Monthly Archives: April 2012

天使の糸

1 大叔父というひとはギョーカイでは名をしられた科学者であって、温厚なじーちゃんということになっているが、ほんまはチョー軽薄な酔っ払いじーさんです。 年がら年中知らない国の知らない町で社交生活を強要されて冗談にならない鬱病の危険にさらされてきた大叔母や、たびたび学校が変わるので何度も不良になりかけた息子や娘たち(日本語で大叔父の子供がわしからみると何になるのかわからん)を尻目に、というか、家族の迷惑を全然省りみずに世界中を転々とする研究者生活を送って家族崩壊のリスクを抱えたまま自分だけ研究の快楽に耽ってくらした科学ジャンキーのごとき人である。 特技は突然眠ることで、いま大声をあげて笑っていたかと思うと次の瞬間がくっと死人のように頭を垂れて熟睡している。 1時間すかすかと眠ってから、いきなりまた眼を覚ましてさっきまでの話の続きをする。 むかしは、わしにはこれが面白くて仕方がなくて、なんで、ねえ、D(大叔父の名前でんねん)、なんで?と聞くと、マジメな顔で、「ぼくの大脳はひとより活動が活発なので休養が必要なんだよねー」と、いつもの軽薄な調子でこたえておった。 この軽薄さがこのじーちゃんの特徴でもあって、このあいだはひーばーちゃんの見舞いに行ったのはいいが、あんまり誰がなんだかよくわかんなくなっているひーばーちゃんに、 「ちゃんと行儀良くしないと、おとーさんがお尻をおもいきりペンペンしちゃいますぞ」と、全然笑えない冗談を述べたら、ひーばーちゃんが絶叫して怖がって、緊急ボタンを押して病院中大騒ぎになり警察に連れて行かれる、という騒ぎになったりした。 国籍が年がら年中ころころ変わっている人で、もみあげを生やしたりしていた若い頃はアメリカ人がかっこいいと考えてアメリカのパスポートをもっていたが、そのうちにクロコダイルダンディを見たんだかメル・ギブスンのバカっぽい魅力に惹かれたんだかなんだかでオーストラリア人になったりしていたが大叔母はそういうくだらない趣味に付き合う気はなかったのでイギリスパスポートのままで、よく考えてみると、オーストラリアにいるときには結婚していることになってないのではないかと疑われたりした。 とにかくスーパー軽薄なひとで、わしとはたいへんウマがあって昔から仲良しだが、親戚一般のあいだでは近寄らないほうが良いとされているひとです。 このひとが、チビガキであったころから、わしに言い聞かせたのは、「一生というスポーツは一勝すればいいだけのスポーツなんだよ、ガメ」ということであった。 「一回、勝てばいい。あとは全部負けでいいのさ」 2 自分よりも若い友達、という恐ろしげなものが出来たせいで、「わしはこれからどんな仕事をすればいいんじゃ」というよーなこわい質問をされることがある。 仏陀が相手を見て法を説かねばならぬ、とゆっているので、相手によってわしの返答は変わります。 決して、そのときの気分でテキトーに答えているわけではない。 (そこのきみ、なにを笑っておる) だいたいいつも、銀行強盗をやってみたらどーだ、とか、5ドルくれればロト必勝法6つの数字を当てる古代イスラエルの秘法を教えて進ぜよう、パワーボールも必要な場合は12ドルね、とゆってマジメに相談に乗っているが、聞いていると、こ奴の人生観は根本から間違っておる、と思う事がある。 どーゆーふーに間違っているかというと、まず、職業に一生を過ごす上での保障を求める、という態度で将来を考える変人58号がいる。 医者になりたい、という。 なんで? 人体のようにぐじゃぐじゃなものに埋もれて一生を過ごすなんて生ゴミ屋さんみたいではないか、第一あれは微分できんぞ、きみ、と思うが、本人は至ってマジメで 「生活が安定する」という、医者が聞いたら頭のてっぺんがパカッと割れて噴火するか、椅子から転げ落ちて大笑いしそうな返答をしたりする。 日本のひとの場合なら同じ理由で公務員になりそうなひともいそーな気がする。 ちょっと考えてみれば判るが、こういう職業の選択は根本から誤っていてしかも自分の一生にとって危険である。 だって、医者も上級公務員も死ぬほど忙しい仕事ですぜ、旦那。 あの気違いじみてバスター・キートン的な忙しさを乗り切っていけるのは、一文にもならない使命感や学問上の変態じみた、しかし熱狂的な興味があるからで、「生活の保障」というような松竹梅に分かれた生活保護の松を注文したつもりの職業選択で乗り切れるようなものではないことを失念している。 そもそもその職業に適性がない人間が医師になったりすると、多忙とストレスのあまり早死にするであろう。 第一、偏差値が高かったので医者になっちゃいましたあー、というような臨床医に診断される患者は哀れというか絶体絶命というかで、周囲にとっても迷惑なだけです。 日本なども、こーゆー「頭がよさげな人生を送りたい」というだけで医者になったアンポンタンが多いので患者が塗炭の苦しみにあうというが、自他共に崩壊しているのは、そもそも医師の側で職業選択に誤解があったせいがおおきいと疑われる。 親の明かなあるいは隠蔽された願望にこたえて職業を選んでしまうことも同じで、そーゆー選択をすると、自分で自分の喉首を締め上げてゆくような一生にならざるをえず、途中で縊死するか投身か、あるいは必死の意志で生き延びた今際の際に、「おれの人生はいったいなんだったんだ」と虚しくつぶやいて死ぬことになりそーである。 むかないことはやらない、というのは職業選択の第一歩であると思われる。 3 生活の安定をめざして職業を選択すると人生そのものが崩壊する、ということを念頭においた次には、人間の一生においていくどか否応なく迫ってくる勝負のいちいちに勝っていては身がもたない、ということがある。 そんなことをしていたら、日本の社会で言えば、小学校の頃から週末は塾に通って、中学試験のためにカブトムシやマリオブラザースと熱狂してすごせたかもしれない後々の一生の全基礎をなす取り止めなかるべきガキ時代が参考書の紙魚になってしまうやもしれず、まして大学入学の年齢ともなれば、全然役に立たないのが保証された英語や、作者もついに知ることなく死んだ「作者が言いたかったこと」や、コンピュータのほうがずっと速く書いてくれるパラメータの軌跡で、ほんとうはすべこい肌の女のこたちの甘酸っぱい匂いやオランダでボロ中古車を買ってモスクワまでドライブするアホな楽しみに惑溺できたかも知れず、より重大なことは、余りまくった時間のなかでイリアドに耽溺したり、あるいはn(>5)次元の世界を現実に「見る」修験に明け暮れたり出来たかもしれない豊穣で馥郁たる長大なひとつらなりの時間を細切れにして、午前は英語午後は物理、夜になったら数学というようなサラリーマンの未決箱のなかの生活のように分断された惨めな時間を過ごして、自分の時間の肉体をすっかり殺してしまい、時間というものの伸びやかさにすっかり見放されて、コチコチと鳴って意識を脅かすだけの、脅迫的な時間しか残りの一生に与えられなくなってしまうということがある。 そうやって時間が切り刻まれた屍体のようなものになってしまえば、一生などはそこでもうおしまいで、二度と生きた姿で戻ってきてくれるものではないだろう。 ところが悪いことばかりではなくて、人間の一生には、いったいどういう理屈や仕掛けによるのか、どんな無茶苦茶なすごしかたをしていても、すっかり諦めて顔を背けてさえいなければ、いつのまにか目の前に、ゆらゆらと、ひらひらと、微かに、頼りなげに、蜘蛛の糸がたれてくることがある。 なんじゃ、こりゃ、と手にとってみれば意外やそれは強靱な糸で、試みによじ登ってみれば、これはなんとしょう、自分の身体と魂の全体を支えてまだ切れずに、しかも本人が筋力に訴えてのぼらなくても、誰かが引っ張りあげてくれるもののよーである。 世界で初めてのジェット戦闘機Me262を操縦したアドルフ・ガーランドは「まるで天使が後ろから押してくれているよーだ」とゆったが、うまく自分にあった蜘蛛の糸をみつけたときの印象はそういうようなもので、なんだかすいすいと、あっというまに遠くまで行ってしまうものである。 国語(英語)力にいちじるしく不足した大叔父が述べた「一勝」というものは、実はそういう内実のものであると思われて、普段、アメリカで馴染んだベースボールの試合にばかり熱中しているので、神聖な蜘蛛の糸もグランドスラムで勝ったワールドシリーズの最終戦、というようなチョー下品な表現に頭のなかで置き換わってしまったのだと思われる。 その蜘蛛の糸は、どういう状況であらわれるもので、どうやってそれを待つべきか、ということを是非きみに伝えねばならないが、わしはこれを朝ご飯を食べないまま書き出していて、もうお腹がすいて、目の前をステーキサンドイッチが流し目をしていったりきたりするようになってきたので、続きは今度にします。 … Continue reading

