Monthly Archives: July 2012

悲惨

ずっと昔に「『純粋さ』について」というブログ記事 https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/10/01/「純粋さ」について/ を書いたことがあったが、今度は違う種類の純粋について書いてみようと思う。 1 一部のバカタレな「放射脳」のひとびとを別にして、日本でも福島第一事故はすっかり落ち着いたよーである。 福島自体の復興もめどがつきだしたようで、復興につきもののアコモデーションの再建にしても副島という人が「ホテル放射能」建設構想をうちだしたりしている。 メード・イン・ジャパンの放射能がいかに安全か、という啓蒙活動も、ようよう進捗をみるようになって、たとえば伝統ある京都大学医学部出身の医師などが、パワーポイントのプレゼンテーションをつくって、 *少量被曝は天使の微笑み(50mSv/年でも) *今後福島県では、がん患者が減少する *少量の放射脳食品はプレミアがつく というように、科学のわからない愚かなひとびとが考えるのとは異なって少量の被曝がいかに健康によいかを述べた上で、 *福島県は日本一の健康ランドとして人が集まってくる *未来は明るい! と、啓蒙にも力がはいっている。 真正科学教団も相変わらず壮健であって、ピタゴラス教団と異なってたいした科学的貢献がないのは痛いが、相変わらず、無知で理科が3以下だった「科学にまつろわぬものども」を、だんだん彰晃様に似てきたとゆわれる教祖を中心にびしびしときびしく取り締まっている。 わしも科学をベンキョーしたが、あの苛斂誅求はかなり気持ちがいいだろうとおもって、いつもうらやんでおる。 「おらあー、貴様、科学の『か』の字も知らんくせに、放射能をこわがるなんて、いっちょまえのことをやっていいのかあ。もっと、しっかりベンキョーしてからこわがらんかい。おらおらおらおらあ。こおのアマッコが、ナマイキな口を利くと微分しちゃうぞ微分しちゃうぞ、おじちゃんがおもうぞんぶん微分して、らちをたっぷりあけて、お嫁にいけなくしてやる」 地道な研究に較べて無知な大衆の啓蒙というのは、華やかなものであるなあ、と思います。 2 陸軍幼年学校は、1872年に設立されて、1945年まで存続した。 日本語ウィキペディアをみると、 「幼年時から幹部将校候補を純粋培養するために設けられた陸軍の全寮制の教育機関。旧制中学1年から旧制中学2年収量に受験資格を与えた。プロイセンのKadettenanstaltに範をとって設立された」と書いてある。 要するに軍事指導に必要な教育のみを行って、その他の余計なことはいっさいやらせないで将軍と参謀をつくってしまおうという、「ムダのない軍人教育」を狙ったわけで、 日本の戦争指導を行ったのは、この学校を出たひとたちだった。 昭和天皇が溺愛した東条英機という将軍も、この学校の出身で、出身であったのみならず、この学校出身者の典型的な人格の持ち主でもあって、遊びのような余計なことはいっさいやらない努力家で、刻苦精励、いっときもゆるがせずにベンキョーした。性格は素直で、級友にも愛され、そのかわり「正しくない」ことはどのような些事でも決して赦さず、相手が青ざめて平伏してもなお怒鳴りつけるのをやめなかった。 上で述べた真正科学教団の教祖なるひとも、まわりのひとに性格を愛される 「かわいい男」であり、学者の父親をもつ2代目研究者だが、東条英機もやはり父親も将軍で日露戦争に歩兵第三旅団長として出征しています。 ところで、この純粋培養された将軍たちは自他共に認める「世界でも最優秀の軍事の権威」で、相手方の連合王国のように、ポロの試合から帰ってくるドラ息子に「ちょっと、あんたアフリカで将校たりないから行ってきてよ。位は、そーだなあー、大尉じゃ、ダメ?」とかっちゅうような、チョーえーかげんなシステムで生まれた将校たちとは、当然、比べものにならない軍事知識があった。 アメリカが飛車をふってきたらアナグマになってこもる、とか、そーゆー定石についても兵棋演習を重ねてプロ中のプロであった。 不思議なのは、それであるのに、蓋をあけてみると、作戦もなにもいらないイケイケですむ劣勢な二線軍を相手にしていた戦いはチョーシこいて勝っていたのに、開戦百日を経て、マジな戦争になってくると、ボロ負けにボロ負けをかさねて、あまつさえ、 「日本の将校って、なんであんなにワンパターンな失敗するんだ?学習能力っちゅうものがないのか?バカなんじゃねーの?」と、西洋世界きっての弱兵団でしられるアメリカ人たちにまで言われる始末だった。 へーたいはまっすぐ走ってきて機関銃で撃たれて死ぬだけだし、将校は火網のまんなかにとびこんできて、すすめえー、すすめえー、しかゆわない。 兵力が減ってきて、「そろそろ夜襲にくるかなあー」と思っていると教科書どおり、そのとおりの夜襲にきてぶち殺されて、夜襲二回失敗して、兵力ないから、もうすぐバンザイ突撃だろう、と話していると、ほんとうにバンザイと叫びながらつっこんできて、なんだか戦争の相手をしていて悲しくなるほどバカだった、と太平洋戦争で日本軍と戦った米軍将校が述べている。 だいたいドキュメンタリで戦時中の連合軍側将校の証言を聞いていると、言う事が決まっていて「教科書どおりのことしかやらない」「失敗しても、まったく同じ方法で繰り返し攻撃してくる」 日本側の記録を調べてみると、なんのことはない、適当に頭でひねくりまわした理屈で戦闘を「指導」しておいて、負けると誰も責任なんてまったくとらずに、さっさと後方に飛行機で逃げては、また同じやつが戦闘指揮をとっていたりするのです。 有名な例でよく挙げられる名前を述べると辻政信というひとは、上にはさからうが下には篤い、部下思いの温情のひとだった。 行軍演習で倒れる兵隊があると、自分がその兵の背嚢を背負い、銃を肩に、励ましながら行軍を続けた。 このひとが、軍事の専門家はおれたちだ、鼻提灯をふくらますボケた将軍たちのような素人になにがわかる、と服部卓四郎と組んでたきつけてまわったノモンハン事件は、近代火力戦を理解できなかった日本陸軍の無惨な全面的敗戦で、ソヴィエトロシアの指揮官ジューコフは、この快勝によって猜疑心の深いスターリンの信任を勝ち得てゆく。 面白いのは、ノモンハン後の日本側の反応で辻政信は「戦争は負けたと感じたものが、負けたのである」と述べて、負けたが、自分は負けたと認めていないのでノモンハンは勝ったといえる、という強弁で終始していっさい責任をとろうとはしなかった。 しかも歴史を読んでいるひとが椅子からずるっこけそうになることには、この服部・辻コンビは、ノモンハンであれだけのボロ負け…しかも純粋に作戦構想の失敗が原因であることが明かなボロ負け…をこいておきながら、ほとんどおとがめもなく、短期のいいわけじみた左遷のあとで、作戦企画中枢にもどってくる(^^;) … Continue reading

