decency

英語でdecencyという。
いまオンラインの研究社 新英和中辞典
http://ejje.weblio.jp/content/decency

を開いてみると、

1 「(社会的基準からみて)見苦しくないこと、(言動・服装など)きちんとしていること、礼儀正しさ;品位;体面

とぜんぜんピンとこない日本語の訳が書いてあります。まだるっこしそうに意味がたくさん並んでいて、どれでもうまく言えないでいらいらしているよーに見える辞書の説明があるときは、その単語に該当する単語が自国語に存在しないときで、ここでもそれがあてはまりそーである。

研究社新英和中辞典のまねっこをしながら強いて日本語で表現しようとすれば、きっと、

1 (社会的基準からみて)ひとを見苦しくさせない力をもつなにか、( 人に言動・服装などを)きちんとさせるなにか、人を礼儀正しくさせる力;品位を保たせるなにか;結果として体面というような外見にもあらわれてくる何らかの力

とゆーふーだろーか。
日本語には概念そのものがない言葉だと思います。

もうひとつのcommon sense
http://en.wikipedia.org/wiki/Common_sense
のほうは、ちゃんと訳語を新しく作ってあって、あるいは半島語でも中国語でもベトナム人の言葉でも同じ単語を使うので仏教語かなにかから転用したのかもしれないが、意味を新装して西洋語のcommon senseをあらわすように定義しなおしてあって、日本語の「常識」がそのままあてはまる言葉であると思う。

このブログでもツイッタでも何回も書いたが、日本語を書いているときは日本人になったつもりで西洋的な考えを翻訳したようなことは書かないことにしている。
日本人になりきるのが本人の楽しみだからです。
でもたまには英語頭が考えたことを日本語に変換して書いてみると、日本への5年間11回に及ぶ大遠征中には、common senseとdecencyということを考えることが多かった。

「陽はまた昇る」
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD1924/index.html
という2002年に公開されて評判がよかったらしい映画を観ると、期待したVHSの具体的技術的な困難の克服については一秒も出てこないが、日本の社会って、こーゆー感じかなあー、とぼんやり想像させるところはいくつも出てくる。
ぶっくらこいてしまうシーンもたくさんあって、最大の「ぶっくら」は主人公の日本ビクターの事業部長が若い社員を自分の部下を思う気持ちのあまりぶんなぐるところがあります。

頭で考えてみてもわかりにくかったが、第一、字幕もないDVDだったので、懸命に頭を日本語頭に調整して観ていて、それでも「ありゃあー、殴っちゃったのね、このひと。すげー」という感想しか起きようがない。クビだなー、当然、事業半ばでタイヘンである、と思って観ていると事業部長が懲戒免職になるどころか、殴られた若い社員は殴られたことによって事業部長の情熱を感じる、という全然わけのわからない展開で、海兵隊(マリーン)でも、こーゆーことはありえねー、という不思議にものすごい物語りの展開でした。
平たく言えば、なんじゃ、こりゃ、と考えた。
ほかに、思いようがないであろう。

おもいきしグーで殴られた若い社員が松下幸之助に事業部長の熱誠について手紙を書いて、それを読んだ松下幸之助が主人公に「あなたは良い社員をつくられた」っちゅーよーな返信を書くが、もう終盤のその頃になると、わしは眼が点になりきっていて、あんまりこーゆーDVDを観ていると眼がちっこくなってヘンな顔になってしまうのではないかと危惧されるほどだった。

社会はdecencyとcommon senseで維持されている。
decencyがなくなれば、社会は一瞬で人間性を失い、社会の側で要求するままに個人の人間性を蹂躙することになる。
common senseが失われた社会では、不毛で詭弁的な修辞にみちた議論が横行し、理屈にさえあえばどんな奇妙な考えでも大手をふって輿論として大通りを行進することになる。

野田首相が「痛みをわかちあう」という西洋ならばツアーリが農奴たちに述べるような言葉を述べたり、閣僚が放射性物質がてんこもりのおにぎりにかぶりついてみせたりというような名状しがたい品の悪さは、映像を観た世界中のひとをびっくりさせた。

