吃音

M40を走りながらラジオを聴いていると、おばちゃんが、ブレアはブッシュの犬なのか、アホらしい、イギリス帝国の誇りはいったいどこへ行ったのか、とえらい勢いで怒っている。わたしの国はいつからアメリカの属国になったのか、あんな男がクイーンの10人目の名代だなんて情けなくて涙が出るわ。

わしはハンドルの後ろで、大笑いする。
大笑いしすぎて、よろめいたクルマを慌てて立て直します。
なんちゅうオモロイクソババアであろう。

わしはクルマを運転しているときは、ほとんどiPodちゅうようなものは聴かないよーだ。たいていFMを聴いている。オークランドにいるときは最近はインド人たちの放送
http://tunein.com/radio/HUMM-FM-1062-s108804/
を聴いているときも多いが、それでもおばちゃんやおじちゃんが税金の高さにぶーたれて文句を言っているよーな番組があると必ず、それを聴いている。
なにより、聴いていて面白いからで、息子の下着を洗おうと思ったら茶色くてゴワゴワでたんぱく質なのでショックを受けたという主婦もいれば、片方の猫が寝ているところに、もう一匹が気が付かないでカウチの背の後ろから勢いよく籠にとびこんで「猫ボンバー」をしてしまい、びっくりした相手猫と大喧嘩になって、二匹の飼い猫が「お互いに口を利かなく」なってしまったがどうすればいいか、と相談するばーちゃんがいて、聴いていて飽きるということがない。

ツイッタで「バジルさん」という人が日頃から不平が多いニュージーランド人を見習って原発について文句を言い続けてみようか、とゆっているのを聞いて、「FM局やなんかの討論番組で文句言うのはええですのい」と答えていたら、やりとりを後で見た義理叔父から「日本のFM局には、英語圏式の討論番組がないから、バジルさんには、きみの言うことの意味がわからなかったと思う」とゆわれた。

広尾山と軽井沢の往復の途中でだいたい三芳PAから東京よりくらいになれば聞こえる「インターFM」をときどき聴くことはあったが、それも稀なことで、殆ど日本ではFMを聴かなかったわしは、インターネットを調べて見て、そもそも局数自体が他の国に較べて文字通り「桁外れ」に少ないのに、ぶっくらこいてしまった。
よく事情がわからないが、どうやら日本では電波法で規制があるもののよーであって、そうやたらめったらとFM局を作ってはいけないらしい。
へえ、と思いました。

大上段にふりかぶったように聞こえる可能性があるので注意しなければならないが、そうではなくて小さな声で言うと、せいぜいいちどきに1000人、というくらいの人が聴いているだけのFM局がない国で「民主主義」や「議論する社会」が育つのかというと、それは想像するのが大層むずかしいようである。

前に「イギリスの討論番組」について、「イギリス人は議論というものを心得ている。やっぱり違う」というようなことを書いている人がいたが、それは全国放送のキー局の番組かなにかを観たのであると思われて、わしが普段きいているような零細FM局の「討論番組」などは議論の仕方もなにも滅茶苦茶です。
電話をつながれたまま、えーと、あーんと、なんだっけ?とかゆっているおっちゃんや、えらくもったいをつけた挙げ句、「若い人は我慢がたらない」ちゅうよーな、なにゆってんねんおっさん、な意見をくだくだしく述べるひとがいたりで、(わしは聞いた事がなくて残念だが)義理叔父がむかし好きだったという「大沢悠里ののんびりワイド」のほうが良い意見があったのではないだろうか。

新聞の投稿欄は「つくられた大衆の声」であるのが明かである。
ところが零細ラジオ局で述べられるさまざまな意見は、「編集されない意見」なので、もうデッタラメで聴くに堪えない雑音みたいな意見(「パキスタン人は、イギリスに泥棒に来て、福祉や教育を盗んでいるだけなのに、エラソーなことを言ってないで国に帰れ」ちゅうような意見のことです)も混じり込んでしまうが、しかし、なかには「私は公の場でどうしてもこれだけは言いたかった」と思い詰めていたのだと思われる意見を述べる人もいる。

いつか若い衆に対する法的処罰をもっと厳しくすべきだ、という議論が行われているときに「私の娘は、週末のパーティでマリファナに手をだして放校になったのをきっかけに、よくないグループとつきあうようになって集団強姦の被害に遭い、いまは車椅子の生活になった」という母親からの電話があって、その母親は「私は娘が特に『悪い』娘だとは思わない。ただsillyだっただけだ。人間が若いときの思慮のなさからsillyなことをやって、そのために代価を払わなければいけないことをフェアだとは思わない」という。
現実に娘がたいへんな目に遭ったこの母親のいうことは100%正しいが、わしは、ラジオを聴いていて
いてもたってもいられなくなって受話器を取った母親の気持ちが伝わってきて胸がつぶれそうであった。