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古い家に帰る

1 同じ町に1年もいるのはひさしぶりであると思う。 8年ぶり、だろうか? ニュージーランドは良い国だが、人口が400万人しかない、しかも離れ小島のように他の文明から遠く離れた国である。 2000キロほど行くとオーストラリアがあるが、ニュージーランドと似通った、ニュージーランドに較べると人間が粗く、礼儀知らずの人間が多い社会で、むかしからわしにはあまり興味がもてない社会だった。 子供の頃は、かーちゃんの週末の買い物に付き合ってメルボルンによく出かけた。 ときどきは一週間ほどもいることがあった。 ヤラ川からあんまり遠くないToorakというところにかーちゃんのメルボルンの家はあって、そこから、あちこちに歩いてでかけたものだった。 くるまでダンデノンレンジという山へ遊びに行ったりした。 しかし、オーストラリアがニュージーランドよりも大きいと言っても、ただそれだけのことで、クライストチャーチの「牧場の家」からオーストラリアのハンターヴァレーに旅行に行ったときなどは、夜に着いて、朝になってカーテンを開けてみると、そこにあったのは牧場の家のエクステンションから見える景色と「寸分変わらない」と言いたくなるような風景で、かーちゃんも妹もわしも、ため息が出る、というか、2300キロだかなんだかを旅して近所の友達の農場へやってきたようなもので、うんざり、というのが正直な気持ちだった。 小さな人が旅行ができそうになってきたので、また元の生活スタイルに戻ろうかと考える。モニもわしも放射脳なので日本はダメである。 日本人のひとは笑うに決まっているが、しかし、モニとわしはどうしても日本へ行こうという気になれない。 メキシコも選択肢から外れてしまった。 最後にメキシコの内陸部にでかけたのは、あれはまだ結婚する前で、4年前のことである。 https://gamayauber1001.wordpress.com/1970/01/01/メキシコのねーちゃん/ (日付が1970年になっているのは、この前アカウントを削除したときにタイムスタンプがぶっとんじったせいです) 記事には書いてないが、メキシコシティに寄ってからマンハッタンに帰るはずが、メキシコシティの中心部で銃撃戦が始まってしまって、わしがでかける用事があった場所は、そのすぐそばだったので、別の、シカゴでの用事を優先することにしてクエルナバカからまっすぐシカゴに向かったのだった。 メキシコの状態はおもわしくない。 理由は、言わずと知れた麻薬組織との戦争だが、もともとのバハ・カリフォルニアから戦争は拡大して、いまはアカプルコのような外国人観光客がたくさんいる町でも大量の首のない屍体がみつかったりしている。 それもコスコの駐車場、というような場所のことなので、結婚する前なら面白がってでかけただろうが、いまは、そういうケーハクな遊びをして喜んでいるわけにはいかない。 それでも、わしが大好きなプラヤ・デル・カルメンやトゥルムにまたでかけたいと思うが、セキュリティのおっちゃんたちは大反対で、誘拐を考えると責任がもてないという。 そーですか、としか言いようがない。 わしはモニと結婚してよかったとおもっているが、危ないところへ行ったり、あんないけないことや、こんな恥ずかしいことが出来なくなったのは、まことに残念であると思う。 2 モニさんは生まれたのはフランスだが、ニューヨーク暮らしが長かった。 マンハッタンはフランス人が多い町で、フランスのひとにとっては多分世界で最も暮らしやすい町だろう。 モニの家はUpper East Sideというところにあるが、モニさんがモニかーちゃんからもらった家で、わしのチェルシーのボロアパートとはえらい違いの豪勢なアパートである。 マンハッタンという町はおおざっぱにいうと、ダウンタウン(ヴィレッジ、イーストビレッジ、…トライベッカ)は気楽な「ざっかけない」町で普通に暮らしていて簡単に友達ができる。 馴染みの定食屋やバーも、どんどん出来てゆくので、あっというまに「近所のひと」になります。 わしガキの頃は、まだまだ危ない町で、よくひとが通りで撃たれて死んだりしていた。特にジャンキーのおっちゃんが多いイーストビレッジはみかけよりもずっと危ない町だった。いま人気のあるミートパッキングディストリクトも同じことで、当然ながら買うにも借りるにも安い、ということもあった。 最近はマンハッタンは世界一安全な町なので、それにつれて、たとえばイーストビレッジには日本の若い世代のひとが大勢住んでいる。 蕎麦屋もあれば、わしの好きなタパス屋もある、日本料理屋が並ぶその同じ通りにたこやき屋もあって、有名な「一風堂」も、ユニオンスクエアから歩いて2分くらいのところにあります。 えらい人気で、いつも行列ができいる(^^) 日本人だけ、というわけではなくて、いろいろなエスニックグループの人が辛抱強く並んで待っている。 わしはラーメンというものが、あんまり好きでないので行った事がないが、行って見た近所の友達によると、「めちゃくちゃ、うまいぜ」ということだった。 もともと日本人が多く住んでいて、義理叔父の家もここにあるミッドタウンのGramercyもいいところだが、モニとわしはチェルシーとヴィレッジの境界に近いアパートかモニのUpper East Sideのアパートのどちらかにいることが多かった。 小さな人が生まれてから、モニとわしの生活はおおきく変わった。 … Continue reading

