Monthly Archives: April 2012

天使の糸

1 大叔父というひとはギョーカイでは名をしられた科学者であって、温厚なじーちゃんということになっているが、ほんまはチョー軽薄な酔っ払いじーさんです。 年がら年中知らない国の知らない町で社交生活を強要されて冗談にならない鬱病の危険にさらされてきた大叔母や、たびたび学校が変わるので何度も不良になりかけた息子や娘たち(日本語で大叔父の子供がわしからみると何になるのかわからん)を尻目に、というか、家族の迷惑を全然省りみずに世界中を転々とする研究者生活を送って家族崩壊のリスクを抱えたまま自分だけ研究の快楽に耽ってくらした科学ジャンキーのごとき人である。 特技は突然眠ることで、いま大声をあげて笑っていたかと思うと次の瞬間がくっと死人のように頭を垂れて熟睡している。 1時間すかすかと眠ってから、いきなりまた眼を覚ましてさっきまでの話の続きをする。 むかしは、わしにはこれが面白くて仕方がなくて、なんで、ねえ、D(大叔父の名前でんねん)、なんで?と聞くと、マジメな顔で、「ぼくの大脳はひとより活動が活発なので休養が必要なんだよねー」と、いつもの軽薄な調子でこたえておった。 この軽薄さがこのじーちゃんの特徴でもあって、このあいだはひーばーちゃんの見舞いに行ったのはいいが、あんまり誰がなんだかよくわかんなくなっているひーばーちゃんに、 「ちゃんと行儀良くしないと、おとーさんがお尻をおもいきりペンペンしちゃいますぞ」と、全然笑えない冗談を述べたら、ひーばーちゃんが絶叫して怖がって、緊急ボタンを押して病院中大騒ぎになり警察に連れて行かれる、という騒ぎになったりした。 国籍が年がら年中ころころ変わっている人で、もみあげを生やしたりしていた若い頃はアメリカ人がかっこいいと考えてアメリカのパスポートをもっていたが、そのうちにクロコダイルダンディを見たんだかメル・ギブスンのバカっぽい魅力に惹かれたんだかなんだかでオーストラリア人になったりしていたが大叔母はそういうくだらない趣味に付き合う気はなかったのでイギリスパスポートのままで、よく考えてみると、オーストラリアにいるときには結婚していることになってないのではないかと疑われたりした。 とにかくスーパー軽薄なひとで、わしとはたいへんウマがあって昔から仲良しだが、親戚一般のあいだでは近寄らないほうが良いとされているひとです。 このひとが、チビガキであったころから、わしに言い聞かせたのは、「一生というスポーツは一勝すればいいだけのスポーツなんだよ、ガメ」ということであった。 「一回、勝てばいい。あとは全部負けでいいのさ」 2 自分よりも若い友達、という恐ろしげなものが出来たせいで、「わしはこれからどんな仕事をすればいいんじゃ」というよーなこわい質問をされることがある。 仏陀が相手を見て法を説かねばならぬ、とゆっているので、相手によってわしの返答は変わります。 決して、そのときの気分でテキトーに答えているわけではない。 (そこのきみ、なにを笑っておる) だいたいいつも、銀行強盗をやってみたらどーだ、とか、5ドルくれればロト必勝法6つの数字を当てる古代イスラエルの秘法を教えて進ぜよう、パワーボールも必要な場合は12ドルね、とゆってマジメに相談に乗っているが、聞いていると、こ奴の人生観は根本から間違っておる、と思う事がある。 どーゆーふーに間違っているかというと、まず、職業に一生を過ごす上での保障を求める、という態度で将来を考える変人58号がいる。 医者になりたい、という。 なんで? 人体のようにぐじゃぐじゃなものに埋もれて一生を過ごすなんて生ゴミ屋さんみたいではないか、第一あれは微分できんぞ、きみ、と思うが、本人は至ってマジメで 「生活が安定する」という、医者が聞いたら頭のてっぺんがパカッと割れて噴火するか、椅子から転げ落ちて大笑いしそうな返答をしたりする。 日本のひとの場合なら同じ理由で公務員になりそうなひともいそーな気がする。 ちょっと考えてみれば判るが、こういう職業の選択は根本から誤っていてしかも自分の一生にとって危険である。 だって、医者も上級公務員も死ぬほど忙しい仕事ですぜ、旦那。 あの気違いじみてバスター・キートン的な忙しさを乗り切っていけるのは、一文にもならない使命感や学問上の変態じみた、しかし熱狂的な興味があるからで、「生活の保障」というような松竹梅に分かれた生活保護の松を注文したつもりの職業選択で乗り切れるようなものではないことを失念している。 そもそもその職業に適性がない人間が医師になったりすると、多忙とストレスのあまり早死にするであろう。 第一、偏差値が高かったので医者になっちゃいましたあー、というような臨床医に診断される患者は哀れというか絶体絶命というかで、周囲にとっても迷惑なだけです。 日本なども、こーゆー「頭がよさげな人生を送りたい」というだけで医者になったアンポンタンが多いので患者が塗炭の苦しみにあうというが、自他共に崩壊しているのは、そもそも医師の側で職業選択に誤解があったせいがおおきいと疑われる。 親の明かなあるいは隠蔽された願望にこたえて職業を選んでしまうことも同じで、そーゆー選択をすると、自分で自分の喉首を締め上げてゆくような一生にならざるをえず、途中で縊死するか投身か、あるいは必死の意志で生き延びた今際の際に、「おれの人生はいったいなんだったんだ」と虚しくつぶやいて死ぬことになりそーである。 むかないことはやらない、というのは職業選択の第一歩であると思われる。 3 生活の安定をめざして職業を選択すると人生そのものが崩壊する、ということを念頭においた次には、人間の一生においていくどか否応なく迫ってくる勝負のいちいちに勝っていては身がもたない、ということがある。 そんなことをしていたら、日本の社会で言えば、小学校の頃から週末は塾に通って、中学試験のためにカブトムシやマリオブラザースと熱狂してすごせたかもしれない後々の一生の全基礎をなす取り止めなかるべきガキ時代が参考書の紙魚になってしまうやもしれず、まして大学入学の年齢ともなれば、全然役に立たないのが保証された英語や、作者もついに知ることなく死んだ「作者が言いたかったこと」や、コンピュータのほうがずっと速く書いてくれるパラメータの軌跡で、ほんとうはすべこい肌の女のこたちの甘酸っぱい匂いやオランダでボロ中古車を買ってモスクワまでドライブするアホな楽しみに惑溺できたかも知れず、より重大なことは、余りまくった時間のなかでイリアドに耽溺したり、あるいはn(>5)次元の世界を現実に「見る」修験に明け暮れたり出来たかもしれない豊穣で馥郁たる長大なひとつらなりの時間を細切れにして、午前は英語午後は物理、夜になったら数学というようなサラリーマンの未決箱のなかの生活のように分断された惨めな時間を過ごして、自分の時間の肉体をすっかり殺してしまい、時間というものの伸びやかさにすっかり見放されて、コチコチと鳴って意識を脅かすだけの、脅迫的な時間しか残りの一生に与えられなくなってしまうということがある。 そうやって時間が切り刻まれた屍体のようなものになってしまえば、一生などはそこでもうおしまいで、二度と生きた姿で戻ってきてくれるものではないだろう。 ところが悪いことばかりではなくて、人間の一生には、いったいどういう理屈や仕掛けによるのか、どんな無茶苦茶なすごしかたをしていても、すっかり諦めて顔を背けてさえいなければ、いつのまにか目の前に、ゆらゆらと、ひらひらと、微かに、頼りなげに、蜘蛛の糸がたれてくることがある。 なんじゃ、こりゃ、と手にとってみれば意外やそれは強靱な糸で、試みによじ登ってみれば、これはなんとしょう、自分の身体と魂の全体を支えてまだ切れずに、しかも本人が筋力に訴えてのぼらなくても、誰かが引っ張りあげてくれるもののよーである。 世界で初めてのジェット戦闘機Me262を操縦したアドルフ・ガーランドは「まるで天使が後ろから押してくれているよーだ」とゆったが、うまく自分にあった蜘蛛の糸をみつけたときの印象はそういうようなもので、なんだかすいすいと、あっというまに遠くまで行ってしまうものである。 国語(英語)力にいちじるしく不足した大叔父が述べた「一勝」というものは、実はそういう内実のものであると思われて、普段、アメリカで馴染んだベースボールの試合にばかり熱中しているので、神聖な蜘蛛の糸もグランドスラムで勝ったワールドシリーズの最終戦、というようなチョー下品な表現に頭のなかで置き換わってしまったのだと思われる。 その蜘蛛の糸は、どういう状況であらわれるもので、どうやってそれを待つべきか、ということを是非きみに伝えねばならないが、わしはこれを朝ご飯を食べないまま書き出していて、もうお腹がすいて、目の前をステーキサンドイッチが流し目をしていったりきたりするようになってきたので、続きは今度にします。

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未来の記憶

1 サイパンには「バンザイ・クリフ」という断崖がある。 当時はもう従軍カメラマン用にはカラーフィルム(Kodachrome)があったので、気分が悪くなるほどの精細さで、乳飲み子を抱え、ためらい、遙か下の岩礁をこわごわと覗き込みながら、しかし希望というものをすべて剥ぎ取られてしまったひとの小さな、力のない跳躍の仕方で、三々五々、飛び降りて死んでゆく母親たちの姿が撮られている。 場面が変わると、両手両足をひらき、生命という尊厳が去ったあとの、あの屍体特有の残忍なだらしなさを与えられた姿で、女たちや子供達が波間に浮かんでいる。 あるいは沖縄では、日系人たちが日本語で何度も出てくるように呼びかけ、GIたちの舌打ちや「クレージーだぜ、こいつら」と言う声が聞こえるなかで、洞窟の暗がりでがたがた震えていた沖縄人たちを火炎放射器が灰に変えてゆく。 なんとか助かった沖縄人たちの物語は驚くべきもので、食料は日本兵達がみんな略奪して、自分達の食べ物であるのに兵隊がみな食べてしまって、わたしたちは飢えていた、 投降しようとすると、容赦なく殺された、という。 やせさらばえて、歩く事もできず、米兵におぶわれてかろうじてキャンプに向かうひとびとは口々に日本の軍隊と日本を呪い、私の兄は日本軍に殺された、私は妹が連れ去られた、と述べる。 日本の政府が「絆」といういかにも政府が政策決定する際の情緒のレベルにみあった、遠くから演歌のべったりした旋律が聞こえてきそうな言葉を選んで発表したとき、わしの頭の奥で明滅した映像は、要するにそういうものだった。 あとで、KAT-TUNという日本では大層な人気があるらしいグループが、「政府の『絆』という言葉にインスパイアされて」CHAINという名前の日本全国ツアーを始めたというニュースを観たときには、英語が苦手なせいで思わず「絆」がほんとうに意味しているところを述べてしまったツアーのテーマを決めたこの芸能事務所の無意識な事態把握の精確さに敬意を感じてしまった。 もっと簡単にいうと、可笑しさのあまりひきつけを起こしそうになって、呼吸がとまるかと考えた。 まことに日本政府は、「絆」と述べたときに日本国民を、その、これから汚染を万遍なく国土に塗り込めていこうとしている国土に、日本人特有のオカミの側に立って国民が考えたがる不思議な考え方と情緒とを両輪にした社会的な同調への巨大な圧力の鎖で縛り付け、死なばもろとも、運命の鎖で、雁字搦めにしてみせたわけでした。 日本の歴史は、社会がこの段階に達したときには、もう誰が何を言っても日本という国と、それが国家と寸分違わぬ形に整形した社会とは、あらかじめ政府が定めたコース、国民の大部分も状況を理解しているしていないに関わらず同意してすすむ一本のまっすぐな道から外れることはない、と教えている。 歴史を遡っていって、この前には歴史のどこで同様の事態が起こったか眺めてゆくと、それは70年前で、日本人が国民を挙げて公理のように信じていたことを思い出してみると、 日本人は選ばれた民であり、半島人はやや劣るが改良すればなんとか人間になりうる劣等民族であり、中国人は犬や牛と同じ存在で人間とみなすほどのものではないと頭から信じ込んでいて、そんな自明なことに異議を唱える人間は、そもそも目の前の現に見えている現実が理解できない愚かものであるとされた。 その愚かさの根源は何から来ているかというと、西洋人の妄想である「自由主義」の腐敗に精神を冒されているからで、いまの流行の言い方をすれば「自由脳」なのだった。 義理叔父の母方のひーばーちゃんは、上海事変が起きたとき、普段は穏和な物腰で、言葉使いも育ちにみあった穏やかなものだったのに、「吐き捨てるように」という表現そのままの言い方で「こんなくだらない博奕に手をだして、今上陛下は明治様に申し訳ないと思わないのだろうか」という意味のことを言って義理叔父ばーちゃんを驚かせたそーである。 鎌倉の二階堂に住んでいたヒョーロンカの母親も、こちらは戦争にボロ負けこいたときに、同じようなことを言ったそうだから、どんなときでも、正気を保っていたひともいたわけだが、全体には「鬼畜米英」「八紘一宇」と自分で自分を煽った言葉に酔っ払ってしまって、GDPに較べて畸形的に突出した軍事出費をもった中進国は、占領したフランスとチェコを合わせれば連合王国とソヴィエトロシアの合計に僅かに劣る程度のGDPをもつに至ったドイツの強大さを頼みに、 当時ですら誰の目にも集団自殺でしかなかった戦争に乗り出してゆく。 なぜ、そのような前のめりな戦争への参加を急いだかというと「バスに乗り遅れるな」という、アメリカが産業構造の転換を企画して始めた「原発建設輸出ブーム」に乗り遅れては経済への影響がおおきすぎる、という焦慮がよく顕れた当時の標語でわかる、ただでさえ失調した経済挽回の焦りだというのが最もわかりやすい解釈であると思う。 その結果は、「難攻不落の要塞で、ここが陥落したら戦争は敗北で決定だが、そんなことは起こるわけがない」と太鼓判を押されたサイパンの陥落は「起きるはずがない」どころか、天皇陛下ですらうんざりしたことには、たった3週間で完全放棄せざるを得なくなり、放棄を決すれば、「サイパンなどは戦略的にたいした意味はない」という手のひらを返したような説明になったところは、福島第一事故のメルトダウンを巡る経過ととてもよく似ている。 それまで観念ででっちあげた安全地帯に生きて、「ダイジョーブだダイジョーブだ」と自分に言い聞かせるように国民にも述べていた日本政府は、アメリカ軍がフィリピンに上陸を企図するにおよんで、社会的に国家からの圧力に対して最も抵抗できない若い人間に眼をつける。 零戦に爆弾を積んで将来払いもどしを出来る見込みすらない年金を支払わせるのみならず原子炉冷却の最前線に追いやり一方では抵抗力がないどころか状況さえ把握する力がない子供を福島県に縛り付けることによってなんとか世界中に「事態は終熄した」「日本は再び安全な国になった」という印象をつくろうとした。 富永恭次という有名な将軍などは、特攻隊が毎度毎度出撃するたびに、「勇敢に死ね。私も後から続くぞ」と演説しながら、本人は厳重な放射線防護服に身を固めて、こちらは政府の言う事を鵜呑みにして平服の地元のひとびとと握手して、その余りに露骨な「公共観念の欠落」「モラルの喪失」恥知らずなウソつきぶりを見せつけて、世界中に感銘を与えることになった。 しかも、いざ敗勢が明らかになると九九式襲撃機に乗ってさっさと台湾に遁走してしまう。 ところで例の防護服を着固めた人気者の将軍と平服のひとびとの写真が世界中に出回ったときに、さまざまな文化圏のひとたちを気味悪がらせたのは、なによりも、マヌケなSFの宇宙飛行士じみた放射線防護服を着た将軍と握手する無防備に放射線に曝されている平服のひとびとが笑顔であることで、その明るい笑顔は、写真をみるひとびとを心底ぞっとさせたものだった。 誰も、若いひとびとに寝不足を心配されこそすれ、防護服の将軍に非難の目を向けるものはいなかったので、戦後長くたってから富永恭次は畳の上で平安のうちに幸福に死んだが、本来彼の肩にあったはずの大きな責任は、いまだに福島の学校の校庭で線量計を胸につけて遊ぶガキどもの小さな肩に移行してしまっている。 日本的な光景、であると思います。 2 死ぬ者は死に、生き延びる者は生き延びた。 「フクシマ当時の科学の知見では予測できない結果だった」と学者たちは述べて、新聞は「国民を挙げて、人命軽視の仮説に従った過去を反省すべきだ」と社説のなかで書いた。 汚染のなかで踏みとどまった国民は、その勇気をたたえられて、国外に去った国民は一種の敵前逃亡者のように言われることになった。 新しい内閣の発案で「東北震災復興の碑」がつくられることになり、イサム・ノグチのデザインがいったん採用されたが、あのひとは原発事故のときにアメリカに逃げたひとだ、という批判をするひとがあって、丹下健三があらためてデザインすることになった。 「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれた碑文には、海外の知識人から「原発爆発後の対応を誤って汚染を蔓延させる原因を作ったのは普通の日本人一般ではない。決定した当時の内閣と東京電力の手は、まだ清められてはいない」という批判があったが、浜井首相の「誰のせいでこうなったかの詮索ではなく、こんなひどいことは人間の世界にふたたびあってはならないということのほうが大事である」という見解が国民の支持を得て、国民全体が一致して「賢く汚染と共に生きる」プログラムのもとで、日本人全員が一致して国の再建に邁進することになった。 教室では放射性物質が低量であれば被害はなくて安全であるという記述を墨で黒々と塗りつぶした教科書がひろげられ、教壇の上の教師たちは、昨日までの「放射能を理由にお友達と一緒の行動をとれないなんて先生には許せません」と言っていたのとは打って変わって 「今日からは有害な放射性物質をいかにして避けるかに留意して暮らさなければいけません」と言って、ませた生徒たちの失笑をかった。 しかし、全体には、たいした変化はなかったのかもしれません。 天皇が神様から人間に変わり、人間としての責任はいっさいとらなかったが、愛嬌をふりまいて「国民に愛される天皇」になり、枝野さん、と「さん」づけですら呼ばれ、放射性物質は元のように危険な物質に戻り、取扱資格に定められた量の放射線量よりも遙かに高い線量がどこにもここにも存在して、それでいいことに政府が基準を変えてしまったせいで資格の意味がなくなってしまう、という喜劇にしても笑えない理由で使わなくなっていた泉さんの放射性物質取扱資格も、また(基準が元の戻ったので)資格として機能するようになった。 緒方竹虎、灘尾弘𠮷、石田礼助、小林一三、というような公職を追放されていたひとびとも、追放を解除されて徐々に社会の中枢にもどっていった。 「次世代原発」の建設の槌音がひびきわたり、フクシマの頃に、盛んに「放射脳」「危険デマ学者」と述べて原発投資家に強力した「言論人」たちは、いくらかのおこぼえれに預かった。 … Continue reading

