内なる国境を越える

70年代の終わりにレソト
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/lesotho/data.html
で教職についていたひとびとの話を聞いていると、「アフリカ」というものを考える為には西洋的な視座はほとんど無意味であるのがわかる。
むろん、日本のひとにもいなくはない、植民地化した欧州人がすべて悪いので善良なアフリカ人の生活を引き裂いてしまった結果、不幸な争いが起きてしまった、というような視座も何もない明治座でしか通用しない歴史観もむろんダメである。

週末になると土嚢をつんで機関銃を台座にすえて学校の備品を狙って襲来する山賊と戦っていた雑多な国籍の教師達は、「教育」という考えを根付かせるべく頑張るが、最後は結局、学校に行くのが嫌な一心の子供に煽動された大群衆の暴徒化した親たちがやってきて物理的に学校の建物を引き倒して破壊してしまう。
教師たちは、教育の拠り所を失ってちりぢりになってゆく。

週末、ロンドンのレストランで、教師達の驚くべき話を聞きながら、一方で、物語の随所にあらわれる細部もわしの記憶に鮮やかな印象を残した。
ひとつはレソトでも「部族」が最も強い結び付きをもつ集団で、国境も県境も部族的な事情がわからない欧州人やアメリカ人たちを利用して自分達の領土的野心に都合が良い線をひかせてゆく。
大臣の地位も同じことで、閣議はもちろん、もっと下級な委員会でも報告者が膝行を求められることがあったという。

言うまでもなく「遅れている」ことと「異なる」ことは本質的に違うふたつの事象であるというよりも、どこに立って見ているか、ということに依存している。
アフリカ人にとっては膝行が象徴する世界こそがアフリカなので、政府のなかであれ、外であれ、それがなくなってしまえば「アフリカ」そのものを失ってしまうことになる。

「国境」はレソト人にとっては権力が拮抗する線であるという意味以外にはなんの意味もなく、従って、国家というものと自分が属している集団とが重なるということもない。
国境というものが、ちゃんとした隣家との取り決めもなく勝手に作ってしまった塀と同じ意味合いしかもっていないのです。

あるいは、もう二年するとスコットランドは連合王国を解消して再び独立王国となるかどうかの国民選挙を行うことになっている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Scottish_independence
日本ではスコットランド人が連合王国を解消したがっているのを冗談の一種かなんかだと思っているひとが多かったので驚いちったが、スコットランド人にとってはたいへんマジメな話であって、スコットランド独立派の俳優のショーン・コネリーなどはひところは24時間イギリス諜報員の監視下にあった。
現実には2年後はタイミングが悪すぎた、というか独立の目玉のひとつであった通貨のユーロがへたってきてしまったために、スコットランド人にとっては独立のメリットが随分目減りしてしまったのでいちばん最近の世論調査では25%に満たないひとしか独立を希望していなかった。
スコットランド人の独立がどうなるかを息を飲んで見つめているカタロニア人のほうは、もう少し多いひとびとが真剣に独立を望んでいるが「人口が少なすぎて独立のメリットがない」というフランス側カタロニア人の共同体の意見が、やはりだんだんに浸透してきてしまっている。

考えてみるとスコットランドとカタロニアの独立の場合は、「国境」と言ってもごくゆるいマーキングを意味しているだけであって、それはもちろん、このふたつの集団にとっては近隣との国権的対立が最大に緊張したものではないことによっている。

チベットを独立国だと誤解している人は多いが、それは誤解のほうが正しいのであって、チベットを中国の部分とみなすことにはひどい無理がある。
ちょうど沖縄と日本の関係に似ていると述べた中国系アメリカ人の友達がいたが、沖縄人はあれほど日本人に一方的に踏みつけにされながら、やはり日本の一部であることを(屈折のなかで)望んでいるようにみえるがチベット人は歴史的に中国の一部であることをのぞんだことはない。
どちらかといえば、戦前の半島と列島の関係に似ていると思います。
この場合は国境がないのに「国」の対立はある。
チベット人にはダライラマを中心とする仏教的結びつきがあるからで、中国がパチモンのダライラマを立てて、「こっちが正統だ」と述べ立てることには、だから大きな本質的な意味がある。

日本人と韓国・北朝鮮人にどれほどの違いがあるかというと、傍目には「何の違いもない」としか言いようがないところがある。
言語は違うが、言語の構造は極端なほど似ている。
文化や情緒も儒教の皮をはがした奥の底のほうで通底している。
なにもかもが似ている。
「似ている」ということの内容が生理的な仕草とか咄嗟の反応や感情の動きかたであって、少なくともわしには見分けるのは全然無理です。
日本人の友達にその話をすると、ごくふつーの知識だという趣で「それは韓国のひとがいまの文化を日本を真似してつくったから当たり前なんです」とゆっていたが、あのひとは、百済観音をおもいだせばすぐに判るが、もともと日本文化のほうが…そういう言い方をすれば…半島人の「マネ」であったことを忘れてしまっている。
形への美意識ひとつとっても半島人と日本人はともに流麗な柔らかい線が好きで半島人や日本人の工業デザイナーの作品には「流線型」が多いのでもある。

