「真実」という厄災

真実ほど厄介なものはない。
たくさんの人間を短いあいだ欺すことはできる。
少数の人間を長いあいだ欺すことも可能であるのは現実の歴史が証明している。
だが、たくさんの人間を最後まで欺すのは容易ではない。

遠くの空にかかる月と地球とを見えない力が結びつけている、と考えるのはながいあいだ人間には難しいことだった。
両者を連関させている力が「見えない」からであると思います。
地球が球形である、ということを信じるのも難しいことだった。
どう見ても大地は扁平で、どこまでも広がっていて、ものの形を扱うのに長じている人にしても、仮に水平線や地平線の湾曲が錯覚でないとしても、それが球形の一部ならば、ばかばかしいほど、というよりも、非現実そのもののバカげた大きさの球体を考えなければならなかったからです。
では、その巨大な球体が「浮いて」いるのか?
何に?
どうやって?
あなたには神を畏れる気持ちがないのか?

太陽が地球のまわりをまわっているのは歴史上なんども科学的に証明されてきたし、そうではなくて地球が太陽のまわりをまわっていると述べるのは、科学者や社会的権威者の嘲笑をまねくだけでなく自分の生命にとって危険なことでもあった。

フィレンツエの頑固な男が「それでも地球が太陽のまわりを周回しているのだ」と述べて周囲を呆れさせたのは有名です。
杞憂、という。
空が落ちてくると心配した杞の男に似ている、という文脈でそのひとのことを思い出すのでなければならなかった。

真実は、ゆっくりと、だが確実に姿をあらわしてしまう。
われわれが塩基情報に基づいて産生されたタンパク質の構造体であり、意識が電気信号であり、微小な粒子は通常知覚されるような法則とは途方もなく異なる法則に従った存在であり、どんなに富を傾けても人間は死ぬしかないものだ、とわれわれはもう知っている。
前にも書いたように「人種」という概念そのものが「時間」を把握する感覚に著しく劣る人間の直覚の欠点に基づいた迷妄であり、遺伝子構成上、肌の色や身体の形の違いは実は「日焼け」の程度の違いに生物学的には近いものだ、というような人間の直覚を正面から嘲笑うような「真実」もすでに遺伝子解析の進歩によって判っている。

日本では不思議なことが起こっている。
支配層が挙げて「現在日本を覆っている放射能は人間にとって安全だ」という信念をもっている。
では大学構内や研究所内、あるいは病院のなかで、日本では他国よりも遙かにルースな基準で放射線が扱われてきたかというと、事実は反対で、ほとんど福島第一事故をはさんで一日で放射能が安全であることに宗旨が変わった。

遠くから見ていると菅直人という日本ではいかにも受けなさそうな人柄の首相を事故の当時あたまに戴いていることは事故後数日の風向きとあわせて国ごと破滅させることすら出来た大災厄のなかのささやかな幸運であるように見えた。

日本には理系文系という不思議に厳密な人間に対する線引きがあって、たとえば政府機構のなかでは同じ1種合格でも理系出身者はあくまで「技官」で、文系の人間よりも劣ると見なされる。
その結果、日本では微分方程式ひとつ扱えない「経済学専攻」が現実に存在する。

そういう不自然な、というよりは現代世界の在りようへの適応を欠いた教育体制なので、「文系」出身者が原子力発電所事故へ適切な理解や対応を行うことは、まったく望めない。
当て推量と当の事故を隠蔽したい一心の官僚の耳打ちに従って決定を下すことになるが、バックグラウンドに原子力科学どころか科学の系統だった知識もないのに科学からほとんど遮蔽されて成長した日本の「文系」人に、「当て推量」という、その推量を支える勘などあるわけがない。

ところが菅直人は、あんまりベンキョーはしなかったよーだが(^^)、応用物理科の出身で、原子力技術を理解するに十分なだけの知識はもっているはずだった。
経歴を見ると後で弁理士の資格をとっていて、弁理士という職業は技術に対する一般的な勘を育てるのには良い職業なのでもあります。

現場にヘリコプターを飛ばしたとき、遠くから観ていたわしは、「あっ、やってるんだな」と考えた。
周囲の官僚への不信から自分の目で現場をみなければと判断したに決まっていて、適切な、というよりもやむにやまれぬ判断でしょう。

