結婚

寝室に行ってみると、モニさんは午寝から目がさめたところです。
戸口にたたずむわし、見返るモニ。
見つめ合う目と目。
モニの目が一瞬、思い詰めたように光って「ガメ、スコッシュ」という。
スコッシュなの? モニ、ほんとうにいいの?
うなづくモニ。

次の一瞬、わしはベッドへ向かって走って飛び込みジャンプをする。
モニの上に体を全部のっけて、胸をあわせ、マットレスをつかんで、
「スコッシュ、スコッシュ、スコッシュウウウウー」と絶叫する。
モニは、わしの巨大な肉体の下敷きになってしまって、壊れるうー、ガメ、もうダメ、もうダメ、きゃあああー、という。
顔がみるみるうちに上気して、薔薇色になってゆきます。
い、息ができない、とつぶやいて、苦しい、と小さく叫んでいる。

….スコッシュ(squash)ごっことゆって、モニとわしが大好きな遊びなんでごんす。
類似した遊びに「サンドイッチ」と「ツナ・サンドイッチ」があるが、どう違うかは、まだ教えてあげない。

一年中暖かいオークランドにも本格的な冬がやってきて、一年の大半をTシャツですごすわしもTシャツの上に革のコートを着てでかけたりするようになった。
もっとも「寒いな」と思うのは家を出るときだけなので、クルマに乗り込んで半コートを脱ぐと、もうそのまま着なおすことは滅多にないよーだ。

モニのセーターのなかの小さなハンモックに似たネットのなかで、いい匂いのするモニの胸に顔をくっつけて、小さい人が眠っていることもあるし、そーでないこともあるが、人間がひとり、というか、ちょっぴり、というか増えたので、前のように夜中に遊びに行くべ、というわけにはいかないが、もうすぐ30歳に手がとどきそうなジイジイになったせいか、あるいは夜に「グラマラス」なところがないオークランドという町のせいか、あんまり夜中にでかける気がしないので、どのみち、どっちでもいいような気もします。
ひとりででかける、ということも増えた。

マングローブの群生のあいだを縫うように延びる木の散歩道を歩いて、遠くに走ってゆく列車を眺める。
夜には、海の上を、丁度「千と千尋の神隠し」にでてくる、カオナシと主人公が乗る電車の線路そっくりに見える、たった二両編成(^^)の通勤列車がはしってゆく。
人間がやっと通れる幅の小さな木製の桟橋に似たルックアウトをずっと歩いていって、CBDの高層ビル群を眺める。
ひとりででかけるときは、たいてい屋根の開くスポーツカーなので、頭がチョー単純なわしは、やはり若い戯曲書きが小さなスポーツカーに乗って出かけるところから物語がはじまってゆく、「Somewhere in Time」を自動的に思い出す。

公開したときには全然売れずに、笑いものにすらなった映画は、しかし、時間が経つにつれて人気も評価もあがってゆく、という不思議な経過をたどって、世紀が変わる頃にはたくさんのファンをもつ映画になった。
舞台になったグランドホテルには、たくさんのひとびとが1920年代のファッションで訪れて、人間の世界にも 命をかけるに値する恋がほんとうに存在することを願った。

主役のクリストファー・リーブは、この映画のあと、落馬事故で頸椎を骨折して首から下が動かない生活を余儀なくされた。
ミス・マケナを演じたジェイン・シーモアは「ドクター・クイン」という人気ドラマシリーズに主演して有名になっていった。
マケナの不幸を予見して知っていたマネージャー役のクリストファー・プラマーは、
「なぜ、いつまでもオスカーを手にできないのだろう」と長い間いぶかられていた俳優だったが、去年、オスカーを手にした。

公開当時、荒唐無稽、と映画批評家達にひとことで片付けられた映画は、でも、いまでもたくさんの人間に観られている。
人間ならば誰でも、罠に落ちるようにとらわれる、あの嵐のような感情、「恋」についての物語だからだと思います。

