カレーと偏見

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偏見の話をしようと思う。

中国人と日本人がふたり並んでいて、どちらを信用するか、と言われれば10人の英語人のうち10人が「日本人」と答えるだろう。
では中国人と日本人がお互いを嘘つきだと罵りあっているときに英語人がどちらを信じるかと言えば、中国人のほうだと思います。

矛盾しているではないか。
矛盾していますね。
でも、事実においてそーである。
日本人や中国人のことをよくしっている、たとえば特派員、というような世界においては常識と化している。あるいはアメリカ、豪州やNZに住んでいる中国人や日本人に対するイメージは、そーゆーものである。

日本人の議論には特徴があって理屈のうわっつらだけを眺めていると、いかにもほんとうらしくみえるが、仔細に見てみると初めに「相手や出来事に対する感情」があり、それに由来する「事実がこうでないと困る」という気持ちがあって、すべてはそのすでに存在する結論を真実らしくみせるために構築される。

南京虐殺、などがよい例で、話の経緯をしる英語人の一般的な意見は、「中国人の数はオーバーなんだろーが『虐殺がなかった』と主張している日本人のほうは、とんでもないウソつきだ」というところに落ち着くと思います。
自分達が最後にもった軍隊が、集団強姦を働いたり中国人を虐殺したりした、というのは日本人にとってはたいへんなembarrassmentなので、あんなことを言っているのだな、と思っている。
日本のひとは恥ずかしさのあまり、全部なかった、ということにしたいに違いない…だいたい、どの本にも、そう説明されている。

日本の人の意図とは異なって「南京虐殺を巡る論争」は日本人の議論には信頼性など微塵もないことを世界に向かって宣伝してしまった。
自爆、というか、あれ以後は中国のひとびとにとっては、尖閣諸島でもなんでも、日本のほうが正しいんちゃうの?という英語人に会った場合には「南京虐殺の議論を見てみい」という、ただそれだけのひとことですむことになってしまった。
日本人は相手を攻撃するときに巧緻に嘘を組み立てることが上手なのは、あれを見れば判る。そういう民族の議論にも真実が有る、と思うきみはナイーブすぎるのではないか。

言うまでもなく、こういう展開は南京虐殺にとどまらず、日本人全体の言語信頼性に関わることで、わしの立っているところから眺めると、長期的には日本人という民族にとって致命的なダメージを与えてしまっている。
日本人の議論には初めに結論があって、日本人は、その初めから決めてかかっている結論をほんとうらしくみせる詭弁の達人である、という現代日本人の「定評」は、多分永遠にはがれないラベルとなって日本人がいくところにはどこにでもついていくだろうと思います。

ついでに余計なことを述べておくと、では、もともと英語人が南京虐殺をどう思っていたのかというと、それは「だって戦争だからなあー」という感想と思う。
そんなこと言っている人は誰もいなかったぞ、と日本のひとならば言いそうな人がいそうな気がするが、それは当たり前で、中国人に対しても日本人に対しても、考えてみれば、それは述べてはならない感想で、英語人同士でもあまり知らない相手では口にだしてはいいにくい。
しかし英語という言語はあきれるくらい現実主義的な常識に圧倒的に依存している言語なので、「戦争のときって普段の人間とまったく異なってるのはあたりまえじゃん」と一も二もなく思っている。
それとも、きみは、「戦争は絶対に起こしてはならない」というのは、人が死ぬから、殺し合いはいけないから、とかっちゅうマヌケな理由だとでも思っていたのかね?