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いつか、どこかで

その「種族」は国籍を超え、言語を超え、人種も性別も超えて、世界中に分布している。 特別な名前は付いていないが、お互いにそれと知っている。 きみには「現実を忘れてしまう」という愉快な癖がある。 今日こそははやくベッドに行くぞ、と決意して机の前に座ったのに、またいつのまにか午前3時になっている。 明日は7時に出かけなければならないのに、どうすればいいか、悩み始める。 いっそ眠らないででかければどうか。 それとも、さぼっちゃえば。 そうやって世間のほうの時間を考えるのが面倒くさくなって、きみは机の上に広がった、ノートブックや本や、いくつもウインドウが開いているコンピュータの画面に帰ってゆく。 よく考えてみれば、そんなことばかりやっているのは「破滅型」の人間というべきで、実際きみは社会的には不適格者だと思うが、それでもきみが檻のなかで過ごさないですんでいるのは、抜群の知能と、パズルみたいなものなら熟練の鍵職人のように、あっというまに解いてしまう不思議な能力のせいである。 子供の時から自然と身についた「処世の知恵」は、試験という試験、選別という選別には嫌がらずつきあって、そこで楽勝してみせることだった。 試験の回数がつみあがってゆくことによって、きみに判ってきたのは、あのくだらない選別にも良いところがあって、まず多少とも調子っぱずれのきみに対して世の中のひとはあんまり文句を言わなくなる。 もうひとつは、学校が上の段階に至るに順って、似たもの同士、というかきみと同じように頭がいかれたやつが同じ教室のなかに増えて行く。 70年代を通じて、アメリカ合衆国の学校でのイジメの理由の1位は「脇の下が臭いこと」で、次が「数学ができること」だった。 なんだか冗談みたいだが、数学ができるせいで自殺しなければならなくなった高校生もいた。 その頃のアメリカでは公立高校みたいなところで数学が出来るのは「せこいやつ」でクールでない、ということだった。 きみの種族の一部には、数学が(大きい声では言わないにしても)レモンメレンゲよりずっと好きだという訳のわからない人間がいる。 当時は、そういう人間は息を殺すようにして、ボストン郊外のケンブリッジという町にあるMITという巨大なキチガイ部落をめざしてベンキョーした。 そこにさえ辿り着けば、フットボールと女の子たちを「やって」しまう以外に才能なんてなにもないバカタレに胸ぐらをつかまれてネットにおしつけられたり、悪罵に我慢できなくなって立ち向かったあげく、校庭の砂をかんで、「クールガイ」たちの嘲笑を聞いたりしなくてもいいと誰かが言っていたからである。 はいってみれば、実際そこは天国で、きみはすっかりコーフンしてしまい、大学に近い橋が「なんひきずり」であるか実地に検証するために、級友をひきずって「ひきずり」の数を橋に刻みつけたり、やたらとモンティパイソンのセリフがはいる土曜の夜のバカ騒ぎに熱中して、テーブルの上にとびのってビーチボーイズのカラオケを熱唱したりした。 あるいは80年代の東京のきみの種族は、そもそも「制服」というものが嫌なのではいった6年制の中学から、やってるんだかやってないんだかいかにも判然としない学校にのらくらと通いながら、物理部無線班の正しい伝統に順って、ハンダゴテをにぎりしめ、昨日京橋フィルムセンターで見た小津安二郎の映画や、「博士の奇妙な愛情」について、友達ときゃあきゃあ言いながら冗談に打ち興じた。 東京大学に行ったのは、要するに「バカと会いたくない」というきみのだいぶん尖った、社会の大半をなしている人間への敵意のせいで、しかし、問わず語らず、きみの友達の大半も同じ理由で他の大学には行きたくなかった。 いざ大学にはいると、今度は同じ高校の友人たちもだんだんに色あせてみえて、ひとりでいることが多くなった。 お茶の水から坂を降りて、神保町の町へでて、一誠堂や東京書店を巡って歩くのがきみの習慣になった。 夕方には、井の頭線に乗って家に帰る。 急行がとまらない小さな駅で降りて、 今日こそは熱力学に決着をつけてくれるわ、と考える。 大学に行ったのが就職のためなんかでなかった証拠には、きみは修士課程を終えると社会に背を向けるようにプーになってしまった。 友達が嫌らしい笑顔で「将来どうするんだい?」と訊くと、興味すらなさそうに「飢え死にするから良い」と答えた。 90年代の後半にイギリスという国で人になりつつあったきみの種族は論外で、ゆるやかにひろがった広大な芝生がある家で、のんびり寝転がって青空をみている。 ときどき芝の上をころころ転がったり、何をおもったか「でんぐり返し」をしたりしている。 やっていることだけ見ているとバカみたいで、実際にもバカなのかも知れないが、本人の頭のなかは割と真剣で、「自分がなにをしたら世の中がよくなるだろーか」と考えている。 結果としては役に立たなくてもいいから、なんとか世の中の役に立ちたいという気持ちを忘れずに生きていかれる方法はないものか、と考えている。 そーゆーことを考えて煩悶して、思わずでんぐり返しをしているだけでも立派にバカである。 2011年の3月11日に、そうやって世界中に散らばって、いつも、ろくでもないことばかり考えていた「種族」のひとびとがとっさに考えたことのひとつは、日本という遙かに遠い国にいる自分の種族の人間がどうしているか、ということだった。 くっっさあああーい言い方をすると、世代が違い言語が違い住んでいる国が違い貧富が違い社会的地位や肌の色が違っても、この種族のひとびとはあまりに数が少ないので、お互いを血縁に近い存在とみなしている。 この種族の特徴であるタイプの頭の良さは、生存には通常マイナスにしか働かない。 フクシマのようなことがあれば真っ先に滅びてしまいそうに思えたからです。 幸いいまはインターネットが存在して、このひとびとのうち英語が出来るものは、数学やゲーム、アニメやマンガのフォーラムを通じて知り合った同族人と直截やりとりをして、自分が置かれている状況が刻々と把握されていたもののよーである。 しかし、日本という国はどこまでも風変わりな国で、この種族にあってすら、英語なんてハロー以外に興味ないわい、というヘンな亜種が厳然として存在する。 多分、だから、こうやって奇妙な文章を書いているのだと思います。 … Continue reading

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1+1=1

1 人間は心のなかの混沌がうみだして、息をのんだり、涙をこらえたり、疑問におもったりすることのうちの、ほんの微かしか整列した言葉にすることは出来ない。 整列して自分の頭から外に出て行く言葉にあらわす事が出来なかった膨大な量の言葉は、そもそもほんとうは「考え」られていたのかどうかも判らず、あとで言い訳のように、ああきっと自分もそう思っていたのではないか、それは自分でも考えていたよーな気がする、と思うだけのことで、自分の意識にも誰にも、真実は判らないのが普通であると思う。何か他人が考えを述べたときに「口には出さなかったが、自分もそれを考えたことがある」と言えるひとは、よほど思考というものについて楽観的なひとであって、自分もそう考えていた、と思うその考えは、たいていの場合、そんな気がしているだけのことで、よく自分の心を相談してみると、跡形もなくて、なんとなくそんな感じがしただけのことであるよーだ。 ところで、この自然が神にとっての言語をいくらかでも反映しているとすれば、表現されないものは存在が保証されないので極く微小な世界あるいは時間と空間の区別が意味を失う巨大な世界において人間の意識の埒外で神は何事かを「聞き取りにくい声」で呟いて見せているのでなければならない。 その低い声で呟かれている現象を人間は少しづつ聞き取って、量子の存在と運動のありかたや、ビッグバン、あるいは(人間の言葉を使って神の視点に立ってみせた小さいが見事な例を挙げれば)すべての楕円曲線がモジュラーであることを知ることによって人間は自分達の言葉に翻訳してきた。 宗教家たちは、「それでもその外側に神はいるのだ」と(多分自分でも自分が言っていることの意味がよく判っていない)姑息な主張をして抵抗したが、外と内という概念がもう意味をなさなくなるまで自分が秘匿してきた「呟き」が人間にとって聞き取られてしまったことを理解できないほど神の理性が低劣であるとも思えない。 人間がいま知っていることは、どうやら「神」というものの実在は存在を証明されることによって直ちに死に至る論理的な仕組みをもったものであって、どうやら、(人間にとって運が悪いことには)われわれは神の実在を証明してしまったらしい、ということだった。 神は、だから、もう死んでしまった。 これ以上の皮肉が、この宇宙にありうるだろうか? 2 この記事のふたつ前にある「誇り」に掲げてある写真は南仏のラベンダ畑で、この白い道を、大きな花柄の、うすいコットンのサマードレスを着て、なんだか踊るような足取りで、わしの前を、ほんとうはそこにいない人のように、陽炎のように、歩いていたモニをおぼえている。 多分、ふたりとも労働ということをまったくしないせいで、たとえばパークアヴェニューをユニオンスクエアに向かって歩いているときでさえ、なんだか信号を渡るところで、ふたりとも消えてしまうような錯覚におちいることがあった。 自分の肉体が、ちゃんと自分の魂のいれものとしてあるのに、なんとなく自分がここにいるような気がしない。 まるで自分達が誰かの夢のなかの、ふたつの幽霊のようなもので、現実でないような気がしたりした。 トイレにいって、でっかい、立派な、一回や二回のフラッシュでは流れそうも無いウ○コが出ると、はっはっは、わし、ちゃんと人間じゃん、と安心したりした。 モニさんもトイレで同じことを考えた事があるかどうかは訊いてみたことがないから判らないが、吾妻ながら、あのくらい途方もない美人に生まれつけば、鏡を見て、自分が現実の人間でないのではないか、と疑ったことくらいはあるものだと思われる。 小さな死を死ぬときでも、モニはあますところがないほど女のひとであって、どんな細部も惜しむようにからみついて、貪欲に滑らかにしてゆくのに、そうして天上の、としか表現しようがない匂いが立ちこめてくるものであるのに、少しだけ上気はしても、完璧に美しい人であって、ガメと一緒に寝床にはいると壊れてしまうか気が狂ってしまいそうだといいながら、嫌がりもしないで朝までちゃんと付き合ってくれる。 結婚というものは、もっとわしの人生を食い尽くして、平板にして、ダメにしてしまうものだと考えていたのに、こんなことは計算のうちにはいっていなかったので、わしは戸惑う。 わしには何が起きているのだろう? いや、それは論理の上で正しくない(^^) モニとわしには何が起きているのだろう? 子供がうまれれば、今度は母親と父親になって、もっと可視性の高い生活になって退屈なりに平仄のあった生活になるのかと思っていたが、いざ子供が生まれてみると、そーゆーものでもないよーです。 モニもわしも、子供が生まれる前よりも、なんだか不良になってしまったよーである。 無軌道にお互いを(これは笑うべき死語なのだろーが)愛するようになってしまったような気がする。 (ゆーてもた) 3 子供が出来たときには、モニがわしよりも子供のほうを好きになったらどうしようと、そればかり考えて心配したが、そーゆーことでもなかった。 そーゆーことでは父親も母親も失格であると言う日本語インターネットの人がいたが、それなら、わしはモニが母親に失格することを望んでいたのである。 まして父親においておや。 子供がかわいくないのか、といいたがる人がきっといるに違いないが、モニもわしも子供はかわいい、どころか、かわいいというような次元の問題ではなくて、この世界に出来たモニとわしの物理的支店のように思っておる(^^) 子供の独立した人格などは、まだいささかも認めていなくて、ただただモニとわしの融合した一部である。 魂ごと私有している。 子供の人格の独立を認めたあらゆる児童保護法にまっこうから対立しておる。 こーゆー考えをもつと子供は必ず将来不良になると本に書いてあるが、不良は不良の心を知るという。おかーさんはマジメな人だが、おとーさんはもともと不良なので、無茶苦茶なことになってもダイジョーブであるよーな気がする。 せいぜいマジメなおかーさんの側に立った子供が、ある日、チョーふまじめな父親の射殺を思い立つ程度ですむのではなかろーか。 どーせ、この世界の規範に照らせば、ろくでもない不良のバカップルなので、誰がどう考えてもかまいやしない。 ラベンダの野原を、踊るような足取りで歩くひとの後をついて、 どんなふうにでも、誰にも到底おもいつかないほど、幸福になるであろー、と思うのです。 もしかすると、アビニヨンの、あの強烈な夏の太陽の光にきみの眼がくらんで、ぼおっとなってしまった視界がもとに戻る頃には、モニもわしも乾いた熱い大気のなかに消え入ってしまうかもしれないけれど。

