言語と伝達

世界でただひとり生き残って、自分が死ねばこの宇宙に人間がひとりもいなくなる、という状態で小説を書くひとはいないが、詩を書くひとはいるに違いない。
詩と散文の「魂の定型」になじんで言葉が並んでいるかどうかという重大な違いのほかの、もうひとつの違いが伝達を目的としているかどうかで、詩を書く人は散文を書く人のような直截な伝達を念願しているわけではない。

頭が考えて表現を探して考えているような文章はどだいダメな文章と決まっているが、詩ではもっとダメ、というか、それでは詩になるわけはない。
詩は、手が書いている。手が書いている文字をみつめている頭のほうは、自分の手が書いているものを批評しているだけであると思われる。

言語表現における「批評」というのは主に自分が自分に対して行う。
言語は自律的に自分を表現する能力に恵まれているので、羊の群れを規制するシープドッグではないが、ときどき方向を定めてやらないと言語が自分で行きたい方角のほうへ勝手に歩いていってしまう。
批評能力がないひとは、だから、うまく自分を表現できないが、簡単に言って「自分でなにを言っているかわからない」のだから、あたりまえと言えば言える。

子供のときは、わしがあまりに口を利かない子供だったので、この子は知恵が遅いのではないか、と思う人がおおかった。
「だって、ほんとうじゃない。おにーちゃんを賢いと思うひとなんて、わたし考えられない」という妹のような意見もあるが、却下する。
家でも外でも、たとえばかーちゃんと妹が話すのを聞いていて、話を一生懸命理解して、
あ、じゃ、わしはこー思うな、えーと、こーで、あーだから、こういうふうに言えばいいんだな、と決めて発言しようとすると、もうかーちゃんと妹の話はふたつもみっつも先に行っている。
わしは確かにバカっぽいが、頭の働きがチョーのんびりなだけで、普段の生活には支障があるほどではないよーだ、とおとなたちが気がつくのは、ずっと後のことである。

子供のときの自分の写真をみると、どれも、なんだかつまらなさそーな顔をして、いまにもタメイキをつきそうな顔をして映っている。
ふつー英語ガキは、そーゆーとき、にっかり笑ってみせるものだが、小さいときは著しくサービス精神に欠けていたよーです。

運動も大好きだったが、家にもどれば、年がら年中紙を広げて、あるいはかーちゃんのおさがりのApple SE30の9インチ画面にしがみついて、なにか書いたり、(コンピュータ言語の)ロゴの亀を動かしたり、あるいは鉛筆をにぎりしめて算数をしたり、絵を描いたり、あるいはあるいはあるいは、全然板の長さがあってない傾いた犬小屋を製作して犬に嫌がられたりしていた。

トゥリーハウス、という。
http://tree-house-pictures.blogspot.co.nz/2011/04/backyard-project.html

庭の木の上にでっちあげたガキの私用に供するための家にたてこもって、それをはくと空が飛べるようになるという聖なるパンツを探す旅に出た勇者ガメ・オベールの冒険の物語を書こうと志したこともあったが、一行も書くとだいたい眠くなってねてしまうので無理だということになった。

ところで、ここでヘンなのは、このわしガキという子供は文章を書いても誰かに見せたいとは思わなかったようで、見せるのが恥ずかしい、というのではなくて、なんだか言葉が自分の頭のなかだけで完結しているとでも言うような、子供らしくない、という考え方もありえなくはない、引っ込み思案ぶりを発揮していたことです。

日記を書くのは誰のためか、あるいは日記をなぜ書くのか、というのはむかしからよく知れ渡った問題で、かしこげでもっともらしいがくだらない心理学上の「定説」が、たくさんの心理学者の手で書かれている。

言語は純粋に思考するためにある、というひともいるが、言語はもともとが伝達の道具として開発されたために、他人が内蔵されてしまっているので、もともと「純粋」ではありえない困った構造になっている。
純粋に思惟することができる言語は数学語だけでしょう。
うるさいことをいうと、数学も実は純粋というわけにはいかないが、いまここで述べようとしていることを考えるためくらいならば「純粋」ということにしても十分と思われる。

アイザック・ニュートンは、多分、プリンキピアを他人にみせるつもりはなかったという話、あるいはケンブリッジとオックスフォードのふたつの大学に伝わる伝説については前にも述べたことがある。
1684年の夏、ハレー彗星の名前になっているエドモンド・ハレーがオックスフォードからかつての不逞学者たちが歩いた道をえっちらあっちらおっちらたどってケンブリッジにニュートンを訪ねて、自分の彗星についての仮説を聞いてもらおうと話しかけてみると、ニュートンは、引き出しからチョーうすい紙の束をだしてみせて、ぼく、こういう証明のやりかたでずっと前にきみがいま述べた着想を証明してみたことがあるんだけどね、というのでハレーはぶっくらこいてしまう。
話してみると、ニュートンは彗星の運動の仮説へのアイデアどころか、とっくに宇宙を説明しおわって、知性が、いわば、ひまをこいている状態であったからです。
なにが書いてあるんだか、さっぱり訳の判らない、ヘンタイなみたいなやりかたと表記で当時から知れ渡っていた「ニュートン語」をニュートン自身がふつーの数学者や物理学者にわかるような形に書き直した(といっても、それでも無茶苦茶読みにくいが)のが、いまに伝わる「プリンキピア」(第一巻)です。

