N2O

ひとつの言語は巨大な洗脳装置として機能しうる。
人間が、通常自分が拠っている言語の世界を「閉塞的」と感じないのは、語彙のさまざまな組み合わせによってほぼ無限のヴァリエーションをもった意味を発生させうると感覚しているからであって、「言語の外側」というようなものを直覚しないのはこれが理由になっているようにみえる。

ところが語彙のひとつひとつは意味性、あるいはもう少しわかりやすくするために着眼を狭めると論理性のベクトルをもっているのとはまた別に、歴史的に語彙の内側に堆積した情緒や語感、あるいは繰り返し使われたために生じる陳腐さ、というような「死者の行為と感情」がこもっている。
いわば、その言語が成立していらいの何世代にも及ぶ死者の吐息と
が語彙のひとつひとつにはこもっているのであって、この「死者の思い」の総和は英語のような広汎に用いられている言語でも、それと感覚できるほど有限で閉塞している。

ローマ人がキリスト教を信仰するに至るのにパウロが必要であったのは、わしには明らかに言語的な理由によったと思われる。
キリストが述べたことや行ったことは、いったんすべてパウロの魂に置き換わることによってローマ人の魂に届くものに変換されていった。
いわば(言語的なトランジションの過程では)ひとりぼっちで机に向かうパウロがキリストである夜を繰り返すことによってキリストはローマ人の言語体系のなかに住み着くことができたのである。

英語人のキリスト教信仰が、なんとなくヘンであって、インチキぽいというか、しっくりこない、というか薄ぺらな狂信じみているというか、あの「つくってこさえました」な感じは、聖書が言語的な跳躍に失敗して、中東からローマ世界に飛び移ったときほど、うまく言語体系間の移動がうまくいかなかったからだろう。

ひとつの言語体系のなかにもともと住んでいる神が、他の言語体系から来た神にそっくりいれかわるのには、僥倖と、危険な、自然出産に似た生存を賭けた激痛が伴うので、パウロの事業の真の偉大さは、そういうほぼ無理難題に近いトランスフォーメーションを奔流のような言葉と激烈な憎悪によって押し切ってなしとげてしまったことにあるのかも知れない。

両親がそれぞれ違う言語圏の出身である、というひとは普通に、「ひとつの言語で考え得ることが、他の言語では考えることができない」という事実を知っている。
そこまで明然と自覚的でない場合でも、自分達の寝室での愛情生活はフランス語で子供の養育については英語で話をする、というような夫婦はありふれた存在であると思う(^^)

言語というものは、その言語に依拠して暮らしている人間の住む世界という部屋の大きさ、形、色彩、天井の高さに加えて「窓から見える風景」まで規定している。

日本で最も目に付いた、こういう言語が引き起こす制約についての誤解は、「日本語に翻訳されたフランス語の文章は日本語の文章にしかすぎない」、ということに気が付かないことから生じていることが多かった。
その誤解はひとつの言語がつくっている世界が他の言語でできている世界と(生物学上の意味で)相似ではありえても同じものではありえない、という事実への無理解から来ている。英語とフランス語、イタリア語とスペイン語のように、現実の問題として自動翻訳プログラムでほぼ正確に意味が再現できるような近縁な言語同士ですら、同じ世界が結びの集合をなしているのは全体の半分程度である。
まして北海に面した国の人間が発した言語が日本海に面した国の人間に「かすかで漠然とした類似をもった表現」以外のものに「翻訳」される、というようなことは絶対に起こらない。

うんと簡単にして言ってしまうと、英語でものを考える人間は英語という言語が本来もっている現実主義、暴力性、無神論的な傾向、冷たい暗闇のなかの孤独を思わせる利己的な傾向から逃れられないし、日本語で考える人間は、強い情緒性、お互いの反応にもたれあったような相対主義、神を仰ぎ見ない習慣からくる思考の水平性、というようなことから逃れようがない。

