Daily Archives: May 8, 2012

凍土

東北大震災で、もっとも日本人をがっかりさせたのは「一致団結」のきっかけがつかめなかったことだろう。 非現実的な規模の津波が起きて以来、わしが主に見てきたのは東北に住んでいるひとたちの書いたブログやマンガだったが、そこにはやはり「原発さえなければ」という生の言葉が聞こえている。ブログのような極私的で特殊なものから東北人の気持ちを推量するなんて許せない、という、おなじみの「許せない」ひとたちがやってくるだろうが、わしが聴きたいのは検討されて体裁を整え推敲を経ておおきな明瞭な声で語られる言葉ではなくて、どんなときでも、ぼそぼそと、不明瞭な声で、引っ込み思案な調子で語られる「聞き取りにくい声」のほうなので、別に許してもらわなくても、かまわない。 東京電力の会見をyoutubeで観て、あらためて思うのは、この電力会社幹部たちにとっては福島の悲惨は「他人事」で、あたりまえだが、地震なり津波の被害に遭ったひとびとが仲間の復興を考えているのではない、ということだった。 態度も受け答えも、特に非難の意味をこめているわけではない、「中央」の人然としていて平安時代の京都にいながら荘園を支配した貴族なんちゅうのは、こんなもんだったんではなかるべか、という様子・物腰である。 お大尽側、というか、オカネを渡して、汚いものを引き受けてもらっている旦那側の気分がよく顕れていて、ここで逃げられては困るが、さりとて、居直られて増長されても困る、という気持ちが手に取るように観てとれた。 日本の地方自治体というのは戦争に負けて被征服地となった国によく似ている。 力をつけられて暴れ出させると困るので独立した経済が伸展する機会は与えないが、そうやって自力発展の道は奪ったうえで、中央から交付金を与えて、潰れるのは避けさせる。トヨタという私企業まで系列会社に対して同じ方法をとっているところをみると、こういう「お代官様」式のやりかたは、よほど日本人の国民性にあっているのでしょう。 日本の経営をベンキョーしたひとは、トヨタの系列会社にあっては、トヨタ本社から「監査」がやってきて、「ちょっと去年は利益が出すぎているから今年は、もうちょっと部品安くして」と「指導」されたりするのを知って、ぶったまげてしまう。 独立企業、なんちゅう概念を鼻でせせら笑うような、ビジネスというものの尊厳になど洟もひっかけないやりかただからです。 ホンダやマツダはそんなことをしないが、ではジグ屋ならジグ屋がホンダやマツダと一緒に仕事をしたがるかというと、全然そんなことはなくて、トヨタと仕事をしたがっている。理由を尋ねると「つぶれないから」という。 会社が儲かると、「儲けすぎだからトヨタに還元せよ」と言われるが、つぶれかければオカネや注文を融通して助けてくれる。 マツダさんなんかだけでやったら、会社いくつあっても足りないもの、という。 儲かっているときにはどんどん発注するくせに、売れなくなると、パタッと注文が止まって、知らん顔をしている、とゆって怒る。 こっちは、マツダ式のほうが当たり前だと思っているので、にっこり笑いながら、「ヘンな国だなあー」と考える。 だんだん日本社会の様子に詳しくなってくると、「日本」という特殊だ特殊だといわれながら、じゃあ、なにがどう特殊なのかというと、「よくわかんないけどべたべたしてるの」とか意味不明な感想しか外国人の口から出てこない「特殊」とは、実は、具体的には、相手にできないことを要求しておいて、現実と要求のあいだを「おかみの慈悲」で都合する、というこの構造にある。 日本の土地の値段は、生産性から切り離されてしまっている。 話を簡単にするために住居用ビルへの投資という例にすると、 オークランドで賃貸住居用ビルを買う、ということを検討しているひとは、「リターン」ということを先ず考える。 それまでに資産価額に対して年5%という家賃の支払いがあれば、グロスで5%のリターンがあるわけで、補修費やレイツ、税金というようなものをひいてゆくと、だいたい3.5%くらいのネットでのリターンがあることになる。 これにだいたい15年で二倍になるオークランド市場のキャピタルグロースを考えて、20億円なら20億円の支出を決める。 ついでに余計なことを書くと、数字に強い人は世界のなかでも不動産投資が有利なので有名なニュージーランドというが、その程度なのか、とぶっくらこいているひともいると思うが、ニュージーランドが不動産投資対象として有名になったのは、実は、減価償却がおおきく認められるという会計上の理由と、先進国中ゆいいつキャピタルゲインに課税されないという税制の理由からで、現に税制に変更があって、減価償却が小さくなったいまではニュージーランドでは投資対象のコンドミニアムなどは売れなくなってしまっている。 ここで詳しく書くのはメンドクサイのでおおざっぱに述べると日本の不動産の値段は、そういう決まり方をしていなくて、もっと気分的というか、このあたりなら50平方メートルのアパートは30万円の家賃が「相場」で、土地はこのくらいの土地ならば「相場」が5億円で、と、なんでもかんでも「相場」という不思議な情緒的なもので決まる。 