幸福ということ

あと1年で30歳なのかあー、と考えると、なんだか面白い気がする。
自分が年をとってゆく、ということくらいヘンなことはない。
人間の肉体は人間の意識の精細度が把握できる限界値よりもずっとゆっくり老いるので、人間はいつも「ある日、気が付くと年をとっている」というふうにしか年をとることができないが、精神のほうはもっと機能の低下が機能の変化と一緒に起きるので、両者がからみあって、ますます判りにくい、ということもある。

子供のときから、「将来は○○になりたい」というようなことを考えたことはなかった。
周りのオトナにも訊かれたことがなかったからだと思う。
考えてみればまだ十分に情報が頭のなかに出揃っていないチビガキに「オトナになったら何になりたいか?」と訊くくらいバカな質問もないので、オトナの暇つぶしあるいは悪趣味にしかすぎない。
オトナどもに分別があった、というべきなのかもしれません。

砂漠の英雄サラディンやジュリアス・シーザー、アレクサンダーのようなひとびとやもう少し大きくなるとガロアやディラン・トマスというようなひとびとに惹かれたが、ただ惹かれるだけで、特に劇的な一生を送ろうと思ったこともなかった。

昼間は運動ばかりしていて、朝と夜は机に向かっていることが多かった。
朝まで数学の問題を考えていて、いつのまにか外が明るくなって、鳥たちの声が聞こえる、というのが好きであって、夜更かしをしてもいいときには、いつでもそうしていた。
夢中になると時間は一瞬に過ぎて、楽しい時間ほどあっというまなのは不公平であると考えた。

新しい本よりも古い本のほうが圧倒的に好きだったので、ガリア戦記やプルターク英雄伝、ホメロスやヘロドトスを夢中になって読むことも多かった。
面白い本を手に取ると読み出してすぐにわかる。
わかると、なるべくゆっくり読もうとする。
わしの読書の欠点は「速読」をしなくても読むスピードが他人の何倍、というくらい速いことで、酒をがぶ飲みするひとと同じで燃費がわるい、というか、大量の本が必要になってしまう。
もったいないので、ゆーっくり、ゆーっくり読みます。
ところが夢中になりだすと、いつのまにかものすごいスピードで読み出していてあっというまに終わってしまう。
もう一回読んだり、途中の面白かったところを改めて拾い読みしたりすると、いやしいひとが皿に残ったソースを指ですくってなめているようで、われながらいじましい感じがしたりしたものだった。

先祖から親に受け継がれた財産で食べなくてもよいことになったのは良かった。
「発明」で稼いだときに、かーちゃんととーちゃんはガメらしいとゆって大笑いして祝ってくれたが、妹は、わたしはおにーちゃんは拾ったロットーが当たるとか、そーゆー稼ぎ方をすると思っていたがやや外れた、というようなことを言った。
そのうちに自分のもっている数学の知識がリスクの軽減やその他内緒なことに多少は役に立ちそうなことがわかったので投資ということに興味をもちはじめた。
カネモーケというような下品なことをくだくだしく述べても仕方がないが、オカネを稼ぐというのはいまの価値の日本円で言えば初めの1億円を稼ぐのが大変でゼロから始めて(余剰)1億円という金額が出来るまでの幸運と努力の総量は1億円から10億円に至る道程の4倍くらいであると感じる。
10億円から100億円は、もうちょっと楽である。
オカネの世界では何をするにも「適切なかたまり」という考えが大切で、たとえば住居用の不動産投資、というようなことを考えると、ニュージーランドではオークランドのような密集地の4つのアパートが1タイトル(タイトルは、多分日本の「一筆」というのと同じ)のブロックで70万ドル(5000万円)くらいから始まる。
4タイトルに分かれていれば90万ドル(6300万円)くらいからと思う。
20万ドルというかたまりで不動産投資を考えるのはポケットに30円しかないのにおいしいチョコをスーパーの棚に見いだそうとしているのと同じで、全然なくはないだろうが、無駄であることのほうが遙かに多い。
もっとアグレッシブな株式への投資のほうが安全であるはずです。

年齢とは直截関係がないが、世界の経済がどんどんどんどん危なっかしくなってゆく最中だったので、アグレッシブな投資から利益がうまれるたびにチョーコンサーバティブなほうへオカネを移し替えて行く事が多くなっていった。
気が付いたひともいたが、このブログ記事を見ると、あちこちうろうろしてばかりいるのには投資上はそういう意味があった。
いまニュージーランドとブログ記事には移動しても、なあああーんとなくごまかしているので出てこないがオーストラリアにいることが多いのも、下品な理由がないとはいえない。

家の、日本にはない、不思議な開け方をするドアを開けて、なだらかな傾斜になっている芝を横切ってモニがそこで本を読むのが好きなガゼボまで歩いていく。
手には紅茶とビスケットが載ったトレイをもっておる。
記事には書きにくいが、オトナになってしまったので、わしの家にも両親の家と同じに家の手伝いをするひとが増えた。
子供が生まれる前後からは、小さな会社みたい、と自分で考えて可笑しくなることがあります。
でもこの家は、こういう事態になったときのために考慮して改造してあるのでたとえば台所もふたつある。
小さいがチョー機能的な台所のほうはモニとわしが自分たちでデザインしたもので、使いやすい。