真理から目をそらして、集団が(広い意味で)安堵できる方向にしか論理が進まないことを指して「日本語は頭を悪くする」という議論が明治の初期と1945年の敗戦直後には盛んに行われたが、そこで基準にされている「頭のよしあし」というものが、すでに西洋語のもので、日本語という日本の列島のなかで閉鎖的に形成された価値体系に西洋語の価値判断を突然もってきたところで、もうすでに議論として破綻したものになっていた。

もっと、おどろおどろしい言葉を使いたければ言語というものは、その言語に依拠(主体が言語なしに思考する脳髄のわけはないのだから「言語を使っている」という表現は言葉の矛盾だろう)している人間の集団自体にかかっている「呪い」なのである。

このブログ記事には、5年前に始まった頃から日本という世界の歴史に類を見ないくらい閉鎖的な社会において起きていることの譬えとして宋書の「狂泉」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/06/02/
を何度も挙げた。
ここに出てくる「狂泉の水」はマスメディアを始めとする日本語に変換されて日本人社会のあいだに伝播される情報と「社会の空気」のつもりだった。

ロシア人はロシア語の狂泉をもち、アメリカ人はアメリカ語の狂泉をもっている。
考えてみれば人間は言語の体系に拠る限りはかならず狂信にとらわれる以外にはないので、この宿命から逃れる方法はないように見える。

もう少しちゃんと説明してから、と考えたこともあったが、もう面倒くさくなったので結論だけ放り出して述べてしまうと、神への信仰はやはり巧緻な無知にしかすぎない。
仮に神を仮定して言語の集合が閉じていることや宇宙を説明することにもういちど成功したとしても、その新たに仮定された神は「信仰」というような行為は否定することになるだろう。
日本語という言語はあらゆる言語のなかで、神という仮定が無知にひたっていたい人間だけがもちうる恩寵であることを明示的に感覚しうるほとんどゆいいつの言語であると思う。それには地を這うような現実主義で文明を構築した中国人たちですら天を仰いだのに、仰ぎみる天の代わりに眼前の清涼な虚無をみつめることにした日本語の成立事情がおおきく関係している。

人間は灰白色の脳髄のあちこちに電気信号を点滅させながら、言語の廻廊をわたって死者たちの思いと面会する。
日本語人は日本語人の死者と、英語人は英語人の死者と面会して、彼等の孤独を言語によって追体験する。
死者の言葉で死者の思いを、自分の感情と錯覚して愉快で闊達な調子で述べている。

人間は完全な孤独には耐えられないように設計されているのに、言語という哀れなほど貧弱な伝達道具しかもたずにここまでやってきた。
孤独ではいられない存在が孤独をつねに強いられて数十年の意識の流れを渉っていかなければならなかったときに、「神」というものがどうしても必要だった。
もうひとつの神の存在理由であった「宇宙を説明するために神が必要だ」というのは、いまでは人間が微笑をもって思い出すことになった教会の詭弁にしかすぎない。

わしはときどき神のいない言語である日本語の宇宙にもどってきて、英語や他の欧州語がみてきた宇宙のことを考える。
そういうときに、最も日本語を習得できたことに感謝しているのだと思います。

 

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6 Responses to N2O

  1. Akira says:

    >言語的な理由によったと思われる。
    なるほど、、、
    パウロ主体で成し遂げたのではなく、パウロが採用される必然性が有った訳か、、、 よく解りました。
    他言語で話している時の己の変換の様を考え直しました。
    謝々

  2. katshar says:

    ガメさんの文章はいつも面白いなあ。
    いつもながら言葉についての考察はぶっちぎりですね。
    最近はあまり人の書いた物を読まなくなったけど、
    ここはいつも読んでいます。ありがとう。

  3. UKoh says:

    先日twitterの、『日本人は無宗教なのに、なぜ道徳心があるんだろう』という知らない人の呟きに思わず反応したんだけれど、プロフィールを読んだら高校生なのでした。