日本の政府が考えるエネルギー行政の要である原子力発電所が事故を起こして、状況を正直に話すと考えるひとは子供でもいないだろう。
もちろん、都合のわるいことはひた隠しに隠すに違いない。
そのときに隠蔽しようとする官僚よりも技術に対する勘がある首相が、官僚達の胡散臭さ、というべきか、もっと簡捷にゆってしまえばオオウソをかぎ取らないわけはなくて、菅直人というひとはかなり早くから自分が真実の情報から遮断されているのを知っていたに違いない。
だからヘリコプターで現地に飛んだ。
だから東京電力の本社に直接のりこんでいった。

状況は絶望的、と呼んでもよいくらいだったが、巨大な行政組織が迅速に動くことは期待できなくても、日本はゆっくりと放射能を封じ込める政策に動いてゆくように思われた。
その頃の自分のツイッタに書いたことを思い出すと、初めは半年、あとでも一年くらいたてば日本を訪問できる状態になっているだろうから、それまで待たなければ、と書いている。
封じ込めが出来ていなくても、当時の政府の動きならば段々官僚の抵抗が押し切られて、どこにどんなふうに放射性物質が存在しているか「可視化」されていきそうだと判断していたからです。
放射性物質がどこにどの程度の濃度で存在しているかが精確にわかれば食料や瓦礫の拡散禁止とあわせて、放射性物質が安全だと決め込んでいる日本の科学者の意見は尊重してセシウム漬けになったまま放射脳を嗤う悪態をつかせて放っておくとして、放射性物質が危険だと判断するほうは、自分で判断して危険を避けて生活すればよい。

菅直人が、傍から見ていて、まったく理解できない理由、「他人の話を聴かない」
「行政を動かさない」「原子力発電所の再稼働に積極的でない」という理由で権力の座から追放されたときは、だから、びっくりしてしまった。
なんだか麻生首相が漢字が読めないという理由で座をおわれたときと似ておるな、と考えた。

余計なことを書くと、吉田茂は「ぼくは銭形平次しか読まないね」と言って「世論」の袋だたきにあったことがある。
新聞の一面で報道されたそーです(^^)
銭形平次しか読まないような無教養な人間が一国の宰相であっていいわけがない、と言われた。
日本中が呆れかえって吉田首相への侮蔑の言葉が国中にあふれた。
息子の英文学者吉田健一が、吉田茂の愛読書がシェークスピアであったこと、記者の阿諛追従がカンにさわって「銭形平次しか読まん」と言ったこと、記者も吉田茂が古典を中心とした読書家であるのを熟知していたことを述べて憤慨している。

あるいは池田勇人が職を追われたのは「貧乏人は麦を食え」というセンセーショナルな一面ヘッドラインのせいだったが、いまでは池田勇人はそんなことを言わなかったのが判っている。

マスメディアに菅直人が蹴落とされると、野田佳彦というひとが首相になった。
案外ちゃんとやるのかも知れないが、わしは経歴をみてぞっとしました。
わしの偏見は、この経歴のひとにいま起きていることを理解するのは無理だろう、と思わせたからです。

欧州やアメリカは野田首相を歓迎した。
「増税」を約束してくれたからで、あたりまえというか、諸外国にとっては日本という巨大な経済が突然財政破綻して轟沈してしまうことだけが怖い。
巻き込まれてしまうからです。
経済が不振だろーがなんだろーが、いまの状況では準備ができているので、別にそっちは火急の用事ではない。
ダメならダメで、まあいいや、ということになっている。
長期的な経済不振に至っては、あのユーメイな下品言葉「織り込み済み」がぴったりの気分である。
急な財政破綻で船体がまんなかからボッキリ折れて、巨大な沈没の渦巻きに他国を巻き込みながら沈まれるのだけが怖いので、とりあえず増税してくれるのなら別にポンポコリンが首相でも猩々が化けてるんでもなんでもかまわない。
消費税をあげたりすると、もしかすると餓死者がでるかもしれないが、死ぬのは日本人なので欧州人がそれに文句を言う筋合いはない。
まして放射性物質で何年か何十年かして日本人が勝手に死んだところで、当てが外れてお気の毒と思うだけで、自分の国の知ったことではない。