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セキシたち

近代日本はもともと天皇ひとりのために存在する国としてデザインされた。 日本の歴史を学習するひとは誰でも、その不思議なシステムが登場する明治時代にさしかかると、そこで手を休めて、ため息をつくことになる。 自分で読んでいるものが信じられないような気がするからです。 中国の王朝は最後の王朝清に至るまで国家、というよりも中国人の主観によれば宇宙全体が「皇帝」という一個の人間の私有物にすぎなかった。 宮殿の奥深くに住む奇妙な形に萎えた足をした美人から北京の町の埃が舞い上がる繁華街の路傍にある一個の石ころに至るまで、この「宇宙」に存在するものはことごとく皇帝個人の持ち物だった。 少し似ているようでもあれば、まったく異なるようでもある。 明治時代、徳川家から政治権力を簒奪した薩摩・長州・土佐のひとびとは、すでに鳥羽伏見の戦いで日本人の心のなかに隠れ住んでいた「天皇への畏敬」に気が付いていた。 なにしろ精強に戦う優勢な幕軍に遭遇しても玉松操がでっちあげた「錦の御旗」を掲げてみせれば、さっきまで自分達こそ正義だと確信して必死の形相で戦っていた幕府の強者が、そういう言い方をしてしまえばパチンコ屋の新装開店の花輪とたいして変わらない由来の「錦の御旗」をみて、あれよあれよというまに逃げ散ってしまう。 薩人たちが味をしめたのは、当然だと思います。 いざ政府をつくってみたものの困ったことに新政府には「信用」というものがまるでなかった。当時の日本人は、「官軍」の正体が、もともとは無学なテロリストや身分の低い半侍たちの集まりで、その「正義」なるものは、ただ自分達が驕奢に耽り田舎者らしい富貴を貪欲に追及し金で頬をはたいて美しい女と夜をすごすための口実にすぎないことをよく知っていた。 訓練された兵と最新式の兵器という自分達に数層倍の究極の「暴力」を携えて清の大陸に蹲っている欧州人たちの冷笑はまだしも、自分達自身の国民からも、まるで信用がなかった。 はっきり意識していたかどうかは判らないが、出来上がったばかりの安普請の政府の首脳たちが「錦の御旗」の甘い記憶をおもいおこして、「どうだろう、西洋の教会のかわりに天皇をでっちあげてしまえば、そうして国民の顔を全部そっちに向かせてしまえば、なんとか国がまとまるのではないだろうか」と誰かが考えたと思うのは自然な推測だと思います。 虎屋という和菓子屋が皇居の畔の一等地に立っていることには黒川の家に伝わる家伝があって、江戸時代、世間に顧みられることがなくなって困窮を極めた天皇家のひとびとの生活をみるにみかねて、当主が多めにつくった菓子を抱えて塀の外に立っては、「やあ、今日は菓子をつくりすぎてしもうた。とっておいても腐るだけであるから、この大きな家の庭に捨てさせてもらうことにしよう」と呼ばわって菓子を塀越しに放り投げると、天皇家からはひとがわらわらと飛び出してきて菓子を拾って食べた、という。 虎屋はそのころ天皇家を支えた功で明治維新のときに、1869年、初めは神田に土地をもらって東京にやってくる。 明治時代の為政者が考えた手品は、真に驚くべき手品で、日本の支配層の権威の二重性の靄に隠れた遠い彼方で、微かな信仰のような気持ち、ある種のおぼろげな畏敬の記憶の向こうに気息奄々としていた「天皇」という伝統を政治表にひきだして、西洋における「神」の代役をやらせることにした。 のみならず、日本という近代国家そのものが天皇ひとりのために存在する、といういかにも日本人好みの、「崇高なもののために死ぬ」体制をほんの数年で築きあげたのでした。 日本人には絶対的な善悪の彼岸はなくて、ただ行動の美醜のみがある、といろいろなひとが述べているが、この「天皇のために自分達すべての存在の意味がある」という、明治の為政者が、いわば思いつきででっちあげた書き割りじみた社会のデザインは、日本人の、魂のどこか奥にあるイデアのデザインに訴えたもののようでした。 「つぼにはまる」という言葉があるが、そのとおりのようなことになってしまった。 