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未来の記憶

1 サイパンには「バンザイ・クリフ」という断崖がある。 当時はもう従軍カメラマン用にはカラーフィルム(Kodachrome)があったので、気分が悪くなるほどの精細さで、乳飲み子を抱え、ためらい、遙か下の岩礁をこわごわと覗き込みながら、しかし希望というものをすべて剥ぎ取られてしまったひとの小さな、力のない跳躍の仕方で、三々五々、飛び降りて死んでゆく母親たちの姿が撮られている。 場面が変わると、両手両足をひらき、生命という尊厳が去ったあとの、あの屍体特有の残忍なだらしなさを与えられた姿で、女たちや子供達が波間に浮かんでいる。 あるいは沖縄では、日系人たちが日本語で何度も出てくるように呼びかけ、GIたちの舌打ちや「クレージーだぜ、こいつら」と言う声が聞こえるなかで、洞窟の暗がりでがたがた震えていた沖縄人たちを火炎放射器が灰に変えてゆく。 なんとか助かった沖縄人たちの物語は驚くべきもので、食料は日本兵達がみんな略奪して、自分達の食べ物であるのに兵隊がみな食べてしまって、わたしたちは飢えていた、 投降しようとすると、容赦なく殺された、という。 やせさらばえて、歩く事もできず、米兵におぶわれてかろうじてキャンプに向かうひとびとは口々に日本の軍隊と日本を呪い、私の兄は日本軍に殺された、私は妹が連れ去られた、と述べる。 日本の政府が「絆」といういかにも政府が政策決定する際の情緒のレベルにみあった、遠くから演歌のべったりした旋律が聞こえてきそうな言葉を選んで発表したとき、わしの頭の奥で明滅した映像は、要するにそういうものだった。 あとで、KAT-TUNという日本では大層な人気があるらしいグループが、「政府の『絆』という言葉にインスパイアされて」CHAINという名前の日本全国ツアーを始めたというニュースを観たときには、英語が苦手なせいで思わず「絆」がほんとうに意味しているところを述べてしまったツアーのテーマを決めたこの芸能事務所の無意識な事態把握の精確さに敬意を感じてしまった。 もっと簡単にいうと、可笑しさのあまりひきつけを起こしそうになって、呼吸がとまるかと考えた。 まことに日本政府は、「絆」と述べたときに日本国民を、その、これから汚染を万遍なく国土に塗り込めていこうとしている国土に、日本人特有のオカミの側に立って国民が考えたがる不思議な考え方と情緒とを両輪にした社会的な同調への巨大な圧力の鎖で縛り付け、死なばもろとも、運命の鎖で、雁字搦めにしてみせたわけでした。 日本の歴史は、社会がこの段階に達したときには、もう誰が何を言っても日本という国と、それが国家と寸分違わぬ形に整形した社会とは、あらかじめ政府が定めたコース、国民の大部分も状況を理解しているしていないに関わらず同意してすすむ一本のまっすぐな道から外れることはない、と教えている。 歴史を遡っていって、この前には歴史のどこで同様の事態が起こったか眺めてゆくと、それは70年前で、日本人が国民を挙げて公理のように信じていたことを思い出してみると、 日本人は選ばれた民であり、半島人はやや劣るが改良すればなんとか人間になりうる劣等民族であり、中国人は犬や牛と同じ存在で人間とみなすほどのものではないと頭から信じ込んでいて、そんな自明なことに異議を唱える人間は、そもそも目の前の現に見えている現実が理解できない愚かものであるとされた。 その愚かさの根源は何から来ているかというと、西洋人の妄想である「自由主義」の腐敗に精神を冒されているからで、いまの流行の言い方をすれば「自由脳」なのだった。 義理叔父の母方のひーばーちゃんは、上海事変が起きたとき、普段は穏和な物腰で、言葉使いも育ちにみあった穏やかなものだったのに、「吐き捨てるように」という表現そのままの言い方で「こんなくだらない博奕に手をだして、今上陛下は明治様に申し訳ないと思わないのだろうか」という意味のことを言って義理叔父ばーちゃんを驚かせたそーである。 鎌倉の二階堂に住んでいたヒョーロンカの母親も、こちらは戦争にボロ負けこいたときに、同じようなことを言ったそうだから、どんなときでも、正気を保っていたひともいたわけだが、全体には「鬼畜米英」「八紘一宇」と自分で自分を煽った言葉に酔っ払ってしまって、GDPに較べて畸形的に突出した軍事出費をもった中進国は、占領したフランスとチェコを合わせれば連合王国とソヴィエトロシアの合計に僅かに劣る程度のGDPをもつに至ったドイツの強大さを頼みに、 当時ですら誰の目にも集団自殺でしかなかった戦争に乗り出してゆく。 なぜ、そのような前のめりな戦争への参加を急いだかというと「バスに乗り遅れるな」という、アメリカが産業構造の転換を企画して始めた「原発建設輸出ブーム」に乗り遅れては経済への影響がおおきすぎる、という焦慮がよく顕れた当時の標語でわかる、ただでさえ失調した経済挽回の焦りだというのが最もわかりやすい解釈であると思う。 