海辺で考えたこと

右と左のまんなかは、右、あるいは左の遙か彼方にあるのだ、という考えが欧州にはむかしから存在する。
どことなくフォン・ノイマンを思わせるアリストテレスという人に独特の退屈さへの反撥が、そういう考えを生んだのだと思われる(^^)

この中庸は過激と極端の、そのまた遙かに向こうの激越のなかにこそある、という考えは、魅力的であると、わしも思う。
ただ、そういう一生に足を踏み入れる気持ちが起こらないだけである。

わしは、子供のときでも「何か仕事につかねばならない」ということを考えたことはなかった。
いまでも、職業、という考えはピンとこない。
どうでもいいものだ、と思っている。
朝、起きても考えるのは「今日はなにをして遊ぶか」ということだけで、そういう人間を現代の社会は許さないことになっている。
だから、わしはそもそも存在することだけで「許されざる者」なのである。

冬の海辺を歩いて、なぜカモメには、あれほど個体に大きさの違いがあるのか、とか、個体が体積で倍違うと、体表から失う熱量にはどのくらい違いがあるだろうか、
ハチドリと象を計算してみたときは可笑しかった。
「生命」などと、同じ総称がついているが、ほんとうは大きさが違うだけで、全然別のものである。
小さなもののほうが、意識が稠密で蚊が一週間生きるのと犬が十年生きるのは実は同じことなのではないか。
あっ、でも蚊は痛みをもたないから意識ももたない。
意識が稠密だ、というには少し語弊があるよーだ。

…そーゆーチョーくだらないことを次から次に考えて、浜辺のコーヒー屋でラテを買って、ベンチに座ってこしかけて飲む。

たくさん並んでいるベンチのなかで、選んでいるわけではないのに、だいたいいつも同じベンチに腰掛ける。
だから、わしは、振り向かなくても、これは日本人のサカグチさんという1996年に死んだ人が寄贈したものであることを知っている。

日本に生まれて、一万キロ離れたニュージーランドにやってきて死んだ、日本人の男が寄付したベンチに座って、凪の海をみながら、ラテを飲んでいる。
だから、どうだ、ということはない。
ただ、中庸が右と左のあいだには存在していない、というだけのことである。

最期弁当、というひとの言う事をこの頃、ときどき読む。
ときどき、というのは嘘で、ほとんど毎日みているよーだ。
最期弁当って、誰だ?という人がいるだろうが、別にだれのことか判らなくてもいい。

そのひとが書くものは、政治についてのものが多いが、それは読んでもほとんど頭に入らない。書き方が悪い、とか、考えが違いすぎる、というのではなくて、わしの側の問題で、政治、特に最期弁当というひとがよく触れる日本の政治に興味がないので、なんだか砂でつくった塔が壊れてゆくように、読むそばから文章が壊れて、そもそもセンテンスとして頭のなかにはいってこないからである。
それでも飽きずに書いたものを読んでいる。
なにかがあるのがわかっているからだと思います。

いつか、この最期弁当という人が「私には神の前に立っている感覚がある」というので、見入ってしまった。
じっと、長い時間、twitterに書かれた文を眺めていた。
わしは、酷い引っ込み思案なので、なんどか書いてみては消したが、どうしても訊いてみたかったので、その「神」は、ちょうど教会の十字架がかかっているように前のななめ上方にあるのか、それとも後ろから見守っている感じなのか、視界のすみの遠くから見下ろして見守ってくれている感じか、あるいは(ちょっと具体的な感覚を想像するのが難しかったが)同じ地平に立っている感じなのか、どんな感じか訊いた。
もちろん、他人になにかを訊く、ということがチョーへたくそなわしのことなので、そんなにちゃんと質問したわけではない。
しかし最期弁当という、このひとは聡明なひとであるのが判っていたので、テキトーに訊いても、ちゃんと判ってくれるだろうとタカをくくって訊いた。
むかし「吃音」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/06/03/吃音/
という記事を書いたが、このひとは吃音でもひろって聴けるひとなのでもある。

答えは意想外のもので、目の前、ちょうど朝の洗面所の鏡をみるように、神はそこに立っている、というのである。

ぶっくらこいてしまって、ひきつけを起こしそうだったが、これだから他人に話しかけるのはやめられないのだ、と考えた。
鏡の前。
そーか、そーゆーことがあるんだな、と考えていたら、急に涙がでてきて、止まらなくなって困ってしまった。
最期弁当というひとが50代であることを思い出したからでもある。
そして、もちろん、やはり、このひとにとっても、右と左のまんなかに中庸はなくて、遙かな彼方にしかなかったことを悟ったからでもある。

人間の一生は、それほどたいへんではない、ということにわしが生まれて育った家ではなっている。
起きてから寝るまでの一日一日にやらねばならないことを、朝、ちゃんと思い出して、やらなければならないことを、くだらない理屈をつけて give upしなければいいだけのことである、という。
人間の一生はいちいち執拗なまでに具体的なものであって、人間の観念などが介入する余地はほとんどないのだ、と教わって育つ。
義務、ということも教わるが、それは社会生活に属することで、ひどい言い方をすればテーブルマナーと同じで、また別の次元に属することである。

だから、あの退屈な、誤謬にみちた思索に浸ってばかりいたマケドニア人が述べたように中庸は右と左のあいだにあるのでなければならないが、人間の魂は中庸を遙か彼方の虚空にもとめて、あるいは破滅し、あるいは一瞬の激しい光芒を放って燃え尽きる。
言い方を変えれば、意志の弱いひとたちの問題を別にすれば、魂だけが人間の一生を阻害する要因だが、困ったことに人間には魂が宿ってしまっている。

だからサカグチさんは一万キロを離れた土地の6フィートの地下に眠り、最期弁当というひとは鏡をのぞきこむ近さで神と対峙する。

手に負えない、という感じがします。

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