社会と科学者


科学者になるのはいちばん「社会的責任」というようなことを考えたくない種類の人間たちであるのは洋の東西を問わない。
おもしろければ地球の一個くらいなくなってもいいや、という人間がいくらでもいるのであって、大学という組織は、たとえて言えば動物園のようなもので、こういう人間を野放しにすると危ないので、税金や財団から出るオカネで囲いのなかで飼う機能をもっている。

世間のほうは、そういう子供オトナが多い科学者の理屈に耳を貸している寛容をもちあわせないので、通常、「科学者の社会に対する責任」ということをうるさく言う。
生物学者を例にとれば放っておくと、きっとこのくらいなら大丈夫だろう、というつもりで致命的なウイルスを研究所の環境から、こそっと外に逃がしてどうなるかやってみるバカ研究者が出ると困るので、社会の側で監視する。
もうひとつ重要なことは、生物学者が物理的事象について「科学者の意見としては」と前置きして話し出すような詐欺的な言論が生じると困るので、科学者は自分の専門科学を通じてしか話をさせないように厳重な常識の枷をかけてある。

福島第一事故のあと、最も印象的だったのは、日本の科学者の野放図な社会に対する無責任で、「言いたい放題」という表現がすぐに頭に浮かぶ体のものだった。
特に「ニセ科学」を追究するのが趣味の大学教員たちが酷かった。
ニセ科学が存在するためには対極の、拠って立つところの、「真正科学」が存在しなければならないはずで、科学が「真正」なら、それはもう定義上宗教で、自分自身が「正しい事を述べるニセ科学」になりさがっている。
もともとニセ科学の話は科学者の社交的な楽しみで、むかしから息抜きにさまざまなことをやって科学者たちは遊んできた。
たいへん面白い遊びで、幽霊やUFOの仕業とされることを、科学的な方法で再現したり、日本で言えば血液型で性格がわかるのなら、なるはずのない結果を示すことになる調査を学生をギニアピッグにしてやったり、どこの国でも研究者の暇つぶしにもってこいの遊びであることになっている。

だがそれをスペインの宗教裁判じみた査問の茶番にしてしまうのは日本のクソ科学者たちだけで、そういう驕慢が蔑まれもせずに社会を通用してしまうのは要するに社会全体が科学者が日本社会で占めている地位を一種の「自分もその位置にいきたかった」特権として羨望しているからだろう。
理屈としては、なにか行政の側で失策があると、頼まれもしないのに役人の立場に仮想的に立って役人がいいそうなことをことごとく肩をそびやかして言い始めるオチョーシモノたち…経済のためには僅かな国民の犠牲はやむをえない、社会があってこその個人、という例のボランティア説教師たち..と同じことで、案の定、というか、アカデミック村には縁もゆかりもないのに、放射能の害よりも放射能の害を心配するストレスのほうが有害だというもっともらしくすらない奇説を唱えるひとたちは、「物理屋さんは」「生物屋さんは」という符牒じみた言い方をして一瞬の「研究者気分」を満喫したよーでした。

早川由起夫という火山灰のビヘイヴィアを研究する研究者だけが、科学者としてまともな関わり方をした。
不思議な縁、というか、大気中にまき散らされた放射性物質の振る舞いが火山灰と同じだということに気がついたからでした。
こういうときに「幸福」という言葉を使うのはおかしいが、わしは早川由起夫という人は火山学者としては社会と「幸福」な関わり方をしたと思っています。

たとえば菊池誠というひとは、福島第一事故について、明示さえしなければ何を示唆してもダイジョーブだという、この種のひとたち特有の不思議に幼稚な理屈で、いろいろなことをおもいつくままに言い散らしたが、その発言は別に科学者としてのものではなかった。いま見ると専門は「学際計算統計物理学」ということになっているが、自分が研究者として普段のぞいている窓から事故を見つめていたわけではないよーです。

うようよと湧いて出た「自分は科学者だ」という、「おとーさんは部長だ」というのと殆ど変わらない、なんだか訳がわからない立場の「科学者」たちが、堂々積極的に「放射性物質は安全だ」という専門家でも二の足を踏むような大胆な意見を「確定した説」として説いてまわった。