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花の名前

スティーブ・ジョブスが死んだときに日本語メディアは「世界を変えた男」という言葉で紹介したものが多かったが、わしには少し違和感があった。 グーグルは世界を変えたがアップルコンピュータの製品が世界を変えたかどうかにはいろいろな意見がありそーな気がする。 わしが生まれて初めて手にしたコンピュータはアップルのSE30 http://en.wikipedia.org/wiki/Macintosh_SE/30 というコンピュータで、たしか7歳のときにかーちゃんのお古としてゆずってもらったのが初めだったと思う。 わしはこのSE30が好きでヒマさえあれば、ひっつくようにして遊んでいた。 9インチの白黒ディスプレーが組み込みになっている「トールボーイ」というスタイルが好きだったのかもしれないし、北半球と南半球の行き来はもちろん、短期間の旅行にももってゆける簡便さがよかったのかもしれない。 Puppy Love http://www.d4.dion.ne.jp/~motohiko/topseshow1.htm (リンク先のページは音が出るので注意してけろ) という、その頃でも古かったゲームが好きだった記憶が残っているが、もしかするとこのゲームはSE30でなくて、古いゲームやってみたさに、クライストチャーチのチャーチコーナーにその頃はあった(1998年くらいに無くなったと思う)中古アップル屋で買ってもらった、マッキントッシュプラスで遊んでいたのかもしれない。 最も狂ったのは、SimCity http://lh6.ggpht.com/_N9qFM1mwukM/S16df_p8KrI/AAAAAAAAACg/8Nb0eqYp-BA/s288/simcity_classic.PNG で、このゲームをやっているあいだじゅう、他のことがなにもやれないので、やむをえず紙と鉛筆でベンキョーをして、えらく成績が上昇したのをおぼえている。 他の時間の大半を占めたのは言わずとしれたCompuServeで、特に自称はしないまでも、なああああーんとなくオトナのような顔をして、主に技術系のフォーラムを歩きまわった。初めの頃は何をゆっているのか、全然なんにもわかりひんな状態だったので、大学の購買部まで自転車をこいででかけて本を買ってベンキョーしたりした。 まことにませたガキで、しかし、このひとしれぬ背伸びのせいでサンスーがかなり向上したもののよーだった。 冬のキッチンのベンチとかで、トマトスープを飲みながらコンピュサーブのソフトを起動すると、ピー・ヒャアー・ピーというマヌケな音がして、ビーン・ビカアーン・ビカビカビカとゆってつながるコンピュータ通信というものは、わしにとっては「オトナの世界」への入り口で、わくわくする時間だった。 SE30は、相当ながいあいだ使っていた。 5年間くらいも使っていたかもしれません。 大きな理由はハイパーカードで自分でスクリプトを書いてスタックを作って遊ぶこのソフトウエアには、どうゆえばいいか、「しあわせな感じ」があったと思う。 使ってるあいだじゅう、なんとなく幸せで、自分で作った表計算ソフトは、お小遣いをたしていこうとすると枠だけが上へずれていって、数字から「脱げて」しまうというチョーへんてこな表計算ソフトだったが、それでもロータス1-2-3なんかよりも、ずっと大好きな「ガメ1-2-3」で、後年、オカネみたいに下品なものを、そんなに嫌がらずに普通に扱えるようになったのも、この自作ソフトのせいではないかと思う事があります。 そのあと、ガキながら贅沢にも、IIci+PowerBook、Power Macintoshというふうに買い換えて、というか、買い足していったが、System 6.03を最後にだんだんヘンテコになりつつあったアップルのオペレーティングシステムは、インターネットを使おうと思うとチョー不便だったSystem 7からOS8になると、もう爆裂なバカOSになって、頭に来たわしはもっていたApple 製品を全部ぶち捨てて、好きだったペプシコーラもコカコーラに宗旨替えしてしまった。 わしがSE30を使っていた頃、物理学者である大叔父はNextというコンピュータをもっていて、これは無茶苦茶かっこいいMathematicaマシーンで、どうやら大叔父は研究者用のインチキな価格でものすごく安く手に入れたらしかったが、いま考えれば、もともとはAppleコンピュータが好きだった大叔父も、スカリーのアップルに含むところがあったのかもしれません。 アップルというコンピュータのよさは、よく考えて製品が出来ていたことで、事務機や計算機であるより、たしかに「パーソナルコンピュータ」であるような気がした。 電気回路を設計して自分でものを作る人は判ると思うがキーボードにソフトウエア電源スイッチを付けて自分自身の電源をいれたり切ったりする、というのは、危なくて、少なくとも当時は、ハードウエアとしてはかなり滅茶苦茶な思想です。 しかし、多分、手元のキーボードから電源のオンオフがやりたくて仕方がなかったエンジニアは躊躇せずに仕様として採用した。 わしなどは、もうそれだけでも、アップルコンピュータを設計しているひとたちの「興奮」が伝わってきて、いいなあ、と思ってしまう。 もうひとつはデザインで、わしはいまでもあんまりウインドウズ系のコンピュータで何か書いたりする気はしないが、それは何から何まで、デザインがクソだからで、見ていて気分が悪くなる、というか、画面のデザインから色使いまで、どうやったらこんなにダメになるのだろうかと訝るくらいひどい。 とどめはフォントで、いっぱいあるのはわかるけど、Helveticaのようなフォントですら、なあーんとなく根性の悪い姿をしている。 アップルの持病の「囲い込み」、いまで言えば、絶対に壊れるように設計したとしか思えないクソデザインの「独自仕様」電源ケーブルやビデオの出力にかけたプロテクト、周辺機器やソフトウエアを独占しようとする姿勢や、同じ閉鎖性でも、一方ではiPhoneを強制的に行儀良くさせてアンドロイドの3分の1しか通信サーバに負荷をかけない方式への縛り、よいほうも悪いほうも、いかにもスティーブ・ジョブスの狭隘で陰険な性格まるだしで、あの強烈な、壊れかけた自己を抱えて荒れ野を彷徨っているような創業者が死んだあと、アップルは、どんなふうになっていくのかなあー、と思う。 Windowsマシンのほうは、わしは長い間、ケースさえなしで、木で組んだワゴン棚みたなものに適当にマザーボードやHDDをガムテープとかで貼っつけてコンピュータとして使っていた。 製品ぽい形をなしているのはふたつの30インチディスプレイだけで、ちゃんとコンピュータぽい顔をして机に座っているのは、あのぶち捨てたPowerMacのあと、キューブを買い直して、白いIMac 、いまは27インチのCorei7iMacです。 ノートブックコンピュータも東芝やVaioも持ってはいるが、使うのは殆どMacBookProかMacBookAirで、電話はアイポン、普段家のなかで手にもって歩いているのはiPad で、もっかはアップルだらけの生活になっている。 しかし、うるさいことを言えば世界を変えるのは、もう手元の端末の側ではなくてネットワークの側に移行してしまったのに決まっていて、フェースブックのようなイモなサービスがひと息ついた頃にあらわれそうな、現実世界から(ヘンな言葉だが)仮想世界のほうを見るのが終わって、仮想世界の都合で現実世界のルールが変わらざるをえなくなるサービスがあらわれるまで、すぐだという気がする。 … Continue reading

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誇り

義理叔父は東京の人間だからだろう、関西の話が好きで、「日本にはきみの知ってる東京とは全然違う関西というところがあるんだけどね..」とゆってときどき話をしてくれたものだった。 東京人の癖にかなり関西が好きだったもののよーである。 「8」(エイト)というフレッシュジュース屋の話をよくしていた。 道頓堀にあって、義理叔父は若いときから関西に用事があるたびに出かけていっていたらしかった。 いま、インターネットで見てみると、2005年くらいまでやっていたようで店主が大正8年生まれであったのが「8」の由来だとあるから、86歳くらいまで店をやっていて、 義理叔父が始めて行った頃は、店主は60代であったことが判る。 従兄弟とふたりで義理叔父に連れて行かれたことがあるが、たまたま休みだったのでしょう、閉まっていた。 いまはもうないはずの「食い倒れ人形」の向かいだったと思うが、道をはさんだ反対側の路地をずううううっっと行くと、奥のつきあたりに「8」とだけ書かれたドアがあった。 ドアを開けると道頓堀に向かって大きな窓が開いた明るい空間がある。 義理叔父がいちばん初めに行ったときは、自分の祖父の友人で子供のときから見知っていた電鉄会社の社長と電機会社の会長が並んで座っていたというので、きっと、関西の財界人たちが好んでやってくるところだったのかもしれません。 電鉄会社おっちゃんがいたのは運がよかった。 店主のじーちゃんがたいへん気難しいひとであったからで、おっちゃんが、この店にはメニューないんだよ、頼むと、このひと怒るからね、とオモロそうにゆって笑ったり、店の「しきたり」を教えてくれたからでした。 義理叔父がどーしよーかなー、と思っているとテーブルにいた3人がメロンジュースを頼むので同じものを頼んだそーである。 じーちゃんは並んだミキサーの向こうから義理叔父をじっと見て、 「にーちゃん、違うもの頼んでも、わしはかまわんで」という。 電鉄会社おっちゃんが水をふきだしかけるほど、うつむいて必死に笑いをかみ殺し、他の客は呆気にとられている。 「8」では、ひとの注文に相乗りして同じジュースを頼むのが一種の礼儀になっている、と教えてもらったのは店を出たあとだったという。 じーちゃんは、自分が「偏屈な店主」と思われていることに微妙な反発を感じていたもののよーである。 コップを4つ並べて、ミキサーをぐわらんぐわらんとまわし、端から順にジュースをまんべんなくいれると、4つのコップに丁度すりきりいっぱいにジュースがはいってミキサーのタンブラーもぴったり空になる。 じーちゃんは、暫く感に堪えたようにコップをみつめて、あごをさすって、感動を隠しもせずに、満足の吐息を洩らしたそーでした(^^) 義理叔父はいっぱつでじーちゃんが好きになって関西に行けば必ず寄るようになった。 たったそれだけの話を義理叔父が繰り返し繰り返し従兄弟やかーちゃんシスター、わしに語ってきかせて、「もう聞いたって、ゆーとるやん」と嫌がられるのは、多分、認知症の初期症状なのではないかと思われるが、わしにはなんとなく気持ちがわかるような気がしなくもない。 義理叔父は、むかし、かーちゃんシスターやかーちゃん、妹、わし、というような眷属のひとびとに「日本は、どーしよーもない国だな。反省しなさい」と迫られると、いろいろ取って付けたような「日本の良い所」を述べて、日本とゆえど、ぼくだけがえらいんだもん、女なんて劣等じゃん、という男が支配しているだけのヘンタイ国ではなくていいところがちゃんとあるのだ、と述べて応戦したものだった。 終いには身体が小さくて摂取カロリーが小さいので地球の食糧危機解決に貢献しているというような鋭すぎる説までもちだして愛国精神を発揮していたりしたが、そういうショモナイいいわけのうちで、「日本人はどんな職業でも誇りをもって一所懸命工夫する」というのだけは、かーちゃんとかーちゃんシスターの意外なほどの賛同を得たので、これが日本擁護のいち定番になった。 西洋社会ではたとえばウエイトレスは「仕方がないから」やっている。 ハリウッドのレストランに行くと、ものすごくプロフェッショナルなウエイトレスがいて、「今日のおすすめ」を説明するのに、舞台に立った女優のように、というか、あるレストランでは実際にテーブルの上に飛び乗って、歌をうたうように暗記した長い「今日の特別メニュー」のリストを説明する。 オカネモチのなかには200ドルの食事のチップに200ドルおいていくひともいます。 しかし、このひともテーブルへの皿の出し方というようなものは欧州のチョー高いホテルのレストランの5分の1もちゃんとはしていない。 うまく言えないが「ウエイトレス」としてプロフェッショナルなのではなくて、パートタイムジョブでウエイトレスをやらざるをえないが、どうせやるなら徹底的にやってちゃんと高額のチップを手に入れよう、という考えであるらしい。 素晴らしい考えだが、わしがここで考えている「誇りをもって仕事をするウエイトレス」とは少し異なるよーだ。 これがニュージーランドになると、露骨にパートタイムジョブ、というか、 クライストチャーチのいまはもうなくなったカテドラルに近いインド料理屋のテーブルに座っていると、なんだかスリッパのようなものをはいて日本語では「ジャージー」という、あの、ずろっとしたパジャマが努力不足で外出可能な服になりそびれたような服を着た女の子がモニ妹わしに向かってずったらこずったらこずったらこと歩いてくる。足をひきずっておる。 な、なにごとならむ。物乞いであろーか、それともゾンビだったりして、と一瞬はしる緊張の向こうから 「オーダーの準備できた?」という声がする。 ウ、ウエイトレスだったのか、と狼狽しました。 ぜんぜん、そーゆーふーに見えないやん。 あるいはサムナーのバーでビールを飲んでいると、横の上品なおっちゃんが、ダックのブラウンソースを頼んでいる。 カウンタの向こうのにーちゃんがもう冬だからgameもいい考えだな、という。 おっちゃんは顔をしかめて、「ダックはgameじゃないさ」という。 にーちゃんは、ええええええー、という顔で、ダックがgameじゃなかったら、この世の中には金輪際gameなんてないじゃないか、という。 … Continue reading

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An Ordinary Life

(ちょっと理由があったので、普通のニュージーランド人の物質的生活について初めに書いておくと、) 父親が古道具屋で買ってきて自分で緑色のペンキで塗った、日本の家具で言えば勉強机くらいの小さなテーブルがあって、それが一家4人の朝食のテーブルなのである。 朝食の時間になると、トーストスタンドを囲んで一家4人がでかい身体をくっつけあうようにしてトーストと卵とベーコンの朝食を食べる。 両親とも高校の教師で父親は数学母親は家庭科の教師をしている。 300坪くらいの敷地に、それがイギリス式の建て方というもので建物が道路に面して建っていて、ひとからは見えない反対側に「バックヤード」がある。 フロントヤードをつくるのが普通なアメリカ人との大きな国民性の違いをあらわしている。 スリーベッドルームという。 ニュージーランドでは最も多い家の構造です。 家からはいった直ぐが台所で、その向こうにラウンジがあります。ラウンジの横には「ダイニングルーム」があるが、これは通常(考えてみればヘンな話だが)店のディスプレイのようなもので、おおきなリムのテーブルにはランナーという長い布がまんなかを走って、燭台があり、八脚の椅子がきちんと並べてあるが、実は普段は使いません。 客がきたときだけ使う。 客がきたときには、食器もいつもの食器洗い機にどんどん放り込んで洗えるスポード http://www.spode.co.uk/ やイタリア風の白い食器ではなくて、普段は飾り棚めいたキャビネットにはいっている、もっと良い食器を使う。 普通はではどこで夕飯を食べるかというと台所の脇の畳で言えば6畳くらいの空間にもっと小さな6脚椅子つきのテーブルがあって、そこで食べます。 ラウンジにはいったところを右に行くとふたつ子供部屋が向き合っていて、左に行けば両親のマスターベッドルームがある。 右にも左にも行かずにそのままラウンジを突き抜けてしまえば、薔薇のある花壇や巨大な楡の木が枝を揺らす芝生を張り詰めた庭を見渡せるテラスがあります。 ウエザーボードと呼ぶ板を張った白塗りの木造の家は、日本のように「間取り図」というものがないので、精確な広さがよく判らないが、多分、300平方メートル弱の床面積であると思われる。 四筋ほど離れた通りから、この通りに越してきたのは母親の希望であって、前の通りよりも地域は同じフェンダルトンだが、だいぶん良い名前だからです。 母親の見栄ということもあるかもしれないが、実際、ニュージーランドの社会では通りの名前がよいところに住むのは家を売るときに売りやすくて、しかも高い値段であることを意味する。 通りの景観にちょっとでもそぐわない家を建てるひとが出ると、近所の人間が総出で抗議にあらわれて、色を変えろ、なんじゃこのデザインは、といって怒るが、そういう反応が起きるのは「自分の家の値段がさがる」というごく直截で簡単な理由があるからである。 子供部屋の奥にシャワーとトイレだけのバスルームがひとつ。 ラウンジの脇にもやはりシャワーとトイレだけのバスルーム、 奥のマスターベッドルームにはオンスイートのバスタブもあるやや大きめのバスルームがある。 両方とも高校に通っている息子と娘は、通りのクソ名前などはどーでもよいから、前の家のほうがなつかしいなあー、と考えている。 家はややぼろかったが、なにしろ子供ボート用の桟橋があるのがクールであった。 近所の友達と遊ぶのに、自分達のボートででかけていけた。 どの家にもツリーハウスがあって、木にかけたはしごで登ってたどりつく樹上の家は、近隣のガキどもの秘密基地として機能していた。 雨の日には悪の組織から地球を守る計画に熱中した。 それに較べると、こんどの通りの住民は、なああああーんとなく気取りくさっていて、おもろくないよーな気がする。 自動シャッターがついた車庫にはクルマが2台はいっていて、1台は父親のフォードのステーションワゴン、母親はホンダシビック、両方とも10万キロ近く走っているので、もう買い換えたいが、オカネが足らんのでそこまでは手がまわらない。 息子も娘も制服で歩いて近くにある高校に行きます。 ニュージーランドでは良い学校の校区であるかどうかで家の値段が二割くらい違うという。 校区から外れてなお「良い学校」に行こうとすると私立に行くことになるが、こっちは無茶苦茶学費が高いので、そのくらいならローンを積んで「良い通り」に越した方がよい、と考えるのが普通であると思う。 平均年収は、わしが子供の頃は義理叔父が日本の半分、とゆっていたのを憶えているが、いま見ると2011年の資料(USドル)でニュージーランド人が29050ドル、日本が42150ドル、日本の七割くらいであるよーだ。 上で仮想している例であれば、両親の収入があわせて12万ドル、日本円で800万円くらいであると思われる。 「それじゃ全然平均じゃねーじゃん」と思う人がいるであろーが、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカという三国は貧富の差が激しいので有名なので、数字上のまんなか(この場合だと共稼ぎで60000ドル弱)は中の下という階層をあらわす。 15年も遡るとニュージーランドという国はなにしろ家がチョー安い国で、ここで考えようとしている家族が住んでいる家も500000ドル3200万円も出せば買えたに違いないが、いまなら1milを超えて、8000万円くらいは必要でしょう。 前の家を5000万円で売って、差額の3000万円を10年ローンくらいで払っているというくらいが平均である。 ホームローンが6%であるとして(伝統的には9%内外だが、ニュージーランドもご多分に洩れず超低金利時代なので、実際ファーストホームローンは6%以下です)、一箇月3300ドル(23万円)づつ支払いをしていることになる。 12万ドル、すなわち一箇月1万ドル(65-70万円)は無論グロスで数えているのでネットになおせば、7500ドル程度、すなわち50万円程度の月収なので、ホームローンの支払いをしたあとの27万円で一家4人が暮らさなければならない勘定になります。 … Continue reading