そのあとに起きた事は日本人なら誰でもよく知っていて、「御真影」という天皇の写真を火事になれば校長がそれを守る為に焼死するほどに崇敬させる学校で育ち、皇居端を路面電車が通ればいっせいに頭を垂れて皇居をみないでやりすごすことを毎朝の日課と命じられて通勤した日本人は、やがて天皇ひとりに価値が集約される世界を日本からアジア全体、世界全体と拡大するために、カルト教団が激しい拡大運動を起こすようにしてアジアの諸国家で戦争を繰り広げる。 この戦争は特に1941年12月以降は歴史に例をみない無謀なもので、直截の敵であった欧州とアメリカ合衆国とがナチと必死の戦いを繰り広げているあいだの100日くらいは、それでも欧州戦線にすべてが投入されたあとの、劣悪な装備に訓練されていない兵と、もともと宗主国の権利を守るために戦うということそのものに懐疑的な植民地兵の混成だった軍隊を相手に、いわば火事場泥棒の戦いを戦って連戦連勝していったが、ナチの守勢が明らかとなると、だいたい1942年の晩秋(ソビエトロシア軍のウラヌス作戦は1942年11月19日発動、第3次ソロモン海戦は1942年11月12日)くらいから、ナチが坂を転げ落ちるように戦力を失ってゆくのにつれて、もともと第一世界大戦に本格的に参入をしなかったことによって「国家総力戦」への国家的な想像力を欠いていた日本は、グレンデルに背骨から粉砕されるフロースガール王の家臣たちのように、ひとりひとりの日本人の肉体が粉砕されてゆく戦いのなかで断末魔の悲鳴をあげることになる。 傷ましいのは、その悲鳴が「天皇陛下万歳!」であったと、この期に及んでも国家によって喧伝されたことで、戦場から生還した若い兵士たちが、どれほど繰り返し「みな、母親を呼びながら死んだのだ」と述べても、結局その証言は国家の官僚たちに塗り替えられて天皇の名前を呼んで「美しく」死んだことにさせられてしまった。 いま劇場で自分が死ぬときにさえ「天皇陛下バンザイ!」と叫ぶ、あの観客の目をおおわせる非人間的な若い兵士たち、日本人の「非人間性」の象徴になっている日本人兵士たちは、 戦争を背後で「指導」した官僚たちのプロパガンダの、いまに残る虚しい余韻だと、ぼくはおもっている。 戦争が終わると、これもまた驚くべきことに、天皇は「わたしは神様はやめた」と言い出した。明日からは人間になる。わたしは昔からイギリスの王達のように君主は人間であるべきだと信じていたのさ。 天皇の個人としての人格に好意と敬意とを強く感じ、側近として戦争を通して必死で天皇を守り抜こうとしたひとびとのなかにも、天皇がまったく責任をとろうとしないことによって、衝撃をうけ、失望して天皇と二度と会おうとしないひとが多くあった。 普通の「庶民」のあいだにも、たとえば文芸評論家の江藤淳の祖母は「今上(きんじょう)は、こんなことになって、明治様に申し訳ないとは思わないのだろうか」と述べて、以後、昭和天皇について何かを言うことを忌んだという。 1946年1月1日、昭和天皇は、いわゆる「人間宣言」を行う。 「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」 これによって、日本人全体が、その一点に顔をむけて生まれて死ぬ事のみに価値をみいだしてきた玉座は、からになって、日本人はこの日以降、天皇ではなく、この誰も座っていない王座を見つめて一生をすごすことになった。 この日まで、日本の支配層があれほどこだわり、固執し、広島と長崎に原爆を落とされた後でさえ、そのために戦うことを正義とした「国体」とは天皇個人のことだったが、 この日から後は、国体、すなわち「日本」というときの、その「日本」の実体は、この玉座が抱えた虚しい「不在」のことになった。 福島第一事故は、政府が国民を守ろうとしないことによって、外国人だけではなく、日本人をも驚かせた。 国の内外で事態を息をのんで見つめる人間達の自然な疑問は、 「この政府は何を守ろうとしているのか?」ということでした。 結局は日本人の価値の信仰は伊勢神宮のあの有名な「nada」信仰にあるのだ、と言えば機知としても安っぽすぎるというべきだろう。 日本人は、天皇がそそくさと立ち去ったあとの、そうおもってみればやや恥ずかしげにもみえる、かつての天皇が座っていた「不在の空間」をいまも凝視している。 過去のぼんやりした記憶に悩まされながら、あの空間を守らねばならないのだ、という妄念に似た強い意志だけが、日本という、不思議な、そして他の国の国民にとっては、ほぼ理解不能な決意に満ちた国を支えているのだと思います。