だから日本の人が訳のわからん英語でやってきて、「イギリス人だっていっぱい虐殺してるではないか」「アメリカ人だって日本兵をいじめたではないか」「コソボでだって、やってるじゃないか」日本人だけではないのだぞ、と言いに来ると、そのあまりの頭の悪さ(ごみん)と問題のとらえかたのセンスのなさに、うんざりしてしまう。
いまはIPバンをかけて東アジアからのアクセスは遮断してると思うが、むかしは、「日本のひと」がくると、一挙に議論の雰囲気が消滅して、荒涼とした攻撃的冷笑的な言語が支配したものだったのをおぼえている。

このブログ記事を書き始めた頃は、社会実験、というか、従兄弟や義理叔父が「こうやってみたらどうか?」「こう書いたら日本の社会の反応がわかりやすいんじゃねーの?」というのでいろいろと実験をした。その実験をそもそも考えついたのは誰で有るかはいわないが、2010年には「ガメ、十分資料があつまったから、もうやめていいぞ」と言い出した。だからほんとうはこのブログ記事の「役目」はそこで終わっているのです。
このそもそも「ちょっとガメひとっぱしり日本語書いてこい」と言い出したひとは炯眼、というか洞察力がありあまっているひとだが、ブログ記事の結果をまとめて、どう思いますか?と訊くと、「日本は、たとえば原発事故のような事故によって滅びるだろう」という、いまから考えると驚くべきことを述べた。
あんまり驚いたので、閉めたブログ記事の表紙のページに、同じことを書いておいたのでおぼえているひともいるはずである。
「でも、事故が起きたら、日本人はアメリカ人なんかよりも迅速に対応して地域を封鎖するのではないでしょうか?」と言うわしに向かって、そのひとは、にっこり笑うと、
「きみが集めた資料によると、日本人は放射能はそれほど危なくない。事故はあったかもしれないが、たいしたものではなかった、といって、逆に対策を立てないで放置するほうを選ぶということになる」という。
そんなバカな、と思ったが、相手はわしが尊敬しているひとなので、何か反論する、というわけにはいかなかった。

そのひとはチェルノブルで起きたさまざまな隠蔽も詳細に説明してくれたが、でもそれはソビエトロシアの体制から生まれたことではないでしょうか、というと、日本には日本の問題があるからね、というような意味のことを言った。

そのときは聞き流してしまったが、あのひとは、いま日本で起きていること、もっといってしまえば、これから起きるであろうことも詳細に知っていたに違いない、と思います。

なんだか他人のブログを肴にするようで気が引けるが、最終弁当さんが、「バターチキン」のことを書いている。
最終弁当さん、というような書き方をしないで、誰のことなのかはっきり言ってくれよ、という人がいるのはわかっているが、あんまりそう他人とべったりするのは好みでない、ということがあるので、判る人が「あー、あのひとのことですね」と判る程度のほうが、わしの好みです。

バターチキン、というのはたとえば、今日はみんなで対スリランカのクリケットマッチをみるべ、というようなときに、では何を食べるかというとインディアンテイクアウェイが手頃でよいであろう、ということになったとする。
ほんじゃ、わし、Chicken Jalfrezi。 おれは、Tikka Saagwala、わたしは、Saag Goshとゆってめいめい注文するときに、ひとりだけインド料理が苦手なスパイスはようわからんし、辛いのは苦手だからなー、というやつが、じゃ、Butter Chickenにするわ、というと、みながドッと笑って、でたあー、バタ・チキン、おまえってほんとうにレッドネックだよなあ、どうしようもないやつ、と冷やかされたりする、という性格のメニューである。
「インド料理が食べられないひとが頼むカレー」というべきか。
しかし一方でインド料理屋のおばちゃんにこっそり訊いてみると、バタチキンはいまでもオークランドでは最も注文が多いカレーだそーである(^^)

最終弁当という人は、佐藤○紀という爆弾みたいなおばちゃんもそうだったが、本質的に誠実な人で、どうも自分には「ほんとうのこと」をいう義務があるのではないか、と信じてしまっているひとである。
わしが大好きな内藤朝雄も同じだが、なんだかみていると「ほんとうのこと」ばかり言っていて、ダイジョーブなんでしょうか、と思ってしまう。
「ほんとうのこと」には身長が155センチの男のひとに「あなたは身長が低い方ですね」とやむをえず述べる事態も必然的に含まれるわけで、人間がとる態度としてたいへん(本人にとっての)危険が多い思います。

