コーヒー、もう一杯

朝(とゆっても、だいたい10時より遅い時間だが)起きると、今日はなにをしよーかなあー、と考える。
昼ご飯と夕ご飯は他のひとがつくってくれるが、朝ご飯は自分でつくるのが好きなので、ポーチドエッグ、とかエッグベネディクトとかをつくりながら考える。
小さな、150gくらいのステーキを焼いて卵と一緒に食べることもあります。
朝シャンパンを飲む習慣はモニが妊娠したころから、なんとはなしに止んでしまった。
頭のなかのどこかが「家庭的」になっているのかもしれません(^^)
もうひとつ、紅茶で朝食を摂ることが少なくなって、コーヒーばかりになってしまった。

子供の時は紅茶を淹れるのにものすごく凝って、ばーちゃんの家で、もちろんポットにコージーで、チョーゼツうまいアッサムを淹れてうけたりするのが好きであったが、最近は普段でもコーヒーが増えた。
ウナ・カフェ・ソロ
http://www.flickr.com/photos/pedrocalvo/6553110015/
のこともあれば、
カフェ・コン・レチェのこともある。
小さいほうの台所にもBrevilleのエスプレッソマシン
http://www.breville.co.nz/beverages/espresso/the-dual-boiler.html
があるので、それでつくる。
家を手伝ってくれる大陸欧州人たちは、大陸欧州製のカッチョイイ機械を偏愛して、
ブレビルだっせえー、と言うが、
わしは満足しておる。
補修部品が手に入りやすいのだぞ、と述べて大陸欧州人たちの憫笑を買っておりまする。

連合王国人はコーヒーはイタリアだあー、とかフランスがいっちゃんうまいやん、とか、はっはっは、アマチュアめ、スペインの ウナ・カフェ・ソロに勝てるコーヒーがあると思っておるのかと、なにしろコーヒーを飲む習慣自体が新しい習慣なので喧しいことであるが、もうずううううううっと、何百年もコーヒーを飲んでいる大陸欧州人、なかでもコーヒーにうるさいおじちゃんたちにどこの国がいちばんおいしいと思っているかというと「ポルトガル」と当たり前のことのように言います。

ブラジル人のコーヒーというものへのアイデアは、フランス人のワインに対する考えとたいへんよく似ていて、ブラジル人のオカネモチたちと話していると、コーヒー豆の話をするのに農園別に話をする。
ちょうどニュージーランド人が今年のMud House Wine
http://www.mudhouse.co.nz/
はおいしくない、と言ったりするのと同じ口調で言う。

「イギリス人は、あちこちの農園からのコーヒー豆を混ぜてしまう!
とんでもないことだよ。だから、みんな不味いコーヒーになるんだよ」とゆって笑うが、こっちは頭のなかで「ぬわるほどワインでも違うビンヤードのものを混ぜると碌なことはないからな」とワインに翻訳して理解しているもののよーである。
ブラジルの、弟子が大勢いる「伝説的バリスタ」は実はニュージーランド人だが、あのひとなども、もしかしたらワインのアナロジーを活用してコーヒー王国のコーヒー仙人になっていったのかもしれません。

ポルトガルのコーヒーがマジでいちばんうまいかどうかは、わしごときには判らないが、
不味いほうはオーストラリアで、これはほぼ世界中のコーヒー人に知れ渡っている。
こー書くと、「オーストラリアにも、おいしいコーヒーはあると思います」と鼻をふくらませて怒鳴り込んでくるひとがいるところが日本語世界の面白さだが、あのね、それはあたりまえでんねん。
この種類の会話あるいは文言というものは一般化の焦点の結び方、範囲の設定の玄妙に面白さがあるので、オーストラリアにもおいしいコーヒーがあることはアメリカ人にも品の良い人間がいるのと同じくらい自明である。
…書いていて後者は「自明」と言えるかどうか、やや不安であるな、と思ったが、一応平行線が永遠に交わらないことにしても美しい世界は現前するのだとゆわれている。
自明、ということにします。

