カタッチー思想

外形を繕うのは大事なことであって、そういう本質でないことで糊塗するのは偽善であるという意見は幼児的である、という立場がこの世には存在する。

スコットランドの北のほうに行くと、いまでもじーちゃんたちが通りの角のデイリーに新聞を買いに行くのに、ネクタイを締め、スーツを着て、髪にも念入りに櫛を通してからでかける。

あるいはバルセロナの子供は一日に2回3回と学校(たいてい家のすぐそばにあります。そのかわり日本やなんかの学校に較べてちっこい)と家のあいだを往復するが、それに付き添うおかーさんたちは、伝統的には冬なら大層なもっこりコートを着て、長いおおきなネックレスを首から下げ、ブレスレットをじゃらじゃらと鳴らしながら盛装をして子供の手をひいてゆく。

ニュージーランドではパジャマでドライブウエイの下の新聞受けまで新聞をとりに行って近所の大顰蹙を買い、あまつさえ、そのパジャマのまますたすたと通りを歩いて近所の食料品店にパンを買いに行ってしまう中国のひとびとは、ちゃんとカッコヨクしてから新聞受けに歩いてゆく欧州系ニュージーランド人たちを笑って、かっこばっかりつけてるから儲からない、というが、「西洋文化」というものは実は形に魂が籠もっているのでかっこ悪くなると魂がおっこちてしまう、ということを知らないもののよーである(^^)

ユニクロがあまねく普及するまでは日本の田舎に行くと、ものすごい恰好をしている人がたくさんいた。あんまりいうと下品だからゆわないが、わしがチビガキのときに見た日本の「地方」の印象はなんだかボロをまとったひとたちが蹌踉として歩いているゾンビの街のようなもので、しばらく軽いトラウマになって夢にでてくるほど貧しげな光景だった。
かーちゃんは、あのひとたちは質素にしているだけで、実際には豊かな人が多いのですよ、と妹とわしに説明するのを常としたが、それでも子供ふたりは、車窓から見える人のあまりに酷いかっこうに思わず顔を顰める母親の表情を見逃さないで知っていた。

おそるおそる義理叔父に述べてみると、意外や義理叔父は楽しそうに呵々と笑って、「日本人は、恰好かまうの嫌いだからなあー」とやや誇らしげに述べたりした。

アルファロメオというクルマは根性のあるクルマで、あんなに長い間つくっているのに、まともに壊れないで走るモデルがいまだにひとつもない。
南伊工場を避ければ結構まともに走るとゆわれるフィアットと較べても天晴れな品質でイタリアの警察は剛胆にもパトカーとしてアルファロメオを使っているが、稼働率が4割を切るのだとフィレンツェで読んだイタリアの新聞に書いてあった(^^)

クライストチャーチのペトロステーションでガソリンをいれていたら、カッチョイイ赤いアルファロメオがはいってきたので、下りてきたおばちゃんに、カッコイイくるまですのおー、と述べると、いま納車で受け取ってきたばっかりだからね、これが初給油なのよ、きゃっきゃっ、と嬉しそーである。
給油口の蓋を開けて、みるからにかっこええ立体3Dの鍵をいれて栓をまわしたら、シリンダごと、ずるっと出てきた。
後に残ったのは、鉄板で囲まれたタンクと、その鉄板に空いた虚ろな穴であって、
「うーむ、さすがはアルファロメオ」とゆいそーになったが、いうとおばちゃんに手にもったノズルからガソリンをかけられて火をつけられそうな気がしたので、重々しい表情で、絶望の悲鳴をあげて絶叫しているおばちゃんをじっと眺めていました。

アーサー・ヘイリーの「自動車」という小説には、「クルマは恰好がよければいいんだ。他には、なにもない」と断言するフォード自動車役員が出てくる。
まことに真理であると思います。
その上に走れば、なお良いと思うが、アルファロメオのようなクルマを買う場合には、それも高望みというべきである。
あの無茶苦茶かっこいいデザインに、死んだらこれを俺の棺桶につけてくれ、というひとがいそうなクラッシイなバッジ、幸運にもエンジンがかかる個体にあたった場合には、シブイ音で脳がとろけそうになるツインスパークエンジンの響き、しつこいようだが、その上にときどきは実際に走るのだから文句も言えない素晴らしさであると考える。

ホンダのクルマは丁度逆で、あの会社にはデザイナーというようなものは存在しないのだと思われる。マジでいないと思う。いたら驚く。
90年代につくられたホンダは特にひどくて、どうも極端な実質主義というか、エンジンだけが会社の関心で、ほかはまあオマケだからどーでもいいや、というホンダ人の言葉が聞こえてきそーである。