「ほんとうのこと」を言う人はみんなそうだが、対象がやってくると、懸命にそれについて考え、本質はなんなのであろうと考え、この文献にはこう書いてあるが、どうもピンとこないな、真相はこうだな、と一歩一歩分析してゆく。

「にんにく、しょうがで下味をつけた鶏肉を、じっくり炒めた玉葱とアーモンドのまろやかな味わいのカレーで楽しむ、英国式のバターチキンカレー」と誰かの本に書いてあるのを読んで、これはバターチキンではないのではないか、チキンティカマサラなんじゃない?というふうに、分析の切れ味も鋭く真相にせまってゆく。

読んでいて、わしは明治時代以来、日本のひとはこうやって西洋の事物を分析し解体し再構成して、(数学でいう)「たしからしいこと」だけに整理していって、日本の世界にとりこんで来たのだなあ、と感銘をうけてしまった。
「重力」ってなんだ?「秘蹟」って、どういうことだ?
「憲法って、どういうものなのだろうか」
民主主義とは何か?
日本のひとは、きっと最終弁当さんがバタチキンを解析総合して概念として精製していったように「西洋」を精製してきたのであって、これからは、まあ、あっさり「誤訳された文化」とかゆっちゃわりーな、と考えた。

この最終弁当さんがいままでに書いてきたものを、オダキン(最近になってネットでしりあった、わしの風変わりなお友達でごんす)の紹介以来、ときどきカウチでころころしながら読むと、例の「おれはおまえよりもものを知っている」人があらわれて、そーゆーまるで英語人のようなことを述べたがるアンポンタンに「ほんとうは英語がわかってないくせに英語の解説をするなんてえらそーに」とかゆわれていて、でたあー、と思って喉にベジチップがつかえてむせたりするが、真実は、このひとはたいへん英語ができるひとです。言語能力に対して「できる」というのはいかにもヘンだが、日本語ではこういう場合、他の言葉がないよーだ。
だからほんとうは、とらちゃん(このひとも、わしの、女のひとだけど横井庄一に顔がそっくりになってしまった、ネット上で知り合った友達である。)が述べていたChicken Tikka Masalaをめぐる事情のようなことも、知っていてわざととぼけているのだろうと思量する。

でも、まあ、向こうは判っていても、わしら(きみとぼくのことね)のほうが感じをつかむために手元にころがっている、ニュージーランドではオークランドでいえば何十軒もある、ふつーのインド料理屋のメニューから説明書きを抜き出すと、

Tikka Masalaは
「Chicken tikka cooked with shredded capsicum, tomato and thick onion sauce」となっていて、
Butter Chickenは、
「Chicken tikka cooked in exotic, spicy creamy tomato flavoured sauce」ということになっている。

このChicken tikka が広東料理で言えば焼き豚みたいなもんっちゅうか、自分の家でつくるのがチョーめんどくさいのに味の大黒柱をなしているところが「ミソ」で、インド料理は外のゴージャスインド料理屋で食べるか、テイクアウェイでとるか、という選択しかないことの理由のひとつになっている。
タンドリがないと、うまくつくれないのです。

最終弁当さんが述べているように、バタチキンは上の
「creamy tomato flavoured sauce」が定義であると感じられる。
実際に注文している人をみると、「食べやすいように、もっとクリームどっちゃりいれてね」というおっちゃんなども散見されるので、バタチキンが英語圏のメニューからなかなか放逐されないのは、この「クリーム」におおきな理由があるのだと思われる。

インド人の料理人のおっさんたちを観察していると、自分が店をひらいた土地の嗜好を考えて、地元の人に食べてもらったりしながら味を変えて材料を変えて、だんだん「うけそうな」料理をつくってゆく。
そのうち、うけたものを鍋のなかにじっと見つめて、「これはなにかなあああー?」と考えて、トマトとオニオンが主体だからTikka Masalaだよね、これ、と名付けたり、
ほうれん草おろしたソースだからSaagwaraだんびな、とか、そーゆー調子で命名をおこなっているもののよーである。