失笑、という反応が多かった。
ああいうパフォーマンスを政治家がやろうとする国の社会というものに、どの程度のdecencyがありうるだろーか、ということに直覚的に頭がいってしまうからです。

福島県人を一年間もほとんどホームレスと変わらない生活のなかに閉じ込めて、ほうったらかしにしておいて、将来のエネルギー政策について夢中になって議論する、などという途方もないことが起きるのは、やはり単純に社会が後進的で、社会がもっているべきdecencyというものが欠片もないからだ、と感じられる。

放射能と隣り合わせの生活なんて、たとえ安全だって嫌に決まっている、と誰だっておもうが、
いつのまにかそう思うためには放射能が危険であると証明しなくてはいけないことになっていて、それではまったく話が逆で、そんなに「痛みをわかちあう」というような無茶苦茶なことを言って放射性物質を全国に流通させたければ、放射能が安全であると100%間違いなく証明するのは、むろん放射性物質をぶちまくほうの仕事であるのに、理屈で考えてこの程度の放射能はダイジョーブだ、と焦点が狂った、トンチンカンな議論をして得々としている人間がおおぜいでてきてしまうのはdecencyの欠落に加えてcommon senseもなくなってしまっているからである。

日本のなかで、なんとか日本人たちを騙しおおせて、殴られれば感謝し、自分が日本人として生きていられることを地にひれ伏してお代官様に感謝してみせなければならないようなチョーが五つくらい続くようなチョーX5ダサイ社会を再建して経済が立て直せるというのが日本人支配層の目論見だが、見落としていることがひとつあって、japan fukushima nuclear cover-up lies というようなテキトーに並べた検索語でぐるぐる先生に訊くと、ずらずらずらとはてしなく出てくる世界から浸みだしてくるような日本社会への不信を、ほんとうに日本は生き延びていくことができるだろーか。

原子力発電ということに話を限れば、原子力発電というのは産業としてテプコならテプコで独立してやっていける事業ではなくて、というのは現に世界の原発でそれだけで事業として採算がとれている発電所はひとつもなくて、どうしても公衆社会からのサポートを必要とする。違う言い方をすれば巨額の税金をそそぎこまなければ原子力発電は成り立たない事業で、昨日ツイッタで引用したインデペンデントの記事の表現を借りれば、

「The nuclear industry is terrified of losing public support, for the simple reason that it has always needed public money to fund it. It is not, even now, a sector which can stand on its own two feet economically. So when it finds it has a problem, its first reaction is to hide it, and its second reaction is to tell lies about it. But the truth comes out in the end, and then the public trusts the industry even less than it might have done, had it admitted the problem.」
というその通りで、せっかくグリーンエネルギーだというので長く苦しかった厳しい世論との格闘のあとで税金をかき集めるパラダイスが現出したと有頂天になっていたのに、トンマな東電のおかげで利益が逃げてしまった原発ロビーとしては、もういちど原発がダイジョーブという口実をつくりなおさなければならないところに追い込まれてしまった。

福島の原発に東電が利便性を優先してアホなデザインを採用したせいで崩壊されて困りきった原子力発電業界が次第に形成しつつあるのは、「日本の社会的な後進性が原因で原子力発電所の保守がちゃんとやれなかった」というチェルノブルのときと同じ印象操作です。
あれは、日本人だからマヌケなことになったので、手順を遵守する、われわれの社会ではああいう事故など起きるわけがない、というチェルノブルとまるで同じ論理を適用しようとしている。

子供のときに熱狂したマンガやアニメの力は強烈で、いまの40代から下の西洋人は欧州、北米、というような場所を問わず普通に日本は「やや毛色が違うが自分達と同じ文明国」と認識してきた。マンガとアニメが西洋語の世界で生きているガキどもに理屈よりももっと深層に近いところで擦り込んだのは日本人のcommon senseの堅牢さであり、ジブリのアニメに端的に表れているようなdecencyへの豊かな感覚だったと思います。

