SLAPPs

食品・種苗各社があれほど怖れられているのは、そのアグレッシブな訴訟戦略のせいである。大きい会社になるとだいたい40人程度の法律部隊をもっていて、自分達の前にたちはだかる相手は一介の中小農場主から企業、有名な論客に至るまで、すべて訴訟の対象にしてきた。
http://tmroe.com/blog/monsanto-and-genetically-engineered-foods-a-study-in-intellectual-property-and-morality-part-3
世界を最も驚かせたのは「世界で最も影響力がある女性」Oprah Winfrey に対する訴訟であって、この訴訟は勝訴をめざしたものではなかった。
単純に相手に訴訟費用を使わせて財政的なダメージと「うんざりさせること」が目的で、実際にオプラ・ウインフリーは訴訟には勝ったものの1ミリオンダラーを失ったと言われている
http://www.prwatch.org/prwissues/1997Q2/eat.html

SLAPP(Strategic Lawsuits Against Public Participation)と皮肉な名前で呼ばれる、ケースを積み重ねて訴訟側のスキルがあがるにつれて洗練されたものになってきた。
こういう訴訟は、オプラのような有名人に対して 起こされるものは「Don’t mess with us」というメッセージをこめた象徴的なもので、普段は、たとえばGE種苗会社が支配しているトウモロコシ農場の風下にきみの農場があるとすると、ある日、きみの郵便箱に
「あなたのトウモロコシ畑のトウモロコシから弊社の種苗以来のDNAをもつ花粉がみつかりました。これは窃盗罪あるいは当社特許の侵害にあたるので○○○万円の支払い請求をいたします」
という法律家からの手紙がはいっている。

こういうやりかたは殆どの先進国でまったく合法な上に、手続き上の平仄もあわせやすいので、これからも盛んになってゆくだろうと思われる。

世界でいま起きていることは「食品の工業産品化」とでもいうべきもので、いまの食品生産、たとえばトウモロコシの生産を「農業」という言葉で考えると、イメージをつかめないまま終わってしまう。

SLAPPは「マーケティングとしての法律訴訟」という新しい潮流を生み出したが、当たり前というか、以前には農業の世界にはこういう理屈はもちこまれたことはなかった。

日本はアメリカやニュージーランドのような農業産品輸出国にとっては、(多くの場合不可視の形で)たいへん不正な輸入障壁をもっている。不正直なやりかたで、以前チーズを例にだしたが、一見するとそれほどでもない関税にみえるものが現実の関税は(すべて可視の税金に直して計算すると)800%という途方もないものであったりする。
小麦粉に至ってはそもそも民間には自由に輸入する権利がなくて、オカミが独占的に輸入したものを配給してもらって、それを市場に分配している。
歴史にはよくある皮肉で、日本はここまで、この不公正な制度によって遺伝子工学を武器にした種苗会社などから守られてきた。
日本社会の世界に有名な強烈な排他性が良い方に働いてきたのである。

東北震災がきっかけ、ということになっているが、日本は自国の自動車を筆頭とする工業製品の輸出を伸ばすために、従来の排他的政策をここにきて緩めつつある。

どこの国にいても、わしが目撃してきたことは、「どんなに頑張ってもいつかは世界のスタンダードを受け容れざるをえない」という、良い悪いとはまるで関係のない「事実」だった。現実的な政策をつくるのに長けた国民性の国の国民は、「良い悪い」というようなことを政治や外交について述べるひとがいると一種の幼児的白痴として扱う習慣があるが、現実主義は自分達がした政治的判断の結果だけを問う。
そういう見地からは「モンサントはくる」ので、それがいいことかわるいことか論じたり、モンサントの非人道性をあげつらうことにどの程度実効性があるか、判らない。
ただ、いまの日本のナイーブさで、多国籍食品・種苗会社が日本の排他防壁をのりこえてやってくるときには、どんなことが起きるだろう、とときどき考えてみるだけのことである。

「地震、雷、火事、おやじ」という表現を学習した外国人は、この表現はなんだかへんだ、と考える。
地震みたいな「恐怖大王」のようなチョーおっかない天災に較べて、残りのラインアップがしょぼすぎるのではなかろーか。

そう考えながら日本に住んでいるうちに、否応なく理解されるのは「日本では地面は揺れるものである」という日本人なら誰でも当たり前だと思っていることである。
現代社会の「おやじ」がぶちむくれてキレる回数よりも多いくらい揺れる。