ゴルフレンジに行くと、よく年長のゴルファーが若い初心者に手をそえ、腰のひねりかたを実演して(^^) ゴルフを教えているのに出くわすが、そういうときの熱情的な調子、どことなく軍隊風な感じ、まるで親子のような情愛のもちかたが、半島人は日本人にとても似ている。

外見で「あっ、きっと韓国のひとだな、これは」と思うのはチリチリにパーマをかけた髪型がずらりと並んだおばちゃんたちに遭遇したときで、これは多分田舎のひとなのでしょう、世界中ででくわす韓国の団体観光客である。
一方で、なんとなく陰気くさいテニス帽もどきをかぶって、おそろいと言うに近いベストを着て、みな同じ不思議な歩き方で道をぞろぞろと渡っているのは日本人であると見てすぐに判る。

あるいは韓国料理店に声高に話される賑やかな英語ではいってきて、態度物腰がアメリカ人ふうであって、ガムをかみながら、あるいは(アメリカ語でいう)ソーダをテーブルの上において、足を放り出して座っていたのに、店のひとがくると、突然文化圏をワープして移動したひとのように「儒教的」と言いたくなるような謙譲で恭謙な態度になり顔の表情まで変わる。
半島人であるなあ、と見ているわしのほうは感心してしまう。
日本のひとのほうは髪の毛をたいてい染めていて、服がやや細かいところに凝っている
色も線も、軽く、軽くみえるように工夫してある、というように見えます。
戻ってゆく「儒教的な家」がないので、態度が豹変するということはなくて、なんとなく形が壊れてゆらいでいるような佇まいである。

おっさんたちは、少なくとも、両者まったく同じで、なんとなく尊大に構えていて、
野球帽やゴルフ棒をかぶってデタラメな歩き方で歩いている。
携帯に向かって日がないちにちバカでかい声で怒鳴っているクビの後ろが赤いパケハ(白人のことですね)おっちゃんたちと同じで、見ていて、あんまり話しかけたくない感じがする。

韓国と日本のあいだの「国境」はなんだろうか、と考えると、お互いがお互いにもっている偏見だけであって、他にはなにもない、と思う。
20代の中国人たちと話すと「日本人とは話をしても仕方がない」というひとが増えたと感じる。
「最もよいのは彼等がなぜ失敗したかを学ぶことで、日本人と同じに傲慢になれば中国人も日本人と同じように没落するということを我々は知る必要がある」というような言い方をします。
日本人という集団はすでに歴史的に乗り越えた存在だと感じているよーで、自信満々にみえる。
そーするとイギリス人などは、図書館の書架の歴史の本のページとページの隙間で呻いている民族にすぎないと認識されているよーな気もするが、わしはそーゆーときには都合良く頭を切り換えてニュージーランドという若々しい国の国民になることにしているので、そーゆービジョンはちらと持っただけであった(^^)

ところが韓国の若いひとびととなると、日本人に対して正面から怒る口吻が多い。
なぜ半島人の優秀さを彼等は認めないか、というような話しぶりをする。
中国の若いひとたちがもっている日本人への距離感と較べて半島人はまるで他人に対して自分の兄弟への怒りをぶちまけているひとのようで、わしなどは、半島人はほんとうに日本人と兄弟なのだなあー、といつも思わされる。

先週、よんさん、というオークランドに住んでいる、前には半島系日本人でいまはニュージーランド人の友達が、「なぜ日本人は日本にいる朝鮮の人間に北朝鮮の問題について相談しないのか」というので、びっくりしてしまった。
ほんとうだからです。
ほんとうだし、ほんとうであるだけでなくて、誰もそうしないことには、たくさんの不自然な半島と列島の関係が蟠っている。
北朝鮮の話をしているときに、この友達は「北朝鮮には手つかずの美しい自然がある」とゆったが、そういう簡潔なイメージすら、もっている日本のひとには会ったことがなかった。
韓国人たちが北朝鮮に観光旅行で行きたがるのは、政治的理由ばかりであるように日本語の本には書いてあったが、実際には、なんのことはない、ニュージーランド政府が観光事業を推進しているのと同じことで、北朝鮮という国は条件さえ整えば韓国人や日本人が郷愁をもつ種類の自然がそのまま残っているので、国がそのまま巨大な観光資源でもあるのでした。

半島人に対しても日本人に対してもたいした理解力をもたないし関心もないアメリカ人たちのほうが、遙かに情報と知識をもっていて、遠くから(そうするのが政府として、あたりまえだが)自分の国の利益のために二国を操作する、といういまの極東の異常な政治的情景は、「直截話してみればよい」という日本の首相では小泉首相だけがもちえた発想を、日本のひとが自らの強固な偏見のせいでもてないでいるからである。