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のんびりした破滅

手遅れ、という。 MLBの投手によくあるようにボールを投げる手が身体全体の動きに較べて遅れてでてくるので打ちにくいことをいう。 というのはもちろんウソで、悪化してゆく事態に、もう手の施しようがなくなると「手遅れだあー」というようなことをいうことになっている。 このブログ記事の前の方にいくと、「女びとも人間であると認めないとだめだぞね」とか「経済よりも財政を急いで考えないと経済政策も身動きできなくなってまう」とか「手順を守るということを忘れて、そんなええかげんなことやってたら破滅的事故おきるとおもう」とかいろいろに書いてある。 このブログはゲームブログだったが、反応はややおおきなもので、そのうち、そんなに気に入らなければ読まなければいいだけなのに、こわいものみたさで読んでしまうひとびとがあばれだして、 ヴァンダル族の襲撃のようなことが何度かあったのは、前にも書いた。 あんまり怒らなくなったね、とゆわれるが、成熟して温和なおとなに成長したのであって、もうすぐ30歳になるのだからあたりまえです。 すべりひゆに、「もう日本はダメだとあきらめたのではないか」とゆわれてぎょっとしたことがあったが、そんなことはありません。 日本全体が改革可能なところにいたのは、基本的には2007年頃、小泉首相の頃までだったと考える。 この大層評判がわるかった首相は外国人にわかりやすい形で「日本の旧体制を変える」といいきった点で魅力があった。 簡単にいえば日本の均質社会を支えている膨大な予算を使っておこなわれている社会保障をも削って、政府とその周辺団体が抱え込んでいた巨大なオーバーヘッドを削減しようとした。 日本のひとの反対は、それはすさまじいもので、わしの五年間11 回に及ぶ「日本遠征計画」と小泉首相の在任期間は半分が重なっているので、よく憶えているが、西洋風の競争原理を導入される事への社会の本能的な拒絶というのに近いものがあった。 小泉首相が官僚機構という風車に体当たりしてぶつけた槍の穂は折れて、改革は失敗した。 官僚の手強い抵抗は、たとえば外務大臣に川口順子をつけてみせるような、勘所をつかんだ、そーゆーいいかたをすれば玄人をうならせるような凄味のある人事の才能でもって、ある程度粉砕されたが、国民が改革を望まないのだから、敗北するのは当たり前で、官僚とマスメディアの阿吽の呼吸でする「イメージづくり」も手伝って、排斥された。 振り返ってみると、この辺りで、外国人たちにとっては勝負がついてしまったので、なぜかといえば、小泉首相がやめてしまえば、まわりを見渡して、自分達にわかるような改革(日本のひとにとっては改悪)ができそうな人間が見当たらなかったからである。 わしは小泉首相退陣の頃はすでにチョーテキトーな冷菜凍死家だったが、「これで決まりだな」という連合王国人たちの囁きあいをおぼえている。 あとは、先延ばしの腕前を発揮してもらって、少しづつ、ゆっくり、できれば50年くらいかけて、退場していってもらえれば恩の字である。 当時の予想では、このブログ記事に何回もでてくるように、2025年が日本の顕著な没落の始まりの年であろうとされていた。 2025年というのは、どういう年かというと、世界的に言えば資源の取り合いが可視化されて、いまは「資源のとりあいなど結局は起こるわけがない」と、のんびりしたことを述べているヒョーロンカのひとびとも、自分の家のトイレットペーパーの備蓄を心配しなければならない、というのはジョーダンだが、やっぱり資源て足りなくなるんだな、と認めざるをえなくなる年であると思われる。 世界が、この年を分水嶺とする予測される巨大な変化のために体力をつけようとしている、目標のような、もう一段厳しくなる生存競争のスタートのような年である。 言い換えると世界中の国家と個人が2025年あたりに予想される新しいとゆえば聞こえは良いが無慈悲な蹴落としあいになるに決まっているいまよりも何段も激しい競争の年に備えて力を蓄えている。 日本では、旧来の年金制度に固執したことによる社会保障の破綻、財政破綻、(自動車など)旧世代製造業の死滅と産業構造の転換を怠ったことによる産業の喪失、だいたい、そーゆーなことがいっせいに開花して、そこまではどんな危機にさいしても「ほんとーはダイジョーブだ」という理屈をこねるための卓越した詭弁の才能において世界的にユーメイな日本のひとがさまざまにいいなして、なんとかもっともらしく体裁を繕うだろうが、ここまでもたせたという正にそのことによって、蘇生の方法が考えつかないような「悪い」つぶれかたをするだろう。 わしは「日本のひとのことだから、わしらが考えも及ばないような方法で復活しねーかしら」と漠然とおもう一方で、冷菜凍死家としては、いままでも日本にオカネを投じたことはいちどもなく、これからも絶対やだ、と思う。 そんなこといって4軒、家もってたやん、というひともいるだろーが、自分の家を凍死の対象とおもうひとはいないだろう。 だって、自分から家賃とれんやん。 いまの世界のやらしい点は「先延ばしの術」に長けていることで、解決はしない、しないどころか着々と悪くなるが、ずううううっと、ずうううううっと、破綻点を先にのばすのが得意である。 この術の極意を伝えた先達の重要なひとりは日本です。 国内市場においても各国間の意思の疎通においても、情報が十分に行き渡るようになると、破綻の開始点が明らかになるので、それを避けるために参加者全員が努力を集中することができる。 1929年の大恐慌のようなことが起きるのではないか、というひとがいるが、わし自身は、ああいう市場の「ドラマティックな死」がありうるとは思いません。 なぜそういうことが起きないかというと、あの頃の市場は情報の隠蔽と遮断によって利益をあげるのが原則だった。 インサイダー取引はあたりまえで、株価を意図的につり上げておいて売り浴びせることは違法でなく合法で、合法どころか、定石だった。 当時、大金持ちになりたかったひとびとには、そうやって恣意的に市場をあやつるひとにぎりのひとのクラブにはいれるかどうかが問題だったので、はいってしまえば、巨富が約束される経済世界だった。 エンロンが1928年の会社であれば、うらやまれこそすれ、社会的に罰せられたりはしなかった。 通常パニックは情報の遮断とそれによって生まれる相互不信によって起こるので、情報の不正な遮断が刑事罰の対象になるいまの市場ではパニックは起きる可能性が低い。 (チョーよけいなことを書くと、いまの野田政権はフクシマの事故処理において、どちらにしても起きえなかった眼前のパニックを避けることに近視眼的に熱中するあまり、実はパニックを準備していることになる。このあと、たとえば「もんじゅ」がぶっとんだとすると、ここまでで自分達が真実の情報から遮断されているのではないかと十分に疑っている日本のひとたちは一大パニックにはいることが予想される) あんまり良いたとえではないが、ちょうど本来爆発的な反応である核分裂の連鎖反応をおくらせて、ゆっくりにすれば制御可能な反応になるようなもので、ものごとが急速に展開することを徹底的に妨げれば、破滅が停滞しているうちに知恵が出て、なんとかなってゆくだろう、というのが現在の人間がもっている市場へのスタイルであると思われる。 また、そうやって市場の反応を遅滞化させてゆくと、失業率が予想より低かった、貿易収支が予測ほどひどくなかった、とゆって、株価なら株価が上昇する局面が必ずあり、小局面でもあがる場面があれば、プロはそこで稼げる。 日本から発祥して世界に蔓延しつつある「先延ばし」型の問題解決の良い点は、いますでに市場に参加しているひとびとにとっては世界の経済そのものが「他人事」ですむことで、FRBの議長もゴールドマンサックスの役員も幹部社員も、個人としては、物事が延々と先延ばしされてゆく限り自分の生活が破綻するということはない。 退職して年金とブルーチップ株の配当とで食べているひとたちにしても、とりあえず来年の心配はしなくてもすむ。 … Continue reading

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文明の相貌

雨の日の大通りの舗道に面したカフェで痛風を抑えるための錠剤をばりばりかみながらビールを飲み続けるGの姿、というようなものが、わしの「文明社会」のひとつの映像になっている。 Gは、わし友人のなかでも特に頭の働きが優秀なひとで医学を専らにしている。 医学、と言っても、なにしろ自分のなかに狂気があることを発見して、高校生当時の知識では、本やネットをどう渉猟しても不治の病で年齢が重なるのと一緒にゆっくりとしかし確実に理性を失う発狂に進むしかない、と「発見」した結果の医学専攻なので精神科医です。 もともと温和な性格のひとで、しかも冗談が巧みで、歩く博物誌と呼びたくなるくらい森羅万象のことごとくをなんでも知っているひとなので、わしは、よくGと、わしらが住んでいた小さな町を散歩した。 ときどきヘンなことがあって、たとえば、ある冬の日わしらはいつものように町を散歩して行き交う友達の誰彼に挨拶したり、冗談に笑い転げたりしながら歩いていたが、ラテン語の木の看板を出している店の前にさしかかると、Gが「ラテン語の看板なんて許せないな」という。 そー?、と意味がわからないのでテキトーに返事をする、わし。 Gは、あっというまに看板の店に歩いて行くと、 「おい、おまえらは、俺がラテン語が出来ないと思って嘲笑しているのか。 ふざけるな、馬鹿野郎!」と怒鳴って表に出ていた商品を載せたテーブルを蹴り倒してしまった。 そーゆーひとです(^^) ところで、義理叔父の友達にこれとそっくりのひとがいる。あんまり詳しく書きたくないが、ラテン語をドイツ語に変えて、小さな町を下北沢に変えれば、義理叔父の友達が、下北沢のすぐ近くにある大学の教養課程のときに起こした「小さな出来事」と、そっくり瓜二つであると思う。 なんというヘンなことを言う奴だろう、と思うだろうが、わしが「文明」というとき、理屈の表層ではなくて、奥底には、こういうひとたちがいる風景、というものが前提されている。 1918年に欧州の文明はいちど死んだことになっていて、そしてそれは事実だが、その後も文明のかけらは欧州人の生活のあちこちに散らばって、血を流しながら息絶えてゆく、というような形で気息を奄然とさせながら痕跡として生き延びてはいた。 たとえばわしが子供の頃はまだ、かーちゃんの買い物に付き合っていて気分が悪くなって隠しきれなくなると、街のあちこちにあったちゃんとした紅茶をいれてくれるレストランで、ポットから注がれる紅茶にミルクをいれて、爽快な気分を取り戻したりしていた。 紅茶という飲み物は、要するにそういう飲み物で、当時は、まだ紅茶という飲み物に文明の力がこもっていたからです。 あるいは、北へ旅行してヨークというような町へ行くと、夕暮れどき、ラグビーグラウンドを照り渡す濃いオレンジ色の夕陽が息をのむように綺麗で、いかにもいまやどこかへ去っていきかけている文明の名残が挨拶を送っているとでもいうような、さみしい感じがした。 よいわるいというようなことではなくて、ただ避けようもなかった変化として、いまのイギリスは移民の国で、わしが子供の時に去って行く最後の姿を目撃した「伝統的なイギリス」は、もちろんすでに街の通りにはあとかけらもない。 改装を終えたばかりの公園を見渡すペントハウスのなかで開かれた芸能人やマスメディア人の姿がちらほらと見えるパーティや、水曜日や木曜日という不思議なタイミングで開かれる、トレイに載せられたRSVPで始まる、こちらは金輪際芸能人の姿などみかけることはない、入り口で渡されるシャンパンで始まる、ひそひそとした会合のなかにかろうじて生きているだけである。 無神経で有名なおっちゃんが、ある種類の人間が集まる会合で、あからさまなスピーチの途中で「ロンドンが白くなり始めてから」とゆって、会場の男達のなかにおおぴらな笑い声をあげるひとと、それよりも数が少し多い、かすかに眉をしかめた顔とが混在して、一方では女びとのほうは殆どいちように聞こえなかったというような、気まずい表情になるひとが多くて、なにごとによらず観察するのが好きなわしをすっかり喜ばせてしまったことがあったが、このおっちゃんが「白くなり始めてから」というのは、ひところはアジアのひとが目立ったロンドンの街の店員やウエイターやウエイトレスが、東欧とロシアからの移民が爆発的に増加したことによって、都合良く、また白色人種化したことを皮肉としての述べている。 外国からの観光客が好んで行く、ガイドブックに載っているような「由緒正しい」レストランや店で働いているひとは、殆ど東欧人で、たとえば、わしの大好きなチョコレートサンドイッチがあるWという店はマネージャーはニュージーランド人だが、給仕してくれる陽気なひとびとはプラハやワルシャワから来たひとたちである。 あるいはリーゼント通りにある品物のよい服を売っている店のひとつはてきぱきと働く日本のひとたちが気持ちのよい店だが、胸に小さな日本の国旗のバッジをつけていて、 それを「日本語が話せます」という意味にとるのは難しかったので、複雑、というよりは、あんまりおおっぴらに論議をするとそれそのものが抑圧になりそうなことどもについて考えさせられてしまう。 見えないものは、こわい。 人間の言葉による思考というものが感覚器が受容できる刺激におおきく依存しているからで、日本のひとがいまどう考えればよいかとりかかりがつかめなくて、まともな人間ほど困じはてている環境化した放射性物質というようなものは、人間には本来、たしか日本語では「演繹」という訳語になっているはずの「deduction」の力を借りなければ考える事すら出来ない。 本来inductionによらねばならないはずの議論がdeductionによってしか出来ないところに、放射性物質の害についての議論の、たちの悪さがある。 あらっぽいことをいうと「文明の本質」というようなものも同じで、文明の普遍性という、文明というものが必ずもっているはずのものから派生する共通性、とゆって悪ければ共通にもった匂いのようなものは、本来、見えないのである種類の人間がみせる傾向や、もっと言ってしまえば一瞬の表情のなかにしか文明はほんとうの姿を見せないのだとも言える。 日本のひとには、もちろん誰にでもというわけはないが、そーゆー「文明が病気のようにみせる症状」がちゃんと備わっていて、あるいは備わっているひとがいて、むかし文明が日本にもあると思うか、と当の日本のひとに訊かれたことがあったが、そのときはうまく説明できなかったが、 自分の頭のなかでは、考える必要もない、二三人のひとびとが折にふれてみせた、表情のことを思い出せば足りたのだ、ということを書いて、この記事はここまでにしようと考えます。