現代の社会、少なくとも英語世界では性的欲望と恋は別のものだ、ということになっている。
女びとでも「いっぱつやりたい」ときは週末に友達と連れだってバーにでかけて、見栄えのよい男と、ホテルの部屋ですごすのは普通のことであると思う。
それがOne-night standに終わらずに、長いつきあいに変わってゆくこともあるだろうが、本来はひと晩だけの性的な夜をすごすのが目的である。
モニのように、修道女よりも保守的なのではないかと思うひともなかにはいて、実際モニなどは、そういう「ふしだら」(^^)を頭から受け付けないが、むかしから「キー・パーティ」のような奇習をもっていたアメリカ人たちなどは、「Open marriage」というような不思議な言い訳までつくって、性的欲望と愛情生活の両方を達成しようとする。

そういう「新世代の愛情生活を生みだそうとしている」アメリカ人達を観ていると、相変わらずヘンな奴らだな、と思うが、「恋とはなにか」というようなことを考える習慣がないわしは、それ以上のことを考えるのがメンドクサイよーです。

いまパラパラとめくってみると、この日本語ブログにも、いくつか「恋」について書いた、なんだか落書きのような記事がある。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/08/18/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/11/08/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/07/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/10/01/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/09/12/

むかしは、人間は恋をして結婚すると、恋を捨てて、「幸福な結婚」を組み立ててゆくことになっているのだと思っていたが、それは間違っていた。
「恋」という不思議な感情は、結婚生活のなかでも、ちゃんと生きのびていて、生き延びているどころか、おもいもかけないほど強い根を広げて強盛を誇って、小さな人が生まれたり、大きな現実の大海に乗り出していかねばならなかったり、そういう、たくさんの、かつては「恋を阻害して殺してゆくもの」とわしが誤解していたからみついてくるような現実のなかに乗り出して行くことによって、(本質は変わらないまま)現実の世界などには触ることすらできない強力な力をもつものに変わってゆく。

こんなことを言うと、どんなに愚かさに寛容な神様も失笑するだろうが、わしは夜中にモニの傍らで目をさまして、息もできないほどモニを好きであると思いつめる事がある。
傍らに横たわっている人のことを考えて、もう会えなくなってしまったひとのことを考えるように、目に涙を浮かべて、唇をかみしめて、息をするのが難しいほど好きだと考えることがある。

眠っているモニの手にそっと触れて、指にさわってみる。
身体のむきを変えて、モニの静かな寝顔を眺めている。

笑うべし。
こーゆーことを書いてもよいと考える人は狂人にしかすぎないが、それならば、わしは、世界でも最も幸福な狂人であるに違いない。
この記事のずっと初めのほうに出てくる。でっかいオレンジ色のコートを着た、
途方もない美しさの、ナマイキを極める子供は、いまわしの横ですやすやと眠っている。そして、そのひとのなにもかもは、わしであって、わしは自分のなにもかもが、そのひとであることを願っている。
性的欲望の充足にすぎなかった行為は肉体をひとつにする行為にかわり、魂をいれかえ、溶解しあって、自分のことを考えていてもモニのことを考えているような気がする。

これが大学にいたころは「社会制度にすぎない」と自分で述べていた「結婚」というものの正体だと思うと、人間というものは個人であるだけではなくて、言葉では到底たどりつけなかったもののことだったのだ、と思うのです。

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One Response to 結婚

  1. Akira says:

    来たね18番! サッと台風が逃げてゆく様だ。。
    オイラも六本木ヒルズの下でダーリンを抱きしめて泣いた事を思い出して心臓がパンプしたヨ〜、、、
    「モニカが居ない世界なんて考えられない!」って、彼女は「男が泣いたの初めて見た!カンドウしった!」と、、義理オージさんみたいに(^^;;  
    いつもこの「号外」を待っています。
    ガメさんありがとう。

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