Daily Archives: March 27, 2012

decency

英語でdecencyという。 いまオンラインの研究社 新英和中辞典 http://ejje.weblio.jp/content/decency を開いてみると、 1 「(社会的基準からみて)見苦しくないこと、(言動・服装など)きちんとしていること、礼儀正しさ;品位;体面 とぜんぜんピンとこない日本語の訳が書いてあります。まだるっこしそうに意味がたくさん並んでいて、どれでもうまく言えないでいらいらしているよーに見える辞書の説明があるときは、その単語に該当する単語が自国語に存在しないときで、ここでもそれがあてはまりそーである。 研究社新英和中辞典のまねっこをしながら強いて日本語で表現しようとすれば、きっと、 1 (社会的基準からみて)ひとを見苦しくさせない力をもつなにか、( 人に言動・服装などを)きちんとさせるなにか、人を礼儀正しくさせる力;品位を保たせるなにか;結果として体面というような外見にもあらわれてくる何らかの力 とゆーふーだろーか。 日本語には概念そのものがない言葉だと思います。 もうひとつのcommon sense http://en.wikipedia.org/wiki/Common_sense のほうは、ちゃんと訳語を新しく作ってあって、あるいは半島語でも中国語でもベトナム人の言葉でも同じ単語を使うので仏教語かなにかから転用したのかもしれないが、意味を新装して西洋語のcommon senseをあらわすように定義しなおしてあって、日本語の「常識」がそのままあてはまる言葉であると思う。 このブログでもツイッタでも何回も書いたが、日本語を書いているときは日本人になったつもりで西洋的な考えを翻訳したようなことは書かないことにしている。 日本人になりきるのが本人の楽しみだからです。 でもたまには英語頭が考えたことを日本語に変換して書いてみると、日本への5年間11回に及ぶ大遠征中には、common senseとdecencyということを考えることが多かった。 「陽はまた昇る」 http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD1924/index.html という2002年に公開されて評判がよかったらしい映画を観ると、期待したVHSの具体的技術的な困難の克服については一秒も出てこないが、日本の社会って、こーゆー感じかなあー、とぼんやり想像させるところはいくつも出てくる。 ぶっくらこいてしまうシーンもたくさんあって、最大の「ぶっくら」は主人公の日本ビクターの事業部長が若い社員を自分の部下を思う気持ちのあまりぶんなぐるところがあります。 頭で考えてみてもわかりにくかったが、第一、字幕もないDVDだったので、懸命に頭を日本語頭に調整して観ていて、それでも「ありゃあー、殴っちゃったのね、このひと。すげー」という感想しか起きようがない。クビだなー、当然、事業半ばでタイヘンである、と思って観ていると事業部長が懲戒免職になるどころか、殴られた若い社員は殴られたことによって事業部長の情熱を感じる、という全然わけのわからない展開で、海兵隊(マリーン)でも、こーゆーことはありえねー、という不思議にものすごい物語りの展開でした。 平たく言えば、なんじゃ、こりゃ、と考えた。 ほかに、思いようがないであろう。 おもいきしグーで殴られた若い社員が松下幸之助に事業部長の熱誠について手紙を書いて、それを読んだ松下幸之助が主人公に「あなたは良い社員をつくられた」っちゅーよーな返信を書くが、もう終盤のその頃になると、わしは眼が点になりきっていて、あんまりこーゆーDVDを観ていると眼がちっこくなってヘンな顔になってしまうのではないかと危惧されるほどだった。 社会はdecencyとcommon senseで維持されている。 decencyがなくなれば、社会は一瞬で人間性を失い、社会の側で要求するままに個人の人間性を蹂躙することになる。 common senseが失われた社会では、不毛で詭弁的な修辞にみちた議論が横行し、理屈にさえあえばどんな奇妙な考えでも大手をふって輿論として大通りを行進することになる。 野田首相が「痛みをわかちあう」という西洋ならばツアーリが農奴たちに述べるような言葉を述べたり、閣僚が放射性物質がてんこもりのおにぎりにかぶりついてみせたりというような名状しがたい品の悪さは、映像を観た世界中のひとをびっくりさせた。 失笑、という反応が多かった。 ああいうパフォーマンスを政治家がやろうとする国の社会というものに、どの程度のdecencyがありうるだろーか、ということに直覚的に頭がいってしまうからです。 福島県人を一年間もほとんどホームレスと変わらない生活のなかに閉じ込めて、ほうったらかしにしておいて、将来のエネルギー政策について夢中になって議論する、などという途方もないことが起きるのは、やはり単純に社会が後進的で、社会がもっているべきdecencyというものが欠片もないからだ、と感じられる。 放射能と隣り合わせの生活なんて、たとえ安全だって嫌に決まっている、と誰だっておもうが、 いつのまにかそう思うためには放射能が危険であると証明しなくてはいけないことになっていて、それではまったく話が逆で、そんなに「痛みをわかちあう」というような無茶苦茶なことを言って放射性物質を全国に流通させたければ、放射能が安全であると100%間違いなく証明するのは、むろん放射性物質をぶちまくほうの仕事であるのに、理屈で考えてこの程度の放射能はダイジョーブだ、と焦点が狂った、トンチンカンな議論をして得々としている人間がおおぜいでてきてしまうのはdecencyの欠落に加えてcommon senseもなくなってしまっているからである。 … Continue reading

Posted in 福島第一原子力発電所事故, 日本の社会 | 7 Comments