皮肉にも、おにぎりにかぶりつく閣僚の映像はマンガとアニメが長いあいだをかけて築きあげた「日本という高度な文明」の印象を木っ端微塵に打ち砕いてしまった。
しかも、だんだんに伝えられてくる日本の科学者たちの「放射脳人」たちへの冷笑と嘲笑は、日本人全体の科学というものへの本質的な理解の欠落を強く印象づけつつある。
日本の科学者が放射能をこわがることの非科学性を言い募って科学者でない日本人を嘲笑するたびに、英語世界の科学人のほうは、科学と宗教を混同する科学者たちを観て、日本人て、そんなにものの考えが非科学的だったのか、とぶっくらこいて眼をまるくしている。
毎回ぶっくらこいて眼をまんまるに見開いているので、もしかすると、「陽はまた昇る」のような映画を観て眼を点にするのと交互に行ったほうが美容上はいいかもしれません。
さらに社会全体で「この程度の放射能は有害ではありえない」と言い出したことによって、日本という国では社会全体のcommon senseがまるごと欠落しているのではないか、というおおきな疑惑をもつことになった。

またまた英語でチョー・スマンと思うが、英語ではundermineという。
ものが拠って立っている足下の地面を地面の下で掘り崩して、全体がぐわらぐわらと崩壊する方向にいってしまう、というような意味です。
日本の支配層は、内側をだましおおそうと夢中になるあまり、自分の滑稽で厚顔な姿が、周りからまる見えであることを忘れている。
やっていることは日本という社会の全体をundermineしているので、ここまでアニメやホンダが長い時間をかけて築き上げてきた「高度な社会」というイメージを自分の「放射能ダイジョビ」「いまの苦労を一致団結と真心で乗り切りましょう」というよーな、大時代、よりは、悪い冗談じみた発言で倒壊の淵に追い込んでしまっている。
日本の政府はウソのかたまり、社会はそのウソのチューンを信じ込んで踊る気の毒な人の集まり、というイメージが、これから先どれほど日本人ひとりひとりの生活を惨めにしてゆくかということを考えると、他人事ながらゲンナリした気持ちになります。
日本のひとにとっては自分達から見た北朝鮮の社会を思い浮かべるのが、自分の社会へ向けられている他国人の視線の意味を理解するには最も手っ取り早いかもしれません。

日本でいま起きていることにこのおっさんにも関心を持ってもらうべ、と考えて昨日話したオーストラリア人は、日本の政府の姿を評して、駝鳥が頭を砂の中にもぐらせているという、ありふれた英語の表現を使った。
駝鳥は、自分の姿を隠そうとして頭を砂の中に突っ込むが、無論、頭以外の駝鳥の巨大な身体は丸見えなので、アホな隠蔽のことを述べるときにはふつーに使う表現です。

どんな社会にも後進性があるのに決まっているが、日本の支配層は、わざわざ自分の社会の後進性にあたる部分を世界に向かって強調してみせている。

なんのために? 
と支配層の側に立って想像を巡らすと、そうしなければ、たとえば経済はたちいかなくなってしまう。
正直なことを述べて難民が大発生したら、どーすんだ。
東北人が大挙して押しかけて補償金むしりとられたら財政が崩壊してしまう。
海外移住者が増えたら日本の外交のおおきな負い目になる。
第一、十年後の電気を供給する方法がなくなる。
ちょっと考えただけで理由になりそーなことがいっぱいあります。

自分達がマヌケであったことによって生じた「絶対に起きてはいけない事態」が起きてしまったことの代価を、そのまま自分の国の個々の人間に押しつけるためにオチョーシモノを操縦し、サディスト科学者を放し飼いにして昨日まで危なかった放射性物質を一日で安全なことにしてしまい、あまつさえ「痛みをわかちあう」という居たたまれないくらい品の悪いべとべとした言葉を使って、東北に偏在する放射性物質を日本中に薄く広くばらまいて、いきなりひとりひとりの人間の身体を放射性物質のコンテナとして使おうと考える厚かましさは、自分の国を構成する国民のひとりひとりを徹底的にバカで愚かだと前提していることによって救いがたいほど後進的であり、自分達が戦後65年間に積み上げてきたことを短期間で破壊してしまったことによって反社会的であると考える。
decencyという言葉に訳語が見つからなくて困惑しているような風情の英和辞書を見ながら、日本の社会から欠け落ちていて、その欠落によっていままで社会を軋らせてきた空虚の部分が、到頭、当の社会全体を破壊しつつある光景を眼の前にして、こんなこともあるのか、とボーゼンとしてしまうのです。