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カレーと偏見

1  偏見の話をしようと思う。 中国人と日本人がふたり並んでいて、どちらを信用するか、と言われれば10人の英語人のうち10人が「日本人」と答えるだろう。 では中国人と日本人がお互いを嘘つきだと罵りあっているときに英語人がどちらを信じるかと言えば、中国人のほうだと思います。 矛盾しているではないか。 矛盾していますね。 でも、事実においてそーである。 日本人や中国人のことをよくしっている、たとえば特派員、というような世界においては常識と化している。あるいはアメリカ、豪州やNZに住んでいる中国人や日本人に対するイメージは、そーゆーものである。 日本人の議論には特徴があって理屈のうわっつらだけを眺めていると、いかにもほんとうらしくみえるが、仔細に見てみると初めに「相手や出来事に対する感情」があり、それに由来する「事実がこうでないと困る」という気持ちがあって、すべてはそのすでに存在する結論を真実らしくみせるために構築される。 南京虐殺、などがよい例で、話の経緯をしる英語人の一般的な意見は、「中国人の数はオーバーなんだろーが『虐殺がなかった』と主張している日本人のほうは、とんでもないウソつきだ」というところに落ち着くと思います。 自分達が最後にもった軍隊が、集団強姦を働いたり中国人を虐殺したりした、というのは日本人にとってはたいへんなembarrassmentなので、あんなことを言っているのだな、と思っている。 日本のひとは恥ずかしさのあまり、全部なかった、ということにしたいに違いない…だいたい、どの本にも、そう説明されている。 日本の人の意図とは異なって「南京虐殺を巡る論争」は日本人の議論には信頼性など微塵もないことを世界に向かって宣伝してしまった。 自爆、というか、あれ以後は中国のひとびとにとっては、尖閣諸島でもなんでも、日本のほうが正しいんちゃうの?という英語人に会った場合には「南京虐殺の議論を見てみい」という、ただそれだけのひとことですむことになってしまった。 日本人は相手を攻撃するときに巧緻に嘘を組み立てることが上手なのは、あれを見れば判る。そういう民族の議論にも真実が有る、と思うきみはナイーブすぎるのではないか。 言うまでもなく、こういう展開は南京虐殺にとどまらず、日本人全体の言語信頼性に関わることで、わしの立っているところから眺めると、長期的には日本人という民族にとって致命的なダメージを与えてしまっている。 日本人の議論には初めに結論があって、日本人は、その初めから決めてかかっている結論をほんとうらしくみせる詭弁の達人である、という現代日本人の「定評」は、多分永遠にはがれないラベルとなって日本人がいくところにはどこにでもついていくだろうと思います。 ついでに余計なことを述べておくと、では、もともと英語人が南京虐殺をどう思っていたのかというと、それは「だって戦争だからなあー」という感想と思う。 そんなこと言っている人は誰もいなかったぞ、と日本のひとならば言いそうな人がいそうな気がするが、それは当たり前で、中国人に対しても日本人に対しても、考えてみれば、それは述べてはならない感想で、英語人同士でもあまり知らない相手では口にだしてはいいにくい。 しかし英語という言語はあきれるくらい現実主義的な常識に圧倒的に依存している言語なので、「戦争のときって普段の人間とまったく異なってるのはあたりまえじゃん」と一も二もなく思っている。 それとも、きみは、「戦争は絶対に起こしてはならない」というのは、人が死ぬから、殺し合いはいけないから、とかっちゅうマヌケな理由だとでも思っていたのかね? だから日本の人が訳のわからん英語でやってきて、「イギリス人だっていっぱい虐殺してるではないか」「アメリカ人だって日本兵をいじめたではないか」「コソボでだって、やってるじゃないか」日本人だけではないのだぞ、と言いに来ると、そのあまりの頭の悪さ(ごみん)と問題のとらえかたのセンスのなさに、うんざりしてしまう。 いまはIPバンをかけて東アジアからのアクセスは遮断してると思うが、むかしは、「日本のひと」がくると、一挙に議論の雰囲気が消滅して、荒涼とした攻撃的冷笑的な言語が支配したものだったのをおぼえている。 このブログ記事を書き始めた頃は、社会実験、というか、従兄弟や義理叔父が「こうやってみたらどうか?」「こう書いたら日本の社会の反応がわかりやすいんじゃねーの?」というのでいろいろと実験をした。その実験をそもそも考えついたのは誰で有るかはいわないが、2010年には「ガメ、十分資料があつまったから、もうやめていいぞ」と言い出した。だからほんとうはこのブログ記事の「役目」はそこで終わっているのです。 このそもそも「ちょっとガメひとっぱしり日本語書いてこい」と言い出したひとは炯眼、というか洞察力がありあまっているひとだが、ブログ記事の結果をまとめて、どう思いますか?と訊くと、「日本は、たとえば原発事故のような事故によって滅びるだろう」という、いまから考えると驚くべきことを述べた。 あんまり驚いたので、閉めたブログ記事の表紙のページに、同じことを書いておいたのでおぼえているひともいるはずである。 「でも、事故が起きたら、日本人はアメリカ人なんかよりも迅速に対応して地域を封鎖するのではないでしょうか?」と言うわしに向かって、そのひとは、にっこり笑うと、 「きみが集めた資料によると、日本人は放射能はそれほど危なくない。事故はあったかもしれないが、たいしたものではなかった、といって、逆に対策を立てないで放置するほうを選ぶということになる」という。 そんなバカな、と思ったが、相手はわしが尊敬しているひとなので、何か反論する、というわけにはいかなかった。 そのひとはチェルノブルで起きたさまざまな隠蔽も詳細に説明してくれたが、でもそれはソビエトロシアの体制から生まれたことではないでしょうか、というと、日本には日本の問題があるからね、というような意味のことを言った。 そのときは聞き流してしまったが、あのひとは、いま日本で起きていること、もっといってしまえば、これから起きるであろうことも詳細に知っていたに違いない、と思います。 2 なんだか他人のブログを肴にするようで気が引けるが、最終弁当さんが、「バターチキン」のことを書いている。 最終弁当さん、というような書き方をしないで、誰のことなのかはっきり言ってくれよ、という人がいるのはわかっているが、あんまりそう他人とべったりするのは好みでない、ということがあるので、判る人が「あー、あのひとのことですね」と判る程度のほうが、わしの好みです。 バターチキン、というのはたとえば、今日はみんなで対スリランカのクリケットマッチをみるべ、というようなときに、では何を食べるかというとインディアンテイクアウェイが手頃でよいであろう、ということになったとする。 ほんじゃ、わし、Chicken Jalfrezi。 おれは、Tikka Saagwala、わたしは、Saag Goshとゆってめいめい注文するときに、ひとりだけインド料理が苦手なスパイスはようわからんし、辛いのは苦手だからなー、というやつが、じゃ、Butter Chickenにするわ、というと、みながドッと笑って、でたあー、バタ・チキン、おまえってほんとうにレッドネックだよなあ、どうしようもないやつ、と冷やかされたりする、という性格のメニューである。 … Continue reading

