自分でないもののふりをする、ということ

このブログ記事を書いている第一の目的は自分の日本語の練習で、タイトルにある通りだと思う。言語は厄介で、何ヶ月か使わないともう減衰する。
もともと言語的な才能がある妹にひきずられて他言語を習得しようと考えたときから覚悟はしていたが毎日の一定時間をいくつかの言語を使って過ごす、というのは楽しくもあれば(ときに)苦痛でもあります。

このブログは日本に住んでいる日本人が日本語で書いているブログだ、ということになっているよーで、どーもそれは山本七平というひとがユダヤ人だという触れ込みで日本社会を批判したことがあって、そんなことを許すわけにはいかない、ということだそーだが、本人が言うのは変だが、わしは鏡を見ても日本語を学習したせいで顔が日本人になってしまったというような兆候は認められないので、面白い反応だなあー、と考えるだけだった。
初めから極めて失礼な態度で話しかけてきた人が何人かいて、そのうちのひとりはなんだかはてな社会に割拠する隣組軍閥の頭目であったらしく、「はてな社会」のあの有名な農耕社会性格を反映して何百人というひとが非難にあらわれた。
バカバカしいので冗談を述べてからかったら、それを真に受けたひとびとがもっと怒り狂う、という結果になった。
このブログがせっかく日本の会社なのだからと考えて始めたはてなから英語世界ではありふれたワードプレスに移ったのは、そのせいです。
不愉快といえば不愉快だったが、しかしだから真剣に怒り悲しんでいたかというと、ほんとうは、そんなことはなくて、こういうと、いまだにつきまとってあちこちで「ガメ・オベールは許せない」とばかりに、いろいろなことを書きまくっているひとをコーフンさせてしまうだろーが、なーんとなく、他人事というか、どーでもいいや、というか、はっきり言ってしまえば、アホのやることは集団でやることでもアホすぎてわからん、と考えただけだった。
(ゆってしまったじゃないか。「よんさん」の悪影響ではあるまいか)

ついでに余計なことを書くと山本七平て誰だ?と思ったので義理叔父に訊いてみると、義理叔父の意見は意外なもので、「日本人とユダヤ人」という本は、あのひとが書いたものではないだろう、という。
なんで?と訊くと、大学のときに図書館で読んだが、なあーんとなく違うと思った、という酷い理由だったので腰がぬけそうになったが、そのとき話していて、山本七平が、わしがこの本はおもろいな、と考えた「私の中の日本軍」「一下級将校の観た帝国陸軍」を書いたひとと同じひとであることを発見して、へえええー、と思ったのでした。
あれを書いたひとだとすると、その知性から推量して、わざわざ「いざや便ださん」(^^)という名前で書いた本を「ユダヤ人の名前でユダヤ人のふりをして書いた」と非難するひとたちの途方もない頭のわるさにさぞかし苦笑したことだと思うが、義理叔父のいうとおり違うひとが書いたものなのかどうかは、「日本人とユダヤ人」のほうを読んだことがないのでわからず終いになってしまった。
同じようなことが他にもあったのだろうかと思って訊いてみると「ポール・ボネ」というような名前が挙がって、むかしの日本には、そういうことが他にもいくつかあったようでした。

いまの日本語の世界では誰かが外国人のふりをするのは極端に難しいと思われる。
たくさんの日本人が外国に永住していて、しかもインターネットを通じてガラス張りの世界に住んでいるからです。
もっというと、あたりまえだが、日本語をも母語とする外国人の数というのは国際結婚やなんかのせいで日本のひとの想像を遙かに越える数がいる。
そのひとたちのうち日本語を保持しているひとたちはみな日本語インターネットを眺めて暮らしている。
早い話がわしの従兄弟も日本語との接点が義理叔父とインターネットしかないので、いつもかなり熱心に日本語インターネットを見ている。
あるひとが日本語人であるか外国語人であるかどうかは、日本語も出来て、その当の外国語国に住んでいるひとがみればすぐにわかってしまう。
日系人ということであれば英語なら相手の英語そのものをみるまでは判断がつかないと思うが、ニュージーランド人ならニュージーランド人で、別に英語をみなくても、判るように書いてあれば、すぐにわかる。
(なんだか、ややこしくておまじないみたいだが)