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7 Responses to decency

  1. nat629 says:

    私は昔 ”Decency”という言葉を日本語で理解するのに苦労しました。結局「ちゃんとして周りに認められるような雰囲気を醸し出す」というように理解したのですが、その観点からいくと日本にはそうでない事象が多くて何度も閉口させられました。
    ガメさんの文章は日本語脳で書かれているようですが、時折出てくる英語的な発想や単語の使い方、また単語に関する説明がとても面白く勉強になります。”Undermine”についても実感をもって覚えることができました。

  2. 猫屋 says:

    decency というのは仏語ではdécence でありますが、今アタクシの生きている国でも、まったくもってdecency 皆無の大統領が幅を利かせております。どこもかしこも困ったことでございます:ヤッテランネーヨ。
    さて、decency の日本語訳で適切なのは“礼節”ではないかと思います。
    また、仏語のデソンスには“倫理的”意味合いも含まれておると思うのですが、意味的に近い言葉としては(dignité/dignity)ってのもありますな。
    どもでした。

  3. Ksyzr says:

    やっぱりガメ・オベールさんの書くことはおもしろいや。最近 twitter で書くことはかなり厳しいことが多くて、単純には同意できないこともあったけど、日本の外から日本がどう見えるかっていう例としてはすげー分かる。僕がいま日常に接してるのは英語人じゃなくてドイツ語人で、「ジャーマン・アンクスト」とかいう言葉もあるらしいが、これはまた英語人と比べて一層とんでもなく神経質な連中で、となりにフランスがあるのに、とにかく原発を全廃したりする。去年の3月はこの人たちのアンクストに取り込まれて、もう僕には帰る国がなくなるかと思ってた。それでドイツメディアも日本国民について最初は「忍耐と秩序の人々」とか持ち上げてたけどだんだん「これただの従順な盲目の奴隷だろ意味分からん」っていう扱いになっていってすごく気分が悪かった。ガメさんが書くことを読んでても、将来他国より高いガンの発症率を示しながら外国人になんと言われようともじりじりとした後退のうちに日本列島にしがみついて生きてる異様におとなしい人たちの姿が眼に浮かぶようになってきて気分が悪い。

    しかし『陽はまた昇る』は本当に評判よかったのかな?こんな陳腐な作品を作った奴がクビにもならず興行収入もまずまず入ってのうのうと映画を作りつづけてるのは別の問題として、これ見て感動するようなやつは少なくとも若者には滅多にいないんじゃないか?殴って殴られて感動、なんて映画見せたって「なにこの昭和」と笑いものになるだけだよ。そういうの見て「やっぱり日本は特殊だ」とか思わんでほしい。「体育会系」っていう言葉は知ってると思うけど、そういう日本のダメな古い遺産はもう誰も継承する気がない。そういうのと縁のない若者で、老人には「集団の規律を乱す」とか嫌われるような連中がテキトーにやって、それで生きていけるような未来なら、今見えてるよりはまだ明るいと思う。

  4. 返信をなまけてしまった。
    ご返信が盛大に遅れて失礼しました。
    さぼりすぎで、各個に分けて返信すると、わしコメントだらけになって異様なので、
    今回は、この一個のコメントですべて答えさせてくだされませい。

    *じゅん爺(「時計の終わりに」}

    >ダンスもそうだよん。

    そうだんべな。身体というのは何によらず、するっと出るタイミングを与えてやらないとうまく動かないみたいですのい。
    どっかには筋原繊維の収縮の仕組みとかから科学的に説明してある本もありそーです。

    *Akiraさま、(「社会と科学者)

    >東京東部や東葛地域に、異型リンパ球の乳幼児が多くみられているそうです。それを心配して受診する親をせせら笑う日本のうんこ医者達。。。
確かに子供には軽度の白血球異常があるでしょう。でも何も決めつけられる材料は無いんですよ。

