあることにある、と、このブログ記事で何度か書いた。
いつか大好きな映画「Sumo Do, Sumo Don’t」の水田のあいだに一本だけあるまっすぐな線路をディーゼルエンジンの列車が走ってゆくシーンに使われた、びっくりするくらい美しい水田の風景を自分の目で見たくて、上田と別所温泉のあいだにある撮影地まで出かけていったことがある。
ところが、発見したものは、カメラが映画の高さと向きにある、ちょうどそのポジションで醜いものがかろうじて映らないだけのことで、現実の風景には、相変わらずのどうしたらこんなふうに醜く出来るのだろうというデザインの看板や、もろもろの日本の「田舎」に付きものの人間の薄汚い欲望の造形がいっぱいあって、ひどくがっかりだった。

田中角栄というひとは、土地を投機の対象に変える精妙な工夫を発明したことで、いまでも日本では人気がある政治家だが、もうあのへんから日本の国土は、その上に乗っかって暮らしている「日本人」自身の手でぼろぼろにされて、跡形もなく壊され、野尻湖のように破壊の余地がなさそうに見える湖さえ、巨大でマヌケな白鳥型の船を浮かべて台無しにして、崇高な気持ちを起こさせる山容の妙高山の麓には、なにをおもったか、安手の色ペンキを塗った観覧車と遊園地をつくり、ものすごいことには、浅間山の群馬側という、どんなに想像力を働かせても壊しようのない風景も、やはりマヌケな観覧車でぶちこわしにする才能にめぐまれた地元人がいたようでした。

そうやって日本人は自分自身を自傷していった。
自分達の、他には代替のない国土を経済制度においても実際の景観においても破壊し、国土とは呼びようのないものに変えていった。
日本は、「奇跡の経済」のリズムに踊るひとびとによって、 少しづつ削り取られて、 少しづつ死んでいった。

きみは福島第一事故を「終わりの始まり」であると思う、と書いている。
耳をすませると、自分の国が、自分の社会が、崩れてゆく音が聞こえてくるようだ、という。
声高に復興を話している人達の遠景には、聞き取りにくい声で、静かに絶望と諦めを述べているひとたちの囁きに似た声が反響している、というガメの話はほんとうだと思う。

ぼくにとっての後退戦は、もう終わりなんだよ、ガメ、と言う。
もう、この洞窟を出て、白い布を棒にくくりつけて出ていく時が来た。
ぼくは日本をせいいっぱい愛しているが、ぼくは「生き延びる」のではない自分の生活が欲しい。ふつうの生活がしたい。
子供がおぼえるべき初めの語彙のグループに「セシウム」があって、道を歩きながら子供が路傍の花をみつけて駆け寄るたびに、危ないと言って叱りつけるような生活に耐えていけない。

ぼくは、どこか、文明なんかないところに行ったっていいんだ。
いつも現実的なきみは「文明がないところに行くと、トイレだって水洗ではないぞ」といって笑うだろうが、でもほんとうに、もう文明なんて信頼したくない。
頭がいいやつがいるところも嫌だな。
ぼくに向かって、放射能がどんななら大丈夫か、とか、正しくこわがらなければダメだとか、そんなことを言うやつには、もううんざり。
あいつらは根底から肝腎なところがバカなんだと思う。

日本に踏みとどまって、日本の困っているひとたちに手を貸すのが「国民の義務」だというが、ぼくには、もうその「国民」が信用できないのさ。
国民、って、ぼくも含むのに、信用できない。
自分が信用できない。
自分が日本人でいることが嫌でたまらない。

それに、もう、とても疲れた。
1年も勇気をふりしぼって後退戦を戦ったのだから、ガメ、ぼくを許してください。
どこか放射能なんて金輪際考えなくていい土地に行って、ぐっすり眠りたい。
「放射脳」だって。
なんて、嫌らしい低劣さに満ちた軽薄な言葉だろう。
こういうくだらない人間の頭から生まれてインターネットで流通した愚劣な言葉に日本語は食いつくされてしまった。