その結果は、「難攻不落の要塞で、ここが陥落したら戦争は敗北で決定だが、そんなことは起こるわけがない」と太鼓判を押されたサイパンの陥落は「起きるはずがない」どころか、天皇陛下ですらうんざりしたことには、たった3週間で完全放棄せざるを得なくなり、放棄を決すれば、「サイパンなどは戦略的にたいした意味はない」という手のひらを返したような説明になったところは、福島第一事故のメルトダウンを巡る経過ととてもよく似ている。 それまで観念ででっちあげた安全地帯に生きて、「ダイジョーブだダイジョーブだ」と自分に言い聞かせるように国民にも述べていた日本政府は、アメリカ軍がフィリピンに上陸を企図するにおよんで、社会的に国家からの圧力に対して最も抵抗できない若い人間に眼をつける。 零戦に爆弾を積んで将来払いもどしを出来る見込みすらない年金を支払わせるのみならず原子炉冷却の最前線に追いやり一方では抵抗力がないどころか状況さえ把握する力がない子供を福島県に縛り付けることによってなんとか世界中に「事態は終熄した」「日本は再び安全な国になった」という印象をつくろうとした。 富永恭次という有名な将軍などは、特攻隊が毎度毎度出撃するたびに、「勇敢に死ね。私も後から続くぞ」と演説しながら、本人は厳重な放射線防護服に身を固めて、こちらは政府の言う事を鵜呑みにして平服の地元のひとびとと握手して、その余りに露骨な「公共観念の欠落」「モラルの喪失」恥知らずなウソつきぶりを見せつけて、世界中に感銘を与えることになった。 しかも、いざ敗勢が明らかになると九九式襲撃機に乗ってさっさと台湾に遁走してしまう。 ところで例の防護服を着固めた人気者の将軍と平服のひとびとの写真が世界中に出回ったときに、さまざまな文化圏のひとたちを気味悪がらせたのは、なによりも、マヌケなSFの宇宙飛行士じみた放射線防護服を着た将軍と握手する無防備に放射線に曝されている平服のひとびとが笑顔であることで、その明るい笑顔は、写真をみるひとびとを心底ぞっとさせたものだった。 誰も、若いひとびとに寝不足を心配されこそすれ、防護服の将軍に非難の目を向けるものはいなかったので、戦後長くたってから富永恭次は畳の上で平安のうちに幸福に死んだが、本来彼の肩にあったはずの大きな責任は、いまだに福島の学校の校庭で線量計を胸につけて遊ぶガキどもの小さな肩に移行してしまっている。 日本的な光景、であると思います。 2 死ぬ者は死に、生き延びる者は生き延びた。 「フクシマ当時の科学の知見では予測できない結果だった」と学者たちは述べて、新聞は「国民を挙げて、人命軽視の仮説に従った過去を反省すべきだ」と社説のなかで書いた。 汚染のなかで踏みとどまった国民は、その勇気をたたえられて、国外に去った国民は一種の敵前逃亡者のように言われることになった。 新しい内閣の発案で「東北震災復興の碑」がつくられることになり、イサム・ノグチのデザインがいったん採用されたが、あのひとは原発事故のときにアメリカに逃げたひとだ、という批判をするひとがあって、丹下健三があらためてデザインすることになった。 「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれた碑文には、海外の知識人から「原発爆発後の対応を誤って汚染を蔓延させる原因を作ったのは普通の日本人一般ではない。決定した当時の内閣と東京電力の手は、まだ清められてはいない」という批判があったが、浜井首相の「誰のせいでこうなったかの詮索ではなく、こんなひどいことは人間の世界にふたたびあってはならないということのほうが大事である」という見解が国民の支持を得て、国民全体が一致して「賢く汚染と共に生きる」プログラムのもとで、日本人全員が一致して国の再建に邁進することになった。 教室では放射性物質が低量であれば被害はなくて安全であるという記述を墨で黒々と塗りつぶした教科書がひろげられ、教壇の上の教師たちは、昨日までの「放射能を理由にお友達と一緒の行動をとれないなんて先生には許せません」と言っていたのとは打って変わって 「今日からは有害な放射性物質をいかにして避けるかに留意して暮らさなければいけません」と言って、ませた生徒たちの失笑をかった。 しかし、全体には、たいした変化はなかったのかもしれません。 天皇が神様から人間に変わり、人間としての責任はいっさいとらなかったが、愛嬌をふりまいて「国民に愛される天皇」になり、枝野さん、と「さん」づけですら呼ばれ、放射性物質は元のように危険な物質に戻り、取扱資格に定められた量の放射線量よりも遙かに高い線量がどこにもここにも存在して、それでいいことに政府が基準を変えてしまったせいで資格の意味がなくなってしまう、という喜劇にしても笑えない理由で使わなくなっていた泉さんの放射性物質取扱資格も、また(基準が元の戻ったので)資格として機能するようになった。 緒方竹虎、灘尾弘𠮷、石田礼助、小林一三、というような公職を追放されていたひとびとも、追放を解除されて徐々に社会の中枢にもどっていった。 「次世代原発」の建設の槌音がひびきわたり、フクシマの頃に、盛んに「放射脳」「危険デマ学者」と述べて原発投資家に強力した「言論人」たちは、いくらかのおこぼえれに預かった。 … Continue reading