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内なる国境を越える

70年代の終わりにレソト http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/lesotho/data.html で教職についていたひとびとの話を聞いていると、「アフリカ」というものを考える為には西洋的な視座はほとんど無意味であるのがわかる。 むろん、日本のひとにもいなくはない、植民地化した欧州人がすべて悪いので善良なアフリカ人の生活を引き裂いてしまった結果、不幸な争いが起きてしまった、というような視座も何もない明治座でしか通用しない歴史観もむろんダメである。 週末になると土嚢をつんで機関銃を台座にすえて学校の備品を狙って襲来する山賊と戦っていた雑多な国籍の教師達は、「教育」という考えを根付かせるべく頑張るが、最後は結局、学校に行くのが嫌な一心の子供に煽動された大群衆の暴徒化した親たちがやってきて物理的に学校の建物を引き倒して破壊してしまう。 教師たちは、教育の拠り所を失ってちりぢりになってゆく。 週末、ロンドンのレストランで、教師達の驚くべき話を聞きながら、一方で、物語の随所にあらわれる細部もわしの記憶に鮮やかな印象を残した。 ひとつはレソトでも「部族」が最も強い結び付きをもつ集団で、国境も県境も部族的な事情がわからない欧州人やアメリカ人たちを利用して自分達の領土的野心に都合が良い線をひかせてゆく。 大臣の地位も同じことで、閣議はもちろん、もっと下級な委員会でも報告者が膝行を求められることがあったという。 言うまでもなく「遅れている」ことと「異なる」ことは本質的に違うふたつの事象であるというよりも、どこに立って見ているか、ということに依存している。 アフリカ人にとっては膝行が象徴する世界こそがアフリカなので、政府のなかであれ、外であれ、それがなくなってしまえば「アフリカ」そのものを失ってしまうことになる。 「国境」はレソト人にとっては権力が拮抗する線であるという意味以外にはなんの意味もなく、従って、国家というものと自分が属している集団とが重なるということもない。 国境というものが、ちゃんとした隣家との取り決めもなく勝手に作ってしまった塀と同じ意味合いしかもっていないのです。 あるいは、もう二年するとスコットランドは連合王国を解消して再び独立王国となるかどうかの国民選挙を行うことになっている。 http://en.wikipedia.org/wiki/Scottish_independence 日本ではスコットランド人が連合王国を解消したがっているのを冗談の一種かなんかだと思っているひとが多かったので驚いちったが、スコットランド人にとってはたいへんマジメな話であって、スコットランド独立派の俳優のショーン・コネリーなどはひところは24時間イギリス諜報員の監視下にあった。 現実には2年後はタイミングが悪すぎた、というか独立の目玉のひとつであった通貨のユーロがへたってきてしまったために、スコットランド人にとっては独立のメリットが随分目減りしてしまったのでいちばん最近の世論調査では25%に満たないひとしか独立を希望していなかった。 スコットランド人の独立がどうなるかを息を飲んで見つめているカタロニア人のほうは、もう少し多いひとびとが真剣に独立を望んでいるが「人口が少なすぎて独立のメリットがない」というフランス側カタロニア人の共同体の意見が、やはりだんだんに浸透してきてしまっている。 考えてみるとスコットランドとカタロニアの独立の場合は、「国境」と言ってもごくゆるいマーキングを意味しているだけであって、それはもちろん、このふたつの集団にとっては近隣との国権的対立が最大に緊張したものではないことによっている。 チベットを独立国だと誤解している人は多いが、それは誤解のほうが正しいのであって、チベットを中国の部分とみなすことにはひどい無理がある。 ちょうど沖縄と日本の関係に似ていると述べた中国系アメリカ人の友達がいたが、沖縄人はあれほど日本人に一方的に踏みつけにされながら、やはり日本の一部であることを(屈折のなかで)望んでいるようにみえるがチベット人は歴史的に中国の一部であることをのぞんだことはない。 どちらかといえば、戦前の半島と列島の関係に似ていると思います。 この場合は国境がないのに「国」の対立はある。 チベット人にはダライラマを中心とする仏教的結びつきがあるからで、中国がパチモンのダライラマを立てて、「こっちが正統だ」と述べ立てることには、だから大きな本質的な意味がある。 日本人と韓国・北朝鮮人にどれほどの違いがあるかというと、傍目には「何の違いもない」としか言いようがないところがある。 言語は違うが、言語の構造は極端なほど似ている。 文化や情緒も儒教の皮をはがした奥の底のほうで通底している。 なにもかもが似ている。 「似ている」ということの内容が生理的な仕草とか咄嗟の反応や感情の動きかたであって、少なくともわしには見分けるのは全然無理です。 日本人の友達にその話をすると、ごくふつーの知識だという趣で「それは韓国のひとがいまの文化を日本を真似してつくったから当たり前なんです」とゆっていたが、あのひとは、百済観音をおもいだせばすぐに判るが、もともと日本文化のほうが…そういう言い方をすれば…半島人の「マネ」であったことを忘れてしまっている。 形への美意識ひとつとっても半島人と日本人はともに流麗な柔らかい線が好きで半島人や日本人の工業デザイナーの作品には「流線型」が多いのでもある。 ゴルフレンジに行くと、よく年長のゴルファーが若い初心者に手をそえ、腰のひねりかたを実演して(^^) ゴルフを教えているのに出くわすが、そういうときの熱情的な調子、どことなく軍隊風な感じ、まるで親子のような情愛のもちかたが、半島人は日本人にとても似ている。 外見で「あっ、きっと韓国のひとだな、これは」と思うのはチリチリにパーマをかけた髪型がずらりと並んだおばちゃんたちに遭遇したときで、これは多分田舎のひとなのでしょう、世界中ででくわす韓国の団体観光客である。 一方で、なんとなく陰気くさいテニス帽もどきをかぶって、おそろいと言うに近いベストを着て、みな同じ不思議な歩き方で道をぞろぞろと渡っているのは日本人であると見てすぐに判る。 あるいは韓国料理店に声高に話される賑やかな英語ではいってきて、態度物腰がアメリカ人ふうであって、ガムをかみながら、あるいは(アメリカ語でいう)ソーダをテーブルの上において、足を放り出して座っていたのに、店のひとがくると、突然文化圏をワープして移動したひとのように「儒教的」と言いたくなるような謙譲で恭謙な態度になり顔の表情まで変わる。 半島人であるなあ、と見ているわしのほうは感心してしまう。 日本のひとのほうは髪の毛をたいてい染めていて、服がやや細かいところに凝っている 色も線も、軽く、軽くみえるように工夫してある、というように見えます。 戻ってゆく「儒教的な家」がないので、態度が豹変するということはなくて、なんとなく形が壊れてゆらいでいるような佇まいである。 おっさんたちは、少なくとも、両者まったく同じで、なんとなく尊大に構えていて、 … Continue reading

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ワインの香り

いまの世界で最もワインに詳しいのは香港を始め中国沿岸部大都市の成金だろうと思われる。 「ワインクラブ」というようなものが各地にあって、該博な知識をもつソムリエが常駐し、成金おっちゃんたちがクラブにやってきてはワインについての蘊蓄を傾け合う。 考えるだけで血湧き肉躍る光景ではある。 血が沸きすぎて脳溢血で倒れる欧州人もいそーな気がする。 クライストチャーチに初めて「本格輸入専門ワイン店」が出来たときの惨状は目もあてられないものがあった。 わしの好きなワインもあるよーだ、と人に聞いたので、どれどれ、と思って出かけていったのだが、そこには例の蘊蓄族というオバカなおっちゃんたちが山のようにいて、アクセントまで普段は使い慣れない上品風アクセントになって、プラムを口に含んだまま話すひとのように薄気味わるい話し方で、ノーズがどーだ、色がどーだ、カシスはうんたらだと述べくるっているのであって、後ろでオカンジョーのために立って待っていたので延々と続く蘊蓄を聞かされていたわしは、おっさん、あんたが手にもっている、そのボルドーでどたまかちわったろかと、もの静かに考えたりしていたものだった。 物語の多重性、という欧州ではむかし流行った物語のつくりかたがあるが、あーゆーにっちゃらねっちゃらした田舎者ぽい文学とワイン衒学と紅茶蘊蓄には共通したやりきれなさがある。 ロンドンの「上流」ガキが、ワインなんか知るかよ、になって週末がくるたびにヴォッカをいれすぎたカクテルを鯨飲して「愛してるっていってるだろが、こんにゃろ」というよーな激しく文学的な歌詞の曲の強烈な音のなかで踊り狂うことには、そーゆー背景もあるよーだ。 ワインの飲み方、というものには、明らかにお国柄というものがある。 フランス人は意外にいまでもちゃんとしている。 ちゃんとしている、というのは、「適正なワイン」という規範を頑として譲らない人が多い、という意味で、魚料理に赤ワインを頼むと、それが酸味のある軽ううーいピノでも「ほんとうか?ほんとーに、それでいいのか?」と聞かれるであろう。 注文を確かめて、二三歩行きかけてから、踵を返して、テーブルにもどってきて、 「ねえー、やっぱりやめようよ。白にしない?」と言いにくるかもしれません。 夏の午後、ざっかけない店の、通りに出たテラスで友達とのんびり話すには、やはり冷たく冷えたロゼでなければならないし、わしがブルーチーズと書いてマココトという人に怒られたロックフォールのソースをかけて食べるステーキにはシラーくらいの強いワインでないと、もしかすると店の人は二度とテーブルに戻ってきてくれないかもしれぬ。 日本では魚には白ワイン肉には赤ワインと決まったものではなくて、そんなものは迷信みたいなものであるという意見がたくさんあったが、魚を食べるのに赤ワインを頼むのは、わしにはかなり勇気が必要なことであると思われる。どういう種類の勇気かというと「通人ぶっている」と譏りを受けてもへーきだもんね、という勇気であって、かなりコンジョがいるもののよーである。 フランス人は、そーゆーくたびれることをするほど物好きにはなれないのだ、とゆえるかもしれません。 フランスという国のオモロイところは、ド田舎の国道沿いの、長距離トラック運転手が充満しているよーな店のランチ定食でも、ちゃんとフランス料理の基本文法のようなものが守られることで、魚料理は予算の都合で端折られても、食前酒はオプションとしてあり、前菜は断固として供され、たいてい棚にずらりと並んだディジョンマスタードで食べるステーキがあり、大皿に盛られて自分で選ぶ盛大な量のチーズがあらわれ、デザートもまた断固としてテーブルにあらわれ、ディジェスティフをちびちびやって、珈琲にたどりつく。 「様式」というものを未だに骨身にからめて偏愛しているのです。 これがバルセロナになるとチョーええかげんもいいところで、グラシアの裏通りには、わしの大好きな料理屋がたくさんあるが、比較的最近できた高級なレストランは、フレンチっぽい味付けがケーハクになっていなくて、わしは好きである。 大陸欧州というところは外見で社会的地位が判断しやすいというか社会的地位が判断しやすいように外見を繕うということになっているというかなので、一見いかにも大学教授ふうの、というのはつまり大学教授に決まっているが、歴史の本をうんとこさ抱えた、いかにも上流階級のジョーヒンでかっこええおっちゃんがやってきてひとりでテーブルにつく。 ウエイターがテーブルにメニューを置きに来ると 「とりあえず、ビール」という(^^;) まるで新橋の一杯飲み屋に来て、おしぼりの袋をパンッと割る日本のサラリーマンみたいです。 それから、チョウチンアンコウのステーキやなんかを頼んで、テンプラニーニョを飲みながら食べておる。 バルセロナ人は、好きなもの飲めばいーじゃん、というフランス人とはまるで反対の立場であって、これはとーぜんながらマジなシェフの神経を逆なでする態度なので、この頃はメニューの料理のあとに「これ以外のワインは出せません」という風情で、ワインが「指定」してあるレストランもたくさんあります(^^) よっぽど、頭にきているものだと思われる。 該当方式をとっているレストランのひとつは、OOMというホテルにある、とゆえば「ははあーん、あそこか」と思い至るひともたくさんいるだろーが、あれはもちろん有名なレストランで、もっと言うと横にあるろくでもない飲み物しかない妙にだだっぴろくてスカなバーは、バルセロナの上流ぼっちゃんがよくでかけるナンパ社交場のひとつでごんす。 よおく観察していると、暗がりに沈んだ席で、へろい顔をしたにーちゃんがすげー美人のねーちゃんに平手打ちをくらったりしていて、なかなかオモロイ場所である。 OOMのレストランでは日本のひとは皮肉ではなくてお行儀がいいので、ちゃんと指定されたとおりにワインを頼んでゆく。 イギリス人たちは「この通りに頼まないといけないんですか?」と訊ねている。 バルセロナ人たちは、というかスペイン人たちは、あっさり指示を無視して自分が飲みたいワインを頼んでおる(^^) スペインの支配層の、日本やアメリカの政府には思いもよらない苦労が忍ばれるようなコーケイである。 わしがワインとひととの付き合いを見ていて、このくらいがいちばんいいかもな、と思うのは実はアメリカ人たちであって、こういうと大陸欧州人は卒倒するだろーが、ほんとうなのだから仕方がない。 程度がちょうどいい、というか、ワインが好きなひとは熱狂的に好きだが、クライストチャーチのトンマなおっさんたちのように知識をひけらかしたいのでもなく、ただワインという飲み物が好きなひとが多くて、これはしかも東海岸よりも西海岸のほうが「まともなワイン愛好者」が多いよーだ。 ニュージーランドもワイン立国で、天候がもともとSauvignon Blanc作りにむいていたマルボロ地方のクラウディベイワイン http://www.cloudybay.co.nz/Mainpage くらいを皮切りに、世界中にワインを輸出するようになった。 どの程度のワインかというと、いまは死んだフランス人の天才醸造家が 「ニュージーランドの白は疑いようもなく世界最高だ。世界中で、どの国のワインが最もよく出来ているか、と訊かれれば、私は迷うことなくニュージーランドワイン、と答えるだろう」という意味のことを述べたあとに、激情に駆られた人の述べ方で要約した言い方をすれば「だが、ニュージーランドのワインには魂がない。ワインには最も重要な魂が完全に抜け落ちてしまっている」と言っていたのを憶えているが、まことにその通りで、的確な表現と思う。 … Continue reading

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都合のよい真実

おかしーなー。 だってカリフォルニアだって海流やなんかが流れてきちゃって、だいぶん汚染されつつあるわけでしょう? 第一、ほら、「毎日築地から直送!」なんちゃって日本から送られてくる江戸前穴子の一本焼きとかも、連邦政府の顧問やってる日本料理キチガイのT元教授、頼まなくなった、ゆーてたやん。 それなのに、なあーんで、音沙汰もなくシンとしてるわけ? あれらジャーナリストたちも、大手メディアに自分達の原稿撥ねられる、ゆーて、ワードプレスとかヘンなところに立てこもってバンバン英語記事書いているけど、もう「記者魂」だけでやってて、金銭的なサポートないやんね。 …とゆーよーな会話が、日本に関心がある、ごくショボイ数の英語人のあいだで交わされる。 なんだか「原子力」というものが巨大な沈黙の神であるかのごときありさまである。 その暗黒の塊が近付くと、声という声は吸い取られて、あとには沈黙だけが残っているのだった  …なんちて。 陰謀よりも全体の気分、ということで一見陰謀に見えるものは説明されやすいことが多いのはよく知られている。 たとえば日本海軍による真珠湾の騙し討ちを許したアメリカ政府と海軍の油断が典型であって、「そんなことが起きると思っていなかった」という政府と海軍のぶちたるんだ油断が、奇襲へ奇襲へと草木もなびかせたのであると思われる。 当時のアメリカ人責任者たちが口を揃えるように言う「ただの人間を神様だと思って崇めているような野蛮な人間たちに、そんなことがやれると思った人間はいなかった」という、その通りのことだった、と思います。 原子力発電の場合は、それはもちろんアメリカのことであるから、原子力ロビーの活動はものすごいが、ではチャイナ・ロビーに匹敵するくらいすごいかというと感覚的に言って十分の一も規模がないんちゃうの?という感じがする。 ではなぜ、アメリカ全体がなああああーんとなく、フクシマ、もういいや、忘れようフクシマ、をしているかというと、日本の政府が言う「順調に冷却されてコントロールされている」「放射性物質は危険でないレベルに下がっている」「もうダイジョビ」というような国内日本人向けの発言を信じているわけでは全然なくて、出典なんていらねーよ、ふだんの英語人の会話から、もう日本政府には呆れてものがいえねーや、という空気は、ばりばりのものになって、たとえば、このあいだ2号機の水がほんとうは60センチくらいしか残っていなかったのが判ってパニクったときには、慌てふためいた揚げ句、水を「pump in」していると述べてしまうくらいひどかった。 全自動っぽい冷却システムが恙なく動いている、というウソをいつもついていたのをすっかり忘れてしまって、しかも、あんまりいろいろウソをついているので、どれがどういうことになっているとゆってあったのか判らなくなってしまっている(^^) アメリカ支配層からみると、現今、日本政府への信頼は限りなく暴落していて沖縄基地騒動とフクシマの後始末の拙さで、腐りきらせられる、っちゅうか、コークの栓だろうがなんだろうが同盟とか、やめるとチューゴク様が喜んでしまうのですぐやめるというわけにはいかないが、気分としてはマジでやめたい、という寸前まで来ているもののよーである。 大統領選で「日本から撤退する」とゆったと報道されて日本人をやや慌てさせたロン・ポールは、実際には 「…bringing all the troops home rather rapidly, they would be spending their money here at home and not in Germany and Japan and … Continue reading