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NZに来た日本人の友達に

「The Help」という60年代のミシシッピを舞台にした映画で、アフリカンアメリカンのメイドが10時間もオムツを替えてもらえないほど放っておかれて、体面ばかりをうるさくいう母親にいまにも心を壊されそうになっている雇家のチビガキに何度も「You is kind,you is smart,you is important」と言ってきかせるところが出てくる。 チビガキが人格崩壊の危機に立つたびに、子供を抱きかかえて目をみつめて、まるで自分の全人格を投入して子供の人生を支えようとしているかのように、言ってきかせるアフリカンアメリカのメイドの言葉は、要するに英語世界の子供が小さいときから繰り返し言い聞かされて育つ言葉でもある。 きみがニュージーランドにいるのだと知ったとき、ぼくはどれほど嬉しかっただろう。無口で、気難しい顔をしたきみが、やっぱり親切を表情にだすのが下手で、ぶっきらぼーなニュージーランドのレンタカー屋で、どんなやりとりをしたのだろうと考えたり、タウポの宿屋で、夜中にバカ騒ぎを繰り返す観光客たちに、腹を立てながら眠られない夜を過ごしているのを想像して、なんとなく可笑しい感じがしたりもした。 でも、きみが現にいまニュージーランドにいることを、とてもいいことだし、自分にとって嬉しいことだと思いました。 ぼくがこのブログ記事を書いているのは、自分の意見の正しさを証明するためではない。意見を述べるためですらないようです。 いままでも、いろいろな、ぼくの目からみると、ただヒマを持て余して他人を攻撃するためだけに生きている(他の国から考えるとどう考えても、桁違いに数が多い)ひとびとが、さまざまな難癖をつけにきて、あれを証明しろ、これが間違っている、おれのほうが正しい、反対できるものならやってみろ、証拠をだせ、と言ってきて、ばかばかしいので放っておくと、なんだ何も言えないのか、卑怯者、逃げた、おれたちの勝ちだ、おれたちは喧嘩は強いんだ、となんだか現実離れをして魂が壊れたひとびとが群れをなして騒ぎたてても相手にしなかったのは、そういうくだらない習慣自体が、日本人のあいだだけで通用する、どうしようもなく幼児的な習慣だというだけでなく、ぼくがそもそも「正しい」ことや「正義」を明瞭でおおきな声で述べ立てるひとに興味がないからだと思います。 もう何度もこのブログで書いたが、ぼくがいまだに日本語を書いているのは、舞台の上に立って如才なく冗談もはさみながら、他人の喝采で自分の正しさを測定しながら生きているひとたちのためではない。 まして大声で「正しいこと」ばかり述べて拳を空に突きだしているひとびとなど目にしたいともおもわない。 その舞台を囲む大きな人の輪のいちばん外側のはしっこで、喝采を遠くからみつめながら、「そんなことはないんだけどな」と小さくつぶやいて、その場を立ち去ろうとしている人に話しかけるためだと思っている。 偏見もある。 きみがいまいるニュージーランドという国のひとびともそうだが、ぼくが産まれて育った北海の文明圏にある天気の悪い国では、器用な人間や、流暢に言葉を操る人間、「如才のない」人間を、誰もが疎ましくおもう。 あの何事にもドジな国では、天井の高い、装飾品がどう見ても多すぎる居間で、誰もがつっかえつっかえ、どもりの癖があるひとのように話している。 もう21世紀だというのに、知らない人と狭い空間で一緒になると、せいいっぱい丁寧な挨拶をして、そのあとは、もう知らない人に対する義務は全部はたしました、とでもいうように、目を落として、新聞を読んでいるふりをする。 あの国で紙の新聞がいまだになくならないのは、ようするにそのせいだろうという冗談があるくらいで、考えてみればアメリカ人なら治療が必要だと言われるに決まっているほど、ひどい人見知りで、なんだかなんにもうまく言えなくて、どうせ自分なんかこの世界には不要な人間なんだから、と諦めている自閉的な人間で社会が充満している。 そういう国に育ってしまうと、「正しい事」を堂々と述べるひと、というものが苦手になる。 自分の科学的知識を披瀝して、相手の非科学性を公然となじるようなひとびとを見ると、このひとは育ちが悪いのか、よっぽど頭がわるいか、どっちだろう、と考える(^^) ノースランドに行ってカウリをみる、というのはとてもいい考えだが、オークランドからワイカトを抜けてウエリントンに向かうと、その途中には「砂漠の道」という名前の荒涼としたオープンロードがある。ところどころタシットが一面に広がっているほかは、ほかには、ほんとうに何もない道で、ぼくはこの道が北島では最も好きかもしれません。 ニュージーランドは小さな国なのに、空ばかりはやたらとおおきい。 晴れた日には地平線の方角をみても直上と変わらない青い色の空がひろがって、宇宙のまんなかにいるようでもある。 その巨大な空の下を、点ともいえない動く染みになったちいさな自分が、なんだかどこまで行ってもどこにもいきつけない感じがする荒野を走っているのを考えると、まあ、自分の一生なんて、どうせたいしたことはやれないのだから、てきとーに、自分にせいぜいやさしくして暮らすのがいいだろう、と心から決心する。 ウエリントンに着いたら、新しくできた美術館の近くに泊まるといいと思います。 もう知っていると思うが、「New World」というあのスーパーマーケットが近くにあるので、ワインでもなんでも買って部屋で飲める。 オーストラリアのシラズが世界でいちばん安いのはニュージーランドで、少しはりこんでPenfoldsの、Grangeはやりすぎでも、Bin28くらいは飲んでも損はないかもしれません。 近所のレストラン街には有名なマレーシア料理屋があって、そこはふつうにマレーシア料理と呼ぶときの「ニョニャ」、中国人の男たちとマレー人の女びとたちの婚姻から産まれたマレー・中国の折衷料理とは違って、ほんもののマレーシア料理をだす。 Nasi Lemakを、ぼくはいつも食べる。 海峡をこえたピクトンはただフェリーが出るだけの町で、あんまりおもしろみがない。 きみが、ステーキパイを食べてみた、というのでモニに、「あの日本のひとステーキパイ食べてみたんだって」とゆったら、「おいしかったって?」と訊く。 ツイッタをたしかめて、なんとも書いてないな、というとモニが大笑いして、 「それは絶対不味くて閉口したんだぞ、ガメ」という。 驚く、わし。 モニは、ずっとステーキパイを不味いと思ってたのか? … Continue reading