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いつか、どこかで

その「種族」は国籍を超え、言語を超え、人種も性別も超えて、世界中に分布している。 特別な名前は付いていないが、お互いにそれと知っている。 きみには「現実を忘れてしまう」という愉快な癖がある。 今日こそははやくベッドに行くぞ、と決意して机の前に座ったのに、またいつのまにか午前3時になっている。 明日は7時に出かけなければならないのに、どうすればいいか、悩み始める。 いっそ眠らないででかければどうか。 それとも、さぼっちゃえば。 そうやって世間のほうの時間を考えるのが面倒くさくなって、きみは机の上に広がった、ノートブックや本や、いくつもウインドウが開いているコンピュータの画面に帰ってゆく。 よく考えてみれば、そんなことばかりやっているのは「破滅型」の人間というべきで、実際きみは社会的には不適格者だと思うが、それでもきみが檻のなかで過ごさないですんでいるのは、抜群の知能と、パズルみたいなものなら熟練の鍵職人のように、あっというまに解いてしまう不思議な能力のせいである。 子供の時から自然と身についた「処世の知恵」は、試験という試験、選別という選別には嫌がらずつきあって、そこで楽勝してみせることだった。 試験の回数がつみあがってゆくことによって、きみに判ってきたのは、あのくだらない選別にも良いところがあって、まず多少とも調子っぱずれのきみに対して世の中のひとはあんまり文句を言わなくなる。 もうひとつは、学校が上の段階に至るに順って、似たもの同士、というかきみと同じように頭がいかれたやつが同じ教室のなかに増えて行く。 70年代を通じて、アメリカ合衆国の学校でのイジメの理由の1位は「脇の下が臭いこと」で、次が「数学ができること」だった。 なんだか冗談みたいだが、数学ができるせいで自殺しなければならなくなった高校生もいた。 その頃のアメリカでは公立高校みたいなところで数学が出来るのは「せこいやつ」でクールでない、ということだった。 きみの種族の一部には、数学が(大きい声では言わないにしても)レモンメレンゲよりずっと好きだという訳のわからない人間がいる。 当時は、そういう人間は息を殺すようにして、ボストン郊外のケンブリッジという町にあるMITという巨大なキチガイ部落をめざしてベンキョーした。 そこにさえ辿り着けば、フットボールと女の子たちを「やって」しまう以外に才能なんてなにもないバカタレに胸ぐらをつかまれてネットにおしつけられたり、悪罵に我慢できなくなって立ち向かったあげく、校庭の砂をかんで、「クールガイ」たちの嘲笑を聞いたりしなくてもいいと誰かが言っていたからである。 はいってみれば、実際そこは天国で、きみはすっかりコーフンしてしまい、大学に近い橋が「なんひきずり」であるか実地に検証するために、級友をひきずって「ひきずり」の数を橋に刻みつけたり、やたらとモンティパイソンのセリフがはいる土曜の夜のバカ騒ぎに熱中して、テーブルの上にとびのってビーチボーイズのカラオケを熱唱したりした。 あるいは80年代の東京のきみの種族は、そもそも「制服」というものが嫌なのではいった6年制の中学から、やってるんだかやってないんだかいかにも判然としない学校にのらくらと通いながら、物理部無線班の正しい伝統に順って、ハンダゴテをにぎりしめ、昨日京橋フィルムセンターで見た小津安二郎の映画や、「博士の奇妙な愛情」について、友達ときゃあきゃあ言いながら冗談に打ち興じた。 東京大学に行ったのは、要するに「バカと会いたくない」というきみのだいぶん尖った、社会の大半をなしている人間への敵意のせいで、しかし、問わず語らず、きみの友達の大半も同じ理由で他の大学には行きたくなかった。 いざ大学にはいると、今度は同じ高校の友人たちもだんだんに色あせてみえて、ひとりでいることが多くなった。 お茶の水から坂を降りて、神保町の町へでて、一誠堂や東京書店を巡って歩くのがきみの習慣になった。 夕方には、井の頭線に乗って家に帰る。 急行がとまらない小さな駅で降りて、 今日こそは熱力学に決着をつけてくれるわ、と考える。 大学に行ったのが就職のためなんかでなかった証拠には、きみは修士課程を終えると社会に背を向けるようにプーになってしまった。 友達が嫌らしい笑顔で「将来どうするんだい?」と訊くと、興味すらなさそうに「飢え死にするから良い」と答えた。 90年代の後半にイギリスという国で人になりつつあったきみの種族は論外で、ゆるやかにひろがった広大な芝生がある家で、のんびり寝転がって青空をみている。 ときどき芝の上をころころ転がったり、何をおもったか「でんぐり返し」をしたりしている。 やっていることだけ見ているとバカみたいで、実際にもバカなのかも知れないが、本人の頭のなかは割と真剣で、「自分がなにをしたら世の中がよくなるだろーか」と考えている。 結果としては役に立たなくてもいいから、なんとか世の中の役に立ちたいという気持ちを忘れずに生きていかれる方法はないものか、と考えている。 そーゆーことを考えて煩悶して、思わずでんぐり返しをしているだけでも立派にバカである。 2011年の3月11日に、そうやって世界中に散らばって、いつも、ろくでもないことばかり考えていた「種族」のひとびとがとっさに考えたことのひとつは、日本という遙かに遠い国にいる自分の種族の人間がどうしているか、ということだった。 くっっさあああーい言い方をすると、世代が違い言語が違い住んでいる国が違い貧富が違い社会的地位や肌の色が違っても、この種族のひとびとはあまりに数が少ないので、お互いを血縁に近い存在とみなしている。 この種族の特徴であるタイプの頭の良さは、生存には通常マイナスにしか働かない。 フクシマのようなことがあれば真っ先に滅びてしまいそうに思えたからです。 幸いいまはインターネットが存在して、このひとびとのうち英語が出来るものは、数学やゲーム、アニメやマンガのフォーラムを通じて知り合った同族人と直截やりとりをして、自分が置かれている状況が刻々と把握されていたもののよーである。 しかし、日本という国はどこまでも風変わりな国で、この種族にあってすら、英語なんてハロー以外に興味ないわい、というヘンな亜種が厳然として存在する。 多分、だから、こうやって奇妙な文章を書いているのだと思います。 … Continue reading