そうやって、政策や社会的問題や貧困・差別の問題に個人の気持ちや生活がどう関わりあっているか、わしごときオオタワケでも学ぶ。政治や社会においては、生活保護でも年金でも医療保険でも、数字や正しさで割り切っていけるものではないことをみながハンドルを握りながら、あるいはベーカリーでパンを焼く仕事をしながら学んでいる。

もう半分引退してしまったが、いまでももちろん有名な人でラリー・キングという愉快なじーちゃんがいるが、このひとはもともとはマイアミの小さなラジオ局でキャリアを始めたひとだった。いわゆるディスクジョッキーもやったが、断然才能があったのは、そのときどきのヘッドラインをつくる問題を扱った討論をホストすることで、60年以上に及ぶキャリアのなかで最も有名な「Larry King Live」は、その才能を思い切りいかした、英語圏では知らない人は誰もいないテレビ番組だった。

アメリカはテレビ産業が最も発達した国だが、その一方でラジオ民主主義が稠密に発達している国でもある。飾り立てたテレビの報道と平行して、隣に住んでいる人の偽りのない気持ちや、有名でもなんでもないひとたちが「どうしてもいいたいこと」はカーラジオや台所におかれたラジカセから流れてくる。

もし英語圏で日本並みの電波規制があったら?と考えると、とゆっても、そんなおっかない世界はなかなか想像できないが、仮に規制が存在したとすると、わしらがそれを聴いて涙ぐんだり、大笑いしたり、運転中なのに両手を叩いて拍手したくなるような、「聞き取りにくい声」は誰の耳にもとどかなかった。

日本の人はよく「よく考えてからものを言いなさい」
「もっとよく勉強してからものを言いなさい」、
酷い人になると、「専門でもないのに、偉そうな口を利くのはやめるべきだ」というひとまでいるが、
そういう発言はそのまま民主主義などもともと日本語の世界にはないのだ、と宣言しているのと同じことである。
「民主主義の世界においては立派な根拠のある正しい議論だけが行われるべきなのだ」という考えは、それ自体が野蛮で未開な反民主主義的な考えであって、愚かさへの苛立ちのあまりなのかも知れないが、われわれの文明がやってきた方向に完全に逆行している。
立派な意見を述べたがる人は自分の考えを述べるのに忙しすぎて、聞き取りにくい、低い声で、不器用にぼそぼそと述べられる意見など半分も聴かずに先をいそいでしまう。
吃りながら、なんどもつかえながら、自分の思い詰めた意見を述べようとしている人の話を途中で遮って「それは、これこれということですね?」と要約できるはずのない吃音を要約してしまう。
ただ意味だけの寒々とした姿になった自分の「思い」を懸命に述べかけたひとは、
仕方なく頷いて、自分が考えたのは結局そういうことだったのかも知れない、と賢い人々の無機的な語彙のなかで冷たい骸のような姿になった「要約」を見つめている。

要約からこぼれ落ちてしまった吃音にこそ自分の言いたいことの真実がこもっていたのを知ることもないまま、あと少し、と考えて開きかけた口を、そっと閉じてしまうのだと思います。

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One Response to 吃音

  1. じゅら says:

    台所に立つときなんかにラジオはよく聞きます。FMラジオって、音楽を流しているか、地域密着型の情報を流しているものだと思ってました。そういえば、英語が分かるふりをしたくて聞き始めた米軍ラジオ、視聴者が電話で意見してくるのをホストが聞いてやり取りしたりする番組をやってるなぁ。

    >「民主主義の世界においては立派な根拠のある正しい議論だけが行われるべきなのだ」という考え

    そういう番組でホストの人が、どんな内容でもI appreciate your commentとか電話ありがとうとか言ったりするのに不思議な感じがしていましたが、私はまずそこに違和感を覚えてしまう自分自身からなんとかした方が良さそうです。

    本当は、文字にした時点でこぼれ落ちてしまう物があまりにもたくさんある。
    音声だけの状態だってきっと圧倒的に足りない。
    そもそも「言葉に起こす、落とし込む」というのがすごく高いハードルだったりする。
    最近ついったで、生活保護の話とか、とかく「厳しい立場に置かれた人たちへの想像力が足りない」とされそうな放言が話題ですが、個人の想像力が足りないというよりも、「聞き取りにくい声」が上がって来ない、人の耳目に触れづらい状態になってしまう文化の問題なのかもしれないと思いました。触れる機会が無い。
    なんだか、「ちゃんとした」意見じゃないと公共の場に出してはならないような強迫観念があるのです。「ちゃんとした」形にまとめられるかどうかは、持って生まれた素質とか、置かれた状況の余裕に大きく左右されるはずなのに。声の上げづらい人から優先して黙らせる結果にしかなってないようで、気付いてみるとずいぶん無残です。
    「黙って耐え忍ぶのが美徳」との合わせ技はあまりにも罪深いですね…。

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