An Ordinary Life

(ちょっと理由があったので、普通のニュージーランド人の物質的生活について初めに書いておくと、)

父親が古道具屋で買ってきて自分で緑色のペンキで塗った、日本の家具で言えば勉強机くらいの小さなテーブルがあって、それが一家4人の朝食のテーブルなのである。
朝食の時間になると、トーストスタンドを囲んで一家4人がでかい身体をくっつけあうようにしてトーストと卵とベーコンの朝食を食べる。

両親とも高校の教師で父親は数学母親は家庭科の教師をしている。
300坪くらいの敷地に、それがイギリス式の建て方というもので建物が道路に面して建っていて、ひとからは見えない反対側に「バックヤード」がある。
フロントヤードをつくるのが普通なアメリカ人との大きな国民性の違いをあらわしている。

スリーベッドルームという。
ニュージーランドでは最も多い家の構造です。
家からはいった直ぐが台所で、その向こうにラウンジがあります。ラウンジの横には「ダイニングルーム」があるが、これは通常(考えてみればヘンな話だが)店のディスプレイのようなもので、おおきなリムのテーブルにはランナーという長い布がまんなかを走って、燭台があり、八脚の椅子がきちんと並べてあるが、実は普段は使いません。
客がきたときだけ使う。
客がきたときには、食器もいつもの食器洗い機にどんどん放り込んで洗えるスポード
http://www.spode.co.uk/
やイタリア風の白い食器ではなくて、普段は飾り棚めいたキャビネットにはいっている、もっと良い食器を使う。
普通はではどこで夕飯を食べるかというと台所の脇の畳で言えば6畳くらいの空間にもっと小さな6脚椅子つきのテーブルがあって、そこで食べます。

ラウンジにはいったところを右に行くとふたつ子供部屋が向き合っていて、左に行けば両親のマスターベッドルームがある。
右にも左にも行かずにそのままラウンジを突き抜けてしまえば、薔薇のある花壇や巨大な楡の木が枝を揺らす芝生を張り詰めた庭を見渡せるテラスがあります。
ウエザーボードと呼ぶ板を張った白塗りの木造の家は、日本のように「間取り図」というものがないので、精確な広さがよく判らないが、多分、300平方メートル弱の床面積であると思われる。

四筋ほど離れた通りから、この通りに越してきたのは母親の希望であって、前の通りよりも地域は同じフェンダルトンだが、だいぶん良い名前だからです。
母親の見栄ということもあるかもしれないが、実際、ニュージーランドの社会では通りの名前がよいところに住むのは家を売るときに売りやすくて、しかも高い値段であることを意味する。

通りの景観にちょっとでもそぐわない家を建てるひとが出ると、近所の人間が総出で抗議にあらわれて、色を変えろ、なんじゃこのデザインは、といって怒るが、そういう反応が起きるのは「自分の家の値段がさがる」というごく直截で簡単な理由があるからである。

子供部屋の奥にシャワーとトイレだけのバスルームがひとつ。
ラウンジの脇にもやはりシャワーとトイレだけのバスルーム、
奥のマスターベッドルームにはオンスイートのバスタブもあるやや大きめのバスルームがある。

両方とも高校に通っている息子と娘は、通りのクソ名前などはどーでもよいから、前の家のほうがなつかしいなあー、と考えている。
家はややぼろかったが、なにしろ子供ボート用の桟橋があるのがクールであった。
近所の友達と遊ぶのに、自分達のボートででかけていけた。
どの家にもツリーハウスがあって、木にかけたはしごで登ってたどりつく樹上の家は、近隣のガキどもの秘密基地として機能していた。
雨の日には悪の組織から地球を守る計画に熱中した。
それに較べると、こんどの通りの住民は、なああああーんとなく気取りくさっていて、おもろくないよーな気がする。

自動シャッターがついた車庫にはクルマが2台はいっていて、1台は父親のフォードのステーションワゴン、母親はホンダシビック、両方とも10万キロ近く走っているので、もう買い換えたいが、オカネが足らんのでそこまでは手がまわらない。