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1+1=1

1 人間は心のなかの混沌がうみだして、息をのんだり、涙をこらえたり、疑問におもったりすることのうちの、ほんの微かしか整列した言葉にすることは出来ない。 整列して自分の頭から外に出て行く言葉にあらわす事が出来なかった膨大な量の言葉は、そもそもほんとうは「考え」られていたのかどうかも判らず、あとで言い訳のように、ああきっと自分もそう思っていたのではないか、それは自分でも考えていたよーな気がする、と思うだけのことで、自分の意識にも誰にも、真実は判らないのが普通であると思う。何か他人が考えを述べたときに「口には出さなかったが、自分もそれを考えたことがある」と言えるひとは、よほど思考というものについて楽観的なひとであって、自分もそう考えていた、と思うその考えは、たいていの場合、そんな気がしているだけのことで、よく自分の心を相談してみると、跡形もなくて、なんとなくそんな感じがしただけのことであるよーだ。 ところで、この自然が神にとっての言語をいくらかでも反映しているとすれば、表現されないものは存在が保証されないので極く微小な世界あるいは時間と空間の区別が意味を失う巨大な世界において人間の意識の埒外で神は何事かを「聞き取りにくい声」で呟いて見せているのでなければならない。 その低い声で呟かれている現象を人間は少しづつ聞き取って、量子の存在と運動のありかたや、ビッグバン、あるいは(人間の言葉を使って神の視点に立ってみせた小さいが見事な例を挙げれば)すべての楕円曲線がモジュラーであることを知ることによって人間は自分達の言葉に翻訳してきた。 宗教家たちは、「それでもその外側に神はいるのだ」と(多分自分でも自分が言っていることの意味がよく判っていない)姑息な主張をして抵抗したが、外と内という概念がもう意味をなさなくなるまで自分が秘匿してきた「呟き」が人間にとって聞き取られてしまったことを理解できないほど神の理性が低劣であるとも思えない。 人間がいま知っていることは、どうやら「神」というものの実在は存在を証明されることによって直ちに死に至る論理的な仕組みをもったものであって、どうやら、(人間にとって運が悪いことには)われわれは神の実在を証明してしまったらしい、ということだった。 神は、だから、もう死んでしまった。 これ以上の皮肉が、この宇宙にありうるだろうか? 2 この記事のふたつ前にある「誇り」に掲げてある写真は南仏のラベンダ畑で、この白い道を、大きな花柄の、うすいコットンのサマードレスを着て、なんだか踊るような足取りで、わしの前を、ほんとうはそこにいない人のように、陽炎のように、歩いていたモニをおぼえている。 多分、ふたりとも労働ということをまったくしないせいで、たとえばパークアヴェニューをユニオンスクエアに向かって歩いているときでさえ、なんだか信号を渡るところで、ふたりとも消えてしまうような錯覚におちいることがあった。 自分の肉体が、ちゃんと自分の魂のいれものとしてあるのに、なんとなく自分がここにいるような気がしない。 まるで自分達が誰かの夢のなかの、ふたつの幽霊のようなもので、現実でないような気がしたりした。 トイレにいって、でっかい、立派な、一回や二回のフラッシュでは流れそうも無いウ○コが出ると、はっはっは、わし、ちゃんと人間じゃん、と安心したりした。 モニさんもトイレで同じことを考えた事があるかどうかは訊いてみたことがないから判らないが、吾妻ながら、あのくらい途方もない美人に生まれつけば、鏡を見て、自分が現実の人間でないのではないか、と疑ったことくらいはあるものだと思われる。 小さな死を死ぬときでも、モニはあますところがないほど女のひとであって、どんな細部も惜しむようにからみついて、貪欲に滑らかにしてゆくのに、そうして天上の、としか表現しようがない匂いが立ちこめてくるものであるのに、少しだけ上気はしても、完璧に美しい人であって、ガメと一緒に寝床にはいると壊れてしまうか気が狂ってしまいそうだといいながら、嫌がりもしないで朝までちゃんと付き合ってくれる。 結婚というものは、もっとわしの人生を食い尽くして、平板にして、ダメにしてしまうものだと考えていたのに、こんなことは計算のうちにはいっていなかったので、わしは戸惑う。 わしには何が起きているのだろう? いや、それは論理の上で正しくない(^^) モニとわしには何が起きているのだろう? 子供がうまれれば、今度は母親と父親になって、もっと可視性の高い生活になって退屈なりに平仄のあった生活になるのかと思っていたが、いざ子供が生まれてみると、そーゆーものでもないよーです。 モニもわしも、子供が生まれる前よりも、なんだか不良になってしまったよーである。 無軌道にお互いを(これは笑うべき死語なのだろーが)愛するようになってしまったような気がする。 (ゆーてもた) 3 子供が出来たときには、モニがわしよりも子供のほうを好きになったらどうしようと、そればかり考えて心配したが、そーゆーことでもなかった。 そーゆーことでは父親も母親も失格であると言う日本語インターネットの人がいたが、それなら、わしはモニが母親に失格することを望んでいたのである。 まして父親においておや。 子供がかわいくないのか、といいたがる人がきっといるに違いないが、モニもわしも子供はかわいい、どころか、かわいいというような次元の問題ではなくて、この世界に出来たモニとわしの物理的支店のように思っておる(^^) 子供の独立した人格などは、まだいささかも認めていなくて、ただただモニとわしの融合した一部である。 魂ごと私有している。 子供の人格の独立を認めたあらゆる児童保護法にまっこうから対立しておる。 こーゆー考えをもつと子供は必ず将来不良になると本に書いてあるが、不良は不良の心を知るという。おかーさんはマジメな人だが、おとーさんはもともと不良なので、無茶苦茶なことになってもダイジョーブであるよーな気がする。 せいぜいマジメなおかーさんの側に立った子供が、ある日、チョーふまじめな父親の射殺を思い立つ程度ですむのではなかろーか。 どーせ、この世界の規範に照らせば、ろくでもない不良のバカップルなので、誰がどう考えてもかまいやしない。 ラベンダの野原を、踊るような足取りで歩くひとの後をついて、 どんなふうにでも、誰にも到底おもいつかないほど、幸福になるであろー、と思うのです。 もしかすると、アビニヨンの、あの強烈な夏の太陽の光にきみの眼がくらんで、ぼおっとなってしまった視界がもとに戻る頃には、モニもわしも乾いた熱い大気のなかに消え入ってしまうかもしれないけれど。