早川由起夫のほうは、自分の専門の分野についての研究者としての信念を述べているだけであって、それがそのまま社会的行動に変わっていった。
むかし共産主義国家の科学者は「どうやって自分の学問を通して革命に貢献できるか」ということを年がら年中うるさく言われて閉口したが、早川由起夫の場合は研究がそのまま社会への貢献になった。

どんな社会でも小児科医というひとびとは話していてぎょっとするくらい反体制的だが、「子供を守るのが仕事」なので、よっぽど権威主義に頭がいかれた研究者でも弱いものを守る職掌上、どんどん反体制的になってゆくもののよーである。
子供だけに限定されなくなって冬のスラムで炊き出しを行って、警察が排除にくると石をぶんなげて抵抗して留置場にぶちこまれたりするのも、世界的に見渡して小児科医が多いよーだ(^^)

見てはいないが、日本でも小児科医達は、原子力発電所事故のあと東北の町をまわって、「政府がなんと言っても信じてはダメですよ。おかあさん、あなたがしっかりしなければ、あなたの子供は他の誰も守ってくれないのよ」と、政府が聞いたらタイホしたくなるよーなことを全員で言い聞かせてまわったそーです。
「具合が少しでも悪くなったら直ぐに町の医者に連れて行って。お医者さんはきっと、『風邪かなんかでしょうね』と安心するように言うでしょうけど、直ぐに私たちの大学に電話してください」
「相手がお医者さんだからって、鵜呑みにしてはダメですよ。お医者さんのほうでも判っていないのだから」

こっちは早川由起夫とは、また科学と社会の接点の持ち方が違うが、やはり自分の専門の学問に押されて社会と関わりをもつ科学者の例だと思います。
よく知られている例では児玉龍彦というひとが、インタビュアにどういう質問をされても、自分の専門に引き戻して、まるで、自己の学問の観察窓からしか世界を見ないぞ、と決意したひとでもあるかのよーに答えていくのが印象に残った。
すっかり有名になった「わたしたちが、やっていることは違法なんです」という言葉には、専門家の社会への関わり方のさまざまな面が示唆されていて、素晴らしいと感じた。

今回の大災害で日本から失われた幻想は多いと思うが、自分達の社会の「エリート」達への信頼の喪失は、これから先、ゆっくりと、でも着実に社会を蝕んでゆくだろうと思います。
あれほどの無責任と破廉恥をみせつけられれば、群れのなかでいちばん頭の悪い羊でも、信頼を捨てるだろう。
ベンキョーが出来る人間を自分達の指導者として頭上に頂く。
自分達は機会があれば、エリートっぽい物言いをマネしてみて、日頃の惨めな生活の鬱憤を晴らす。
いままで日本社会の習慣であった、そういうことどもは、何れも農本主義的な後進国だった頃の日本の名残の影だが、今回、「化けの皮がはがれた」とでも言いたくなる自分達の社会の「エリート」の惨状をみて、どのひとも段々かんがえなおしてゆくだろう。

科学者が社会から甘やかされたあまり自分を社会に保証された「自由人」であると錯覚するのは自分の職業への自覚もなく頭の悪い研究者の通例だが、将来はもう、国立の大学から給料をもらって教員をする、いわば役人にしかすぎないのに、神に対して責任をすら負わない司祭として説教を垂れて歩くような、日本だけに特徴的な鬱陶しい人間たちを見ないですむのが、国全体に環境化した放射能のなかで、これから数十年を苦闘しなければならない日本人の小さな慰めなのかもしれません。

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One Response to 社会と科学者

  1. Akira says:

    ガメさん
    東京東部や東葛地域に、異型リンパ球の乳幼児が多くみられているそうです。それを心配して受診する親をせせら笑う日本のうんこ医者達。。。
    確かに子供には軽度の白血球異常があるでしょう。でも何も決めつけられる材料は無いんですよ。
    オイラはねガメさん、こういう輩達はどうぞガレキの下敷きで逝ってくださいって思います。

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120311-00000003-ryu-oki

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