放射能が安全かどうか、ほんとうは死なないんじゃないか、まだ死んでないのにガタガタ言うなんて、だから非科学的なやつは嫌いなんだ、とか喧喧諤諤と激論しているあいだに菅直人の頃と違って政府と支配層は「経済いちばん人命にばん」で方針が統一された。
さんばんはきっと文明堂だろーが、なんだかよくわからない。
なんだかよくわからなくするためにはベクレルとシーベルトを混用したり、混在を利用してベクレルとシーベルトの区別もつかないのか、とまたそこで時間稼ぎをしたり、とにかく相手を泥田に落とし込んで足をとらせて本質的な議論から遠ざけてゆく日本支配層の反対派骨抜きの成道にしたがって、ありとあらゆる攪乱論法が実施された。
自分が賢くおもわれることが何より熱狂的に好きなオチョーシモノたちが、ここでもよろこんで支配層の尻馬に乗って「出典は?」「定義は?」と叫んで回ったのはゆーまでもないことです。

「政府が定めた新しい基準」によって食物は東北諸県からお墨付きつきで流通に乗るようになり瓦礫は順調に全国にばらまかれることになった。

これも前にも書いたが作物とは別にJA間を「産地名つきの袋」が流通しているのはJA農家のひとの常識であるという。
わしは日本の食料生産に興味をもっていろいろなひとに紹介してもらっていた頃に当の農家のひとが笑い話として話すのをフクシマのずっと前に聞いたことがある。
茨城のコシヒカリより魚沼のコシヒカリのほうがずっと高く売れるからです。
それは不正というよりも強い農業生産者同士の連帯感による産地間の助け合いであって長年の習慣になっている。

あるいは長野の千曲川よりも東の土地は土壌が悪いので土を群馬県から買い付ける。
東信という、あの地域の畑は群馬の土なしではたちいかない。
作物だけではなくて、土壌もそうやって全国を流通する。

グレーマーケットやブラックマーケットの住人たちも菅直人の政権の下では危なくて派手にやれないが、経済いちばんで、なるべく放射能の問題で経済の低調を起こすことを避けようとするのが明かな野田首相の政権下では、ダイジョーブそうだと判断して啓蟄の虫どもに似て、もそもそと地下から這い出してくる。

オカミがやる気がなければ規則も法律もないのと同じ、というのは世界に共通した悪党の常識で、そうでなければこのひとたちは生活の資が得られない。
流通を禁じられた作物などは仕入れ値がタダみたいなもので、利益率は膨大なものになる。
その上、どうせ放射性物質の害などたいしたことがないので、良心に咎めるところもなくて、万々歳である。

真実ほど厄介なものはない。
どんなに思い込もうとしても、みなで大丈夫だといいあっても、ダメなものはダメで、
丁度、日本には戦争末期という良い例がある。

いま日本が国を挙げて仮定しているように放射能が安全であれば、そんなに良いことはないが、わしは、ほんとうにそうなるかどうか不安です。
仮に、日本以外のすべての世界が妄信しているように、新しい政権があっさりと決定した「痛みをわかちあう」という方針、中心被災地域に放射性物質を閉じ込める代わりに、それを薄く広く日本中に拡散して「安全なレベル以下」で国民ひとりひとりの身体のなかに蓄積させる形で国土を「除染」する、という考えてみれば1億のちり取りへ箒で掃いた放射性物質をちょっとずつに分散して棄てる、という妙案なような破滅的なような不思議な日本人らしい解決策が、仮に危険であった場合、つまり、国の放射性物質の安全基準が誤っていた場合、どうなるのだろう?
とどうしても考えてしまう。

得意な口調の、なぜ日本で環境化してゆく放射性物質が無害かについての「科学者」の長口舌を聞いたあとで、わしはウクライナ人たちの手紙をあらためて読んでみる。
そこには日本の科学者が聞いたら大笑いするに違いない科学的に誤った現実が並んでいる。
このウクライナ人たちにとっては、1986年に起きたチェルノブイリ事故は、彼等が乳幼児のときに起こり、それと共に育ち、彼等の親の決断がそのあとの一生の明暗を決めた身近どころか、すぐ隣り合わせの出来事だった。

彼等が経験した「名前がつかない症状」は非科学的な経験なので参考にならない。
病院で「なぜ、子供を連れて逃げなかったのだろう。私の責任だ!あの子がこうなってしまったのは、わたしの責任だ!」と泣き崩れる母親は、非科学的な思い込みで自分を責める不幸なひとなので考慮しても仕方がない。
彼等がみた悲惨は、科学の知見に反しているので、到底ここに書くわけにはいかない。
そんなことをして、もし話題にでもなったら、社会を混乱させる風評のもとをなしたことになる。
そんな反社会的なことを、やってみるわけにはいかないだろう。

ほんとうに、この世界には真実ほど厄介なものはないのです。

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