余白の思想

大人(たいじん)は虎変し、君子は豹変す、小人は面を革めるのみ、という。
「易経」に出てくる三句話で日本でも大変人気がある言葉です。
もっとも立派な人間は虎が縞を変えるようにびっくりするほど鮮やかに行動を変え、品性の高い人間は豹の毛が生え替わるように明瞭に態度が変化する。その他おおぜいのダメな人間は、それまでやっていたことや言っていたことにとらわれて、変化につきしたがうふりだけはする、ちゅうような意味で、いまの日本語でもよく使うよーだ。

この元の易経をみると、
「大人虎変 小人革面 君子豹変」
で、もちろんそのままだが、これは
大人(たいじん)は虎変す。君子は豹変す。小人は面を革めるのみ。
とも読める、
虎変し、と虎変す、では全然話が違うではないか、というのが日本語という言語の立場だが、中国語では、どっちでも同じである。

違う例をあげると、
「子曰く、学んで時に之を習う、亦よろこばしからずや」という「論語」の冒頭は、
「子曰 学而時習之 不亦説乎」で、これを現代中国語の表記にちょっとだけ直して「子曰 学而時習之 不亦说乎」にして音読すると、「ズユェシュェ アルシェシチブイシュアホゥ」という発音になるはずである。
「ズユェシュェ アルシェシチブイシュアホゥ」を漢字によって投げ出されるように提示された意味を手がかりにして、「し いわく まなんでときにこれをならう また よろこばしからずや」と読み替えることで日本人は、自分達の文化の背骨を形成してきたが、そこで重要なことは、
日本人が、「大人虎変 小人革面 君子豹変」から、
「大人(たいじん)は虎変す。君子は豹変す。小人は面を革めるのみ。」
という中国の「三句話」という様式にやや忠実な読み替えも、
「大人(たいじん)は虎変し、君子は豹変す、小人は面を革めるのみ」という読み替えも行いうる言語をつくったことで、結局は、この意味の根幹に自己に由来する情緒を注入する自由というか曖昧というかを許容させた言語をつくったことが日本人のアイデンティティとゆっていいほどのものをつくった、と考えてよさそーである。
日本語の世界においては、
「大人は虎変す。君子は豹変す。小人は面を革めるのみ。」と
「大人は虎変し、君子は豹変するも、小人は面を革めるのみ」が同じ文だと思う人は簡単に言って「頭がわるいひと」である。
同じ意味の文と同じ文の差異がこれほどおおきい言語がなぜ成立したかというと、上でしつこく述べた例でも判るとおり、日本語という言葉自体がもともと漢文を「読み下す」ための「余白に書き込まれた注釈」に由来していることによっている。
「大人虎変 小人革面 君子豹変」という文字を、「ズユェシュェ アルシェシチブイシュアホゥ」という音なしに読むのが習慣だった日本人は、この字面を見て、「人間の情緒」というディテールを欠いている、と考えた。
索漠としているではないか、と思ったに違いない。
日本人は筆をとって、漢字と漢字の余白に、「は」「す」「のみ」と書き加えていった。「間(ま)」というものが情緒にとって極めて重要だと考えていた日本人たちは、時間を止めたり、つんのめらせるために句点や読点という発明もした。
英語と日本語が両方わかるひとは、句点とフルストップ、読点とコンマでは、意味が異なるのを実感として知っているはずである。
あの微細だが本質的な違いは、英語の「時間停止」が言語の音そのものに依存しているのに対して、日本語の句点や読点は、自分自身が積極的な「沈黙の音」を主張しているところから来ている。

思想や意味の余白ひとつひとつに自分の情緒を丹念に封入する、という実際に筆をにぎって書き入れている人の姿を重い浮かべると愛おしいような感じのする作業から出発した日本語という言語は、微かな情緒のあわいや、繊細な感情の感受というようなことが、やや異様なまでに反響する言語になった。

