誇り

義理叔父は東京の人間だからだろう、関西の話が好きで、「日本にはきみの知ってる東京とは全然違う関西というところがあるんだけどね..」とゆってときどき話をしてくれたものだった。
東京人の癖にかなり関西が好きだったもののよーである。

「8」(エイト)というフレッシュジュース屋の話をよくしていた。
道頓堀にあって、義理叔父は若いときから関西に用事があるたびに出かけていっていたらしかった。
いま、インターネットで見てみると、2005年くらいまでやっていたようで店主が大正8年生まれであったのが「8」の由来だとあるから、86歳くらいまで店をやっていて、
義理叔父が始めて行った頃は、店主は60代であったことが判る。

従兄弟とふたりで義理叔父に連れて行かれたことがあるが、たまたま休みだったのでしょう、閉まっていた。
いまはもうないはずの「食い倒れ人形」の向かいだったと思うが、道をはさんだ反対側の路地をずううううっっと行くと、奥のつきあたりに「8」とだけ書かれたドアがあった。

ドアを開けると道頓堀に向かって大きな窓が開いた明るい空間がある。
義理叔父がいちばん初めに行ったときは、自分の祖父の友人で子供のときから見知っていた電鉄会社の社長と電機会社の会長が並んで座っていたというので、きっと、関西の財界人たちが好んでやってくるところだったのかもしれません。

電鉄会社おっちゃんがいたのは運がよかった。
店主のじーちゃんがたいへん気難しいひとであったからで、おっちゃんが、この店にはメニューないんだよ、頼むと、このひと怒るからね、とオモロそうにゆって笑ったり、店の「しきたり」を教えてくれたからでした。
義理叔父がどーしよーかなー、と思っているとテーブルにいた3人がメロンジュースを頼むので同じものを頼んだそーである。
じーちゃんは並んだミキサーの向こうから義理叔父をじっと見て、
「にーちゃん、違うもの頼んでも、わしはかまわんで」という。
電鉄会社おっちゃんが水をふきだしかけるほど、うつむいて必死に笑いをかみ殺し、他の客は呆気にとられている。
「8」では、ひとの注文に相乗りして同じジュースを頼むのが一種の礼儀になっている、と教えてもらったのは店を出たあとだったという。
じーちゃんは、自分が「偏屈な店主」と思われていることに微妙な反発を感じていたもののよーである。

コップを4つ並べて、ミキサーをぐわらんぐわらんとまわし、端から順にジュースをまんべんなくいれると、4つのコップに丁度すりきりいっぱいにジュースがはいってミキサーのタンブラーもぴったり空になる。

じーちゃんは、暫く感に堪えたようにコップをみつめて、あごをさすって、感動を隠しもせずに、満足の吐息を洩らしたそーでした(^^)

義理叔父はいっぱつでじーちゃんが好きになって関西に行けば必ず寄るようになった。

たったそれだけの話を義理叔父が繰り返し繰り返し従兄弟やかーちゃんシスター、わしに語ってきかせて、「もう聞いたって、ゆーとるやん」と嫌がられるのは、多分、認知症の初期症状なのではないかと思われるが、わしにはなんとなく気持ちがわかるような気がしなくもない。

義理叔父は、むかし、かーちゃんシスターやかーちゃん、妹、わし、というような眷属のひとびとに「日本は、どーしよーもない国だな。反省しなさい」と迫られると、いろいろ取って付けたような「日本の良い所」を述べて、日本とゆえど、ぼくだけがえらいんだもん、女なんて劣等じゃん、という男が支配しているだけのヘンタイ国ではなくていいところがちゃんとあるのだ、と述べて応戦したものだった。
終いには身体が小さくて摂取カロリーが小さいので地球の食糧危機解決に貢献しているというような鋭すぎる説までもちだして愛国精神を発揮していたりしたが、そういうショモナイいいわけのうちで、「日本人はどんな職業でも誇りをもって一所懸命工夫する」というのだけは、かーちゃんとかーちゃんシスターの意外なほどの賛同を得たので、これが日本擁護のいち定番になった。

西洋社会ではたとえばウエイトレスは「仕方がないから」やっている。
ハリウッドのレストランに行くと、ものすごくプロフェッショナルなウエイトレスがいて、「今日のおすすめ」を説明するのに、舞台に立った女優のように、というか、あるレストランでは実際にテーブルの上に飛び乗って、歌をうたうように暗記した長い「今日の特別メニュー」のリストを説明する。
オカネモチのなかには200ドルの食事のチップに200ドルおいていくひともいます。
しかし、このひともテーブルへの皿の出し方というようなものは欧州のチョー高いホテルのレストランの5分の1もちゃんとはしていない。
うまく言えないが「ウエイトレス」としてプロフェッショナルなのではなくて、パートタイムジョブでウエイトレスをやらざるをえないが、どうせやるなら徹底的にやってちゃんと高額のチップを手に入れよう、という考えであるらしい。
素晴らしい考えだが、わしがここで考えている「誇りをもって仕事をするウエイトレス」とは少し異なるよーだ。

これがニュージーランドになると、露骨にパートタイムジョブ、というか、
クライストチャーチのいまはもうなくなったカテドラルに近いインド料理屋のテーブルに座っていると、なんだかスリッパのようなものをはいて日本語では「ジャージー」という、あの、ずろっとしたパジャマが努力不足で外出可能な服になりそびれたような服を着た女の子がモニ妹わしに向かってずったらこずったらこずったらこと歩いてくる。足をひきずっておる。
な、なにごとならむ。物乞いであろーか、それともゾンビだったりして、と一瞬はしる緊張の向こうから
「オーダーの準備できた?」という声がする。
ウ、ウエイトレスだったのか、と狼狽しました。
ぜんぜん、そーゆーふーに見えないやん。