息子も娘も制服で歩いて近くにある高校に行きます。
ニュージーランドでは良い学校の校区であるかどうかで家の値段が二割くらい違うという。
校区から外れてなお「良い学校」に行こうとすると私立に行くことになるが、こっちは無茶苦茶学費が高いので、そのくらいならローンを積んで「良い通り」に越した方がよい、と考えるのが普通であると思う。

平均年収は、わしが子供の頃は義理叔父が日本の半分、とゆっていたのを憶えているが、いま見ると2011年の資料(USドル)でニュージーランド人が29050ドル、日本が42150ドル、日本の七割くらいであるよーだ。
上で仮想している例であれば、両親の収入があわせて12万ドル、日本円で800万円くらいであると思われる。
「それじゃ全然平均じゃねーじゃん」と思う人がいるであろーが、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカという三国は貧富の差が激しいので有名なので、数字上のまんなか(この場合だと共稼ぎで60000ドル弱)は中の下という階層をあらわす。

15年も遡るとニュージーランドという国はなにしろ家がチョー安い国で、ここで考えようとしている家族が住んでいる家も500000ドル3200万円も出せば買えたに違いないが、いまなら1milを超えて、8000万円くらいは必要でしょう。
前の家を5000万円で売って、差額の3000万円を10年ローンくらいで払っているというくらいが平均である。
ホームローンが6%であるとして(伝統的には9%内外だが、ニュージーランドもご多分に洩れず超低金利時代なので、実際ファーストホームローンは6%以下です)、一箇月3300ドル(23万円)づつ支払いをしていることになる。
12万ドル、すなわち一箇月1万ドル(65-70万円)は無論グロスで数えているのでネットになおせば、7500ドル程度、すなわち50万円程度の月収なので、ホームローンの支払いをしたあとの27万円で一家4人が暮らさなければならない勘定になります。

だいたい5時になれば一家全員が家に帰ってきていて、テーブルを囲んで紅茶を飲んでいるであろう。ラウンジで、カウチや椅子にめいめい腰掛けて、学校や職場であったことやなんかを報告しあう、というか話をする。
それから、ふんじゃ飯にすっか、ということになって、娘と母親が台所に立ち、男どもは台所と普段使いのほうのダイニングテーブルを往復してプレースマットや食器をセッティングする。
だいたい食事時における男どもの役はテーブルのセッティングとデザート時のコーヒーもしくは紅茶をいれること、食器の片付け、テーブルを元の状態に戻してクリーンにして、皿洗いというようなことになっている。
ラウンジで食後くつろいでいるときも、飲み物やお菓子を用意するのは男どもの役である。

夕食のときの話題は、政治や経済が多いよーだ。
理由は多分、世代差がもっとも少ない話題だからではないだろーか。
いったいなんで、政府は16個も農場を、わざわざ諮問委員会の裁定に反してまで中国人に売ったのだ、とか、中国という国は太平洋にとって危険すぎる、でも、経済の発展に中国の力は欠かせない、えええー、だけど、チャイナマネーが流入するとぼくがオーストラリアに越したときに家賃が高くてカネが貯まらない…そーゆーことを延々と話す。
夏には必ず日本の調査捕鯨船団がやってくるので、どの家でもその話題でいちどは盛り上がるのだともゆわれている。

9時くらいになれば三々五々自分の部屋にもどって、銘銘コンピュータを使って調べ物をしたり、友達に電話したりで、12時頃にはみな眠りにつく。

ニュージーランドは英語圏でも一二を争うビンボな国で、それでも毎年大量の連合王国人を筆頭に移民たちがやってくるのは、「普通の生活が豊か」であるという噂を信じてやってくる。
連合王国人がニュージーランドに移住するときには収入が半分になるのを覚悟してやってきます。
「もうひいこらゆって稼ぐのは、このへんまでにして、あとは人間らしく、のんびり暮らしてえ」と考えてやってくる。
最近は英語圏であることが災いして、さまざまな産業が他国から引っ越してきつつある。
物価はあがって、経済はブームってしまい、賃金もあがったが、社会が忙しくなって、なんだか、これじゃサンフランシスコにいるのと変わらねーじゃん、と思うこともある。