オーストラリアのコーヒーの致命的な点は、ぬるい、エーゴでゆーと「lukewarm」であることで、カウンタでコーヒーを買って、カウンタのなかで跳びはねそーな元気のいいねーちゃんに渡されたカップからひと口すすると、「人生の寂寥」というべき感情がこみあげてくる。
もしかしたら哲学的な気分にひたるには向いているかもしれないが、あんなに哀しい飲み物はない、とマンハッタン人にまで言われる。

わしが生まれて初めて「アイスコーヒー」を飲んだのはミラノの大聖堂の近くにあるカフェであって、爆弾みたいに濃いコーヒーであった。
小さなグラスにはいっていて、甘味がつけてあるそのアイスコーヒーは、ひょっとしたら100%カフェインなんちゃうか、と思うくらい強烈なコーヒーで、その晩眠れなくて煩悶しました。おまけに胃が痛くなってきて、かーちゃんに内緒で飲んだので、ばれたらミラノ駅の裏に捨てていかれる、と考えて恐怖のなかで朝までのたうちまわったのをおぼえておる。

義理叔父も80年代のワシントンDCで同じ経験がある、とゆっておったが、わしがチビガキ時代のアメリカのちょっと田舎の町では、もう「アイスコーヒー」というものが判らなくて、カウンタのなかのおばちゃんが、南部訛りで、なんじゃそりゃ、というのに、こーゆーもんですねん、と説明すると、アメリカでいうレギュラーコーヒーをいちばんでっかいコップにいれて氷をおもいきり放り込むと、「これでいいか?」という。
飲んでみたかったので、さんきゅ、とゆって飲んだら、水がコーヒーに淡い憧れを抱いているとでもいうようなチョー微妙な味がしました。

知っているひともたくさんいるはずだがタイランドのコーヒーは砂糖よりも甘い凶悪な甘さが特徴で、プーケで飲んで死にそうになったのを憶えている。
タイ人というひとびとは辛いものはあくまで辛く甘いものはあくまで甘い潔いひとびとであるのを失念していた自分が悪い、と自責の念にかられました。
こっちは地獄の炎のように辛いソムタムと交互に口に運びながら思索のスタートにおいては超極端と超極端のあいだに中庸を求めたウイリアム・ブレイクのことを思い出していた。

オーストラリアやニュージーランドにも「アイスコーヒー」はあります。
起源は多分日本に出稼ぎに行ったオーストラリア人でしょう。
半分くらい生クリームとアイスクリームが入った飲み物というか食べ物というかが明然とは煮え切らない食べ物で夏の風物詩のひとつになっているとゆってもよい。
わしもよく食べるが、それなりがなりそれになったくらいな、それなりの味のする食べ物です。

そして当然、日本のひとたちもコーヒーが大好きで、おいしいコーヒーを出す店があちこちにある。
日本の田舎をクルマで旅行していると、よくブラジル人達が営む質素な集会所のようなカフェがあったが、わしはそういうところで、よくコーヒーを飲んで手作りのチョコレートを食べたりしたものだった。一杯100円。なんだか頭がぼおーとしてしまうくらいおいしいコーヒーだったのをおぼえています。

日本のコーヒーというと、大阪の天神商店街だったかどこかで食べた「モーニングセット」の濃い、コーヒー豆の酸味が強調された匂いのするコーヒーが忘れられない。
わしは日本の小説で読んだ「厚切りトーストにゆで卵に砂糖とミルクをいれないと飲めないコーヒー」がついた日本の「モーニングセット」を食べたくて、ずっと探していたのに東京にはないので落胆していたが、その「喫茶店」でメニューに発見して、欣喜雀躍、注文したのでした。
それ以来「日本のコーヒー」というと、そのコーヒーの不思議な味を思い出す。
なにかの弾みに、ふと、あの少しツンとくるような匂いを思い出して、新聞を広げて読み耽っているおじちゃんや、前を見てはいるが目の焦点が遙か遠くにあっていて、過去をみつめているように見えるおばちゃん、カウンタの跳ね板をわざわざくぐって、遠く離れた隅っこのわしの席までやってきて、「おにーちゃんな、ゆで卵もトーストもお代わりできるから、遠慮しないでゆってな」と言いにきてくれた、なんだか厳粛な顔をしたおばちゃんのことを思い出す。