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ハヤシライスの謎

カレーライスは比較的わかりやすい食べ物で、たとえばロンドンのなかでも割と高級なほうのレストランであるAmaya http://www.amaya.biz/index.html というインド料理屋に行くと仔羊の腎臓を細かく刻んでいれたカレー粥というサイドメニューがあるが、これは日本のカレーそのままの味です。 あるいはインド人たちがよく使うレトルトカレーは、新鮮なカレーと味が違うのは他のレトルト食品と同じだが、いろいろあるレトルトカレーのなかでもチキンティカマサラはたいへんに日本のカレーと味が似ているものがある。 インドのひとびとはスパイスの本家なので当然ながら香辛料の新鮮さに厳しいが、わしがときどき買う会社のものを例にとるとレトルトカレーにもちゃんとガラムマサラとスパイスミックスの袋が本体のソースのレトルトバッグの横に貼り付けてある。 このふたつの袋に入った香辛料をいれる前の状態ではまことにCoCo壱番屋がやや上品・高級になった状態で試みにニンジンやイモ、ついでにポークのフィレも買ってきて揚げるとカツカレーが誕生して、日本が懐かしいのお、と思う。 要するに日本の伝統カレーは、インドのカレーマイナス新鮮スパイス、なのかしら、と考える。 くるぶしから膝まである裸のねーちゃんがウインクしているでかい刺青のある元水兵のおっさんとパブで話してみると、海軍の遠洋航海では最後の一週間はたいてい毎日カレーだそーで、なぜそうなるかというと、もう肉が傷んで普通の料理では供せないからカレーにする。来る日も来る日もカレーで、駆逐艦の甲板で仲間の水兵とイギリスの小さな帝国がかつてインドを植民地にしていたことを日々皆で呪い合ったそーである(^^) 日本の海軍はイギリスの海軍をお手本にしたので、多分、カレーもそこから来たのでしょう。 田舎の茄子の味噌汁とご飯で朝ご飯を食べるような若者を想像してみればよいが、イギリス水兵たちにとっては呪詛の対象だった、この「イギリス海軍式カレー」も、西洋の食べ物を見たことがなかった若者にとっては珍奇な「文明の食べ物」と意識されたに違いない。 毎晩夜中に叩き起こされてはさまざまな理由をつけて殴られて顔を腫らし、ときに理由もなく半殺しになるような陰惨なイジメに満ちた水兵生活を送りながら、しかし、東北出身の兵などは、軍隊では「白い米」を食べられるということが、もうすでに有り難い、奇跡のようなことであって、その上にカレーまで付いていては、戦闘になれば天子様のためにどうしても死んでみせなければならないようなことだった。 当時のひとの述べることを聴いていると、貧しい村の出身の文字通り純心な若者たちが死を怖れなかった原動力の大きな部分が、豊かな社会の人間なら唇の端を歪めて笑うかもしれないが、「カレーライス」だったことに気が付きます。 軍艦の厨房で働いて故郷に帰った水兵は、自然、海軍生活のなかでおぼえたカレーライス、ハンバーグ、シチューというような西洋世界では最下等、というと言葉が強すぎるが、いっちゃん安い食べ物をメニューの中心に据えた料理屋を開いたに違いない。 そーゆーこととは別の、いろいろ有り難げな由緒が書いてあるレストランが多いのは承知しているが、わしのほうは、そもそもレストランでおじやを出すようなものであるビーフシチューや、おから料理みたいなものであるとゆえば判りやすいかもしれないハンバーグステーキや、水兵が悪態をつきながら航海の終盤に皿をつつきまわす食べ物であるカレーライスが、どうして日本ではときに2000円というような迫力ありすぎな価格になっているのか説明がつかない。 このみっつともビンボニンの食べ物だからです。 そもそも東京において初めて見た(大好きだったペンザンスのインド料理屋、というようなところでバスマティライスだけが違うかなり味が日本のカレーと似たチキンカレーというようなものは食べたことがあったが)「カレーライス」は別にして、ビーフシチューやハンバーグは「なんで、こんなものがメニューにあるんだ」というのが正直な感想で、妹とガキわしはいま思えば失礼千万にも笑い転げてかーちゃんに怒られたりした。 食べれば多分うまいと思ったに違いないが、その場合でも、なぜビーフシチューのような食べ物をおいしくしなければならないのか理解できなかったに違いない。 ましてハンバーグにおいておや。 しかしガキわしと妹および従兄弟を連れて奈良というようなところに旅行にでかけたかーちゃんは、外で食べる料理、というようなものに難渋したようで、奈良の公園の裏手にあたる繁華街で洋食屋にはいったのをおぼえている。 日本語を当時からちゃんと理解できた従兄弟がメニューを説明してきかせてくれて、わしはいっちゃんオモロそうなオムライスを注文した。 その頃は、いま考えると信じがたいことだが、皿を出してくれるばーちゃんの手がカタカタと震えていて、田舎にいけばガイジンはまだ珍しかったものであると思われる。 妹は、チョーちびで、まだ人間に至っていないような、ぽにょぽにょでふにゃふにゃした奴だったが、ハヤシライスを注文した。 ところがまず差し出されたハヤシライスの外観を見て顔がひきつっている。 あまつさえ、みるみるうちに涙が浮かんでいる。 ひとくち食べたら、今度はじっと皿をみつめて、世にも悲しげな顔をしているのであって、そのままじっと動かなくなってふにゃガキの彫像のようなややこしいことになってしまった。 やむをえないので、わしが自分のオムライスと交換して食べたが、食べたあとで、あれはいったいなんだろう?と不思議の感に打たれた。 その焦げ茶色のよくわかんないソースがねっちりして香りのないご飯にかかった食べ物の正体が判らなかったからです。 いま古本屋で買った文春文庫ビジュアル版「スーパーガイド東京B級グルメ」という半藤一利の肝いりで出来たらしい本を開いてみると、牛の脂身と小麦粉でつくったソースに豚のバラ肉、腎臓、タマネギをいれてつくるようなことが書いてある。 記述がどれもこれもチョーええかげんなのでいつも楽しませてくれる日本語ウィキペディアを見ると、意外やハヤシライスの記事はマジメげで、丸善書店の早矢仕有的が語源だとかいろいろな説が書いてあるが、どうもHashed beef with riceらしいというような事が書いてあるが、Hashed beef というかBeef hashでもいいが、英語の世界でHashed beef with riceとゆえばアメリカの南部料理で、クルマで南部の田舎をうろうろしながら寄ってカウンタのなかのおばちゃんとバカ話をするダイナーにはたいてい載っているメニューです。 しかし日本のハヤシライスとは料理として全然異なる。 日本には、ハヤシライスのような料理がたくさんあって、なあーんとなく「洋食」ということになっているが、西洋にはない食べ物、という趣のものがたくさんある。 … Continue reading

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我思う我

日本の原発事故あるいは原発議論を眺めていて不思議に思ったことのひとつは、自分が正しいと感じていることが「絶対に正しい」と思えるひとというのが、こんなにたくさんいるのか、ということだった。 自分では「放射性物質なんてあぶねーに決まってんじゃん」と思って、それ以上考える必要を認めない、というか、もしかすると事故が起きている福島から1万キロ離れたところで考えているので、もともと切迫感に欠けているからかもしれないが、低被曝量ならずっと放射能を浴びててもダイジョーブだ、と考えるひとがいるのか、へえええー、えっ、このひと科学者なのか、どひゃあー、という程度のことでそれ以上は興味がなかった。 だから確実とは到底言いかねるのに「いまくらいの放射能ならダイジョビだ」と言い切るひとびとをあげつらおうと言うのではない。 ちょっと異なることを言おうとしている。 「目の前に見えているものがほんとうに存在するか」というのは、人間にとってはずっと大きな問題だった。 また、ヘンなことを言う、という声が聞こえてくる。 眼前に見えているのだったら、あるに決まっているではないか。 ガメと話していると、マジで頭がおかしくなってくる。 風紀紊乱という言葉があるが、きみの場合は知性紊乱の罪、というものがあるのではなかろうか。 前にも述べたがコンスタンティヌス帝はMaxentiusとの戦いの前夜に空に燃える十字架を見たという。 Lactantiusは夢であったとゆって、 Constantine was directed in a dream to cause the heavenly sign to be delineated on the shields of his soldiers, and so to proceed to battle. He did as … Continue reading

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夏の来歴

イギリスという国はもともと天気が悪い国で、頭がビミョーにへんな国民が多いのはそのせいであると信ぜられている。 夏、とゆってもバルセロナの春がせせら笑う程度の夏だが、夏は素晴らしい気候になることがあっても、きれぎれで、ちゃんと連続しない出来の悪い連続ドラマのような夏で、冬になると、こっちはもう完全に人間が住める気候ではなくなります。 やけくそみたい、というか、イジメみたい、というか、イギリス人が歴史のかなり早い時期から神様なんて信じねえ、という態度をみせるようになったのは、このクソ天気を根にもってのことだと思われる。 12月になって連合王国からニュージーランドへ、2万キロの距離を飛行してやってくると、それがオークランドなら飛行機が降りてゆくに従って馬さんが見えてきたものだった。飛行場の周りが「馬牧場」だったからで、いまは24時間営業のカウントダウン(オーストラリア資本のスーパーマーケット)や倉庫やオフィスビルやホテルが建っていて退屈な風景になってしまったが、だいたい2000年くらいまでは牧場に囲まれた飛行場だったのをおぼえている。 成田で乗り継いで日本からの便に乗ると、クライストチャーチにまっすぐ着いて、わしガキの頃は、飛行場がリンゴの果樹園に囲まれていた。 いまはアメリカ人が買い占めて、開発の許可が下りずにアメリカおっちゃんがキレて黒い幕で目隠しをした広大な土地があったり、果樹園はとうのむかしに住宅地になったりで、随分面変わりしてしまったが、それでもオークランド同様、一面の緑は緑で、夏は水不足のことが多いので、ときどき一面茶色(^^)ということもあるが、だいたいにおいては「緑のニュージーランド」が眼下に広がることになる。 ガキわしはオークランドよりも遙かにクライストチャーチのほうが好きであって、ほぼいつもクライストチャーチで夏を過ごしたが、それもフェンダルトンという住宅地にある家よりも「牧場の家」のほうを好んだ。 ニュージーランド人が「ゴムの木」と呼ぶのは、オーストラリアのほっそりした感じのユーカリプタスとは違う、雄大な姿になるユーカリプタスの木のことで、おおきくなると60メートルほどになる「ゴムの木」がある牧場がクライストチャーチのある「カンタベリー」の特徴です。 オープンロードという。 対向車線を白線で仕切っただけの道路を、いまは100キロでマジメに走る人が多くなったが、その頃は120キロが普通だった。 追い越しというようなときは、140キロ、というようなスピードなので、そのくらいのスピードになると安手のつくりのクルマは頭をふるので、よく道路脇にひっくりかえって、こけている。 あるいは、このブログを読んでいる人にはわしが知っているだけで5人ほどニュージーランドとオーストラリアに住んでいる人がいるわけだが、そのひとたちが田舎にドライブしてぶっくらこいたに違いないが、一見、まっすぐに見渡せる道路の地の底から、いきなり二台横に並んだクルマが湧いてくる。 道路が地面の凹凸をなぞって低くなったり高くなったりするからで、ニュージーランド名物というか、こういう箇所と、(道路の幅を拡張しても橋は古いままなので)そこだけ狭くなっているという殺人的なつくりが多い橋とで、よく死人が出る。 田舎の白い小さな橋に、いくつも十字架が立っているのは、田舎のひとらしく信心深いわけではなくて、マンハッタンの白く塗られた自転車と同じ、そこでひとが死んだことをあらわしている。 羊毛をとるための牧羊の没落がはじまったのはジーンズの普及のせいで、70年代のことだったという。 羊農場がヴィンヤードにどんどん変わってゆく初めの頃にあたったわしガキの頃は、ファームハンド、と呼ぶ人手も多くかかる牧羊はすでに下火もいいところで、酪農の牛さんや欧州に食肉として輸出される鹿牧場が多かった。 牛さんは牧草の草の部分だけをちぎって食べるが、羊は根っこごと掘り返して食べるので、羊を飼うのは普通広大で痩せた土地であると決まっている。 牛のほうは、土壌がゆたかな牧草地で飼う。 いま羊を飼う農場はラムちゃんをぶち殺して食肉として売る、という農業が非常に高い利益を生むからで、こっちは需要の減少と中国の無茶苦茶低価格の競合とで利益がほとんどない羊毛もあわせて、500エーカー(61万坪ちょっと)が最低限農業として成り立つ農場の広さ、ということになっている。 わしがパドックで4輪バギーを走らせて転倒してクビをぶち折りそうになったり、不時着した熱気球めざして妹とふたりで大歓声を挙げて駆け寄ったりしていた「牧場の家」は300エーカーちょっとなので坪でいうと36万坪っちゅうか、そのくらいであることになります。 酪農なら商売でやれるが羊農業には小さすぎる大きさだということになる。 英語ではホビー・ファームという。 生産を目的としていない牧場で、パドックの大半は隣の牧場のおっちゃんに貸していたが、自分の家でも鹿や馬を飼っていた。 馬はパドックに深い足跡を残すので、他の家畜とはパドックを別にする。 鹿は英語でも「Sika」という日本の鹿はおとなしいが、普通に牧場で飼うのはRed deerで、中国ではこの鹿を「馬鹿」と呼ぶそーだが、これを飼うには高い特別なディア・フェンシングが必要で、家の牧場でも買ったばかりのときにフェンスを鹿用に変えた。 牧場の管理をまかされていた夫婦が、いま考えてみるともしかしたらチェルノブル以来の需要でドイツ人が高価格で買い取る鹿を飼ってみよう、と言い出したからで、ある年「牧場の家」に行って見ると、優美、という言葉そのもののRed deerがたくさんいて妹とわしはコーフンしてしまった。 ところが夜になると、ガシャアーングワワシャアーンという音がパドックから聞こえる。 鹿たちが逃げだそうとして必死にフェンスに体当たりする音で、妹とふたりで夜中にこっそりパドックに見に行ったわしは、なんだかやりきれないような悲しい気持ちになった。 妹とふたりでかーちゃんに陳情にでかけて、その年いちねんだけで鹿を飼うのは沙汰やみにしてもらった。 子供部屋の寝椅子に寝転がって本を読んでいると、窓に影がさして、なんのこっちゃと思って窓をみあげると、フェンスをくぐって脱出に成功した牛さんが窓に顔をくっつけて覗き込んでいるので、ぎゃあああああー、と叫んでとびのいたり、やはり子供部屋でPCゲームに狂っていると、なんだか大きな犬みたいなものが外のテラスを跳ね回っていて、正体を見極めるべく外に出てみると仔牛がパドックを抜け出て自由の身になったので文字通り欣喜雀躍して跳ね回っていたのであったり、牧場は妹とわしにとってはいつも楽しい場所であって、ガキどものために連合王国のクソ冬をニュージーランドの天国のような夏でいれかえようと考えたかーちゃんととーちゃんの良いアイデアはいまでも賞めてつかわす、と思っている。 温和で成熟したオトナに成長した(笑うな、ばかもの)理解力の深まった成人アタマで考えると、かーちゃんなどには、イギリスみたいな国にばかりいさせると古い文明が感染ってろくなことはない、という考えもあったのだと思われる。 前にも書いたが、夏の夕暮れ、テラスにデッキチェアを出して妹とふたりで空を眺めていると、人工衛星がすうううううっと移動してゆく。ひっきりなしに流れ星が空を横切ってゆく。ほんとうは5000ちょっとしかないそうだが、満天に輝く星は何百万、と表現したいくらいで、見つめていると遠い恒星が瀑布をなして降り注いでくるようで、怖いほどだった。 あるいは満月になると、深い青色の光がパドックを照らして、いつもは真の闇であるのに、「皓々と」という表現そのままの強烈な明るさで点点とある立木やパドックを横切る小川を照らし出している。 小さな身体なのにドラゴンのような声で鳴くポサムや、朝になると大軍団でやってきてすさまじい騒音を原因する鳥たち、その鳥を茂みに潜んでじっと待っていて、まず両目をつぶし、それから盲目になって方角もわからず逃げ回り、のたうちまわる鳥を、執拗に痛めつけて殺すのが毎日の娯楽の二匹の飼い猫、(しかもわしのベッドに得意そうに「お土産」の鳥の死体をよくもってきたものだった!) そういうことがいっぱいあわさって、わしの「南半球の夏」というものの記憶をつくっている。 湖のほとりで家族そろって、お行儀良くテーブルを囲んで、毎夏に顔をあわせるPという新しく別荘を買ってやってきた他人の家柄をくさす以外に能がないクソババアや、ガキわしから見ても、知的な人であるのに、なあーんとなく不安そうに落ち着かない様子で、あとの離婚を予想させたような、Kというひとのよいじーちゃんと結婚した美しくて品のよい若いアメリカ人だったMというようなひとびとが通り過ぎる度にテーブルによって挨拶してゆく午餐や、ボートを出して、木陰の下にもぐりこんで本を読んで午寝をするときの涼しい風、というようなもので構成されている欧州の夏とはまったく別の性格で、わしはどちらも好きだったが、南半球の夏は、神様がとんでもない離れた島に隠しておいたとでもいうような、この世界にあるはずがないほど気持ちのいい季節で、どうしてもどちらかを選べ、とゆわれればやはりニュージーランドの夏を選ぶだろうと思われる。 いまこうやって、人がまだ寝静まっている朝のオークランドで、何人かの友達と経験や考えをわかちあおうとして、なんだか訳の判らない日記を書いている、現在の変人大庭亀夫の、遙かな遠因をなしているのだと思います。