    Akiraさんに限らず、日本にいる医者友達からは同じような事例を言ってくる。
    どう見ても異常なのに日本の風土のせいで口にできない苛立ちが伝わってきます。
    科学的方法とは結局死者の無念を晴らすためだけにしか有効でなくて、人間が実際に死ぬまでは何の役にもたたないのか、とがっかりしてしまう。

    *じゅん爺 (「個人のために後退戦マニュアル・その5」)

    >終わってしまったよ、ガメ。終わってしまった。

    試合の流れを見るのに熟達したベテラン選手にとって負けると決まった試合でも若いルーキーにとってはただ夢中で戦う試合のひとつで変わらない。
    日本の人もそろそろルーキーたちに試合を任せるときに来たのかも知れませんのい。

    せっかく汚染の少ない富山にいるのだから、おいしいものでも食べて、元気だしてけろ。

    *kuriji39どの、(「絆」)

    >30分のドキュメンタリー

    一年経っても福島人への支援そのものがまだ始まっていないことに驚きました。
    なんという冷たさだろう。
    福島人は耐えに耐えて、ここまで来た。
    それなのに細野豪志というような人は自分を主人公としたヒロイズムに酔ったようなことばかり言っていて、なんだか無茶苦茶だなあー、と感じました。

    *Akiraさん(「絆」)

    >オイラの同僚の福島県人は相変わらず爆心地特攻を繰り返している。ガイガー片手に南相馬を闊歩する。計測し、怒る、シャッターを切っている。メールが来る。メールからも高い線量が溢れているようだ。

    医師は使命感が強い人がなる職業だから、いけるところまでいってしまう。
    もっと自分を大切にしないと自分が死んでしまってはどうしようもないではないか、と言ってあげてください。

    >外国の方は震災も然る事ながら、如何に我が国の政府が国民にベラぼうな嘘をついているか

    Ksyzrさんが、「ドイツでもそうだ」とゆっているように、外国人たちは、日本で起きていることが「国民的美徳」などではないことに気が付いてきている。
    福島第一事故のあとに起きていることで日本と世界とのあいだに大きな決定的な溝ができようとしている。
    そのことから受ける日本人の被害は「風評被害」というような薄ペラな言葉がふきとんでしまうほど深刻なものかも知れない、と思います。

    *ぽんぴい、(「ニンテンドーの冷や水」)

    ぽんぴい、このあいだのコメントごめんね。
    ワードプレスが勝手にゴミ箱に放り込んじゃってたんだよ。
    見つけて載せといたけど、すげー遅れてもうた。
    ほんまにごめん。

    >GotyeのSomebody That I Used To Knowとlukaのjust be friendは似てるね。

    こんな曲聞くんだ。
    わしはまたぽんぴいはぴんからトリオだと思っておった。
    意外性のあるジジイだな。

    *じゅらどん (「ニンテンドーの冷や水」)

    >2000年くらいまでは「洋ゲー」ってマニアのもの扱いだったけど、最近は普通にヒットが出て、普通のゲーム好きがたくさん遊んでいる気がします。

    「洋ゲー」はAppleII互換機が秋葉原で盛大に売られていた頃は、割とふつーに日本でも遊ばれていたそーです。そのあともマッキントッシュユーザは洋ゲーだったみたい。

    >「洋ゲー専門フロア」や専門店みたいのってまだあるのかな。

    下火のよーですのい。
    日本はオモロイ国で「洋モノ」は一瞬よさそーでも主流にはならない。
    いま洋ゲーを買う人がいるのは光栄とかがスカなゲームを1万円とかのどんでもねー金額で売る、というチョー無神経ぶりを発揮しているからだと思います。
    売れているのはエロゲばかりだっただ、最近はモンハンとか売れておると聞いてる。
    わし自身は日本のゲームをいちどやってみたが、あまりに忍耐を強要されるのでスタートまでも行き着かなかった(^^)
    なんか国力の整備の第1段で棄ててしまいました。

    >Wizardryなつかしい。家庭用ハードで遊びまくったもんです。英語のWikipediaにそんな項目があるなんて知りませんでした。だいたい合ってると思います(笑