義理叔父はむかしレジェンドクーペという、当時で600万円くらいするタカホンダをもっていたが、ガキのときにはすでにクルマが好きなかーちゃんの影響でクルマに対する審美眼を装備していたわしは、エンジンの音のこもりかたが、エンジンルームの防音目的過剰詰め物であることを見破った。多分、ベッドのマット一枚分くらいははいっていたと思います。
しかも内装の皮革の選択を誤っておって、「これ、はがれそうな気がする」とチョー遠慮して義理叔父にゆってみたが、義理叔父は、なははは、と笑って、このクラスの自動車でそーゆーことはないであろう、という。
現実は、その夏に太陽の熱で皮革が膨れあがって、まくれてしまい、あえなく「インテリア総とっかえ」に工場送りになったようでした。

そーゆーことを別にして、このレジェンドクーペは、てかった整髪料をつけて、ぺろい背広を着たおっさんのようなダサイ風貌で、ヘッドライトは、他のシビックやなんかと同じ「ウルトラマン目」で、あまりのかっこわるさにたじろぐよーなクーペだった。
クーペ、というクルマは「かっこだけ」で、かっこ命、かっこばっか、が哲学のクルマであると判っていないよーでした。

日本にいるあいだ、日本のひとは「かっこうよりも実質のほうが大事」ということを公理のように信奉していたが、そーゆー思想は、チビガキのときから「ガメちゃんは頭は悪いけど、かわいいからいいわね」と周囲の敬意と称賛を一身に集めてきたわしとしては、受け容れがたい思想であった。

まだちゃんと考えていないので、どうせこのブログ記事も突然終了するに決まってるが、「夢酔独言」を読んでも何を読んでも幕末の旗本は目に一丁字もないおおたわけが多かったようである。考えていることは、おおむね、あぶく銭を稼ぐことと「かっこ」だけであって、そういう人がたくさんうろうろしていた世の中が突然変わるのは、どうやら「ご一新」でのことのよーです。

当時の革命運動の主体であったらしい地方下級武士のいまに残る写真をみると、ほとんど浮浪者のようなかっこうをして目ばかりが爛々と光っている。
しかし、ではこの風体が、あるべきかっこうをなしていないかというと、いかにも「革命家」ふうであって、こちらは絵なので写実的でないのかもしれないが、西郷隆盛という儒教を信奉していた革命家などは中年マーロン・ブランドがアジアの革命家に転業したような趣でかっこいい。

かっこわるくなってしまったのは市井の通りを歩くひとびとで、「威儀」と「粋(いき)」という、日本なる国の世の中の芯をなしていたものが消滅してしまう。

こっちはもっとくだらない暗合にしかすぎなくて、そんなこと書いてていいのかしらと思うが、明治から日本の陸軍の制服が昭和20年8月に向かって改正されるたびに、かっこわるくなって、それと歩調をあわせて軍規がゆるんでゆくよーに見えるのは気のせいだろーか。
そういう妄想が起こるのは、日本政府が戦時中に民間人に強制した服装である国民服と女びとのもんぺ姿には、人間性を貶めて平然としたまま、ただ自分達の信じる「効率」を追究する当時のどーしよーもなく軽薄な国家運営思想が体現されていると思うからです。

名は体を表す、というが、体(たい)は実質を最もあらわしている。
いま日本をふたつに分断している原子力発電所論議に加わっている人も、議論の前に原子力発電所を訪ねて、出来れば内部にはいってみるとよい。
眼前にある建物装置は、人間の感覚を拒絶して、ひたすら巨大、ひたすら複雑で、ただお湯を沸かすということのためだけに、あれほどの屋上屋を架した制御が必要な系統などは、ちょうど5歳児がシロクマを馬車につないで使っているよーなもので、恙なく稼働させるためには、とんでもねーややこしい工夫を積まねばならず、いったん暴走すれば出来うることもなかるべし、というようなことは、人間のふつーの感覚があれば了解できる体のものです。

実質というものが、どの程度主観によるでっちあげが混入せずにありうるものか、というのは、また別の論議がまるごと出来上がるほど考えることが多い問題だが、今日はDiabloIIIの発売日で、かねて注文してあるコレクターズエディションを受け取りにいかねばならないので、この記事は、このくらいにしたいと思います。

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2 Responses to カタッチー思想

  1. Ukoh says:

    直ぐそこへ行くにもちょっと綺麗な格好していく妻、莉子さんはただのカッコツケじゃなかったんだな。
    体に合う服があまりないので、いつも同じような格好している自分が見習わなきゃ^^;

    因みに莉子さんは、警察の制服がダサくなったと言っております。
    ああいうのは格好よくあるべきと思う。
    日本の車は、四角い昔の形に中身だけそのままで戻すべき。格好良いのもあるのに・・・。

  2. 私の母は、昨年の3月から熊本の市営住宅で暮らしている。身一つで福島から避難してきたわけだが、さすがに洋服を収納するタンスが欲しいというので、最近になって市営のリサイクルプラザという名の粗大ゴミ置き場から収納箪笥をふた竿GETしてきた。
    (想像であるが)被災者とされることが、みっともない、格好悪いという理由で、フクシマに留まっている知人、その他の人々がいるように思う。

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