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聞き取りにくい声

1 人間には数学的な想像力が著しく欠ける、というのは数字を扱うひとが等しく実感することである。 Birthday problemという有名な問題がある。 http://en.wikipedia.org/wiki/Birthday_problem#Calculating_the_probability 人間の確率的直感がいかにええ加減、というか確率でなんかゆわれても人間には絶対に「実感できない」ことを説明するためによく使われる。 ひとつの部屋に366人の人がいれば(2月29日生まれのひとは勘案しないとして)100%同じ部屋に同じ誕生日の人がいるのは当たり前だが、57人いれば99%の確率で誕生日が同じひとがいる、というのはかなり人間の感覚を裏切っている。 23人の乗客がいる地下鉄の車内には同じ誕生日の乗客がいる確率は50%もある。 フクシマのあとで、やたらと確率的数字を述べ立てて「ダイジョーブだ、安全だ」という科学者がたくさんいたが、科学の世界ではユーメイな数字自体が人間の感覚に対してもつ詐術を知っていてトリックを使用した確信犯というべきで、わしにはそういう人間に科学者と自称されるのでは社会のほうで困るだろう、という気持ちがある。 少なくとも醜悪な行為で、科学者がこんなに恥知らずな国、というのも、ほんまに珍しいんちゃうか、と考える。 2 フクシマのあと、わしの「日本語eメールアカウント」には、ものすごい数のメールが来た。なんだか情緒的に聞こえるかもしれないが、ときどき読み返してみると、悩み、苦しみ、たくさんの眠れない夜や、窓の外を黙ってじっと見つめた時間がいっぱいこもっているような、長い文面のものばかりだった。 わしは、いまでも何回も読み直してみる。 ジュラさんからのメールもあれば、SD、狐茶、ナス、Akiraさん、というような他の、もともとネットで知り合った友達のものもある。トーダイおじさんたちや若い役人の友達、医師達、大学生、若い研究者、いろいろなひとたちが、日本のひと特有の、と呼びたくなる、内面の淵を垂直に見下ろして暗い影の奥に目をこらしているような、おおきな沈黙が反響しているような、あの不思議な調子の言葉で自分が考えて悩んだことどもを述べている。 日本語で考えている人というのは内面と外に向かって発される言葉が分離していて、そのふたつの言語の体系が直截の関係をもっていないように見える。 誰もが思い詰めているのに、思い詰めた魂から突き放されてでもいるような「明るく振る舞う自分」が外に向かって宣伝活動を行っている。 ふたつに引き裂かれた情緒が自己に対して復讐の機会を窺っている、とでもいうような不穏さがある。 日本の人が時に、人が変わったような激怒をみせるのは、そのせいだろう。 あれは本人が見失っていた自分の情緒が突然自分に見える場所に戻ってきたときに起きる爆発的な反応なのであるに違いない。 もしかすると、日本のひとは、そういう激情の瞬間にだけ自分の存在の真実性を感じているのかもしれない、と思う事がある。 ほかの自分はウソだ、と思っているのではなかろーか。 3 もう疲れた。 もうダメだと思う。 希望というものがほんとうになくなることがある。 メールの文言を見ながら、「暗い性格」というような表現で、「ほんとうのこと」を言う習慣をひとから奪ってしまった日本社会の習慣、ということを考える。 明るくないと、出世に響く、という人に会ったこともあったが、なんだか日本の社会ではほんとうのことでありうるように見える。 放射能を怖れる側が「放射能を怖れるな」という社会の側に言うのではなくて、放射能を怖れずに逃げずに暮らせと命じている社会の側が個人の側に「放射能が危ないというなら、それを証明しろ」というのに典型的だが、日本ではものごとを眺めるパースペクティブの視点が、なぜかいつもほぼ自動的に社会の側にある。 個人の側からものごとを眺める、というふうにならないのは玄妙なほどである。 昨日食べた昼食がうまかった、と(あたりまえだが)個人の立場から述べていたひとが話題が政治のことになると、あっというまに自動的に支配層の立場にたって物事を述べはじめる。 日本でだけ見られる特異な光景であると思います。 英語の世界では、福島県のタクシーの運転手は「原発事故で観光客が減って困る」とは言うが、「放射脳の人間が増えて社会を脅かしている」とは言わない。 そんなことは、おれのしったこっちゃねーよ、というのがロンドンのタクシーの運転手の視点というもので、それ以上踏み出して政治家のような口を利くのは余程あたまのわるい、オッチョコチョイの運転手であると思われる。 わしはなぜか日本では「紳士的」という不思議な評価になっているロンドンのタクシーの運転手に較べれば日本のタクシーの運転手のほうが倍は人間としての質がよいと請け合えるが、日本人の友達と一緒に乗ると、ときどき始まる政治談義はくだらなさすぎて涙がでる、と思う。 支配層のつもりの役を演じてみせているつもりにしても、大根役者であると考える。 あれのせいでクソ高い日本のタクシー料金が決まっているのだとしたら、是非、返してもらいたい、と降りてから考える。 とゆっても滅多に自分で払ったことはないが。 隣のクルマに幅寄せされたりすると、窓を開けてF言葉20連発なロンドンのタクシー運転手のほうが、その点では健全であると思われる。 実際、わしの友達はあるとき、運転手が政治について自分に意見を述べたので、ひどく傷ついた気持ちになった、と述べていた(^^) 「支配層になったつもり」で、口調まで真似して、愚にもつかない、としか言いようがない技術論(<−研究者になったつもり)、行政論(<ー役人になったつもり)で、それぞれボロを縫い合わせてつくった「教授に似せてつくった衣装」「役人に似せてつくった衣装」で三文芝居を繰り広げる人間の大群を横目でみながら、大半のふつーな日本人はため息をついてこの一年を暮らしてきたよーでした。 … Continue reading

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現実という冷酷

1 decriminalization、 http://en.wikipedia.org/wiki/Decriminalization という言葉があります。 日本語には、該当する言葉がもともとないよーだ。 日本のニューズサイトには「合法化」と訳してしまうものが多かったのを憶えているが、「非刑罰化」という日本語がわかりにくいと考えた結果でしょう。 たとえばニュージーランドでは売春は「decriminalized」されている。 売春という犯罪に対して刑事罰がなくなったのは、ニュージーランドでは極く最近で、確か..記憶が間違っていなければ前世紀の終わりのどん詰まりだったのではなかろーか。 売春に対して刑罰を無くすことを強硬に主張して、警察を相手の大論戦に打ち勝って実現させたのは日本で云う「婦人団体」で、刑罰があれば売春婦たちは客や通りに屯するバカタレが犯人の強姦被害にあっても泣き寝入りするしかなく、そんなことが許されていいわけはない、という理屈でした。 家出して都会にやってきたティーンエージャーの女びとを麻薬漬けにして売春宿で働かせる、というのはどこの国でも行われている「定石」だが、売春を非刑罰化しないと暴力団の財源になってしまう、という理由もあります。 マリファナもニュージーランドの法律では少量の所持は罰金だけで犯罪歴は構成しない。 こっちのほうは、そんなんまで刑務所に収容していたら税金がいくらあっても足りん、という国民の主張によって刑罰がなくなった。 英語国民、とまとめて述べることが多いが、地図をみてみれば北海に面していて見ようによっては北欧に属している連合王国から無茶苦茶寒冷なカナダ、声がでかいアメリカ合衆国、のんびりで荒っぽいオーストラリア、もーダメだあ、が大好きな悲観的なニュージーランドと風土はバラエティに富んでいる。 国の性格はいろいろで、英語人は自分の性格にあわせて国を移動してパスポートもそれにあわせて変えてしまうのを好む。 料理の好みひとつとって考えても連合王国人はインド人が呆れ果てるくらいインド料理ばかり食べているがアメリカ人はインド系のひとびと以外はスパイス音痴で、せいぜいチリで「辛いよおー」とゆってむなしく喜んでいるくらいのもので、インド料理はあんまり流行りません。 ひとつだけ共通しているのは「現実的」なことであって、理想論や「正しくないからやだ」ということに固執するひとは小人(しょうじん)あるいは狂人の一種とみなされる。 ゆっても意味がないことを、ただ正しい主張だからと云って手足をバタバタさせるかのごとく主張するひとを最も忌み嫌う。 「正しさ」というものが、ある時点でどんなに完璧に正しそうに見えても、実はまるごと間違いで、時間が経って何万人も女びとや男を「魔女だな、おまえ」とゆってぶち殺してしまってから、違ったみたい、になったりした苦い経験に立って、正しさなんちゅうのは危ういものだ、ということを経験によって学習した西欧全体の歴史が影響している、ということもあります。 2 竹中平蔵という人の新法党を批判する旧法党の論旨は外国人にはひどく判りにくいものだった。 新法党は「社会の公平を捨てて生産性を増大しなければ日本は大没落して公平どころではなくなってしまう」と言っているのに、旧法党は 「不公平はよくない」と額に青筋を立てて怒っている。 議論がまったく噛みあっていなかった。 新法党は国民の不評判ということを考えて「公平を捨てる」というひと言が言えないために、生産性をあげれば世の中がよくなる、みたいに奇妙なロジックで政策の明るい面を強調しようとしたので、とうとう最後には完全に訳がわからない議論になってしまった。 日本の財政がバランスを取り戻す道へ引き返す最後のチャンスを失った瞬間でした。 事態を見守っていた外国人は小泉・竹中の経済路線を日本が見限ってしまったのを見届けると、日本の将来には期待しても仕方がない、と考えるようになった。 いきなり轟沈してまわりをまきこまないでさえくれれば、世界全体の生産性は中国やインド、ブラジルのような国に期待する以外にはないよーだ、と覚悟を決めた。 日本にいるあいだ、小泉が日本を悪くしたんだ、と吐き捨てるように言うひとにたくさん会ったが、わしのほうは「そーですかあー」とか「そーですかあー?」とかゆっているだけで、日本のひとが決めることだから、と考えて、へらへらして酒を飲んでごまかすのが常だった。 ビンボニンを切り捨てて社会の生産性を恢復する、というのは切り捨てられるほうから見ると悪辣このうえない考えで、到底うけいれられない。 社会の側からみるとビンボニンを切り捨てないと先行き社会ごと崩壊してしまうので、面倒をみたくても到底「面倒はみるからね、とーちゃん」とはとても言えない。 では、どーするか?というのが命題であったはずなのに、 小泉の言う事を聞くと敗者が増加する、竹中の言う事は貧乏人の切り捨てだ、という激昂した憎悪の言葉が聞こえてくるだけで、きっと小泉首相や竹中平蔵は、 「そりゃ、そーなんだけどね」と内心で考えていたに違いない。 でも、弱者を切り捨てないと強者も弱者もひとしなみに呑み込んで日本はなくなってしまうだろう。 それでもいいのか?と思っていただろう。 3 福島事故でばらまかれた放射能を怖がりすぎるのは現実的でない、ということになっている。 だって、ダイジョブそーじゃん、と科学者たちもゆっておる。 日本の政府が考え出したコードゼロ攻略法は、国民ひとりひとりの身体をコンテナにして、うすーくひろーく放射能をばらまいちまえば、誰もビョーキになんないじゃん、という日本人の好きな言葉で言えば「180度の発想の転換」、チェルノブルで必死に狭い地域に放射性物質を閉じ込めようとしたソ連人の努力を嘲笑うかのような鮮やかな逆転発想法というか、日本的な解決で、痛みもみんなで分かち合えば痛くない、という方針だった。 よく考えてみれば、これは小出裕章という勇気のある核科学者の「年寄りはみなで放射能で汚染された食べ物をいっぱい食べるべきだ」という意見と通底していて、事故で崩壊した原発を挟んで正反対の立場の両方が同じことを述べている。 … Continue reading