    記事書いている途中でみつけて驚きました。
    でも、そこから全く別な「誤訳版Wizardry」が独自に進化していったところが日本ぽくてオモシロイ。
    映画や小説では、もっと同じ展開の例がありますのい。

    >そもそも顔も分からないはずなのに不思議です。

    わしの頭はジュラさんは猫だと思ってるよーだ(^^)

    >「男性は自分で体を張らなくてすむからいいなぁ」

    世界はもともと女びとだけがいて、男のほうはただの観念にしかすぎないかもしれませんのい。
    女びとの体調がいつもはっきりしないことだけが、この世界のリアリティなのかも知れない、とおもうことがよくあります。

    *Akiraさん、

    >Félicitations pour la naissance de votre 。。。

    でへへへへへへ。

    >やはりこの写真はそうだったんですね!

    ちゃいまんねん。
    わしにはこのベッド(大人用のやつね)小さすぎる。

    nat629さん、(「decency」)

    >私は昔 ”Decency”という言葉を日本語で理解するのに苦労しました。

    日本語には「馴染まない」言葉なんですのい。
    発想そのものが日本語の語彙にはないと思いました。

    >時折出てくる英語的な発想や単語の使い方

    手抜き、のときですのい(^^)

    猫屋さま、(「decency」)

    > decency というのは仏語ではdécence でありますが、

    décence と decency は(音がフランス語のほうが無茶苦茶かっこええのを別にして)同じ単語なのに、
    現実の社会の違いによって具体的に意味するものがまる違う、というオモロイ例と思います。
    言葉と思想の関係の最高にオモシロイところでんな。

    >decency 皆無の大統領が幅を利かせております。

    サルコジがいまやっていることは、サッチャーが再選があぶなくなったときにやったことと同じですが、
    エスニックのことで右翼よりも右に出る、というのはポピュリスト的賭博のなかでも最も危険な賭ですのい。見ていてはらはらしてしまいます。

    >decency の日本語訳で適切なのは“礼節”ではないか

    文明の止揚の度合いが一定の高みに達しているかどうか、というような意味合いとわしは思います。
    「垂直度」と言い直してもいいかもしれません。
    どうにしろたいへん西洋的な概念と思いますが、さっきツイッタでミナさんが「武士道のことだろう」というので、ミナは突拍子もないことを言うなあーと笑いかけたのですが、しかししかしかかし。
    考えてみると、日本人は明治初頭のむかしは、decency があるべき空虚に武士道を充填して文明人として敬意をかちえたのかもしれません。
    気が付いて、へえ、と思いました。
    ラフカディオ・ハーンの物語には、明らかに八雲がdecency と感じ取った日本人の事績の例がいくつもある。だからベストセラーになったのだ、と考えました。

    Ksyzrどん、

    >最近 twitter で書くことはかなり厳しいことが多くて

    そーお?
    なんだかどんどん日本があさっての方向に歩いていくので、焦って、どーしたんだ、おい、という気持ちがある。そのせーかしら?

    >「ジャーマン・アンクスト」とかいう言葉もあるらしいが

    German AngstにGerman assertiveness!
    日本のひとの口から聞くと、なんか面白いね。

    >となりにフランスがあるのに、とにかく原発を全廃したりする

    意味ねーじゃん、とわしが友達の皮肉屋たちも述べておりました。

    >ドイツメディアも日本国民について最初は「忍耐と秩序の人々」とか持ち上げてたけどだんだん「これただの従順な盲目の奴隷だろ意味分からん」っていう扱いになっていってすごく気分が悪かった。

    わしの記憶ではドイツ人たちはかなり早く(6月)くらいから、かなり激しい言葉で日本人に対して不信を述べていた。コモ湖にはカネモチのドイツ人やスイス人がたくさんいますが、これらのひとたちと食事をするたびに、ここに到底書けないような言葉で怒っていた。
    わしは逆に、自分の国のことを話しているよーなドイツ人たちの激しい怒り方に「親切なひとびとだのおー」と感心しました。
    連合王国人に較べると、だいぶん人間が温かいよーだ。

    >しかし『陽はまた昇る』は本当に評判よかったのかな?

