ゲロンチョン

起きてから寝るまでが楽しければそれでいいのさ、というのがわしの基本的な生活態度で、それ以上のことを考えた事はない。
長じては、生まれてきてしまったから死ぬまでを楽しく暮らせればそれでいーのね、と自分にも他人にも返答して暮らしてきたが、考えてみると、一日について考えていたことを一生に拡張しただけで、難しいことは面倒くさがって考えないという森羅万象に対する態度がこーゆーところにも出ているようです。

怪力乱神を語らずというが、わからないことを考えても仕方がないので、神というようなこともあんまり考えないし、死後の世界、というような仮定するといろいろ難しい曲折のある仮説を無数にこさえなければいけなくなるようなものは、やはりめんどくさいので「ない」ということにしてある。

死後の世界はしかし、あるかもしれないと思うと、そこはかとなく嫌な気分になるもので、考えてみればわかるが、なにしろ感覚器がもうないので直截に世界を感じることができない。なんだかざわざわと他人の魂が呟いているのはわかるが、何を言っているかは判らない。周りに世界が存在しているのは理解できるが直截の形象として見ることはできない。肺に感じられる呼吸も、頬にふれるそよ風も、まして、現世では毎朝うしろから、そっと腕をまわして、ぴったり身体をつけて眠っているモニの、朝には赤ん坊のように暖かい肌も、言葉ではとても表現できない良い匂いもない。

言わば世界から遮断された意識と観念だけがあるわけで、なんだかそんな面白くもないものになりたいような気が起こらない。

魂よりも肉体のほうがやや大事である、というのは、わしが人間について思いをなすときの基本的な比重であるよーです。

マンハッタンでパーティに呼ばれていくと、顔がひきつれたおばちゃん、というものに会うことがよくある。プラスティック整形のせいなので、慣れているひとは、すぐ判ります。
いちばん簡単なのはボトックスのようなものを別にすれば、こめかみのところで皮膚を切って皮膚をひっぱりあげる方法で、これで5年くらい若返る、という。
もう少し手が込んだやりかたになると、皮膚だけではなく筋膜も一緒につりあげて、耳の上から耳の下まで切って、そこから耳の後ろに向かってひっぱりあげるという方法がある。こっちの方法によれば、首のたるみとしわも減少するので、いまはこめかみをちょんと切ってたくしあげるだけの方法よりも人気があるよーです。

アメリカという国の社会の特徴は「身も蓋もない」という表現がぴったりの欲望むきだしの社会であることで、わしなどはアメリカ人の友達、というものはたくさんいても、総体としては、どーもこのひとたちは全員キチガイなのではあるまいか、とよく考える。
70年代くらいに発祥をもつkey party
http://www.urbandictionary.com/define.php?term=key+party
のようなものを考案するのがアメリカ文明というもので、その少し前の女子大学の学生たちが他の男がおおい大学に向かってグレイハウンドで「処女を捨てるための」団体旅行をしていた60年代よりは多少露骨さが減少したかもしれないが、街をあるいている男たちも、おったったペ○スが通りを徘徊しているよーなもので、顔をみていても薄気味が悪い感じがする。

アメリカ人の男達、特に選良にあたるひとびとは、自分たちのまわりの仕事や近所の主婦というような女びとたちを対象に、私的なパーティの場で、fuckabilityというようなことをよく話題にする。
fuckabilityというのは、文字通り、「どのくらいやれるか」ということで、どの程度の代価(仕事ならばどの程度の昇給、昇進機会をちらつかせれば「やれる」か)ということであり、仕事でなければ、どのくらい高級なレストランや、クラブに何回くらいつれていけば「やれる」か、というようなことと、実際どのくらい「やる気がする」容貌や肉体の持ち主であるか、という側のことも含んでいる。

当然美人で性的知的な魅力があるほど人気があるが、40歳を境に人間としての価値がおおきくさがる、とみなされているよーである。
女びとにとっての40歳という年齢は、言葉にされて言われることがないだけで、ここを境に(女として、ではなく)人間として価値が減価してゆくという社会の不文律があるもののごとくです。

欧州でも若い女びとを好むヒヒジジイはたくさんいるが、そういうことを露骨に好むのは文明度が低くて猿に近い証拠だとみなされる。
社会全体が遙かに濃密な「陰影」というもので彩られていて、年齢を重ねた女びとには、年齢を重ねた女びとの魅力があることになっている。

あれやこれや考えるのが面倒くさければ、てっとりばやくハリウッド映画と欧州映画の女優の起用を見比べてみればよくて、欧州映画ではヘレン・ミレンでも誰でもよい、40代後半や50代で若いアフリカ人の恋人のいる独身キャリア、というような設定はいくらでもあるが、ハリウッドでは余程年齢より若く見えないかぎり40歳をすぎると役そのものがもらえなくなってゆく。

女のほうばかり40歳よりも若いのでなければ相手にされないのは人間の身体の構造による、と不思議の説をなすひとがいるのはわかっているが、ふつーに観察すれば、ほんとうの理由は女びとたちの歴史的な社会における地位の低さによっている。
現に、自分の周りの友達を見渡すと、本人が富裕なあるいは社会的に地位が高い女びとは、あるいは体裁のよい夫とは寝室を別にして若い衆の見栄えがよくて活きもよく「小さいお尻が固い」男を愛人にしているひとや、もう一歩すすんで、お腹や頬がたるんできた夫をぶち捨てて、新車に乗り換えてしまうひとも何人もいる。
肉体的関係を軸に相手を評価すれば「若いほうが良い」のは、男も女も差がないよーです。
わしがふざけて、「技巧というような問題は、どーなるんだ」と訊くと、あんなものはたいした技術ではないので、一日に2、3回も身体の上にのっけて、ああせいこうせいと指示してやれば馬鹿な若い男でもすぐに手順をおぼえるよーだとゆっておった(^^)

オカネを動員して、あるいは自分の容貌に対してプラスティックサージャリーを駆使させ、あるいは齢とともに積み重ねた職業上の地位を利用して、きみには仕事上の鋭さがあって敬意を感じる、わたしは高い知性というものが好きなのだ、どうか私のきみの知性と機知への尊敬を受け取ってくれ、と耳元でささやきながらスカートをまくってイッパツやったりしていても、寄る年波と、たれさがる皮膚には勝てず、結局、われわれは年をとってゆく。
神について語ってもカネについて語っても、イッパツばかりやっていたひともやらなかったひとも、結局は年をとって老いていく。

人間に秘密というものがあるとすれば、それは、どんな人間も必ず老いさらばえて、病気になり、死ぬということで、要するに生後20歳くらいから腐り始めて、60年もすればただの機能しない腐った肉塊になりはてる、という物語の大枠が万人にとってすべて同じであるところに秘密がある。

そこで、生老病死にすぎない人生の意味を問う、というのはアマチュアの態度というべきで、なにがアマでプロなのか訳がわからないが、太古のむかしから人間が身をもって学んできたとおり、人間には生まれてきてしまったのだから死ぬまでを生きる、以外のことはやりようがなくて、それを自分の存在そのものだとして受け取る以外のことはすべて余計なことのよーである。
考える、ということは人間が思い込んでいるほど価値のある行為ではないのは、主に、この人間の一生の生老病死の一様性に拠っている。

せめても、世界を無理矢理にでも楽しいものと思いなして、目がさめたら外にでかけることにして、「さあーて、今日は何をして世の中を驚かしてやるべかしら」と考えながらクルマのドアを開けて乗り込むのが、正しい態度であるようです。

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