日本は、あんなに良い国だったのに、と思った途端に、見つめているコンピュータのスクリーンの文字が歪んでしまうことがあるのです。

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3 Responses to コーヒー、もう一杯

  1. Akira says:

    ガメさん
    本当に食べ物の話は出色ですね。。ヨダレが出てしまう、、大脳にいいですナ、、、本にしてくれませんか?(^^)
    「ギリオージ」さんは小説で御願いします。前に幻冬社にいらした敏腕編集者さんがオイラの歌の先生の息子さんなんですがどうですかね?o(*^-^*)o

    >文字が歪んでしまう

    オイラも『日本は終っていない』と思いたいんです、、

    感謝

    Aki

  2. kochasaeng says:

     色の記憶ってのがあって。
    頭上には空の色。目の高さには、いっぱいに繁った緑鮮やかな葉。それが年にいちど鮮やかな赤い実をつける。その下には木の幹と、決して肥沃とはいえない赤褐色の土。
     そんなことを思い出すのは、カレーの香りを嗅いだときだ。
     緑色カレー。ありふれたタイ料理。
     カレーの匂いが、コーヒー農園の記憶を連れてくる。タイの場合は、そうだ。

     千五百年ほどまえ。日本では聖徳太子が生まれたかどうかってころ。エチオピアのアビシニア高原で放牧されていた山羊たちが興奮して飛び跳ねていたという。あのおとなしいどうぶつが浮かれ騒いでいたのは、どうやらそこに実っていた赤い実を食べたからではないか。そう思った山羊飼いは、こわごわ赤い実を食べてみた。
     おー、いえい。
     高揚した。
     なんだかとっても楽しい気分になっちゃうぞ。
     それが、コーヒーのはじまり。カフェインの伝説だ。
     意外かもしれないが、穫りたての珈琲果実は甘い。ただ、種子が大きく果肉が少ないし、収穫後は急速に果肉の味が落ちるから、その旨さを知るものは少ない。ひとがコーヒー豆と呼ぶのはこの種子のことで、げんみつに言えばコーヒーの木はマメ科ではないので、あれは種実だ。でもまあ見た目は豆だから、それでいいじゃんってことだね。
     タイのコーヒー農園での収穫は乾期と呼ばれる年末の前後だ。そのあと四ヶ月ほど経って最も暑くなる水掛け祭をむかえる頃、つまりちょうど今頃。どんな合図があるのか知らないが、コーヒーの木はいっせいに小さな白い花を咲かせる。この香りが、また甘いんだ。米の花の、ちょっと粉っぽいような甘い花粉の匂いとは、ぜんぜん違う。花そのものが放つベンゼン基をもつ上品な芳香だ。
     だから、コーヒー農園の知人を訪ねるなら、果実の収穫の頃か、開花時期を狙って行くといい。
     それはね、コーヒーがニンゲンに幸福のお裾分けをするときなんだ。
    「とても忙しいのです」のんびりと農園のひとは微笑む。ぜんぜん忙しそうな口振りではないけれど、コーヒー農園のひとびとは、そういう話し方をする。もうね、全員そう。
     そして昼食をふるまってくれる。カレーだ。違うこともあるけど、来客のあったタイのコーヒー農園の昼食はだいたいカレーと相場が決まってる。小さな茄子と小たまねぎ、レモングラスと胡椒の実なんかが複雑なスパイスとココナッツミルクで煮込んであって、肉は鶏か豚の細切り。クミンの種って、いい香りだよね。
    「どっちにする?」と訊かれるけど、これはカレーをカノムチンという素麺みたいなものと食べるか、あるいは米で食べるか、って質問。どっちがいい?