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いろいろな、いろ

このブログを書き始めた5年前には世界には4カ国語を話す人間などふつーにいるのだ、ということが理解できるひとは日本にはいなかった。 そういう人間がいるのだ、と書いただけで、たちまちウソとみなされて、そんなことはありえない、これを書いているひとはウソつき、と自動的に決まる社会だったのは、ガメ・オベールというひとについての記事を中心に日本語インターネットにはたくさん痕跡が残っている(^^) 言葉はわるいが、その頃の日本は、まだ酷い「田舎」だったのだと思います。 日本語の世界で、わしの言う事を聞いて「そりゃそーだ」と思ったのは、外国、特に欧州にながいあいだ住んでいる日本人だけで、そーゆー日本のひとのほうは、「4カ国語を話せる人間などいるわけがない」という大騒ぎな反応のほうにびっくりして、日本て、そんなに遅れた国だったのか、と思ったもののよーであった。 eメールがたくさん来ました。 あなたがなんだか気の毒である、とか、気をくさらせて日本を嫌いにならないでね、とか、反応が卑劣と失礼を極めてるから、もうやめちゃえば、とか、いろいろだった。 ただ、いちように、「あー、びっくらした」という反応は同じで、故郷をあんまり長いあいだ離れていると、頭のなかで理想化されて、実体とはかけ離れた薔薇色の姿で、それを灰色に塗り替えちって、ごめんごめん、と思ったりした。 欧州でなくても、カリフォルニアくらいに住んでいても、自分の周りを見渡すと4カ国語くらいを話す人間はふつーにいるがなあ、というひともいたが、このひとは大学人だったので、少し異なる現実について話していたのかもしれません。 アメリカという国は、わしの印象では、日本と似たよーなもん、というか、単言語志向の国で、通りでスペイン語で話しているひとも単純に英語がまだあんまりよく判らんからスペイン語で話している、ということが多い。 わしの留守、というか、いっつも留守なので留守というよりも常態というべきだが、その常態留守の電話その他を預かっている秘書のねーちんはもともとはスイス人で、ジュニーバというフランス語を話すひとがいっぱいいるところの出身である。 ジュニーバはモナコの課税権がフランスに移ったので繁栄していて、オカネモチのフランス人がたくさん「スイス人」になっている。 有名な名前をもちだすとプジョーの一家も、確か、いまではスイス人です(^^) この秘書なるひとは、4カ国語などとケチなことを言わず、いっぱい言葉を話すひとで、最後にあったときは「フランス語、忘れちったぜ、ガメ。この頃はフランス語を話してるのに英語が頭に浮かんだりしてわけわかんなくなるから、一個くらいフランスの会社の投資先つくれよ」とゆっておった。 ゆっておった、と書いたが、その言葉自体がフランス語だったので、くっくっく、と思いました。 欧州というところはそういうところなので、母語、というが、母語も父語もなくて、 このあたりの言葉で考えるのがちょうどいいな、と思う言語で考えているだけのことで、 連合王国などは欧州のなかではどうしてもちょっと田舎なので、英語ばっかしだが、まんなかのほうに寄っていけば、少なくとも教育がある層では、言葉というものの意味、母語というものの「確かさ」もどんどん曖昧になってゆく。 わしがバルセロナにいるときに必ず一緒に食事にでかける夫婦が何組かいるが、国籍ということで言えば全部「国際結婚」で、たとえばPというカタロニア人の奥さんはSというフレミシュで、パスポートで言えばスペイン人とベルギー人のカップル、ということになる。 このふたりが何語で生活しているかというとフランス語で、ふたりが出会ったのがベルギーの大学で、毎週、週末になるとなんでもかんでも閉まってしまう大学町では他にやることがないので毎週末大学生どもが集まって来て乱交していた…というのは、大庭亀夫の妄想で、週末にはみなで集まって政治や社会の問題について議論するのが習慣だった。 その議論に使われるのがフランス語で、その議論仲間だった同士で結婚したので、そのまま結婚生活の言語もフランス語になった。 「モニさん、わたしたちのフランス語、ヘンでしょう? フランス語じゃなくて『私たち語』なのよねえ」とゆって奥さんは屈託なく笑っている。 スペインのように欧州のなかでもチョー保守的な土地柄でも、そんなふうなので、たとえばロンバルディアに行けば、モニとわしがよく朝ご飯を食べに行くホテルに並んだテーブルでは、ギリシャ語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、スウェーデン語、と雑多で、ウエイターのひとびとも普通にひとりあたま5カ国語は話します。 ロンバルディア、とえらそーにゆってもわしが僅かに知っているのはミラノとコモ湖のまわりくらいのものだが、コモなどは面白いところで、近年はなぜかアメリカ人が増えていっぱいいる。 いる、というのは観光に来ている、という意味ではなくて避暑に来ているか住んでいるか、というような意味です。 わしのいつものチョーくだらない観察によると「オカネモチの旦那と離婚した女びと」というようなひとが多いよーだ。 アメリカ人なのに、ちゃんとイタリア語を話す人が多い。 テーブルが近かったりすると、顔見知りのひともいたりして、短い会話くらいは交わすが、途中でウエイトレスがやってきたりすると、ちゃんとしたイタリア語で話していて、アメリカ人も変わったものだなあーと思う。 アメリカ人はむかしからフランス語が上手なひとは多かったが、移民の国であるのに外国語がからっぺたな人が多くて、都会に住んでいる組が必要に駆られてスペイン語を話すのと、内陸の田舎のたとえばカンザスに行くと、スウェーデン語を話す移民二世がいる、というようなことが目立つだけで、むかしはアメリカ人の言語白痴ぶりは有名だった。 わしが子供の頃は大陸欧州人はまだ、ただえばりくさっているアメリカ人を困らせるためだけに英語がわからないふりをするひとも多かったと思います。 そのうちまだ一回くらい反動が来てクビが赤いおっちゃんやおばちゃんたちが暴れるだろーが、世界中どこにいっても、どんどん人種が違うカップルが増えて言語も違うカップルも増えて、子供のほうは人種を説明するのがメンドクサイので、まあ顔見て勝手に考えてね、になっていて、こんなに良い事はない。 アングロサクソンとかクマバチとかいうが、そーゆー脳死に近いひとびとは、いまだに 「あの女は、われわれの種類の人間でない。息子と付き合うのは構わないが結婚は困る」なんちゃって、笑わせてくれるが、そういう壊れた骨董品も、何れはいなくなってゆくものだとおもわれる。 ブラジルという国は、むかしから「人種」とかゆっても、なんじゃそりゃ、な国で、 わしがいちばん仲が良いブラジル人は本人は繊細な感じがする体格のまっしろなひとだが、兄弟のいちばん上は真っ黒なひと、次はアジア人風、下はインディオ風な気の良いにーちゃんで、4人とも同じ生物学的両親から生まれた兄弟で、「人種」というような生物学用語としてはすでに死語になっている言葉が頭に残っている人にとっては、どうなのか判らないが、ブラジルという未来を体現しつつある国では、それでふつーのことです。 ブラジルに行こうとすると、お前が行くと死ぬから、という訳のわからない理由で当のブラジル人たちに止められるのでまだ行ったことがないが、少なくともブラジルの外でみるブラジル人は、世界中に住む人間の、考え方、感情のありかた、ありとあらゆる種類の「多様さ」を扱うのに天然の才能があるのは、要するにそういう社会が背景にあるからだと思われる。 日本のひとが知っていそうな名前でいえば、日産がはいっていた棺桶を掘り起こして地上に戻したあげく、クルマが作れる会社にしてしまうという奇跡を成し遂げたカルロス・ゴーンというひとはブラジルで生まれた人です。 昨日の晩はモニと、夫がケララ http://en.wikipedia.org/wiki/Kerala 出身で、奥さんがムンバイ出身のインド人夫婦と無茶苦茶愉快な夕食を一緒に過ごしたが、ケララ出身のダンちゃんはマラヤラム語、奥さんはムンバイの出身だがタミル語系(元はチェンナイ)のひとで、ふたりともお互いの言葉がよく判らないので普段は英語で話している。 一緒にインド映画を観に行くと、ヒンディ語のものだと、ヒンディはふたりともよく判らないので、一緒に英語字幕を追いながら映画を観る。 … Continue reading

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ナスへの手紙

ナスどん、元気ですか? この頃はツイッタで話す機会もあまりないが、なんだかひとも多くなっちゃったし、1000人を越えるひとが見ているところでぐだぐだとチョコレートの話をして過ごすというのもヘンなものなので、まあ、そのうちまたヘンなひとが集団であらわれるんだかなんだか、またそういうことが起きてアカウントを変えれば、また初めのうちはナスやすべりひゆやjosicoはんやネナガラくらいしかいないので、そのときにまた、のんびり話をすればいいや、と思う。 モニとふたりで広尾山のアパートにいる頃、わしらが出かける先は東側の下町でなければナスの住む青山で、裏通りのカフェでシャンパンを飲みながら、植木の向こう側を小さな子供の手を引いた若いおかーさんが通ると、もしかしたらナスかなあー、と思ったりしていた。 現実の世界のわしは、たいへん気難しいヘンな人で、仕事の用事で会いたいひとですら、なまなかなことでは会えないのでよくわしに会いたいカネモチおっちゃんたちが「何様だと思ってるんだ!」とゆってキレておる(^^) ほんとうはナスが知っていた通り、ロンドンにいるというのが見せかけでほんとうはさぼって東京にいたから会うのがめんどくさかった、というだけのことだが、そういう不熱心な人間を仕事の世界で見たことが無い人たちなので、ほんとうのことを説明しても信じなかったでしょう。 わしはモニと親族とむかしからの友達以外に誰とも会うことなしに暮らすのが好きだが、ナスはいつのまにか、わしの心の中で「むかしからの友達」になってしまった。 小さい声で言うと、他人を貶めることに奇妙に巧妙であったりして、そういうことから日本人はあんまり好きになれないな、と思っていたりしたが、ナスやネナガラがわしを日本人を軽蔑する気持ちから救い出してくれたのだと思っています。 ナスが聡明な人だと発見したのは実は義理叔父でわしではなかった(^^) わしはいつもぼおーとしているので、他人の美点を発見するのも遅い。 義理叔父が、わしがナスについて話すのを聞きながら、「そのひとは自分の頭で考えられるんだな」とゆったのが始まりだった。 ちょうど、…どれだっけ…多分はてな市民のひとびとが大挙して押し寄せた「ニセガイジン」騒動のときではないだろーか。 娘さんがトイレから出てきて、たいへんだあああー、たいへんだあああー、 というので慌てて行ってみたら、 「うんちが手についちゃったあー」とゆった、っちゅうようなことをツイッタで言ってたのはいつごろだったろう? フクシマが起きる前のことかな。 人間というのはよくよく自分の都合だけで考えるように出来ているもので、東北を津波が襲ったとき、あのするするとのびてゆく、冷たい悪意に満ちた感じがする黒い水の広がりを、モニとふたりでカウチに座って眺めながら、「ナスは東京だし、josicoはブライトンだからな」と自分に言い聞かせていた。だから、大丈夫だ。きっと、大丈夫。 その日のうちにアメリカ人たちからeメールや電話が来て、 「ガメ、あそこにはオンボロの原発がふたつあるのを知ってるか? これはたいへんなことになるかも知れないぞ。多分メルトダウンまでいくだろうと、こっちでは言ってるところだ。 日本の原発技術屋が手順を守らない悪い伝統をもってるのは過去に証明ずみだからな」 わしは日本では3月には風がどっちから吹くかを懸命に思いだそうとして、どうしよう、ナスに教えたほうがいいだろうか?いや、そんな細かいことよりも「とにかく逃げろ。逃げてから考えろ」と言うほうが先だというので、ツイッタとメールで言う事にしたのでした。 もう、その瞬間でも、日本の社会では丁度津波に直面した大川小学校が典型であるように、賢しら顔に意見を述べ立てて議論のために議論をする人びとがいて、すぐにも行動したいひとびとを押しとどめ、ナスが逃げたいと考えても結局は社会からの圧力で、逃げられないかも知れない、と考えていた。 ナスはやっぱり周囲の反対に遭っていた。 普段の生活というものの力はすごいもので、子供の手を引いて西に逃げるというような異常な行動は社会がまるごと逃げ出すのでなければ相当に勇気がある人でもたいへんな決心がなければできない。 抗えないことのようにも思えました。 わしはその頃各国の日本大使館のeメールがリアルタイムで読めるように手はずを整えたりして、ほとんど問答無用の勢い(^^)で帰ってくる、東京の、主に義理叔父とかーちゃんシスターの友達の外国人たちを誘導していた。 ナスがやけのやんぱちみたいなやり方で、世間体も日本語世界の理屈もいっさい無視して神戸に子供を連れて逃げていったときには、わしはコンピュータから離れてモニに告げにいった。 「ナスさん、神戸に行くって」 「神戸って、東京からどのくらい離れてるんだ?」 「500キロ」 「やった。ナスさん、すごい」 ふたりで、やっぱしナスはすごい、ナスがおかーさんで子供は幸せである、と言い合いました。 ナスの勇気に感動して気持ちがたかぶったので、いちゃいちゃもんもんしてしまった。 新しい友達の狐茶が意外なことに事業を始めるために福島県にいて、とりあえず奥さんの家があるタイランドめざして必死の後退戦を始めていたのも知らずに、いつも「男のほうはどうでもいいや」と考える自動的な思考に従って、ナスの脱出を喜んだ日のことを懐かしく思い出す。 わしはオークランドの家で、秋になった庭を眺めています。 明るい青と黄色の羽根をもったカワセミ、キングフィッシャーが物干しのポールのてっぺんに立って辺りを睥睨しておる(^^) つぐみが、生け垣の下を冒険している。 だいぶん離れたところの生け垣で待ち伏せを実行していた猫が、憮然としてそれを眺めている。 モニがガゼボのベンチに座って、なにごとか傍らのフランス人の女びとと話して笑っている。フランス語で話すときには笑い声までフランス語になるのは不思議な気がする。 子供のときから、ずっと誰かに付き添われて育って、わしと結婚して始めて、わし方針によって付き添いがいなくなったモニは、子供が出来て、また付き添いのひとと一緒に暮らしている。 認めざるを得ない、というか、小さな時からの習慣というものはすごいもので、ひとりのときよりも付き添いの人達がいる生活のほうが、モニにはずっと自然なことのようです。 … Continue reading

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コーヒー、もう一杯

朝(とゆっても、だいたい10時より遅い時間だが)起きると、今日はなにをしよーかなあー、と考える。 昼ご飯と夕ご飯は他のひとがつくってくれるが、朝ご飯は自分でつくるのが好きなので、ポーチドエッグ、とかエッグベネディクトとかをつくりながら考える。 小さな、150gくらいのステーキを焼いて卵と一緒に食べることもあります。 朝シャンパンを飲む習慣はモニが妊娠したころから、なんとはなしに止んでしまった。 頭のなかのどこかが「家庭的」になっているのかもしれません(^^) もうひとつ、紅茶で朝食を摂ることが少なくなって、コーヒーばかりになってしまった。 子供の時は紅茶を淹れるのにものすごく凝って、ばーちゃんの家で、もちろんポットにコージーで、チョーゼツうまいアッサムを淹れてうけたりするのが好きであったが、最近は普段でもコーヒーが増えた。 ウナ・カフェ・ソロ http://www.flickr.com/photos/pedrocalvo/6553110015/ のこともあれば、 カフェ・コン・レチェのこともある。 小さいほうの台所にもBrevilleのエスプレッソマシン http://www.breville.co.nz/beverages/espresso/the-dual-boiler.html があるので、それでつくる。 家を手伝ってくれる大陸欧州人たちは、大陸欧州製のカッチョイイ機械を偏愛して、 ブレビルだっせえー、と言うが、 わしは満足しておる。 補修部品が手に入りやすいのだぞ、と述べて大陸欧州人たちの憫笑を買っておりまする。 連合王国人はコーヒーはイタリアだあー、とかフランスがいっちゃんうまいやん、とか、はっはっは、アマチュアめ、スペインの ウナ・カフェ・ソロに勝てるコーヒーがあると思っておるのかと、なにしろコーヒーを飲む習慣自体が新しい習慣なので喧しいことであるが、もうずううううううっと、何百年もコーヒーを飲んでいる大陸欧州人、なかでもコーヒーにうるさいおじちゃんたちにどこの国がいちばんおいしいと思っているかというと「ポルトガル」と当たり前のことのように言います。 ブラジル人のコーヒーというものへのアイデアは、フランス人のワインに対する考えとたいへんよく似ていて、ブラジル人のオカネモチたちと話していると、コーヒー豆の話をするのに農園別に話をする。 ちょうどニュージーランド人が今年のMud House Wine http://www.mudhouse.co.nz/ はおいしくない、と言ったりするのと同じ口調で言う。 「イギリス人は、あちこちの農園からのコーヒー豆を混ぜてしまう! とんでもないことだよ。だから、みんな不味いコーヒーになるんだよ」とゆって笑うが、こっちは頭のなかで「ぬわるほどワインでも違うビンヤードのものを混ぜると碌なことはないからな」とワインに翻訳して理解しているもののよーである。 ブラジルの、弟子が大勢いる「伝説的バリスタ」は実はニュージーランド人だが、あのひとなども、もしかしたらワインのアナロジーを活用してコーヒー王国のコーヒー仙人になっていったのかもしれません。 ポルトガルのコーヒーがマジでいちばんうまいかどうかは、わしごときには判らないが、 不味いほうはオーストラリアで、これはほぼ世界中のコーヒー人に知れ渡っている。 こー書くと、「オーストラリアにも、おいしいコーヒーはあると思います」と鼻をふくらませて怒鳴り込んでくるひとがいるところが日本語世界の面白さだが、あのね、それはあたりまえでんねん。 この種類の会話あるいは文言というものは一般化の焦点の結び方、範囲の設定の玄妙に面白さがあるので、オーストラリアにもおいしいコーヒーがあることはアメリカ人にも品の良い人間がいるのと同じくらい自明である。 …書いていて後者は「自明」と言えるかどうか、やや不安であるな、と思ったが、一応平行線が永遠に交わらないことにしても美しい世界は現前するのだとゆわれている。 自明、ということにします。 オーストラリアのコーヒーの致命的な点は、ぬるい、エーゴでゆーと「lukewarm」であることで、カウンタでコーヒーを買って、カウンタのなかで跳びはねそーな元気のいいねーちゃんに渡されたカップからひと口すすると、「人生の寂寥」というべき感情がこみあげてくる。 もしかしたら哲学的な気分にひたるには向いているかもしれないが、あんなに哀しい飲み物はない、とマンハッタン人にまで言われる。 わしが生まれて初めて「アイスコーヒー」を飲んだのはミラノの大聖堂の近くにあるカフェであって、爆弾みたいに濃いコーヒーであった。 小さなグラスにはいっていて、甘味がつけてあるそのアイスコーヒーは、ひょっとしたら100%カフェインなんちゃうか、と思うくらい強烈なコーヒーで、その晩眠れなくて煩悶しました。おまけに胃が痛くなってきて、かーちゃんに内緒で飲んだので、ばれたらミラノ駅の裏に捨てていかれる、と考えて恐怖のなかで朝までのたうちまわったのをおぼえておる。 義理叔父も80年代のワシントンDCで同じ経験がある、とゆっておったが、わしがチビガキ時代のアメリカのちょっと田舎の町では、もう「アイスコーヒー」というものが判らなくて、カウンタのなかのおばちゃんが、南部訛りで、なんじゃそりゃ、というのに、こーゆーもんですねん、と説明すると、アメリカでいうレギュラーコーヒーをいちばんでっかいコップにいれて氷をおもいきり放り込むと、「これでいいか?」という。 … Continue reading

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