モニさんはフランスに生まれてニューヨークで暮らしていたので「地面が揺れる」ような訳のわからない国はすでに感覚的に理解の外だった。
地面が揺れて、日本人なら「おっ、ちょっと揺れたね」程度で、ぎゃああああー、ぐわああああー、どひゃああああー、きゃああああー(<-最後のがモニさん)とふたりで家のなかで煙突からおっこちてきたポサムみたいに走り回ってカウチに飛び乗ったりした挙げ句、はあはあはあ、と肩で息をする、ということを繰り返した。

真に怖ろしいものには現実感がないというが、あの津波
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/03/13/1885/
以来、ときどき日本の地震について調べてみると、なんだか気が遠くなる。
要するに日本という国は太平洋のプレート群が押し寄せる、その終点に横たわっているので、まるで地震量産所のような場所に位置している。

仮に科学者たちが述べていることを信じるとすると、向こう40年間には巨大地震がいくつか起こることになる。
日本列島の地図を広げてみると、地震が起きそうだ言われているところで人口が過密でないのは東北海道くらいで、残りは福島は問題にならない人口密集地である。

いまはもしかすると韓国にぬかれているかもしれないが、わしが大学にいた10年近い以前は日本は原油の精製余力が世界一だった。
目をみはる先進的な技術のせいで精製コストも世界でいちばん低かったのをおぼえている。
日本のエネルギーコストの低さは伝統的に日本の産業界の大きな競争力のひとつだったのである。

日本の産業界には歴史的な「エネルギーコンプレックス」があるので、政府が原子炉を停止したままにしておく、という事態はちょっと考えられない。
国民がいくら反対しても、再稼働する原子炉の数はだんだん増えてゆくだろう。
原子炉の再稼働をやめさせる方法は他の国を見渡しても「グリーン党」のようなものをつくって、その党勢を伸ばす以外には方法がないが、日本ではながいあいだ選挙はほぼ機能を停止している。

表だって口には出さないものの外国政府および産業界が呆れ果てているのは、「あれだけの凄まじい事故を起こしたのに誰も責任をとらない」ことだと思うが、マンガ的というか、歴史に類をみないバカバカしさというか、メルトダウンを起こしておいて誰ひとり鉄格子のむこうに行かないのだから、やっぱり日本のような国を信用するととんでもないことになる、とあちこちの国の「日本を信用すると破滅する」という信念を原子力産業においても再確認することになった。

日本が原子力発電をどうしても捨てるわけにはいかない理由のひとつは、「次世代原子力発電」のプラント輸出がアメリカの主要な産業戦略になっているのに倣って日本もビジネスチャンスを逃したくないからで、そのためには、いまの出来がわるい原子力発電システムにおいても最低でも継続はしていかねばならない。
しかし自国の原子力発電所がぶっとんでも誰も責任をとらないのに、輸出先の原子力発電所の事故に日本人の誰かが責任をもってくれる、というのは信じるひとはいないだろう。
いまごろはベトナム人もトルコ人も頭を抱えているに違いない。

義理叔父と酔っ払って話していて「日本の教育は、で、結局どうすればいいと思ってるんですか?」と訊くと「大学入試は日本語と英語と微分方程式の試験だけでいいよ」とランボーなことをいう。あっ、英語はTOEFLかIELTSでいいんだけど、といいます。
たとえ文系でも微分もわからんやつに大学なんかいかせてもしょーがないから、そーゆーひとは外国の大学に行ってもらえばいいのさ。
あとは日本人の日本語を読み書きする能力は史上最低といいたいくらい落ちているが、こっちはおれには良い知恵がない。

日本は競争と学問がそのまま密接に関連するシステムをつくってしまったので、18歳の人口減少がそのまままっすぐ学力の低下に結びついた、という面白い経緯を有する。大学の教養で教えているおじさんたちも口を揃えて同じことをゆーよーである。
初めの学力の劇的な低下は30年くらい前にあった。
その次は25年前…と数える年次が、わしが知っているかぎりのひとがいうことに符節があっている。

日本語に関してもインターネットで見ていると、ひとつの文を構造を頭のメモリに保持したまま読めるひとは少数派で、当然の結果として「愛国」「極東」というような字面にひきづられて現にそこに書かれている文と正反対の意味にとってしまう人もたくさんいる。
自分のこのブログ記事を考えても、ほめてくれている人が「長文だが」と書いていて、ずるっこけそーになることもある。感覚的にいって日本のひとが「長文」と感じるのは英語人の十分の一程度の長さであるよーだ。

微分のことは微分でせよ、と言うが、いまは微分を知らずに金融をあつかうことはできない。数学的手法を用いて被害や利益の「範囲」を予測するには参加者全員が微分方程式を理解できていないと困るからです。
微分あるいは思想としての微分は現代の根底をなしている世界に対する理解の方法で、これがわからないひとに世界を説明するのはペンギンに空を飛ぶ方法を教えるのと同じくたい難しいよーである。