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花の名前

スティーブ・ジョブスが死んだときに日本語メディアは「世界を変えた男」という言葉で紹介したものが多かったが、わしには少し違和感があった。 グーグルは世界を変えたがアップルコンピュータの製品が世界を変えたかどうかにはいろいろな意見がありそーな気がする。 わしが生まれて初めて手にしたコンピュータはアップルのSE30 http://en.wikipedia.org/wiki/Macintosh_SE/30 というコンピュータで、たしか7歳のときにかーちゃんのお古としてゆずってもらったのが初めだったと思う。 わしはこのSE30が好きでヒマさえあれば、ひっつくようにして遊んでいた。 9インチの白黒ディスプレーが組み込みになっている「トールボーイ」というスタイルが好きだったのかもしれないし、北半球と南半球の行き来はもちろん、短期間の旅行にももってゆける簡便さがよかったのかもしれない。 Puppy Love http://www.d4.dion.ne.jp/~motohiko/topseshow1.htm (リンク先のページは音が出るので注意してけろ) という、その頃でも古かったゲームが好きだった記憶が残っているが、もしかするとこのゲームはSE30でなくて、古いゲームやってみたさに、クライストチャーチのチャーチコーナーにその頃はあった(1998年くらいに無くなったと思う)中古アップル屋で買ってもらった、マッキントッシュプラスで遊んでいたのかもしれない。 最も狂ったのは、SimCity http://lh6.ggpht.com/_N9qFM1mwukM/S16df_p8KrI/AAAAAAAAACg/8Nb0eqYp-BA/s288/simcity_classic.PNG で、このゲームをやっているあいだじゅう、他のことがなにもやれないので、やむをえず紙と鉛筆でベンキョーをして、えらく成績が上昇したのをおぼえている。 他の時間の大半を占めたのは言わずとしれたCompuServeで、特に自称はしないまでも、なああああーんとなくオトナのような顔をして、主に技術系のフォーラムを歩きまわった。初めの頃は何をゆっているのか、全然なんにもわかりひんな状態だったので、大学の購買部まで自転車をこいででかけて本を買ってベンキョーしたりした。 まことにませたガキで、しかし、このひとしれぬ背伸びのせいでサンスーがかなり向上したもののよーだった。 冬のキッチンのベンチとかで、トマトスープを飲みながらコンピュサーブのソフトを起動すると、ピー・ヒャアー・ピーというマヌケな音がして、ビーン・ビカアーン・ビカビカビカとゆってつながるコンピュータ通信というものは、わしにとっては「オトナの世界」への入り口で、わくわくする時間だった。 SE30は、相当ながいあいだ使っていた。 5年間くらいも使っていたかもしれません。 大きな理由はハイパーカードで自分でスクリプトを書いてスタックを作って遊ぶこのソフトウエアには、どうゆえばいいか、「しあわせな感じ」があったと思う。 使ってるあいだじゅう、なんとなく幸せで、自分で作った表計算ソフトは、お小遣いをたしていこうとすると枠だけが上へずれていって、数字から「脱げて」しまうというチョーへんてこな表計算ソフトだったが、それでもロータス1-2-3なんかよりも、ずっと大好きな「ガメ1-2-3」で、後年、オカネみたいに下品なものを、そんなに嫌がらずに普通に扱えるようになったのも、この自作ソフトのせいではないかと思う事があります。 そのあと、ガキながら贅沢にも、IIci+PowerBook、Power Macintoshというふうに買い換えて、というか、買い足していったが、System 6.03を最後にだんだんヘンテコになりつつあったアップルのオペレーティングシステムは、インターネットを使おうと思うとチョー不便だったSystem 7からOS8になると、もう爆裂なバカOSになって、頭に来たわしはもっていたApple 製品を全部ぶち捨てて、好きだったペプシコーラもコカコーラに宗旨替えしてしまった。 わしがSE30を使っていた頃、物理学者である大叔父はNextというコンピュータをもっていて、これは無茶苦茶かっこいいMathematicaマシーンで、どうやら大叔父は研究者用のインチキな価格でものすごく安く手に入れたらしかったが、いま考えれば、もともとはAppleコンピュータが好きだった大叔父も、スカリーのアップルに含むところがあったのかもしれません。 アップルというコンピュータのよさは、よく考えて製品が出来ていたことで、事務機や計算機であるより、たしかに「パーソナルコンピュータ」であるような気がした。 電気回路を設計して自分でものを作る人は判ると思うがキーボードにソフトウエア電源スイッチを付けて自分自身の電源をいれたり切ったりする、というのは、危なくて、少なくとも当時は、ハードウエアとしてはかなり滅茶苦茶な思想です。 しかし、多分、手元のキーボードから電源のオンオフがやりたくて仕方がなかったエンジニアは躊躇せずに仕様として採用した。 わしなどは、もうそれだけでも、アップルコンピュータを設計しているひとたちの「興奮」が伝わってきて、いいなあ、と思ってしまう。 もうひとつはデザインで、わしはいまでもあんまりウインドウズ系のコンピュータで何か書いたりする気はしないが、それは何から何まで、デザインがクソだからで、見ていて気分が悪くなる、というか、画面のデザインから色使いまで、どうやったらこんなにダメになるのだろうかと訝るくらいひどい。 とどめはフォントで、いっぱいあるのはわかるけど、Helveticaのようなフォントですら、なあーんとなく根性の悪い姿をしている。 アップルの持病の「囲い込み」、いまで言えば、絶対に壊れるように設計したとしか思えないクソデザインの「独自仕様」電源ケーブルやビデオの出力にかけたプロテクト、周辺機器やソフトウエアを独占しようとする姿勢や、同じ閉鎖性でも、一方ではiPhoneを強制的に行儀良くさせてアンドロイドの3分の1しか通信サーバに負荷をかけない方式への縛り、よいほうも悪いほうも、いかにもスティーブ・ジョブスの狭隘で陰険な性格まるだしで、あの強烈な、壊れかけた自己を抱えて荒れ野を彷徨っているような創業者が死んだあと、アップルは、どんなふうになっていくのかなあー、と思う。 Windowsマシンのほうは、わしは長い間、ケースさえなしで、木で組んだワゴン棚みたなものに適当にマザーボードやHDDをガムテープとかで貼っつけてコンピュータとして使っていた。 製品ぽい形をなしているのはふたつの30インチディスプレイだけで、ちゃんとコンピュータぽい顔をして机に座っているのは、あのぶち捨てたPowerMacのあと、キューブを買い直して、白いIMac 、いまは27インチのCorei7iMacです。 ノートブックコンピュータも東芝やVaioも持ってはいるが、使うのは殆どMacBookProかMacBookAirで、電話はアイポン、普段家のなかで手にもって歩いているのはiPad で、もっかはアップルだらけの生活になっている。 しかし、うるさいことを言えば世界を変えるのは、もう手元の端末の側ではなくてネットワークの側に移行してしまったのに決まっていて、フェースブックのようなイモなサービスがひと息ついた頃にあらわれそうな、現実世界から(ヘンな言葉だが)仮想世界のほうを見るのが終わって、仮想世界の都合で現実世界のルールが変わらざるをえなくなるサービスがあらわれるまで、すぐだという気がする。 … Continue reading