    私の年下の友人で、ケルン大学でドキュメンタリー映像を勉強していた面白い男がいて、彼もまた以前、日本人は無宗教であるという土台に立って、熱狂的なカトリック信者である韓国系の人が集う教会や(説教の途中で感極まって気絶したりする)、彼らの信じるキリスト教世界を撮っていました。
    彼とは長く、日本人の宗教観について話したのでした。

    若い人ほど日本人は無宗教(無神論だったかな。ちょっと意味が変わってしまう)だと感じているようで面白いなと。

    日本にも神はいるんだけれど、考えてみればそれは火の(日の)神様とかトイレの神様とか水の神様とか、一種精霊に近い感覚だし、それが生活や行動や発語の隅々まで制してしまうなんてことは、誰にも考えられない。
    「苦しい時の神頼み」じゃないけれど、そういう時まで、神という存在は身近にいないことになっている。お天道様からも、隠れてしまえば見られないことになっている(苦笑)

    英語で物を考える人の事は分からないけれど、

    >日本語で考える人間は、強い情緒性、お互いの反応にもたれあったような相対主義、神を仰ぎ見ない習慣からくる思考の水平性

    物凄い頷けました。
    だからガメさんもきっと、日本語で思考していると涙が出てくるんだと思う^^情緒的な事って良し悪しです。。
    先日バス停に車を停めていた女性に、運転手が怒ってバスを下りて注意してたけど、日本語だとそれも同じようには再現出来ないな・・と考えたばかり。

    ここはバス停なんだから一般車は停めちゃダメ、自分は怒っている、この2点を簡潔には伝えられないのが日本語なんだなぁと。

    >神のいない言語

    日本語の好きな所。
    でも今はその閉鎖性と英語との共通項の無さに四苦八苦しています。

  4. よん says:

    おいらは小学校から通ったイマージョンスクールで強制的にハングルを使い始めたので、言語的にハングルと日本語がかなり近いとはいえ、別の言語でモノを考えることには慣れているとゆうか「ふつー」です。
    小学生だった頃、学校からの帰宅途中にお巡りさんに引き止められて「朝鮮語を話す時、朝鮮語で考えているのか」と質問されたので、そうだと答えると彼は、「それが俺には理解できないんだ。どうやったら出来るんだ?」などとまじに訊いてくるので、ガキながらにして大人が(しかもケーサツが)理解できないことを普通にやっていることに得意になったのを思い出しました。

    >>> ひとつの言語は巨大な洗脳装置として機能しうる。
    とても興味深いポイントだと思います。
    最近、朝鮮学校無償化問題に注目していますが、それに反対する意見で「朝鮮学校では北朝鮮の洗脳教育が実施されている」とゆうのを見て、洗脳の意味を分かっとらんなー、君たちこそ洗脳されとることに気づいてないだけじゃないの?、と考えたりしてますがお巡りさんと同様、日本語世界だけで生きている人には理解できないんだろうと諦めています。

    面白い記事をいつもありがとう。

  5. Leda says:

    日本人には、彫刻や絵画(西洋)を創作することが出来ないのではと、今日ブリジストン美術館で思いました。特に彫刻は難しいのかな。
    関係ないコメントすいません。

  6. Akira says:

    >>フランス語の文章は日本語の文章にしかすぎない

    加藤周一は皮肉を込めて『翻訳文学』って言ってます〜。。
    巴里高等師範学校の校長さんが「Lévi-StraussやMerleau-Pontyなんて仏語なら超明快なのに何で日本語だとあんなに解らなくなっちゃうのかしらね?!」って言ってたな〜。。。
    オイラは①翻訳者が内容が解ってない。か、②ワザと解り難く訳してる、と思ってたけど、早稲田全共闘世代のヘーゲル学者によれば、「意訳は可能だけどね〜 内容が変わっちゃうんだよねー、はっはっは。。」って笑ってました(^^;
    コンニャクみたいに腹には入るが中身ゼロ。
    まさにホンニャク文化だね。

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