あるいはサムナーのバーでビールを飲んでいると、横の上品なおっちゃんが、ダックのブラウンソースを頼んでいる。
カウンタの向こうのにーちゃんがもう冬だからgameもいい考えだな、という。
おっちゃんは顔をしかめて、「ダックはgameじゃないさ」という。
にーちゃんは、ええええええー、という顔で、ダックがgameじゃなかったら、この世の中には金輪際gameなんてないじゃないか、という。
あまつさえ眼が怒っておる。
おっちゃんも怒って、静かな声で、もう食べ物はいらん、ダックがgameだなんていいはる奴がいる店になんか、もう絶対こない、とゆって歩き去ってしまった。
gameという言葉は年年拡大解釈される日本政府の治安対策法のような言葉なので、そのうち反原発のyoutubeを観たというのでつかまる日本の人が出るに違いないが、むかしは四つ足の動物に限られた。
いまはコンピュータで調べても(めんどくさいので調べてないから嘘かもしれないが)多分ダックもgameのうちにはいっているのではあるまいか。
どっちでもいいが、カウンタのなかにいる人間が、そもそも気持ちの良い会話にオカネを支払うべくやってくる客とそーゆービミョーな問題で喧嘩していてはダメである。

わしは新幹線に乗るとき、東京駅にカラスになぐられて唇が腫れたアヒルみたいな顔をした新幹線がしゅうううっとはいってきて、待っている間に、お掃除のひとびとがてきぱきと片付けと掃除をしているのを見ているのが好きだった。
手順もしっかりしているが、よく見ていると、汚れをふきとるときは隅々まで力いっぱい拭く。
シートにはさまった小さなものまでせせりだして綺麗にしている。
みるみるうちに、見違えるように綺麗になってゆく。
すげー、かっこいー、と思って見とれてしまう。

ああいうことは自分がやっている仕事と正面から向き合って興味をもたないと出来ないことで、「オカネのためにやっている」のでは起こらないことである。

ワイングラスを洗うのは、モニとわしのあいだではわしの役割だが、わしが洗うと、なあああんとなく、クリスタルがすっきりしなくてぼやけている。
くもった感じです。
わしはたとえばマンハッタンのわしのアパートでモニがワイングラスをこっそり洗い直しているのを知っていた。
ときどきワイングラスがピッカピカになっているからです。
モニさんに言うと、ばれたか、とゆって、ガメは夢中になって磨けないからダメなのではないだろーか、という。
ほんとうは、皿洗い、嫌いかなあー?と子供をあやすようにゆわれてくさったことがあった。

モニは記事に何度も書いたとおり、おさんどんフリーの暮らしというか、子供のときから家事をやるひとがいっぱいいる暮らしだったので、自分で家事をしないが、ときどき床を磨いたりすると、ぎゅっぎゅっぎゅっ、とすごい力で磨く。
ワイングラスもそうです。
なんでもビッカビカになる。
見ていて、わしもモニに磨いてもらったらハンサムになるんちゃうかしら、と思うほどである。

知見を総合すると、日本の町がやすっぽい材質でデザインは悪いが清潔をきわめているのは、どうも掃除のひとやなんかがプロ意識がある、というよりも仕事に誇りをもっているせいであるよーでした。

トヨタのクルマは、運転していてなんとなく鬱病になりそうになるくらい退屈で単調、インテリアにいたってはレクサスに至るまで嫌がらせでやってるのかと悪態をつきたくなるようなそこはかとなく品のないデザインだが、乗っていて「きちんと」している。
あのちゃんとした感じは、ひとりひとりの職工がやはり自分がうけもつ板金なら板金という仕事に強烈なプライドをもっていないと出来ないでしょう。

インドという国のひとたちも「職業に対するプライド」は明瞭で、BBCのテレビ番組のなかで火葬をして死体を燃やす仕事のひとが「おれはアンタッチャブルとゆって、通りで肌が偶然ふれあうことも許されない身分なんだけどね」と述べている。
でも、おれが燃やさなきゃどんな身分の高い人間でも地べたにほっぽらかしで鳥の餌なのさ、と胸をはっている。
インド人に特有の自分の職業へのプライドが細分化されて厳密なカーストに由来していることは有名だが、日本人の仕事への高いプライドはなにに因っているのか、わしには判りません。

前に書いたことがあるかどうか、忘れてしまったが、わしは横浜でベイブリッジを5歳くらいのチビ息子にみせながら、「あの橋、おとーさんがつくったんだぞ」とゆっている鳶職風の父親をみたことがあったが、わしは、横でみていて涙ぐんでしもうた。

わしが生まれた北海に面した気取り屋が多い国では、明らかにあの国に特有な人間性への、ある種の冷淡さのせいで、工事に参加した現場の人間である父親が「これはおれがつくった橋だ」と息子に誇らしげに言う、と云う事が想像できないからです。
日本の社会と文化にはどんな仕事をする人間にもプライドを感じさせる能力があったのだということを考えて、いろいろに思いを巡らせる。

近代の日本にひっそりと生まれて、またひっそりと姿を消しつつある、なんだか遮二無二「人類にとって」というような滑稽なほどおおきな言葉を使いたくなるほど重大な何かが、日本の没落と一緒に誰にも見えないものになってゆくのを見ているのは、決して簡単な気持ちのものではないよーだ、と思うのです。

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2 Responses to 誇り

  1. その通りなんですけど、それが、居酒屋の店員なんて言う「しょうもない仕事」で過労死してしまう若者が出る一因と思うと、一概にいいことか考えてしまいます。

  2. ぽんぴい says:

    自尊心持つべくあらず。

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