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誇り

義理叔父は東京の人間だからだろう、関西の話が好きで、「日本にはきみの知ってる東京とは全然違う関西というところがあるんだけどね..」とゆってときどき話をしてくれたものだった。 東京人の癖にかなり関西が好きだったもののよーである。 「8」(エイト)というフレッシュジュース屋の話をよくしていた。 道頓堀にあって、義理叔父は若いときから関西に用事があるたびに出かけていっていたらしかった。 いま、インターネットで見てみると、2005年くらいまでやっていたようで店主が大正8年生まれであったのが「8」の由来だとあるから、86歳くらいまで店をやっていて、 義理叔父が始めて行った頃は、店主は60代であったことが判る。 従兄弟とふたりで義理叔父に連れて行かれたことがあるが、たまたま休みだったのでしょう、閉まっていた。 いまはもうないはずの「食い倒れ人形」の向かいだったと思うが、道をはさんだ反対側の路地をずううううっっと行くと、奥のつきあたりに「8」とだけ書かれたドアがあった。 ドアを開けると道頓堀に向かって大きな窓が開いた明るい空間がある。 義理叔父がいちばん初めに行ったときは、自分の祖父の友人で子供のときから見知っていた電鉄会社の社長と電機会社の会長が並んで座っていたというので、きっと、関西の財界人たちが好んでやってくるところだったのかもしれません。 電鉄会社おっちゃんがいたのは運がよかった。 店主のじーちゃんがたいへん気難しいひとであったからで、おっちゃんが、この店にはメニューないんだよ、頼むと、このひと怒るからね、とオモロそうにゆって笑ったり、店の「しきたり」を教えてくれたからでした。 義理叔父がどーしよーかなー、と思っているとテーブルにいた3人がメロンジュースを頼むので同じものを頼んだそーである。 じーちゃんは並んだミキサーの向こうから義理叔父をじっと見て、 「にーちゃん、違うもの頼んでも、わしはかまわんで」という。 電鉄会社おっちゃんが水をふきだしかけるほど、うつむいて必死に笑いをかみ殺し、他の客は呆気にとられている。 「8」では、ひとの注文に相乗りして同じジュースを頼むのが一種の礼儀になっている、と教えてもらったのは店を出たあとだったという。 じーちゃんは、自分が「偏屈な店主」と思われていることに微妙な反発を感じていたもののよーである。 コップを4つ並べて、ミキサーをぐわらんぐわらんとまわし、端から順にジュースをまんべんなくいれると、4つのコップに丁度すりきりいっぱいにジュースがはいってミキサーのタンブラーもぴったり空になる。 じーちゃんは、暫く感に堪えたようにコップをみつめて、あごをさすって、感動を隠しもせずに、満足の吐息を洩らしたそーでした(^^) 義理叔父はいっぱつでじーちゃんが好きになって関西に行けば必ず寄るようになった。 たったそれだけの話を義理叔父が繰り返し繰り返し従兄弟やかーちゃんシスター、わしに語ってきかせて、「もう聞いたって、ゆーとるやん」と嫌がられるのは、多分、認知症の初期症状なのではないかと思われるが、わしにはなんとなく気持ちがわかるような気がしなくもない。 義理叔父は、むかし、かーちゃんシスターやかーちゃん、妹、わし、というような眷属のひとびとに「日本は、どーしよーもない国だな。反省しなさい」と迫られると、いろいろ取って付けたような「日本の良い所」を述べて、日本とゆえど、ぼくだけがえらいんだもん、女なんて劣等じゃん、という男が支配しているだけのヘンタイ国ではなくていいところがちゃんとあるのだ、と述べて応戦したものだった。 終いには身体が小さくて摂取カロリーが小さいので地球の食糧危機解決に貢献しているというような鋭すぎる説までもちだして愛国精神を発揮していたりしたが、そういうショモナイいいわけのうちで、「日本人はどんな職業でも誇りをもって一所懸命工夫する」というのだけは、かーちゃんとかーちゃんシスターの意外なほどの賛同を得たので、これが日本擁護のいち定番になった。 西洋社会ではたとえばウエイトレスは「仕方がないから」やっている。 ハリウッドのレストランに行くと、ものすごくプロフェッショナルなウエイトレスがいて、「今日のおすすめ」を説明するのに、舞台に立った女優のように、というか、あるレストランでは実際にテーブルの上に飛び乗って、歌をうたうように暗記した長い「今日の特別メニュー」のリストを説明する。 オカネモチのなかには200ドルの食事のチップに200ドルおいていくひともいます。 しかし、このひともテーブルへの皿の出し方というようなものは欧州のチョー高いホテルのレストランの5分の1もちゃんとはしていない。 うまく言えないが「ウエイトレス」としてプロフェッショナルなのではなくて、パートタイムジョブでウエイトレスをやらざるをえないが、どうせやるなら徹底的にやってちゃんと高額のチップを手に入れよう、という考えであるらしい。 素晴らしい考えだが、わしがここで考えている「誇りをもって仕事をするウエイトレス」とは少し異なるよーだ。 これがニュージーランドになると、露骨にパートタイムジョブ、というか、 クライストチャーチのいまはもうなくなったカテドラルに近いインド料理屋のテーブルに座っていると、なんだかスリッパのようなものをはいて日本語では「ジャージー」という、あの、ずろっとしたパジャマが努力不足で外出可能な服になりそびれたような服を着た女の子がモニ妹わしに向かってずったらこずったらこずったらこと歩いてくる。足をひきずっておる。 な、なにごとならむ。物乞いであろーか、それともゾンビだったりして、と一瞬はしる緊張の向こうから 「オーダーの準備できた?」という声がする。 ウ、ウエイトレスだったのか、と狼狽しました。 ぜんぜん、そーゆーふーに見えないやん。 あるいはサムナーのバーでビールを飲んでいると、横の上品なおっちゃんが、ダックのブラウンソースを頼んでいる。 カウンタの向こうのにーちゃんがもう冬だからgameもいい考えだな、という。 おっちゃんは顔をしかめて、「ダックはgameじゃないさ」という。 にーちゃんは、ええええええー、という顔で、ダックがgameじゃなかったら、この世の中には金輪際gameなんてないじゃないか、という。 … Continue reading