よく考えてみると「科学」という言葉の概念や科学者をとりまく環境が現在とはうんとこさ違った当時ですら、ニュートンの態度は異常なことで、ふつーのひとは、せめて自分のまわりの小さなサークルでは、「ぼく宇宙をぜーんぶ説明しちゃったもんね、いえーい」くらいは言いそうなものだが、ニュートンは「偉大」というのもバカバカしいくらい偉大な科学史上最も重大な考えを自分の引き出しにほうりこんで、ほうってあった。
エドモンド・ハレーが自腹をきって私費で出版しなければプリンキピアは日の目を見なかったかもしれなかった。

途中を全部はしょっていうと、アイザック・ニュートンというひとが、広義の言葉による伝達ということを信じていなかったのが判ります。

I did not enter silence, silence captured me.

とDominique de Rouxに述べた、生涯のある時期、「意味のある」言葉を話そうとしなかったエズラ・パウンドは、 Grazia Leviに 
“I spoil everything I touch. I have always blundered. … All my life I believed I knew nothing, yes, knew nothing. And so words became devoid of meaning.” と述べる。
長い間、深い忘却の淵に沈められていたヴィヴァルディの音楽を「発見」して、週末の舞台の上に呼び戻したパウンド(パウンドがいなければ、いまにヴィバルディの音楽は伝えられないで終わったはずである)は、むろん、当時の欧州を代表する詩人で、20世紀に書かれたうちで最も重要な詩のひとつであるT.S.Eliot の「荒地」(The Waste Land)はエズラ・パウンドに捧げられている。

パウンドは「言語発生器」のようなひとで、その巧妙な詩はもちろん、どんな女びとも気が付くとパウンドと一緒に裸でベッドにいたという(^^) 恋語りも、ファシストとして激しく人種隔離とユダヤ人絶滅を呼びかけたラジオでの有名な演説も、パウンドの言葉はまるでそれ自体の肉体をもっていて、足で対象の人間に歩み寄り、手で心をわしづかみにするようにして周りの人間を突き動かした。

パウンドが一生の終わりにたどりついた言語への結論は、「人間と人間が言葉によってわかりあうことはできない」ということだった。
わたしは、沈黙すべきだ。
そこには語るべきものはなにもない。

1955年、W.H.Audenは「We must love one another or die」という、よく知られたテキストを「 We must love one another and die」に変えてしまう。
or die ではウソになってしまうから、という理由だった。

ふたたび言語と相互理解の連関をおおきく端折って言うと、ここにも言語による伝達を懐疑するに至った詩人がいるのです。
細かい上にくだらないことを言うと、このあいだ死んだ詩人の吉本隆明が伝達の道具としての言語を否定したのは、パウンドについても述べた当時の欧州のふたつのおおきな悲惨を極めた戦争への、人間たちの、いわば「絶句」のせいであったと思われる。
言葉を失う、という表現があるが、二大戦の徹底的に人間性を否定する残虐、ただ鉄の餌食に投げ込まれる餌のような人間の死を目撃した当時の欧州人にとっては「言葉」の価値を信じることが容易ではなかった。
吉本隆明は鮎川たち、顔が直截欧州詩人に向けられていた「荒地」の詩人たちの会話から、それを学習したのかもしれません。

わしには使う方の人間の都合は別にして、言語のがわに立てば伝達しているときも思索しているときもやっていることは実は同じなので、伝達を否定することに意味があるとはおもえないが、言葉を使うときには、ほかのことをするときよりも遙かに緊張するのは、言葉というものが他者にも自己にも危険物であって、日本では「わたしは言葉は結局信用できないとおもってますけどね」と述べながらぺらぺらと政治や人間にまくしたてるひとに(日本語インターネット上で)何人もあってびっくりしてしまったが、言葉なんてどーでもいいやと思っているオチョーシモノの口からたまたまとびだした言葉でも、言葉というものには人間が何千年ものあいだ、その語彙と表現に蓄積したすさまじい悪意や、巧妙にひとを破壊する仕組み、あるいは何十年もたってから言われた相手の魂のなかで破裂して死においこむ力を、その当の言葉を使う人間の能力や頭の程度とはまったく別のところに隠しもっている。
言葉を信用できないと思っているのなら、ひとことも話すべきではない。
2chによくみられるような、ただ悪意だけが夜行しているような言語の場を、「あんなものは特別に低能な人間が集まるところだから」と軽視して、ほうっておけばいい、と考えた結果がどうなるかは、そういう言葉の話者の能力によらない力というものに思い当たれば、自明の理で、放置すれば「言論」など望むべくもない社会になってしまう。
言葉がただ無差別な凶器であるような国語をもつ社会は、同時に個々の人間の魂に沈黙を強いる社会になってゆく。
たいして考えもしないで、ただ思いつきでぺらぺらと饒舌な言語空間をもつに至った社会は、かならず巨大で不可逆な沈黙に向かって行進しているのだと思います。

(画像はガリシアのド田舎の小さな村の料理屋。スペインの田舎の町に行くと、こーゆー料理屋がいっぱいあります。すげー、うめーんだよ)

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