ビスケットをひと口たべたモニが眼をまるくして「うまいな、これ」という。
ガメが、自分でつくったのか?
そーですねん、と、わし。
小麦粉を変えてみたのね。
あと、秋になって気温が下がって空気が乾いてきたのもカンケーがあるよーだ。

人間が幸福になるには、いろいろなやりかたがあるに違いない。
別にオカネがなくても幸福になれるのも、あたりまえだと思います。
いろいろな幸福のなかでも自分がいちばんのんびりした気持ちになれるものを選ぶ。
仕事に生き甲斐をみいだす、というのはよくあるが、結婚したとすると相手の女びとや男は、往々にして結婚相手の生き甲斐のために自分の時間の質の低下を忍耐しなければならなくなるので、結婚という価値を求めているカップルではたいてい離婚になるよーだ。
仕事が中心の幸福は家庭とは両立しないので、結婚・家庭という伝統的な枠組みの外側で新意匠の「幸福な生活」を設計しなければならないところが、ちょっとたいへんであるよーにみえる。

なんどもこのブログ記事に出てくるアイザック・ニュートンのように、おもわず無茶苦茶な大事業を達成してしまうひともいれば、ウインストン・チャーチルのように子供の頃の兵隊人形を使った戦争ごっこがそのまま生業になって自分の国をおもわず救ってしまうひともいる。

どのような場合でも起きて寝るまでのあいだにいちばん自分にとって良さそうな事をやっていった毎日の結果が連続していって「おもわず」達成してしまっただけで、宇宙の謎と解き明かすべく物理学者になるニュートンや故国の英雄となるべく同級生をプールにつきおとして校長に叱責されたチャーチルがいたわけではないよーです。

ロスアラモスの頃からしばらく科学者たちのあいだには「核反応軍事利用の研究を禁止すべきだ」という声があった。
核科学の研究自体の禁止を主張するひともあったようでした。
あるいは遺伝子工学の研究を危惧するひとはたくさんいる。
わし自身、遺伝子工学のほうは、すげーあぶねーよな、と横目でみながら思っている。

「だが、手は動く」という。
日本語で、やむにやまれぬ、という。
頭が計画し企画しているわけではなくて、手が数式を書き、図になったメモをつくり、
実験を繰り返す。
いまは科学者の時間的競争も盛んなので、わけもわからないまま研究だけがものすごい勢いですすんでゆく。

定向進化的、というべきか、人間の知恵はそうやってほぼ自動的に爆走してどこかへ人間の世界を運んでいこうとしている。

面白いのは 定向進化的な人類の躍進に寄与するひとは独身のひとが多いことで結婚しないで一生を終えるひとが異様な人間とみなされた時代ですらかなりの数のひとが独身です。もちろん子供がいるひとはもっと少ない。

彼等の「幸福」は自分の一生のなかで次第に明瞭な形をとっていって、やがては彼等の全存在をひっつかまえて引きずっていったひとつのおおきなベクトルのなかで生きることで、通常の人間の幸福とは異なっていた。

大きなベクトルをもった人生は若い頭にもわかりやすいので、その種類の人生を「価値の高い人生だ」と考えるに至るのはわかりやすいが、やはり皮肉な言い方をすれば子供の頭が考えることだと言えなくもない。

人間の幸福はもっと遙かに多様で、あるひとにとっては天井から札束がどさどさと降ってくるのが幸福であり、ほかのひとにとっては楕円曲線が例外なくモジュラーであることを発見することが息が止まるほどの幸福である。

黒澤明の「生きる」の主人公は達成が幸福であると考えて泥沼のような役所仕事の悪意のなかをキチガイじみた勇気で推し進んでスラムの悪臭を放つ汚水だまりの上に小公園をつくり、その小さな達成に満足して死ぬ。
小津安二郎の「お茶漬けの味」の夫婦は、結婚以来いちども得られなかった夫婦の一体の感情を、家事など縁がなかった妻が夜中の台所でやっと見つけ出したお櫃から装った冷たいご飯にお茶をかけた夜食をふたりで食べることによって「幸福」というものを発見する。
大きな幸福や小さな幸福、というようなこともなくて、そこには人間それぞれの幸福があるだけのことである。

ところで30歳をすぎるようなオトナにとっては自分が幸福になることは、おおげさではなくて社会への義務とみなすこともできる。
自分が幸福でなければ他人を幸福にすることなど出来るはずがないからで、理屈としては飛行機の緊急時に子供と一緒の乗客はまず自分が酸素マスクを着用しなければいけないと厳しく定められているのとまったく同じだと思います。

「幸福など求めない。そんなものは、なくてもよい」というのは、だから、子供の理屈であると思う。

幸福という得体のしれないものにたどりつかなければならないのは、要するに自分が幸福になることだけが社会への貢献の第一歩であるからで、どうあがいても人間が社会との作用と反作用のなかでしか生活していけない以上、言葉の響きがどんなに嫌でも自分を幸福にするのは人間の最低の義務であると思われる。

30歳かあー、とわしはため息をつく。
年齢がすすむと可能性は減少する。
ほんとうはモニがいれば、それだけで、きゃっ きゃっ きゃっと喜びたくなるくらい嬉しくて幸福だが、わしがそれだけでへらへらしているとモニが不幸であるような気がする(^^)

また次の部屋へドアを開けて、新しい部屋へはいってゆかねばならないが、今度はどんなドアを選べばいいかなあー、と思うのです。

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