「なにか自分でないもののふりをする」という点では最近で最も有名なのは、なんと言ってもジョン・タイター
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Titor
であると思う。
このブログ記事のごく初めのほう、5年以上前の記事にはよく出てきます。
このひとはニセガイジン大庭亀夫どころか、「未来から来た」とゆって突然フォーラムにあらわれた。みなが大笑いして、「ほんとうに未来から来たのなら使ったタイムマシンをみせてよ」とお願いしたら、驚いたことには、ポン、と放り出すように、ほんとうにみせてくれた。

UNIXの2036年問題を解決するデバグを行うためにIBM5100に隠されているAPLとベーシックが必要なのだということだった。

ジョン・タイターは膨大な数の予言を行ったが、後半にいくほど外れ方がひどくなって、やがて終熄してしまった。
アメリカで内戦が起こる、というような予言を信じるひとが多かったのにはひとつおおきな理由があって、このひとの予言は通常の曖昧模糊とした表現の予言ではなくてやたら具体的でしかも細部があたってしまうことがあった、ということがあるよーです。

John Titor A Time Traveler’s Tale やConviction of a Time Travelerというような「タイター本」は随分売れたし演劇にもなった。
英語世界では、おおきな話題だった。

予言がある時期から外れるどころかまったく見当違いになってジョン・タイターの名前を口にするひとびとが少なくなった頃、フロリダの弁護士事務所に「ジョン」という名前の子供を連れた母親だと名乗る女のひとがあらわれる。
この子は未来において断罪されるが、それをいま法的な観点から予防する方法はないか、と奇妙な質問を熱心に繰り返す若い母親を面白がって弁護士は法律あそびと割り切っていろいろアドバイスを与える。
ていねいにお礼を述べて立ち去った女のひとが書いた自分の身上を誌した書類には「タイター」という署名があったという(^^)

ジョン・タイターの実在を主張するひとが(といっても実は冗談でではあるが)わしのフォーラムには存在して、このひとの主張によればジョン・タイターの予言があたらなくなったのは故意であるという。
神が現世にあらわれて、自分が神であると疑われないためにはどうすればもっとも安全かといえば、それは「自分は神である」と称して、わざとしっぽをつかませ、化けの皮をはがさせるのが最もよいであろう、という。
そうすれば、誰も、二度と彼が神であると疑わなくなるだろう。
ジョン・タイターの用いたトリックはそうした古典的なものにすぎない。
膨大な引用をしてフォーラムの(当然わしを含む)全員を打ち負かして気持ちよさそうに呵々大笑しておった。

ここまで読んできて気が付いたひとがいるはずだが、ジョン・タイターの話の構造はイエス・キリストにまつわる物語にそっくりです。
神の子と称し化けの皮を剥がされて人間として死ぬナザレのイエスは紀元前後のジョン・タイターと呼びたくなるくらい似ている。

イエス・キリストについて言われる話は相互に矛盾するものもたくさんあって、作り話が多いだろうが、わしはここには書くのがメンドクサイので書かない理由によって処刑後イエスの肉体が復活したことだけは現実であると考えています。
やっぱり大庭亀夫はキチガイだ、という声が聞こえるよーだが、魂の復活、とかいうえーかげんな事ではなくて処刑されていったんは死によって滅びたイエスの肉体はイエスキリストとして復活したものだと考えている。

神の子と呼ばせておいて、化けの皮を剥がされて惨めな人間としてイエスは死ぬが、なぜ「神の子」がそんなに手のこんだ自己否定を行ったかということにキリストがイエスの肉体をもって地上にやってきた意味があるよーだ。
「デバグ」が目的であることまでジョン・タイターと似ている(^^;)

自分のフォーラムではないが、友達が主宰するフォーラムでむかし大騒ぎが起きたことがある。ラテン語やヘブライ語、ギリシャ語、ロシア語、多言語でたいへんな雄弁をふるう「匿名中国政府人」があらわれたからで、一見して明かな政治というものへの理解力もさることながら、そのすさまじいばかりの知性と知識と経験からしか生じないと思われる政治権力闘争への認識にみながびびりまくってしまった。
中国の政府の政策くらいそのフォーラムで評判のわるいものはなかったので、さまざまな論争が挑まれたが、「知的人間」であると恥ずかしいから自分でゆわないだけで内心では欧州を代表する知性の持ち主の集まり、というほども自負心がある(^^)若い衆を蹴散らす勢いで論破していった。

まる1年謎の人物だったが、来週あなたたちが屯する町に行くから、そこのカフェであいましょう、という。パブにしよう、と誰かが提案したが、いやカフェがいい、といいます。では、ぼくがクラブに招待しよう、と誰かがいいだして、みなが賛同した。

あらわれたのは、17歳になったばかりの美しい女びとの高校生でした。
そのひと、Rが、いまではわれわれみなの大事な友人であることは言うまでもありません。

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4 Responses to 自分でないもののふりをする、ということ

  1. Akira says:

    親愛なる、ガメさーん!