    いま見ると、2002年6月の封切り時に興行成績9位、とかそのくらいですのい
    http://eiga.com/ranking/20020618/

    >これ見て感動するようなやつは少なくとも若者には滅多にいないんじゃないか?殴って殴られて感動、なんて映画見せたって「なにこの昭和」と笑いものになるだけだよ

    そーゆー言葉を聞きたくて書いてみたのね。

    >老人には「集団の規律を乱す」とか嫌われるような連中がテキトーにやって、それで生きていけるような未来なら、今見えてるよりはまだ明るいと思う。

    ほんにほんに。

  5. たろさ says:

    先週友人と上野にボストン美術館の日本ブランチが来てるってんで見に行ったら鳴り物入りの蕭白や若冲、平治物語絵巻に限らずいい作品がたくさんあってびっくり。

    その中に仏画も多くあって、掛け軸用の表装がされたものが軸とぴろぴろだけ外してそのまま額縁に入っていて、ちょっとヘン、と感じると同時にこれはこれでモダンでいいじゃんと思ったっす。

    ああなりたいもんだで。

  6. kochasaeng says:

    Decencyか。良識なんていう実体のよくわかんない言葉じゃダメだね。体面というんじゃ他人の目が主になってるかんじで、やっぱり違う。タイ語のเหมาะสมの方が近いのかなとも思うけど、はたして少し違う。
    Decencyって言葉に対応する日本語が思いつかないってことは、おれか日本語にとってDecencyが必要なかったってことだ。何か他の料簡で足りてたんでしょうね。
    美意識とか。
    むかしは、あった。「粋だね」って。
    ゴテゴテの満艦飾で、あれもこれも着飾って、リチャード・ヴァーグナーの曲みたいに金管が、ぱんぱかぱーんって鳴り響くのも派手でカッチョいいけど、ここはぐっと渋く水墨画みたいに、あれこれある要素の中から「これだね」ってのを、ひとすくい取り出して、さらっと線を引く。黒一色っていう制約なんか物ともせずに「な。黒って言っても薄いのから濃いのまで無限なんだよ。で、この線はここだ。他のどこでもない。ここに引く」って、いぶし銀の世界です。オトナなかんじ。上品と言ってもいい。べつに日本や中国の専売特許じゃなくて、どこの国にもある。マイルズ・デヴィスなんかもそうだしパウル・クレーもそうだ。
    カッコイイは正義とまでは言わないけど、カッコイイほうがいい。だってカッコイイじゃん。ブザマなことすると、ヒトサマだけでなく自分に申し訳がたたないでしょ。カッコワルイのはダメだ。
    世の中が平和で豊かだと、美意識だけでも世間は何とかなるかもしれない。そういう世の中はいいよね。でも、世の中平和で物分りのいい奴ばっかりではないから、強盗殺人なんてものが後を絶たない。そういう現場で「あっ。ダメだなー。カッコわるいよ、それ。つうか痛くて死んでんじゃん。あまつさえ強奪なんて浅ましいにも程があるだろ」って諌めても、「うっせー」って返り討ちにされるのがオチだ。斬られながら、「肩から袈裟懸けに斬られた方がカッコ良かったかな。痛てぇ~、って泣き叫んだらカッコ悪いよな。つうか血が大量に出てんだけど、もうダメかな。これって犬死にの美学?」って倒れたんじゃ、美意識とか言う以前にばかです。ばかは概ねカッコワルイ。
    非常時に、美意識では対応できないんじゃないか。
    てことは、行動原理になりえないじゃん。放射能に対するカッコいい対処の仕方って考えはヘンだものね。むかしの侍なんか、生き方に関わる選択にも美意識が発動してたと思うんだけどね。まあ武士道には「放射能を浴びそうになったら、逃げるが勝ちでござる」とかいう教えはないもんな。かっこいい逃げ方を追求した「美逃流」とか、ないねえ。「美は逃げることと見つけたり」ってかっこいいな。おれ、家元になっちゃおうかな。
    今は命懸けでカッコ良さを追求する人なんていないってことなのかね。それとも美意識は二者択一には有効だけど、三択以上の複雑な選択肢が広がると無効になっちゃうの?