     正解は「ご飯と麺の両方。少しずつください」で、おかわりすると非常に喜ばれる。香辛料が容赦なく投入されて辛いときは正直に告白しよう。みなこぞって笑い出す。農園のひとびとは、客人がカレーを食べるようすを見るのが好きなんだ。よその国のひとなら、なおさら。そして微笑みながらヤンガードリアス亜氷期のグリーンランドの氷みたいに冷たい水を勧めてくれる。
     食後には、運が良ければ穫りたての珈琲果実が食べられる。それは一年のうちのほんの短いあいだのことで、そうだな、たとえば午前五時半に名神高速道路の下りの養老サービスエリアの食堂でカツカレーを載せたスパゲティを食べている初老の置き薬売りを見かけるくらいの確率で、かなり難しい。
     でも、収穫が済んで生の果実がなくなったあとでも、農園のひとだけが食べられるコーヒーの実のジャムの相伴に与れる可能性もある。これも旨いものだ。こっちはムンバイの空港でインド映画のスターとすれ違う確率と同じくらい。やはり難しいけれど、珈琲の生鮮果実ほどの難易度ではない。
     ジャムの作り方はかんたん。コーヒーの種子を抜いた果肉を十五分ほど柔らかく煮込み、重量比で果肉の半分の砂糖を加え、さらに十五分くつくつと煮詰める。ただ、コーヒーの果実にはペクチンが少ないので、ペクチンの粉末を加えるか、ペクチンを多く含む柑橘類か何かとブレンドしてやらなければ粘りが出ない。焦げないようにかき回し続けること。面倒なら電子レンジでも作れるし、しかも失敗することはないけれど、それはつまらない。ぷつぷつと際限なく立ち上る泡に粘りがでてきたら少量のマナオという柑橘類の果汁を絞ってミントの葉と胡椒をあしらってできあがり。想像つかないだろうな。とても上品なジャムなんだよ。もちろん防腐剤なんか入れないから、そんなに長持ちすることはない。けれど防腐剤なんて必要ない。コーヒーの実のジャムは旨いから、時を待たずになくなっちゃう。だから、だいたいの訪問者は果肉にもジャムにもありつけない。残念だね。
     だけど、まあいいじゃないか。淹れたてのコーヒーなら、いつだってあるんだ。
     農園のひとでコーヒーがきらいなやつなんか、いない。みなコーヒータイムの語らいが大好きで、従業員が持ち寄る自家製の菓子と、道教的な無為な与太話といったら大したもんだ。どちらも世の中に必要なものではないけれど、まちがいなく一級品だ。
     豆インド人から買ったカシューナッツをちりばめたクッキーが得意なのは二十年まえ村でいちばんの美人だった選別士のジィヤップさんで、今でも夫は彼女が世界いちの美女だって知ってる。
     経理の未亡人ウイさんは、かつて愛した夫の好物だった餅米をココナッツミルクで甘く炊いた菓子を作るのがうまい。砂糖の分量が絶妙で、隠し味の塩の加減は誰が教わっても同じものが作れないんだ。
     受付のオンちゃんはバナナの焼き方の権威だし、オーナーのプラチャンさんはジャムのおじさんと呼ばれているけど、じつはジャムよりもマンゴープディングを作るのがうまい。菓子を作れないものは、それを誉めるのがうまいから問題ない。もうひとつ、与太話の苦手なタイ人なんてのも、めったにいるもんじゃない。口べたなひとは笑ってそれを聞いている。愉快と快適。それがタイの合言葉。高度な洗練だよね。
     コーヒー農園にいるひとが、みな楽しそうなのは、お菓子と与太話とカフェインのせいだけじゃない。
     ずっとむかしの、山羊たちの呪いの魔法がかかっている。邪悪な世界に繋がってるとしか思えない長方形の瞳を持ち、木の根まで食い尽くす貪欲な臼歯は人間と並んで世界を砂漠化させる。呪いの一つや二つ、山羊にとっては切り立った崖を登るよりも簡単なことだった。
     ただ、連中は頭が悪いうえにカフェインで高揚したせいで呪文を間違えたので、コーヒーはひとびとを楽しく幸福な気持ちにさせる飲み物になっちゃったんだ。山羊みたいな白い髭をたくわえたブンソンさんが笑いながら、そう教えてくれたけど、ブンソンさんはいつもテキトーなことばっかり言ってる老人だ。歳を訊くと、三十五歳だって言い張るし、合衆国のオバマ大統領なら、よく知ってるって言う。賭けてもいいけど、オバマはブンソンさんのことなんか絶対に知らないはずだ。