    >イエス・キリスト
    http://www.amazon.co.jp/The-Five-Gospels-Really-Authentic/dp/006063040X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1333349849&sr=8-1
    この本の翻訳はどうですか?(^^;


    ところでこういう人間は何を拠り所に行きているのだろうか、、、 復興できないことを「できる」と言わないとぶっ殺されんのかね? いずれにしても京都のこういう運動を地道に続けるしかないと思います。

    Aki

  2. galileinagano says:

    どもお久しぶり、レスポンスしてないし遅れがちだけど、
    がめさんの文章は読んでますよー。
    「イエスの復活」についてのがめさんの意見は興味深いなと思って久しぶりにコメ。

    私個人は、「イエスの復活」はよくわからんけど、
    「奇跡」は各種いろいろあるだろうと思ってるんだよね。
    奇跡というか…まあ、「現実世界」は多数の人が作っている共同幻想みたいなものじゃないたぶん?
    それに縛られない世界が、ときどき現出しうるのだろうと思ってるわけです。
    物質世界を現出させているソフトウェア自体を書き換えてしまうみたいなね。

    で、奇跡を認める宗教にはいろいろあるだろうけど
    なんといっても華やか(?)なのはヒンドゥー教だろうね。
    米国にヨガを伝えたヨガナンダYoganandaという人の自伝「あるヨギの一生」って本はとっても面白いよ。
    インドってなんか、奇跡ありまくりの文化なんだよね。
    キリスト教の奇跡はもうちょっと倫理的というか暗い感じで
    奇跡はイエスと一部の聖者によるものだけを認定、という感じだけど
    ヒンドゥー教はもっと明るくて元気がよくて(?)、
    百家争鳴、なんでもあり、って感じで面白いんだよね。
    それに比較すると、ブッダは奇跡とか超能力を無視したし
    孔子も鬼神は語らずと、「常識」の人だよね。
    神道も、「清明正直」と日常生活が基本。
    東アジアは地味なんだよねー(笑)。
    そういえばがめさんは、ブッダとキリストが日本の下町で同居するマンガ「聖(セイント)おにいさん」は読んだかね?あれは日本でしか成立し得ないマンガだろうなー。

  3. Akira says:

    ガメさんや

    galileinagano さんご指摘の「聖(セイント)おにいさん」
    http://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E2%98%86%E3%81%8A%E3%81%AB%E3%81%84%E3%81%95%E3%82%93%EF%BC%881%EF%BC%89-%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0KC-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E5%85%89/dp/4063726622/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1333624080&sr=1-1
    これも翻訳お願いし申す。クダラんかもしれんが、低線量被爆しながら日本の漫画家はこういう漫画を描き続けるだろうて、、、
    オイラの妹が教えてくれただよ〜

    Aki

  4. Akira says:

    ガメさんへ

    >処刑後イエスの肉体が復活した

    これがオイラには未だ解りません。。。仕事の関係でもう何百という方の死を看取らせて貰って来ました。何回側に居ても、少なくともオイラには呼吸の止まる瞬間の患者さんの荘厳な瞬間に慣れる事なんてできません。だからというか、、「肉体の復活」という物が解らない。。
    それは「概念でも無い」と。
    何かのエネルギー体が肉体から放散して行ったものを我々が3D化して見た(前述の大脳生理学的に)、というのなら何となく想像できるだけど。。。 
    以前付き合ってた超敬虔なフランス女性や、いまのカミサンもそれを信じて疑わない。「それは考える余地のない事実なのだ」と言う。。。
    カミサンの姉の医者も、その旦那さんも医者(精神科)だけど疑わない。。。
    オイラが外国で洗礼を受ける前夜は本当に複雑な心境だった。(ところで日本で洗礼を受けるにはまず準備期間が最低1年間かかるのだといいます)
    ただ『外国人と(教会で)結婚するためには仕方ないだろう』なんて言う、、軽い気持ちには到底なれなかった。それからキリスト教を考え始めました。そおして数或る書物を読むうちに、「宣教しているイエス」にとても興味を抱いてきた。地上であの様に語り、あの様に生き抜いたイエスに。。。
    5つの福音書についてガメさんに聞いたのもこれが理由です。
    ガメさん、マルコの福音書ではイエスの復活についてはわずか8節しか記述していません。しかも相当アッサリした形で書かれている。
    マルコの福音書は現世で「イエスの様に生きる」ことに視座が置かれているらしい、、 それが次ぎにマタイ→ルカとなるにつれ徐々に、時に大胆に変化してゆく。。特に最後の節は。

