壊れたソネット

人間の一生は、定型詩に似ている。
定型詩のなかでもソネットのように厳格な定型がある詩に似ているだろう。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sonnet
生老病死のおおきな制約はもちろん、人間は自分が考えているほど自由な選択のなか で一生を暮らしているわけではなさそうな気がする。
もっとも不快なのは、自分で感覚しているよにも遙かに運に左右された一生を送っていることで、「自分は努力と真摯さによっていまの地位を築いた」という人間は、通常、ただ自分がいかに幸運に依存してレールを外れずにすんだかを知らない鈍感な人間である、と告白しているに過ぎない。
その厳重な制約のなかで運におおきく左右された意志の発現が実体であるところも
実は人間の一生がソネットに似ているところであるのは、ソネットを書いてみたことがあるひとならば、必ず判るはずである。

日本という国家の約束は、国家が個々の国民に対してする約束としては、やや奇妙なもので、「暖かい居間のある家」のような社会を提供することだった。
そこには厳しい競争がなく、勝者と敗者が曖昧に描かれ、自己としての主張をしなければ、曖昧に笑ってすごせる場所を提供するものとして国家権力があった。

学生運動の時代にしても、言葉の威勢こそ「教授会を殲滅せよ」「○○同盟をひとり残らず虐殺せよ」と盛んなものだったが、特に初期には、なんだか儀礼的な材木を手にとっての叩きあい、投石の応酬というようなものがあっただけで、言葉の過激さに較べればおよそ間が抜けたような、馴れ合いとでもいうような「闘争」が多かった。
同じ頃のアメリカでは、資金稼ぎの銀行強盗というようなことがあったが、日本ではそういうこともなかった。
どちらかといえば、子供が親の鉄面皮に怒って暴れ出したようなもので、実際、この怒りにとらわれた子供たちは、時がくれば、髪の毛を親の髪型に似せて、背広を着て、いそいそと大企業の就職試験に向かったのだった。

個人主義があるところには、個人間の覆いようのない「格差」があり、貧富の差があり、踏みつけられる痛みを伴う競争がある。
日本の伝統社会は、その「痛み」が最小になるようにデザインされていて、朝起きてから夜ベッドに行くまで、つきまとって離れないほど個人に密着した痛みを感じることを強制する西洋社会とはまったく異なる社会を形成してきた。
90年代になって共産社会に似た理屈で生産性が極端に低下しだすまで、日本人は他の社会とおおきく異なる「無痛社会」の夢を追い続けてきた。
言葉を変えれば、社会という定型のなかでは、日本だけがもつ不思議な定型を保っていたわけで、歴史のなかの一奇観、あるいは目論むことなしに生じた実験社会だったのかもしれません。

考えてみれば、その社会がおおきく金銭的に繁栄して、そこで得た富の分配に失敗した「繁栄の80年代」こそが、日本を殺してしまったのかもしれない。
日本の社会は、戦後、あれほど注意深く避けてきた「勝者」をつくってしまった。
勝者がいる社会には敗者が存在する。
日本の80年代の場合、その「敗者」は、もっともマジメ勤勉に働いてきた、勤労の価値を信じるひとびとだった。
日本では80年代を通して、たいした学歴ももたず、マジメが取り柄で、朝7時の起きて、安い賃金に文句も言わずに夢中になって働き、夜は疲れ果てて二合の酒を飲んで眠るタイプの労働者は、「暗い」という言葉で吐き捨てられる、ただのマヌケである、ということになった。

日本の外から見ていた観察者には、そういう社会の変化はゆっくりと起きている「西洋化」にしか過ぎなかったが、日本の人の目には、「暖かな家の終わり」として感じられただろう、と想像できる。

病気というものは、滅多にいつのまにか治る、というふうにはなってくれないもので、まず患者が自分が病気であることを認めるところから闘病が始まる。
日本の経済の問題は、いまの段階では経済以前の社会と文化に問題がとどまっていて、自分の社会を蝕んでいるさまざまで、しかも、そのひとつひとつが重大な破壊的影響力をもっている問題、人口の半分以上を占める女びとがまったく劣等人種として扱われていること、いまに役人の給料がGDPよりも大きくなるのではないかと冗談に言われるほど巨大化して、バカでかい図体で社会全体にのしかかる官僚制、アジア諸国家との協調を根本から妨げている、日本人にとっては殆ど意識すらされないほど、呼吸するほど自然で根の深い民族偏見、文系理系という言葉に象徴される現実の要請にまったく合わなくなった教育システム、…経済の構造というよりも、それ以前の「ものの考え方」のところで社会として蹉跌をきたしている。

言わば有棘細胞を伝って全身に遠隔転移した癌を、なあーに良性のものですよ、その証拠にちっとも痛くない、と笑っている末期の患者のようなもので、自覚がないだけで、病勢はどんどん悪くなっている。

冷菜凍死という職業をとおして見た日本は、これからが本格的に悪くなっていくように見えて、他人事ながら、なんだか見ていて怖いような気がすることがある。

定型詩の美しさは、定型から由来しているわけではないのは言うまでもない。
厳格に定められた定型のなかで自由闊達な表現を求める「自由な魂」に、美しさは由来している。
人間の一生は、18歳頃に始まって、およそ60歳くらいで終わる、たった40年余しかないものである。
投げやりな言い方を好むひとならば、生まれてきてしまったから死ぬまでを生きるだけさ、というだろう。

日本の社会は、うまく機能しているときには、勝者になることなしに定型と拮抗する精神生活を送ることを可能にしていた。
個人主義でないがゆえに、自由も権利もなにもない社会だという考えもあるが、たった40年しかない定型の大きさでは、そんなものに煩わされたくはなくて、個人主義でなくても政治的自由がなくても、そんなものはどうでもよかったのさ、というひともあったに違いない。
それをも頭から否定するのは、表層的な西洋文化理解に影響されすぎた見方だと言われても仕方がないところがあるよーな気がする。
西洋人は、社会の側には定型を認めないというおおきなムダを背負う生き方が誌された契約に調印しただけで、それを絶対に最善といまでも決めているわけではない。

日本のひとは、自分達が独自につくった不思議な音色のソネットを失ってしまって、次の定型を求めて彷徨っているが、やがて、また新しい旋律を発見できるだろうか。
それとも、このまま旋律も定型もない、「自由の闇」に落ち込んでいくだろうか。
そういうことを見極めたくて日本語をまだ捨てないでいるよーな気がします。

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