それでも仕事が少しはやくひけて、夏の4時に家に帰り着けば(ニュージーランドでは通勤時間は都会のオークランドでも15分くらいが普通なんでごんす。クライストチャーチでは5分以上は長距離通勤であると冗談でいう)、クルマの上にカヤックをのっけて、なにしろオークランドという街はビーチだらけでビーチビーチしているので、そのうちのひとつに、ぶっ、とクルマで行って、沖に向かって漕ぎだして、あー、太陽の母上はいいなあー、をする。
日没は夏は9時過ぎなので、十分、沖合の波のあいだでぷかぷかできます。
あるいは若い夫婦が連れ立って、少し着飾って、どの住宅地の近くにもひとつはある、バーへ酒を飲みに行く。

人間には、どうも、天然に備わった「最適のペース」があって、「最適のスペース」もあるよーだ。それよりもペースが速くなったり、空間が狭くなったりすると、なんだか澱のようなものがたまって、それがどす黒く心にこびりついて、とれなくなってゆく。

さっきツイッタでジャンミンやオークランドに住んでいる熱血中年の村上レイと話していたら、Hugo_Kiraraというひとが来て、

「日本文化のこう言うところが大嫌いです RT @gameover1001:  @wagonthe3rd  @jiangmin 「支配層になったつもり」で一場の優越を空想して憂さ晴らしする。日本社会に特徴的な人達ですのい」

と述べていた。

日本語インターネットに出向いてみて、ぶったまげたことの第一番は、「日本の役所って、なあーんで、あんなに効率が悪いんだべ」というようなことを書くと、たちまちのうちに、「日本の公務員は世界一清廉で間違いが少ないのを知らないのか」というような人がうじゃらうじゃらと湧いてきてしまうことで、
近い出来事で言えば、東北にでっかい凶暴な津波が襲ったので、「原発、ダイジョーブなのかなあー」と誰かが言うと、「日本の原発技術をなめるな」「素人のくせに、ただ世間の不安を煽るだけのことをいうな」「何も知らない癖に余計な口を利くな」という文字通り嵐のようなお応えで、よく考えてみると、みなが「政府の立場に立って」考えてしまっている。

わしにはいまでも、なんで「放射能こえええー」と思っているひとのほうが放射能の危険性を証明してみせなけれないけないことになっていて、放射能をぶちまいてしまった支配層の方が「放射能は絶対安全でごんす」と証明してみせることになっているのではないことが、わからん、というか、なんのこっちゃ、と思うが、原子力発電所がぶっとんじったあとで自動的に「逃げたければ放射能が危ないと証明してみせなさい」という、お笑いSFでも、そんなアイデアでないわ、というような非現実的な光景が国を挙げて出現したことの理由は、なにか社会的なイベントがあると、全員で「支配層になったつもり」の、なんちゃって支配層が出現するからであるらしい。

なんで支配層でもない人が支配層みたいなことを述べて、研究者でもないひとが研究者っぽい話をするのを好んで、あとでどんな日本語人もさんざん見てきたように「物理屋にとっては生物屋から見るのとまた違う見方があって当然なのである」なんちて(^^)、わしがたまたま見かけたこのひとの例で言うと、賭けてもよい、科学の素養はまったくないひとだったが、そーゆーひとたちが、いっぱい湧いてきて、「科学者のふり」までしてみているのだろう、と不思議の感に打たれてしまった。