バルセロナのサグラダファミリアが見えるアパートの部屋で、風邪をぶちこいてしまって、ほかにやれることがないので、スペイン名物の巨大白アスパラを食べながら東京大学の入試問題を解いてみたことがあった
https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/03/09/東京大学入試問題を解いて考えたこと/
が、そのときの感想は、「別につめこみやないやんね」ということだった。
記事を読んだことがあるひとは「だって、ガメ、数学しかやってないじゃん」と言うかもしれないが、だいたいコショクソーゼンとしてカビカビな大学というものは、あたかも中世のむかしから洞窟に眠るドラゴンのごとく「歴史性」とか「でんとー」とかをまとっているものであって、一科目みれば、その大学の選別思想などはだいたいわかってしまう。

東京大学の場合は「考える力をみよう」という姿勢がはっきりしている。
問題は、考える力をみるには、たかだか一科目2時間半の試験はいかにも不向きなことで、案の定、調べて見ると「α会」以来日比谷高校、開成高校、予備校と「定石と組み合わせ」徹底的に訓練することで思考力がない生徒も東京大学の入試問題に「正解」できるシステムを日本の社会はつくってしまった。
選別の時点で「訓練で思考をおきかえる」置換が起きてしまった。

わしは本来この時点で、というのは、1960年代くらいのところで、「とにかくバカでないのは入学させて構内で飼いながら選別してゆく」方法に変えていったほうがよかったと感じるが、なぜか日本はそういう方向に向かわなかった。

日本が明治以来急速に国力を伸ばして、あまつさえ、戦争で石器時代にいちど戻されるような目にあいながら、次の20年間で神様でも腰をぬかしそうな復興を遂げた理由のひとつは、「中等教育の質の高さ」でした。
ここでいう「質の高さ」は、インターネットでよく自画自賛されているような「漢字が読める」「ほとんどの人間が英語になじみがある」というようなことを必ずしもゆっているわけではなくて、わしの場合で言えば神保町の古本屋でまとめて買った「インターフェース」という雑誌の、どう表現すればいいか、「なんだ、これは」というような程度の高さにあります。

わしは40年前に出版された「インターフェース」を4、5号読んで、そのすさまじい程度の高さに涙ぐんでしまった。
大学に行くチャンスに恵まれず、会社に就職して、それでもどうしても科学技術への熱望が捨てられなくて、あの大学生くらいでは到底理解できない記事を夜の寝床で、計算機を片手に、文字通り「歯をくいしばって」勉強する若い男の姿が容易に想像できたからでした。

日本は、そういう人間たちに支えられてきた。
わしの知ってる限り、70年代の日本の大学生の学力は、すでに到底ほかの国の大学生に較べて見劣りのするものだった。
どちらかといえば、「高卒の研究者たち」が日本の産業を支えてきたのだと、わしは思っている。

しかし、いまの世界の産業が要求するレベルは「インターフェース」でついていけるような性質のものではなくなってしまった、という問題がある。
尖端的な突出した知性が必要なので「偏差値65」の秀才なんぞ何万人いても(産業の側からみれば)(言い方が酷いが)ゴミと一緒、だと思います。

日本の教育システムは尖端的な知性をうみだすことと底辺に知的な光の暖かさを教えることの両方に失敗して、無意味な「カシコイ人間」の量産ばかりやっている。
その結果は、自分では頭がよいつもりの生産性は限りなくゼロに近い人間が大量に発生して、なんのことはない主流層ごと社会のお荷物になる、という冗談のような事態が日本という国では起きている。

日本語の地方語化の問題、富の再配分の問題、地方の荒野化、ほかにもいろいろ問題はあるに決まっているが、日本がもうすぐ、もう数年、という目と鼻の先の未来において直面しそうな問題をいくつか拾ってみたつもりです。

わしは、日本語という言葉が好きなせいだと思うが、なんだかんだゆって日本は、
世界中の人間が日本人には見えないところでコソコソと話しているよーには日本人は破滅してゆかないのではないかと思っている。
合理的な理由はなにもないので、誰かに難詰されると
「理由なんてねーよ」としか答えられないが、難しいことをいうと真実に理由なんかあったためしはないので理由がつけられてもつけられなくてもどーでもいいのよ、という気もします。

日本社会最大最悪の問題は社会の根深いところからくる集団サディズムだが、きっとこの問題はアマゾンから入手した内藤朝雄の本をもういっかい読んでから学校の問題もからめて話をするために戻ってくると思います。

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