これはどうなってるんだろう、と考えて遡って調べてゆくと、どうやら大元はなんとオレンジや米の「自由化」という貿易問題に原因があったかのようであって、その頃の日本の政府は輸入農産物を認めるかわりに差額を税金から農家に支払うという不思議な決定をした。 跳躍して言うと、土地の生産性を政府が策定するということを許したことになります。 田名角栄というひとが編み出したらしい、この「政府が土地の価値を決める」というやりかたは、この農業補償金を振り出しに日本全国に蔓延して、市場が価値を調節する、という発想はほとんど死んでしまった。 その結果、おおげさにいうと日本は経済的には共産主義社会に変貌した。 ビジネスの面では、それ以前から国家社会主義そのものといいたくなるような国家が強力に「指導」する挙国一致経済政策だったので、このキャピタル面の共産主義化とあいまって、一種の「実質共産体制」、考えてみればおもしろいことに名前が共産主義で実質はキャピタリズムそのものの中国とちょうど反対の体制に、日本は落ち着いた。 これによってどうなったかというと、日本は国全体が政府が決定した架空な資産価値の体系にもとづいて土地の価値が決まり、それに伴って、地方というものは自律的な経済伸張の機会を奪われて、いわば「餌付け」されることになった。 子供の時、義理叔父に会うと、従兄弟とわし相手に、この「へんなおじさん」は、目を輝かせるようにして、かつて日本はおおざっぱにわけても64、もっと細かくわければ300内外の「国」にわかれて、それぞれ違う食べ物、言葉をもち、峠を越えると言葉が通じないほどだった、と話してきかせた。 実際、自分でも当時新設された筑波の大学に用事があって東京から出向くのに、どこに大学があるか判らず、地元のひとに訪ねたら、ごく丁寧ににこにこして教えてくれるのはいいが、何を言っているのかさっぱり判らず、ひと言も理解できないまま、ただ「ありがとうございました。ご親切にどうも」と挨拶だけして途方にくれた、という。 あるいは、ガキ義理叔父は駅弁というものが熱狂的に好きで、新幹線で年年廃れていったとはいうものの、当時はまだ寝台列車が走っていたという東北本線を走っていけば、肩から駅弁をさげたおっちゃんが走り寄ってきて、土地土地で独特の「そぼろ弁当」や牛肉弁当、いかめし、というようなものが楽しみで楽しみで仕方がなかったそーである。 そういう世界にも稀な地方分権と地方文化をもった国として日本はマイクロ文明を育てて来た、という印象をだから、むかしから持っていたのに、やってきた日本は中央集権が政治社会どころか、文化や考え方の面でまで浸透した、街並みからして、どこに行っても全部池袋か、さもなければイオンモール、というような金太郎飴のような国でひどくがっかりしたのをおぼえている。 東北大震災での、東京電力の他人事然とした、中央人が地方人と話すときの態度の模範を示しているといいたげなTEPCO幹部たちの受け答えをみながら、わしが考えたのは、日本はもういちど「当事者の国」に戻ったほうがいいのではないだろーか、ということでした。世界地図を見ればわかるが、日本は島国といいながら、意外なほどおおきな国である。しかも峻険な山が無数にあることは、そのまま分断された平地には独自の文化が育っていることを示している。 わしは正直言って東京電力でなくて福島電力が福島第一をもっていて、事故が起きたのだとしたら、福島の財界や政治家は福島の子供達がいまそうしているように、もしかするとチョー危険であるかもしれない環境化した放射性物質が蔓延した校庭で遊ばせたりするとは思えません。 あの子供達が線量計をつけて、ギニアピッグの役をさせられているのは、「地方の子供」だからだろう。 理屈をたてて訊けば「そんなことはない」と答えるに決まっているが、自分の子供や、よく見知った子供がたくさんいる「当事者の世界」で、線量計が明瞭に象徴しているよーな「観念」が幅を利かせる余地があるとはおもえない。 日本という国が他の国や社会よりも遙かに色濃くもっている「共同体仲間への共生の感覚」は、本来そういうことを許容しないという気がする。 いまの一県くらいのおおきさなら活き活きと息づいていた日本人の身丈にあった公私の感覚が、がばがばの「公」のコートを着せられて、しょんぼり人気(ひとけ)のない座敷に蹲り、明日のご飯を政府から支給してもらうためには、どんなウソをつけばいいのか伺いをたてる、そういう寂しい姿の老人が日本の地方のイメージとして脳裏にあらわれてしまう。 もしかすると、日本は「近代化」という虚しい観念の言葉につられて、日本人が培ってきた文化が扱える範囲を遙かにこえて「公」というものを設定してしまったのかもしれず、人間の感覚を超えて広がってしまった「公」は無慈悲な非人間的な思考の化け物のようなものになって、日本の政府に危険な博奕を打たせているのかもしれません。

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