わしの結論は、このひとたちには「普通の生活」がないのではないか、ということでした。

「リア充」という言葉があるよーで、「リアルの生活が充実している」という意味のようだったが、実は支配層というようなひとは滅多に「リア充」ではない。
地位が高く、収入が多いだけのことで、時間が乏しくて忙しい上に、もっと問題なのは年がら年中、事業なら事業のことが念頭から去らないので、なんのことはない、沖合のヨットの甲板に座っていても、自分の仕事の部屋のデスクの前に座っているのと寸分変わらない。
あたりまえだが、オカネがあれば幸せだろう、というのはオカネがないひと特有のケーハクな、というよりは投げやりな生活に対しての理解の仕方であって、オカネよりも時間のほうが幸福の重大な要素である。
残業、というようなものが西洋社会において準犯罪的な印象をもって言われるのは、そのせいであると思われる。
わしが会社員なら、一時間の残業に対してせめて10万円くらいはもらわないと引き合わないと考えるだろう。
だって、時間がなければ、生活を楽しみようがない。
忙しい生活ほど人間を惨めにするものはない。

通常の社会では「リア充」なのは、普通に朝8時にでかけて5時には戻ってくる仕事をしているひとびとで、5時を過ぎてしまえば政治や社会や経済や仕事の心配などは「支配層」が引き受けてすべきものであり、自分はすべてを脱ぎ捨てて、自分の家族や伴侶との時間を楽しめばよいだけのことである。
支配層のほうは、人生を楽しみたいひとたちの信託を受けて、いわばこの世の心配を全部引き受けてくれるという契約で、多少えばってもいいことになっている。

やさしい恋人がいる週末から、ガキ共に囲まれるおかーさんやおとーさんになって笑い皺がたくさんできたばーちゃんやじーちゃんになる、あるいは邪魔なガキがいなくて、配偶者とふたりで、お互いを見つめて、静かな部屋の、そっと壊れ物を運ぶようにして大切にしているこの生活が、あとどのくらい続けられるだろーか、と考えながらくらす。

いづれにしても、人間の生活を送っていればパチモンの研究者になりさがって、相手をみれば論難し溜飲をさげてみたり、なあーんとなく研究者ぽい符牒で、無知なあんたは判らんだろうが、このくらいの放射性物質は危険とは言えないのだよ、と、丁度鮨屋でお茶をあがりといい、生姜のつけものは「ガリ」、ひどいひとになるとお勘定まで「おあいそ」と言う、あのチョー軽薄な「通ぶるひとびと」と同じ種類の下品さで、一瞬の「頭のよいひとの優越感」を味わいたいだけ、というような、よく考えてみればこれ以上惨めな行動はありえないほど惨めなことをやってみる、というようなことを試みようとはしないものだろう。

そこにあるのは、個人の生活を踏みにじって個人を全体の部分としかみない社会に完全に「適応」してしまった、リアリティというものを完全に失った魂であって、自分の情緒にアクセスすることも出来ず、自分のもっていた現実感をすら失って、ただ他人の目のなかに映る自分が光彩をもっているかどうかだけが関心の対象の、妄執
にとらわれた、いわば生きた亡霊のようなひとびとである。

「放射脳」というような全体のがわに立って個人の不安を嘲笑う言葉は、そういう社会からしか生まれない。
多分、他国人にはどうしても理解できなくて、日本ではもはや常識と化している、「この程度の放射性物質の拡散は安全だ」という不可思議な日本の「常識」が成立しえたのも、日本という国に住むひとりひとりの人間に豊穣な生活が与えられなかったからだろう。
日本はむかしもいまもニュージーランドのようにチョービンボな国に較べれば遙かにオカネモチの国だが、オカネは、みんな他人の目に映る自分が使ってしまったもののよーである。
あの一場の「研究者のふり」「支配層のふり」「賢い人間のふり」に熱中するひとたちが、他人の目が自分に興味をうしなって、他のものに眼をうつして立ち去ったあと、ただひとり小さな、それでいて「他人の目に映る自分」にそそのかされて買い込んだ品物が充満した部屋に座って、慌ててコンピュータの電源をいれるのは、なにかに映る自分が消えてしまえば、自分というものそのものが消滅してしまうのではないかと怖れているからなのかもしれません。

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