ぼくは、どこか遠い土地で、敗残兵に似た「逃げてきた外国人」になって、誇りを失って、馴染みのない社会を呪いながら死ぬだろう。
いつかきみに「パセティック」という言葉には、「悲壮」という意味はないんだよ、と教えてもらったことがあったが、滑稽というほうの意味なら、いまのぼくは十分にパセティックだと思う。
自分でも判っています。
国土がないのだもの、ぼくには、もう何もない。
安全だ、安全だ、とお題目を唱えながら、SNSの太鼓を叩いて練り歩くひとびとがいるのが自分の故郷だと思うと、ぞっとしないが、もう、どうでもいい。
もう、ほんとうに、どうでもいい。

文面は、読んでいくうちに息が苦しくなってくるような感じのものだったが、最後の便せんに、大きな花の絵、椿の絵が描いてある。
鈍感なぼくにはきみがどんな気持ちで、その奇妙に明るい色調の椿を描いたのか判らないが、それがきみの(言及されなかった)希望の象徴であることを祈っています。

では。

This entry was posted in 福島第一原子力発電所事故. Bookmark the permalink.

2 Responses to 個人のための後退戦マニュアル・その5

  1. じゅん爺 says:

    <日本語が言語として成り立たなくなりつつあることの大きな原因のひとつは、日本が国土を失いつつあることにある>
    西友が中国(黒龍江省)産のコメを売りだして大好評だと。

    終わってしまったよ、ガメ。終わってしまった。
    でも爺には父母を置いて、先祖の墓を置いて、ニポンを後にすることは出来ぬ。

    <魂そのものが、その言葉で出来ているかどうか>
    傷ついた国土と手垢にまみれた言葉でも、捨てるわけにはいかんのだよ。

    外は季節はずれの吹雪です(笑)。

  2. snowpomander says:

    いまここ、2016年3月21日、春分の日の振替休日。バッハの誕生日が3月21日。
    「日本人は自分自身を自傷していった」、ガメさんは信頼を裏切られた人間と自傷行為のことを前にも書いてらした。日本人がいつどのようにして国民であることを悔やむようになるか誰も予想もしないころから既に山河はゴミ捨て場になっていました。
    私の両親は夏休みや冬休みには東京から遠くに往く旅行や登山が好きでした。昭和の30年代に上野発の汽車で旅に出ると、ビルのまばらな街並から低い木造の家並の下町風景、そして田畑のなかの田舎風の駅舎を通過していくと山並みが見えてきました。夜行列車のガラス窓に額を押し付けて夜の帳の中に点在する人家の証を見つけると、こんな遠い所まで人が住んでいるんだと子供心に感嘆した。それは幼い小さな世間から見たささやかな開眼の始まりでした。人家の灯りは白熱電球の人恋しくなるようなほわりとした明るさでした。そしてその景色は旅をするたびにこんな所にまで看板がゴミがになっていきました。
    ガメさんとモニさんが見た世界へと変貌していく凄まじい記憶の旅を今しました。これが国土とそれに拘束された生活への自傷行為だと。自傷行為だったのではなく現在進行形だということ。
    あれから6年目に入った日本はちょうど親に一家心中しようと持ちかけられた子供のように答えを出さないことを選びました。まさかの裏切りに竦んでしまった辛さと身悶えも隠さなくてはならぬ人たちが苦境の果てのリンボの縁で揺れている。
    これは既にガメさんご承知のことどもですが、遺棄された私ことの確認で書いてます。
    周知の皆様もこのご無礼をひらにひらにお許しを。

    私は自分の5年分の声を聞くために、仕掛けられていた「自傷行為」の罠から逃れるためにガメさんの日本語の声を聴いています。私から大きな頸城が外れた1年前でさえ、まだサバイバル仕様で生活を考えていたから。国民呪縛は濃かった。

    幻惑五里霧中の自分が可笑しくなります。
    予定先の欧州の近隣の諸国人々の有り様を自分の身の丈で感じるのは恐いのです。
    東の彼方の地では生涯、言葉はパッチワークだろうし、私のスモールトークにはイラスト付だろう。
    言葉で一生懸命に「私を解って〜」をしないにはちょうどいいかもしれない。
    私の居場所が無いところから始める。
    日本にも居場所が無い、同じなら無垢の眠りの訪れそうなところがいい。

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s