未来の記憶

サイパンには「バンザイ・クリフ」という断崖がある。
当時はもう従軍カメラマン用にはカラーフィルム(Kodachrome)があったので、気分が悪くなるほどの精細さで、乳飲み子を抱え、ためらい、遙か下の岩礁をこわごわと覗き込みながら、しかし希望というものをすべて剥ぎ取られてしまったひとの小さな、力のない跳躍の仕方で、三々五々、飛び降りて死んでゆく母親たちの姿が撮られている。

場面が変わると、両手両足をひらき、生命という尊厳が去ったあとの、あの屍体特有の残忍なだらしなさを与えられた姿で、女たちや子供達が波間に浮かんでいる。

あるいは沖縄では、日系人たちが日本語で何度も出てくるように呼びかけ、GIたちの舌打ちや「クレージーだぜ、こいつら」と言う声が聞こえるなかで、洞窟の暗がりでがたがた震えていた沖縄人たちを火炎放射器が灰に変えてゆく。
なんとか助かった沖縄人たちの物語は驚くべきもので、食料は日本兵達がみんな略奪して、自分達の食べ物であるのに兵隊がみな食べてしまって、わたしたちは飢えていた、
投降しようとすると、容赦なく殺された、という。
やせさらばえて、歩く事もできず、米兵におぶわれてかろうじてキャンプに向かうひとびとは口々に日本の軍隊と日本を呪い、私の兄は日本軍に殺された、私は妹が連れ去られた、と述べる。

日本の政府が「絆」といういかにも政府が政策決定する際の情緒のレベルにみあった、遠くから演歌のべったりした旋律が聞こえてきそうな言葉を選んで発表したとき、わしの頭の奥で明滅した映像は、要するにそういうものだった。
あとで、KAT-TUNという日本では大層な人気があるらしいグループが、「政府の『絆』という言葉にインスパイアされて」CHAINという名前の日本全国ツアーを始めたというニュースを観たときには、英語が苦手なせいで思わず「絆」がほんとうに意味しているところを述べてしまったツアーのテーマを決めたこの芸能事務所の無意識な事態把握の精確さに敬意を感じてしまった。
もっと簡単にいうと、可笑しさのあまりひきつけを起こしそうになって、呼吸がとまるかと考えた。

まことに日本政府は、「絆」と述べたときに日本国民を、その、これから汚染を万遍なく国土に塗り込めていこうとしている国土に、日本人特有のオカミの側に立って国民が考えたがる不思議な考え方と情緒とを両輪にした社会的な同調への巨大な圧力の鎖で縛り付け、死なばもろとも、運命の鎖で、雁字搦めにしてみせたわけでした。

日本の歴史は、社会がこの段階に達したときには、もう誰が何を言っても日本という国と、それが国家と寸分違わぬ形に整形した社会とは、あらかじめ政府が定めたコース、国民の大部分も状況を理解しているしていないに関わらず同意してすすむ一本のまっすぐな道から外れることはない、と教えている。

歴史を遡っていって、この前には歴史のどこで同様の事態が起こったか眺めてゆくと、それは70年前で、日本人が国民を挙げて公理のように信じていたことを思い出してみると、
日本人は選ばれた民であり、半島人はやや劣るが改良すればなんとか人間になりうる劣等民族であり、中国人は犬や牛と同じ存在で人間とみなすほどのものではないと頭から信じ込んでいて、そんな自明なことに異議を唱える人間は、そもそも目の前の現に見えている現実が理解できない愚かものであるとされた。
その愚かさの根源は何から来ているかというと、西洋人の妄想である「自由主義」の腐敗に精神を冒されているからで、いまの流行の言い方をすれば「自由脳」なのだった。

義理叔父の母方のひーばーちゃんは、上海事変が起きたとき、普段は穏和な物腰で、言葉使いも育ちにみあった穏やかなものだったのに、「吐き捨てるように」という表現そのままの言い方で「こんなくだらない博奕に手をだして、今上陛下は明治様に申し訳ないと思わないのだろうか」という意味のことを言って義理叔父ばーちゃんを驚かせたそーである。
鎌倉の二階堂に住んでいたヒョーロンカの母親も、こちらは戦争にボロ負けこいたときに、同じようなことを言ったそうだから、どんなときでも、正気を保っていたひともいたわけだが、全体には「鬼畜米英」「八紘一宇」と自分で自分を煽った言葉に酔っ払ってしまって、GDPに較べて畸形的に突出した軍事出費をもった中進国は、占領したフランスとチェコを合わせれば連合王国とソヴィエトロシアの合計に僅かに劣る程度のGDPをもつに至ったドイツの強大さを頼みに、 当時ですら誰の目にも集団自殺でしかなかった戦争に乗り出してゆく。
なぜ、そのような前のめりな戦争への参加を急いだかというと「バスに乗り遅れるな」という、アメリカが産業構造の転換を企画して始めた「原発建設輸出ブーム」に乗り遅れては経済への影響がおおきすぎる、という焦慮がよく顕れた当時の標語でわかる、ただでさえ失調した経済挽回の焦りだというのが最もわかりやすい解釈であると思う。

その結果は、「難攻不落の要塞で、ここが陥落したら戦争は敗北で決定だが、そんなことは起こるわけがない」と太鼓判を押されたサイパンの陥落は「起きるはずがない」どころか、天皇陛下ですらうんざりしたことには、たった3週間で完全放棄せざるを得なくなり、放棄を決すれば、「サイパンなどは戦略的にたいした意味はない」という手のひらを返したような説明になったところは、福島第一事故のメルトダウンを巡る経過ととてもよく似ている。