このブログ記事では、前にも何回も書いたが、半島人と日本人はオークランドやニューヨークのような街では、ごく自然に、とても仲が良い。
韓国人たちの店に一緒にでかけると日本人であるわしの義理叔父は、わしに較べると、常に盛りつけから挨拶から、なにからなにまで、と言いたくなるくらい自動的に待遇がいいのであって、
店にはいるなり、(多分、キムチの増量を期待して)(とゆっても韓国料理屋ではキムチはタダだが)「アンニョン・ハセヨ!」なんちゃって、のっけから有卦を狙っているからかもしれないが、同族でなければありえないよーな親密な関係をみせつける。

若い女びとのウエイトレスがテーブルにやってきて、「ねえ、ねえ、あなた日本人、でしょ?」と義理叔父に笑いながら言う。日本語です。
義理叔父がいつもの間の抜けた調子で「そーだよ」というと、
なにがそんなに可笑しいのか、笑い転げながら、額と胸とお腹を力いっぱいという感じで人差し指で押さえながら、「あなた、からだに、ニ、ホン、ジンて書いてあるよ」といいます。
義理叔父がやや情けなさそうな顔をすると、慌てて、違う違う、韓国には、あなたみたいなオジサンいない。日本人だけ、と言い加えている。
ここに至って賞められているのだと理解した義理叔父は、若い女びとが立ち去ったあと、
わしに向かって「韓国の女の子は清純でいいなあー」と、かーちゃんシスターにちくったら夕飯がなくなりそうなことをゆって悦にいっている。
カウンタの向こうでは、多分、さっきのウエイトレスの父親であるらしき、レストランの店主が憮然とした顔で女の子のほうを眺めやっている。

全体の雰囲気がまるで親戚の家をたずねてきているよーなもので、これでどうして違う国でいたいと思うのか判らない、という感じがする。

伝統的な国権主義国家というものは、要するに大国に有利な思想で、いまの世界では国権主義に拠って有利な国は、中国、ロシア、アメリカ合衆国、ブラジル、インドに限られる。それ以外の国にとっては国権主義的な国家のようにチョー古くさい国家概念をもっていてもいいことはないので、欧州人たちは国家の意味を変えるべく、ここ数十年を実験にあててきた。
ユーロが世界基軸通貨になる望みがなくなったので、いまのEUをそのまま維持することにいつまでも熱心であることはありえないが、また違う手をおもいついて実行に移すのは、殆ど「歴史的必然」と思います。

日本人と半島人は、くだらない、と言えなくもない、時代遅れな偏見を捨てれば、
二億人市場を国内にもつ、巨大な経済圏をもつことが出来る。
北朝鮮を含めて、阿吽の呼吸をもちうる「同一民族」の二億人市場は、多分、機能しだせば現在の中国の先進国部分(8000万人)と中進国部分(二億二千万人)をあわせたよりも全体の生産性は高いはずであると思われる。

政治的な跳躍によらなくても、たとえばサムソンがシャープやソニーを吸収してゆく、というような形で産業主導の統合が将来起こっていくのかもしれないが、その場合は、というよりも、そういうやりかたでは、中国が黙って指をくわえてみているわけはない。

文化というものは、いかにもそういうもので、わしには中国人と半島人は近付けば近付くほど反発をましてゆくものであるよーに思われる。
「地」の文化がまるで違うのに、儒教という理念だけで結びついた過去が邪魔をしているのです。

韓国は「産業界の英語化」とでも呼びたくなるような大きな運動がいまは国是で、簡単にいうと「英語ができないものには未来はない」とみながおもっている。
だから、ニュージーランドでも3歳くらいの韓国人が「留学」させられてきて、社会問題になったりする。
しかし、そうやって韓国人たちが、日本人よりも遙かに先を越す形で現実の西洋社会にはいっていった感想のひとつは「西洋社会の東アジア人に対する冷淡さ」で、人種嫌悪もなにも、欧州系人たちの東アジア人への「無関心」に愕然としてしまう人が多いよーだ。
ニューヨークの日本人と半島人の自然な仲の良さは、そういう欧州系人たちの態度にも理由があるのかもしれません。

朴正煕はむかし、「竹島といい独島というが、あんなちっぽけな島がわれわれの友好に邪魔なら、爆破してなくしてしまえばよい」と述べた。
それは日本人の良い所と悪い所を知り尽くしていた独裁者の孤独な心から出た「悲願」にも聞こえる言葉で、戦後すぐから、表立てないために、暴力団というような形をとってさえ、情報も情緒も共有してきた半島と列島とは、お互いの国民が気が付かないうちに、お互いの内なる国境を消滅させて、同じひと続きの文化で結束する、二億人の塊をめざさねばならないところにさしかかっているのではないかと思います。

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