    パウロにおけるイエス理解は、唯一「復活」こそが、パウロのイエスへの理解(または、思い込み)であり、「イエスが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です」というパウロの解釈は、パウロは元々ファリサイ派だったから復活の概念は常識だ、と言う理由だけでは解決できない疑問が残るのです。
    「死んで復活したイエス」以外にはパウロはイエスに興味を抱かない。
    帝国主義へのキリスト教としての、中心に据えて過不足無く輝く台座の鋳型としての十字架を背負いキリストとなったイエス。それはパウロが予想していた以上に晴天の霹靂の如くパウロにインストールされたのかも知れません。
    「それこそが奇跡の一つなのではないか?」と、オイラは思うのです。

    しかし「復活」は別にして(これが「別には到底できない」みたいだけど、、)、イエスの生き様(所謂、奇跡的な事柄ではなくて、)や、一言一句が同等に信仰されてしかるべきだと思うのです。
    教会に入って正面に位置するイエスが、、荒涼としたガリラヤの丘で、夕日の光は射すも、肌寒く、砂まじりの風が吹く中、軽く笑みを讃えた原像のイエスが、貧しく、重い抑圧を受けたガリラヤの民を前にして、もの静かに語り始め、徐々に声のトーンを上げて語る、時々群衆の笑いもとったりして、その内に核心に迫っていく姿を。。。中心に据えていたっていいじゃあないかな。。と思ってしまうのです、、

    >もうカソリックの神から見放されている

    オイラも日本のキリスト教徒に声を大にして言いたい。「イエスはそんな事は言っていないし行ってもいない」、と。
    薄っぺらな言い方かもしれないけどイエスがもし現代にいたら、真っ先に高線量をまき散らしていた原発に行っていただろう。

    そんな訳で、オイラの疑問は膨らみこそすれ縮んではくれない。訝しんでい続けるのも辛いので、死海文書を読んでは「イエスはプレショックだったんじゃないか?!」なんて考えておいて頭を休めてもいました。

    ふとした事で話す機会を得たフランス人ネラン神父(http://www.tokyo.catholic.jp/text/diocese/oshirase/110324fuhouneyrand.htm)に話を乞うたけれども、、以前新宿でバーをやっていた神父は、死期が近づいても尚。。。。
    ワインを欠かしませんでした、、、(笑) 
    http://www.amazon.co.jp/%E3%81%BE%E3%80%81%E9%A3%B2%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%89%E3%81%A7%E3%82%82%E2%80%95%E8%B2%B4%E6%96%B9%E3%81%AB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%92%E3%81%94%E7%B4%B9%E4%BB%8B%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5-%E3%83%8D%E3%83%A9%E3%83%B3/dp/4795230498/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1335269082&sr=8-1

    ここに上げた「ネラン神父にとっての復活」ではなくて、
    http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%80%8C%E5%BE%A9%E6%B4%BB%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%AF-%E6%9E%97-%E3%81%82%E3%81%BE%E3%82%8A/dp/4818405248/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1335269054&sr=8-2
    客観的に物理的に「復活」したということなんですよねガメさん?

    **************
    ネラン神父曰く、、、
    「日本では何であんなに不味いワインしか売ってないんだ??」
    「ワインはブルゴーニュ以外はワインじゃないよ?」
    「日本の教会??、ああ建物は立派かもしれないが、あれらは全て伽藍堂だ。」
    結局、「復活」については話が始まらなかった。。。

    もっとも、イエスもまた「大食漢で大酒飲み」だったみたいだけどね。。
    (^^)

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