その結果、自分以外の情緒をもった世界とつきあうことになった明治以降の日本では真に驚くべきことが起きて、日本人というひとたちは、ドイツ語、フランス語、英語、という言語の体系をそのまま自分の精神にとりこむよりは、ドイツ語の思想と意味だけを取りだして、その余白をぎっしり自分がもつ情緒で埋め尽くして表現するという不思議な世界理解の方法を身につけた。

一方では、余白に生まれた情緒そのものが文学をうみだして、その日本独特の文学の面白さは、北村透谷、夏目漱石、谷崎潤一郎、あるいはもっと「余白」のみに専念したひとを眺めれば内田百閒のようなひとに典型的にあらわれている。

こういうと怒る人が当然いるだろうが、わしは日本語はほぼこのブログ記事で述べてきた意味の「地方語」に転落しつつあると思っています。
ものごとが悪い方にはたらくときには、その事象がもっている本来は美点であることが悪いほうにはたらくという決まりのようなものがあるが、日本語の現況は日本語が本来余白から生まれた言語であるという素晴らしい出自が、悪い方に働いてしまっている。

空港のラウンジで、日本のビジネスマンたちが話している。
「あのほら、うちの担当のダニエル君さ。このあいだ、電話で話したら、『いやああー、うちでもあの商品は売れなくて参っちゃって、上司には怒鳴られるしで、くさってるんですよねー』なあーんて言っていて、笑っちゃいましたよ」という。
わしは、日本のひとだなあー、と思って、くすくす笑いをこらえて聴いている。
英語では「いやああー、うちでもあの商品は売れなくて参っちゃって、上司には怒鳴られるしで、くさってるんですよねー」とは言えないからです。
日本語なら「商品の売り上げが悪い。ボスは機嫌が悪い。私もいい気持ちではない」というくらいのことを「ダニエル君」は述べたに違いないが、話者は余白を豊富にもっているのである。日本のひとは、そうやって、世界のなかから、自分の情緒の鏡に映るものだけをみていった。
そうして、いまの世界は、そういう情緒の世界を根本から拒否しようとしているところがある。

途方もなく自己中心的な外国語学習者としてのわしは、しかし、ま、それでもいいや、わしは日本語を十分楽しんだので、これだけの歓びを与えてくれたことに感謝して、ページの中心から、また本来自分がやってきた余白にもどっていくかのような日本語の小さな後ろ姿を、あたたかい気持ちで見送るべな、と思う。

第一、日本語が言語として日本のひと自身が考えるよりも途方もなく本質的であったのは、よく考えてみれば、人間のほんとうのことは余白にしか書かれたことがない。
日本人が示した情緒におおきく浸潤された思考は、西洋の思想装置にかけてしまえば、ばらばらになって、腐って、およそ機能しない陳腐なものになってしまうが、そういう間尺にも理屈にもあわないことをやめて、日本語読みに読んでいけば、世界にとって新しい思想が最も大量につまっているのが日本語という言語の特徴だと思います。

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One Response to 余白の思想

  1. jiangmin says:

    伝統芸能や武術の伝承で基本そのものは直截示さないでなんとなく共有されるようになるというのもそれだと思うた。↓これによると、イランもそうみたい。

    谷正人『イラン音楽―声の文化と即興』 pp.48-49
    >>
    つまりラディーフは、それ自体が共有され得る「規範」ではない。「規範」そのものが示されたことなどただの一度もないのである。示された、あるいは示し得るのは規範についての「解釈」なのであり、「規範」そのものはこうした解釈行為の中に、より普遍的なモデルとしてイラン人の中で共有され、またその具体化は「解釈の結果としての」ラディーフという形を通してのみなされるのである。
    <<

    要素を分解して習得するか丸ごと全体を繰り返して習得するかの話は↓これがおもろい。

    高岡英夫, 運動科学研究所『スポーツ・武道のやさしい上達科学』

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