     でも、山羊の話は、農園のひとなら誰だって知ってるから、あるいは本当のことかもしれない。
     悪人なのに世の中の役にたつ政治家ってのがいて、山羊は、そんないきものかもしれない。
     コーヒーのこと。
     グリーン・カレーの匂いを嗅ぐと、いつも思い出すんだ。
     すかっと抜けた空の色。艶のある緑の葉。鮮やかな真紅の果実。
     そして、カフェインに浮かれ、びょんびょんと飛び跳ね回る数百匹の山羊たち。
     いいよね。コーヒーって、いい。
     農園で飲むコーヒーは、すごいんだぞ。
     まわりが全部コーヒーの木なんだが、それだけじゃない。目の前で生豆を煎ってくれるんだよ。少量のときは焙煎機なんて使わない。
    金網だ。すべての豆に均等に火が回るように炙るには笊みたいな形状の金網が良くて、中華鍋を煽るように金網を揺すって豆を煎っていると、やがて豆は焦げはじめ、ついには、ポップコーンみたいにぱちぱちと音をたてて爆ぜてくる。ぜんぶ爆ぜたら、もうこっちのものだ。もう少し炙る。そうすると、こんどは二度目の爆ぜ音がはじまる。二度目はぴち、ぴちと高い音程で音が小さいから注意深く。これは数粒でいい。ぜんぶ二度爆ぜさせてしまうと煎りが深すぎる。アイスコーヒー用のローストじゃないんだから、軽くていい。
    このときの香り。焙煎の香りが、本当のコーヒーの香りだ。でも、のんびりと胸一杯に息を吸っている場合じゃない。手早く豆を火から離し、扇風機の風で豆を冷やすんだ。でないと、余熱で煎りが深くなっちゃうからね。
     これをミルでがりがり粗挽きして、たっぷりの豆をネル袋のドリッパーで贅沢にざっと落としてくれる。なんだかおおざっぱな淹れかただけど、これだと雑味が出ないんだ。ポイントは挽いた粉をネル袋の中で静かにならしたあとでスプーンか指先で浅い窪みを作ることと、湯を染み込ませたら、粉がむくむくと膨らむから、じゅうぶんに蒸らすこと。
     暖めたカップに注いだコーヒーを覗いてごらん。黒いようだが、よく見ると濃い褐色だとわかるだろう。濁りのない濃い褐色。旨いコーヒーには濁りがない。
     口に含むと広がる苦み。すぐに追いかける甘み。薄い酸味。
     そして、鼻から抜ける香り。
     いえーい。これがコーヒーだね。
     もう一杯、どうだい。

  3. cypraeaidae says:

    私をバー・ルパンに連れてってくれた人は、このブログの義理叔父様の思い出に現れるような昔のまだ愛せた東京を知っていた人で、下町長屋とか、看板建築、電気ブランだとか、「日本の小説」に出てくるようなコーヒー、とかを私に教えてくれようとしたのだけど、いかんせん自分がモノを知らなすぎたうえに下戸で野暮だったのと、それよりなにより、その頃にはそれらが全て既に懐古趣味のためのインチキに成り下がってしまっていたために、私には彼が何を称揚しようとしているのかピンと来なかったのでした。そんなノスタルジ嘘じゃん、目の前にある齟齬になんで目がつぶれるのだろう、と生意気なことを内心思っていた。けれども今思えば、彼にしてみればそんなことはじゅうぶん承知のうえで、それでも、それがインチキのハリボテであることを、それがそうなってしまった成行きの全体を、なんとか慈しもうと、ぎりぎりの嘘にふみとどまろうとしていたのだと思う。
    いまでもやっぱりそれは無理な試みだと思うのだけど。

コメントをここに書いてね書いてね

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