それまで観念ででっちあげた安全地帯に生きて、「ダイジョーブだダイジョーブだ」と自分に言い聞かせるように国民にも述べていた日本政府は、アメリカ軍がフィリピンに上陸を企図するにおよんで、社会的に国家からの圧力に対して最も抵抗できない若い人間に眼をつける。
零戦に爆弾を積んで将来払いもどしを出来る見込みすらない年金を支払わせるのみならず原子炉冷却の最前線に追いやり一方では抵抗力がないどころか状況さえ把握する力がない子供を福島県に縛り付けることによってなんとか世界中に「事態は終熄した」「日本は再び安全な国になった」という印象をつくろうとした。
富永恭次という有名な将軍などは、特攻隊が毎度毎度出撃するたびに、「勇敢に死ね。私も後から続くぞ」と演説しながら、本人は厳重な放射線防護服に身を固めて、こちらは政府の言う事を鵜呑みにして平服の地元のひとびとと握手して、その余りに露骨な「公共観念の欠落」「モラルの喪失」恥知らずなウソつきぶりを見せつけて、世界中に感銘を与えることになった。
しかも、いざ敗勢が明らかになると九九式襲撃機に乗ってさっさと台湾に遁走してしまう。

ところで例の防護服を着固めた人気者の将軍と平服のひとびとの写真が世界中に出回ったときに、さまざまな文化圏のひとたちを気味悪がらせたのは、なによりも、マヌケなSFの宇宙飛行士じみた放射線防護服を着た将軍と握手する無防備に放射線に曝されている平服のひとびとが笑顔であることで、その明るい笑顔は、写真をみるひとびとを心底ぞっとさせたものだった。
誰も、若いひとびとに寝不足を心配されこそすれ、防護服の将軍に非難の目を向けるものはいなかったので、戦後長くたってから富永恭次は畳の上で平安のうちに幸福に死んだが、本来彼の肩にあったはずの大きな責任は、いまだに福島の学校の校庭で線量計を胸につけて遊ぶガキどもの小さな肩に移行してしまっている。
日本的な光景、であると思います。

死ぬ者は死に、生き延びる者は生き延びた。
「フクシマ当時の科学の知見では予測できない結果だった」と学者たちは述べて、新聞は「国民を挙げて、人命軽視の仮説に従った過去を反省すべきだ」と社説のなかで書いた。
汚染のなかで踏みとどまった国民は、その勇気をたたえられて、国外に去った国民は一種の敵前逃亡者のように言われることになった。
新しい内閣の発案で「東北震災復興の碑」がつくられることになり、イサム・ノグチのデザインがいったん採用されたが、あのひとは原発事故のときにアメリカに逃げたひとだ、という批判をするひとがあって、丹下健三があらためてデザインすることになった。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれた碑文には、海外の知識人から「原発爆発後の対応を誤って汚染を蔓延させる原因を作ったのは普通の日本人一般ではない。決定した当時の内閣と東京電力の手は、まだ清められてはいない」という批判があったが、浜井首相の「誰のせいでこうなったかの詮索ではなく、こんなひどいことは人間の世界にふたたびあってはならないということのほうが大事である」という見解が国民の支持を得て、国民全体が一致して「賢く汚染と共に生きる」プログラムのもとで、日本人全員が一致して国の再建に邁進することになった。

教室では放射性物質が低量であれば被害はなくて安全であるという記述を墨で黒々と塗りつぶした教科書がひろげられ、教壇の上の教師たちは、昨日までの「放射能を理由にお友達と一緒の行動をとれないなんて先生には許せません」と言っていたのとは打って変わって
「今日からは有害な放射性物質をいかにして避けるかに留意して暮らさなければいけません」と言って、ませた生徒たちの失笑をかった。

しかし、全体には、たいした変化はなかったのかもしれません。
天皇が神様から人間に変わり、人間としての責任はいっさいとらなかったが、愛嬌をふりまいて「国民に愛される天皇」になり、枝野さん、と「さん」づけですら呼ばれ、放射性物質は元のように危険な物質に戻り、取扱資格に定められた量の放射線量よりも遙かに高い線量がどこにもここにも存在して、それでいいことに政府が基準を変えてしまったせいで資格の意味がなくなってしまう、という喜劇にしても笑えない理由で使わなくなっていた泉さんの放射性物質取扱資格も、また(基準が元の戻ったので)資格として機能するようになった。

緒方竹虎、灘尾弘𠮷、石田礼助、小林一三、というような公職を追放されていたひとびとも、追放を解除されて徐々に社会の中枢にもどっていった。
「次世代原発」の建設の槌音がひびきわたり、フクシマの頃に、盛んに「放射脳」「危険デマ学者」と述べて原発投資家に強力した「言論人」たちは、いくらかのおこぼえれに預かった。

福島の子供たちは、…わしは言うに忍びない。
知りたければ、今日、あなたが眠る前に未来を思い出してみればよい。
どんな過去よりも、鮮明に記憶にやきついた未来、というものが、この世にはあるのだから。

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One Response to 未来の記憶

  1. pirapira says:

    はじめまして。僕は去年三月、東京にいて、とっとと京都まで行ったものの二週間で諦めて東京に戻り、でも九月からオランダに来て過ごしてます。

    このまえ、ベラルーシからきたひとに、甲状腺とってしまって毎日薬飲まなくてはいけない、ヨード剤さえあればこうならなかった、と言われました。答えて、福島ではヨード剤は準備があったけれども配らなかった町もあった、おそらく重大なことが起きていると思わせたくなかったからだろう、と言ったら、にらまれてしまいました。

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