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SLAPPs

1 食品・種苗各社があれほど怖れられているのは、そのアグレッシブな訴訟戦略のせいである。大きい会社になるとだいたい40人程度の法律部隊をもっていて、自分達の前にたちはだかる相手は一介の中小農場主から企業、有名な論客に至るまで、すべて訴訟の対象にしてきた。 http://tmroe.com/blog/monsanto-and-genetically-engineered-foods-a-study-in-intellectual-property-and-morality-part-3 世界を最も驚かせたのは「世界で最も影響力がある女性」Oprah Winfrey に対する訴訟であって、この訴訟は勝訴をめざしたものではなかった。 単純に相手に訴訟費用を使わせて財政的なダメージと「うんざりさせること」が目的で、実際にオプラ・ウインフリーは訴訟には勝ったものの1ミリオンダラーを失ったと言われている http://www.prwatch.org/prwissues/1997Q2/eat.html SLAPP(Strategic Lawsuits Against Public Participation)と皮肉な名前で呼ばれる、ケースを積み重ねて訴訟側のスキルがあがるにつれて洗練されたものになってきた。 こういう訴訟は、オプラのような有名人に対して 起こされるものは「Don’t mess with us」というメッセージをこめた象徴的なもので、普段は、たとえばGE種苗会社が支配しているトウモロコシ農場の風下にきみの農場があるとすると、ある日、きみの郵便箱に 「あなたのトウモロコシ畑のトウモロコシから弊社の種苗以来のDNAをもつ花粉がみつかりました。これは窃盗罪あるいは当社特許の侵害にあたるので○○○万円の支払い請求をいたします」 という法律家からの手紙がはいっている。 こういうやりかたは殆どの先進国でまったく合法な上に、手続き上の平仄もあわせやすいので、これからも盛んになってゆくだろうと思われる。 世界でいま起きていることは「食品の工業産品化」とでもいうべきもので、いまの食品生産、たとえばトウモロコシの生産を「農業」という言葉で考えると、イメージをつかめないまま終わってしまう。 SLAPPは「マーケティングとしての法律訴訟」という新しい潮流を生み出したが、当たり前というか、以前には農業の世界にはこういう理屈はもちこまれたことはなかった。 日本はアメリカやニュージーランドのような農業産品輸出国にとっては、(多くの場合不可視の形で)たいへん不正な輸入障壁をもっている。不正直なやりかたで、以前チーズを例にだしたが、一見するとそれほどでもない関税にみえるものが現実の関税は(すべて可視の税金に直して計算すると)800%という途方もないものであったりする。 小麦粉に至ってはそもそも民間には自由に輸入する権利がなくて、オカミが独占的に輸入したものを配給してもらって、それを市場に分配している。 歴史にはよくある皮肉で、日本はここまで、この不公正な制度によって遺伝子工学を武器にした種苗会社などから守られてきた。 日本社会の世界に有名な強烈な排他性が良い方に働いてきたのである。 東北震災がきっかけ、ということになっているが、日本は自国の自動車を筆頭とする工業製品の輸出を伸ばすために、従来の排他的政策をここにきて緩めつつある。 どこの国にいても、わしが目撃してきたことは、「どんなに頑張ってもいつかは世界のスタンダードを受け容れざるをえない」という、良い悪いとはまるで関係のない「事実」だった。現実的な政策をつくるのに長けた国民性の国の国民は、「良い悪い」というようなことを政治や外交について述べるひとがいると一種の幼児的白痴として扱う習慣があるが、現実主義は自分達がした政治的判断の結果だけを問う。 そういう見地からは「モンサントはくる」ので、それがいいことかわるいことか論じたり、モンサントの非人道性をあげつらうことにどの程度実効性があるか、判らない。 ただ、いまの日本のナイーブさで、多国籍食品・種苗会社が日本の排他防壁をのりこえてやってくるときには、どんなことが起きるだろう、とときどき考えてみるだけのことである。 2 「地震、雷、火事、おやじ」という表現を学習した外国人は、この表現はなんだかへんだ、と考える。 地震みたいな「恐怖大王」のようなチョーおっかない天災に較べて、残りのラインアップがしょぼすぎるのではなかろーか。 そう考えながら日本に住んでいるうちに、否応なく理解されるのは「日本では地面は揺れるものである」という日本人なら誰でも当たり前だと思っていることである。 現代社会の「おやじ」がぶちむくれてキレる回数よりも多いくらい揺れる。 モニさんはフランスに生まれてニューヨークで暮らしていたので「地面が揺れる」ような訳のわからない国はすでに感覚的に理解の外だった。 地面が揺れて、日本人なら「おっ、ちょっと揺れたね」程度で、ぎゃああああー、ぐわああああー、どひゃああああー、きゃああああー(<-最後のがモニさん)とふたりで家のなかで煙突からおっこちてきたポサムみたいに走り回ってカウチに飛び乗ったりした挙げ句、はあはあはあ、と肩で息をする、ということを繰り返した。 真に怖ろしいものには現実感がないというが、あの津波 https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/03/13/1885/Continue reading