    仏教も、あんまり行動原理にならない。親鸞を引っ張ってくるまでもなく、仏教って何でもアリでしょ。非道な事しても「信心さえあれば」カルマだね、で済まされちゃう。ひょっとして、信心なくてもカルマなんじゃないかって思うけど、それは内緒だ。一応「酒飲んじゃダメだぞ」とか「ウソつくなよ」みたいな規範はあるけど、破戒しても「カルマだ。しゃあねえ」で済むんじゃ聞き分けの悪い奴は守んないよね、そんな戒律。「今日もカルマだ。酒がうまい」って。
    去年の地震のあと、タイに素早く逃げて、ヨメと一緒に寺参りに行ったんだけどね。ヨメは海の向こうで起こった大地震よりも「ウチのひとが早く戻ってきて、ありがとう」くらいにバチあたりなことを思いながら合掌してるわけです。このときのことは、よく憶えてる。おれは金ピカの派手な仏像見て、「何だよ。みんな平等なんじゃなかったのかよ」って思ったんだ。あの津波のどこが平等なんだ。放射能だってそうだ。距離に反比例する平等なんて、あんのかよ。
    仏像は変わらず薄く笑ってるだけでね。なんか使えねえ奴だなって。
    「あ。そうか」あとになってから思い出した。「平等なんかじゃないんだったね」
    そんなの、中国や日本の大乗仏教が勝手に平等だって言ってるだけで、ブッダはそんな事ひとことも言ってなかった。ブッダの教えに忠実なテラワーダ仏教じゃ、人の平等なんて説いてない。似たようなこと言ってても、それは階級のある平等だ。平社員は皆平等。課長も平等。でも平社員と課長じゃ待遇は違うのよ。そんなのあたりまえだ。おれにも社長と同じ給料をくださいって社員はクビだもの。親切な人なら「バーカ。そんなら自分で会社起こして好きなだけ給料取れ」って言ってくれる。生まれただけで平等なんて虫のいいハナシがあるもんか。平等なのは、だれにも死は訪れるってことだけです。信心なんて関係ない。
    平等どころか仏教なんて、人のうち半数いる女性をないがしろつうか、差別してた。修行の邪魔だって人間扱いすらしてない。若いうちに煩悩の限りを尽くしておいて、「悟っちゃった。おれ、輪廻から解脱したから」って、勝手な奴です。でも面白い。「解説しよう。解脱の方法を。頑張った人だけ解脱できるよ。でもいくら頑張ってもバカは解脱できないけどな」って、身も蓋もないようだけど、まあ確かにそうで、親切だ。
    で、解脱して何か良い事でもあるのかって言うと、「無」の世界に行ける。なんだ、そりゃ。頑張って頑張って、その末に、なぁ~んもないんかい。
    この、しょうもない世界が嫌で自殺したとしても、魂は生まれ変わって、またしょうもない世界を生きることになる「輪廻」が仏教(小乗って言っちゃダメなんだった。上座部だ)の前提だ。その輪廻を絶ち切って、な~んもない世界に行こうじゃないか、って、どんだけツライ世界に生きてたんだろうね。嬉しくない等価交換だよ。
    大変な修行までして無の世界に行くより、素敵な連れ合い見つけて、この世界をパラダイスにしちゃうほうが、なんぼかラクかと思うんだけどね。よっぽどツラかったんだろう。
    だから、お寺で「もうニンゲンでいるのはイヤだ。こんなのツラすぎる。犬に生まれ変わってもツラいんだとしたら、どうか仏様、あなたの許までお連れください」と祈っているのが本当の仏教徒です。おれは今の世界が楽しくてしょうがないんで、仏教徒になるつもりも資格もないんだよ。

    まあそんなわけで、おれには自慢できるような立派な行動原理がない。だからヨメの言うことには聞き分けを良くすることにしてる。だいたい正しいもん。良かったよ、結婚して。

    あ。またぜんぜん関係ない話になっちゃったね。

  7. snowpomander says:

    2016年3月27日いまここの追伸:「壊れた英語について」で端折りました内容はここにございます。
    数年を経て、目出度く妻子持ち継続のガメさんの成熟度が窺われ、嬉しゅうございます。

コメントをここに書いてね書いてね

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