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An Ordinary Life

(ちょっと理由があったので、普通のニュージーランド人の物質的生活について初めに書いておくと、) 父親が古道具屋で買ってきて自分で緑色のペンキで塗った、日本の家具で言えば勉強机くらいの小さなテーブルがあって、それが一家4人の朝食のテーブルなのである。 朝食の時間になると、トーストスタンドを囲んで一家4人がでかい身体をくっつけあうようにしてトーストと卵とベーコンの朝食を食べる。 両親とも高校の教師で父親は数学母親は家庭科の教師をしている。 300坪くらいの敷地に、それがイギリス式の建て方というもので建物が道路に面して建っていて、ひとからは見えない反対側に「バックヤード」がある。 フロントヤードをつくるのが普通なアメリカ人との大きな国民性の違いをあらわしている。 スリーベッドルームという。 ニュージーランドでは最も多い家の構造です。 家からはいった直ぐが台所で、その向こうにラウンジがあります。ラウンジの横には「ダイニングルーム」があるが、これは通常(考えてみればヘンな話だが)店のディスプレイのようなもので、おおきなリムのテーブルにはランナーという長い布がまんなかを走って、燭台があり、八脚の椅子がきちんと並べてあるが、実は普段は使いません。 客がきたときだけ使う。 客がきたときには、食器もいつもの食器洗い機にどんどん放り込んで洗えるスポード http://www.spode.co.uk/ やイタリア風の白い食器ではなくて、普段は飾り棚めいたキャビネットにはいっている、もっと良い食器を使う。 普通はではどこで夕飯を食べるかというと台所の脇の畳で言えば6畳くらいの空間にもっと小さな6脚椅子つきのテーブルがあって、そこで食べます。 ラウンジにはいったところを右に行くとふたつ子供部屋が向き合っていて、左に行けば両親のマスターベッドルームがある。 右にも左にも行かずにそのままラウンジを突き抜けてしまえば、薔薇のある花壇や巨大な楡の木が枝を揺らす芝生を張り詰めた庭を見渡せるテラスがあります。 ウエザーボードと呼ぶ板を張った白塗りの木造の家は、日本のように「間取り図」というものがないので、精確な広さがよく判らないが、多分、300平方メートル弱の床面積であると思われる。 四筋ほど離れた通りから、この通りに越してきたのは母親の希望であって、前の通りよりも地域は同じフェンダルトンだが、だいぶん良い名前だからです。 母親の見栄ということもあるかもしれないが、実際、ニュージーランドの社会では通りの名前がよいところに住むのは家を売るときに売りやすくて、しかも高い値段であることを意味する。 通りの景観にちょっとでもそぐわない家を建てるひとが出ると、近所の人間が総出で抗議にあらわれて、色を変えろ、なんじゃこのデザインは、といって怒るが、そういう反応が起きるのは「自分の家の値段がさがる」というごく直截で簡単な理由があるからである。 子供部屋の奥にシャワーとトイレだけのバスルームがひとつ。 ラウンジの脇にもやはりシャワーとトイレだけのバスルーム、 奥のマスターベッドルームにはオンスイートのバスタブもあるやや大きめのバスルームがある。 両方とも高校に通っている息子と娘は、通りのクソ名前などはどーでもよいから、前の家のほうがなつかしいなあー、と考えている。 家はややぼろかったが、なにしろ子供ボート用の桟橋があるのがクールであった。 近所の友達と遊ぶのに、自分達のボートででかけていけた。 どの家にもツリーハウスがあって、木にかけたはしごで登ってたどりつく樹上の家は、近隣のガキどもの秘密基地として機能していた。 雨の日には悪の組織から地球を守る計画に熱中した。 それに較べると、こんどの通りの住民は、なああああーんとなく気取りくさっていて、おもろくないよーな気がする。 自動シャッターがついた車庫にはクルマが2台はいっていて、1台は父親のフォードのステーションワゴン、母親はホンダシビック、両方とも10万キロ近く走っているので、もう買い換えたいが、オカネが足らんのでそこまでは手がまわらない。 息子も娘も制服で歩いて近くにある高校に行きます。 ニュージーランドでは良い学校の校区であるかどうかで家の値段が二割くらい違うという。 校区から外れてなお「良い学校」に行こうとすると私立に行くことになるが、こっちは無茶苦茶学費が高いので、そのくらいならローンを積んで「良い通り」に越した方がよい、と考えるのが普通であると思う。 平均年収は、わしが子供の頃は義理叔父が日本の半分、とゆっていたのを憶えているが、いま見ると2011年の資料(USドル)でニュージーランド人が29050ドル、日本が42150ドル、日本の七割くらいであるよーだ。 上で仮想している例であれば、両親の収入があわせて12万ドル、日本円で800万円くらいであると思われる。 「それじゃ全然平均じゃねーじゃん」と思う人がいるであろーが、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカという三国は貧富の差が激しいので有名なので、数字上のまんなか(この場合だと共稼ぎで60000ドル弱)は中の下という階層をあらわす。 15年も遡るとニュージーランドという国はなにしろ家がチョー安い国で、ここで考えようとしている家族が住んでいる家も500000ドル3200万円も出せば買えたに違いないが、いまなら1milを超えて、8000万円くらいは必要でしょう。 前の家を5000万円で売って、差額の3000万円を10年ローンくらいで払っているというくらいが平均である。 ホームローンが6%であるとして(伝統的には9%内外だが、ニュージーランドもご多分に洩れず超低金利時代なので、実際ファーストホームローンは6%以下です)、一箇月3300ドル(23万円)づつ支払いをしていることになる。 12万ドル、すなわち一箇月1万ドル(65-70万円)は無論グロスで数えているのでネットになおせば、7500ドル程度、すなわち50万円程度の月収なので、ホームローンの支払いをしたあとの27万円で一家4人が暮らさなければならない勘定になります。 … Continue reading

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