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よいことをする、ということ

1 以前のブログ記事とむずかしい話が増えてきたのでバイバイにしてしまった前のアカウントのツイッタで「盗られちったぜ」と書いた財布が、戻ってきた。 落とした財布がもどってくることは、よくある(わしは財布を落っことすのは名人です)が、盗られた財布が戻ってくる、というのは初めてである。 バーから財布をもっていったひとが、中をみたらあんまりいっぱい現金がはいっていたので、「こんなに現金を盗られたひとは、これでは今月暮らせないのではないか」と考えたものであるらしい。 えらいものを盗んでしまった。 運が悪かったとおもって、こっそり財布を返すに如くはなし。 およそ、そう考えて財布を持ち主(わしのことね)に帰そうと考えたもののようである。 財布に添えられたメモにそう書いてあった(^^) 財布は農家の直販所のドロップボックスにはいっていた。 財布を発見した農家のおばちゃんは、ぶっくらこいたものであるらしい。 どうしよーか、と旦那さんと額をつきあわせて相談した。 免許証に名前が書いてあり、クレジットカード、EFTPOS(ATMカード)にも書いてある。 ニュージーランドでは、というよりも、いまどきの国はどこでもそうだが、免許証も含めて住所が書いてあるものはなにもない。 セキュリティのためです。 住所みたいなマヌケなものが書いてあると強盗がやってきてしまう。 銀行に電話しても、それで本人の電話番号を教えてくれる可能性はあるわけない。 警察もしかり。 ここまで読んで気が付いたとおもうが、この農家のおばちゃんは、(社会の名誉のためにゆっておくとニュージーランドの警察は世界で最もマジメで「クリーン」な警察であるのは統計上もずっと1位であって、国民も不正がない、ということについては信頼しているが)警察や銀行といえど、人間がやっていることなので、あいだにはいる人間が多ければ多いほど現金が抜きとられる可能性が高い、と考えたのである。 スポーツジムやAA、射撃演習場なんかの会員カードもあったが同じ理由でダメであると考えた。 フェース・ブックを使ってさがしてみたが、本人らしい人間はいない。 グーグルでも連合王国に同姓同名の風変わりな人物がいるだけである。 結局目を留めたのはある商店の「会員カード」で、この農家のひとは、その商店が実直なところであるのを知っていて、そこに電話をすることにした。 名前からDBをひいて電話番号を発見した。 まず店から電話がかかってきて本人であることを、確認してから、農場のおばちゃんと連絡することになった。 詳細は省くが、このおばちゃんが相手がほんとうに本人かどうかを同定するために、さりげない調子でおこなった質問は、わしを感心させた。 多分、おばちゃんは賢明に計画と質問を練ったのだと思われる。 おばちゃんは、わしの答えに満足すると、自分の農場の住所を教えて、午後の早い時間はジムにでかけて忙しいから夕方からあとがいいです、と述べて電話を切った。 農場に着いてみると、旦那さんとおばちゃんは、途方もなくよいひとで、涙を浮かべて「よかったですね」とゆってくれる。 わしは財布にはいっていた現金の2割くらいをとりだして、オカネっちゅうのも下品だけど、受け取って下さい、というと旦那とふたりで、絶対、やだ、うけとれません、という。 看板が出ていたのをおもいだして、じゃ、ジャムを買います、と述べると、 そっちは喜んでもってきてくれる。 8ドルのジャムに100ドル札を差し出すと、「そんなおおきなオカネ、お釣りがない」という。 わしが、してやったりとニカっと笑うと、ふたりでふきだして、100ドル札を受け取ってくれたのでした。 旦那さんが、なにがなし安心した様子で納屋仕事にもどったあと、おばちゃんとモニとわしは3人で、近在の公園のこと、オークランド近郊の農業のこと、インターネットのスピード、あるいはオークランドのそこここの店の話というような話をした。 オーストラリアとアメリカに住んでいたことのある人だったので、ふたつの国の話もした。 周到な「財布返却計画」は、どうやら大会社の秘書をやっていたときに身につけたスキルのようでした。 帰りのクルマのなかで、ここのところ、ちょっとうつ病気味であったモニさんが、晴れ晴れとした顔をして 「良い人はいいな、ガメ」という。 うん。いいよね。カッコイイな。 あのひと、頭がいいひとだったな。 … Continue reading

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