ケララ料理などはレシピが厳格なので、こういう現実主義は通用しないが、ケララ人には「どおっこの世界に、醤油味スープのちゃんぽんがあっとねー!こげんことが、ゆるされっかー!」とゆって激昂するナガサキ人みたいな人が多いので、そーゆー理由もあるのかもしれません。

日本では「これはほんとうのTikka Masalaとはいえない」というような訓詁的な議論がおおいが、とうのインド人のほうはチョーええかげんで、どのくらいええかげんかしりたければ、インド人たちがいっぱいいる、オークランドならサンドリンガムやマウントロスキルにある、地元人に人気のインド料理屋に行ってみるがよい。

人気のあるメニューをちょっと並べてみると、
Chicken Manchurian Cihcken American Chopsuey Fish Manchurian
とゆーよーなのが並んでいて、
特にこの Manchurian(満州風)というのが北インド人たちのお気に入りなのです。

クミン、ターメリック、コリアンダーにヨーグルトやなんかがつきものの、この「インド風中華料理」はおいしいのでわしも好きだが、ときどき中国人の友達を(インド人と中国人のあいだの政治・社会問題についての会話を観察したいという下心で)つれてゆくと、
顔をひきつらせながら微笑して、「中国にはない、珍味ですね。感心します」とかゆって、必死、かろうじて礼儀正しくしておる(^^)

「江戸前の照り焼きチキン・アボカド巻」を渡された日本人の心境なのでしょう。

日本のカレーは、連合王国海軍水兵食由来だというが、当の連合王国には80年代くらいからインド料理が普及しはじめたのに比して、明治時代の終わりにはすでにメニューとして定着していた。たとえば日本橋の「たいめいけん」のカレーはその頃のもので、それよりも「凝った」カレーは、新宿中村屋の主人に日本を根拠地に連合王国からの独立を画策していたインドの英雄チャンドラ・ボース 
http://en.wikipedia.org/wiki/Subhas_Chandra_Bose
がレシピを伝えたのが元だという。

マジなインド料理屋で食べたインド料理のなかで最も日本のカレー乃至欧風カレーに味が似ていたのは、チキンティカマサラであるよりもKnightsbridgeのアマヤ 
http://www.urbanpath.com/london/indian/amaya.htm
で食べたラムの腎臓を細かく切ったのを隠し味にいれたカレーだった。
いまみるとメニューにはそう書いてないが、ウエイターは「カレー・ポリッジ」と呼んでいたのをおぼえている。

麹町の「アジャンタ」はインド式のカレーということになっているが、たとえば「ライス」だけは、とうの昔から「お客さんの強い希望」で日本のジャポニカ米に変えている。
「ライス」と「ご飯」を洋食か和食かでつかいわける、日本人の「ご飯」にかける執念に似た愛着を知っていたからでしょう。

日本人固有の食べ物概念として「主食」「おかず」という風変わりな考えがあるが、おもえばカレーライスは、そういう概念の図式からちょっとだけピンボケで、カレーらしいというか、少しだけ外国風な日本食であるところが面白い。

最終弁当さんのバターチキンの話を何度か読み返しながら、日本のひとが歩いてきた遠い道のりのことを考えて、なんだか、ぼんやりした気持ちになった午後でした。

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2 Responses to カレーと偏見

  1. AK says:

    久しぶりにコメントさせていただきます。

    (1)南京で虐殺をしたつもりはなかった(あるいは虐殺はなかった)。
    (2)英米列強も多くの虐殺を行ってきたではないか。

    (1)(2)を同時に主張することが、日本語圏世界では矛盾しないようだ、という分析でしょうか。
    確かに日本語はプロパガンダに向いてない言語かもしれません。プロパガンダならせめて表面的な論理の整合性は保たねば。

    (1)近代日本国は国づくりの過程で欧米列強の政策に倣い、南京での不幸な虐殺事件もこの過程で必然的に発生した。
    (2)南京での犠牲者の正確な人数は不明だが、最悪のシナリオでは欧米列強のもとで発生した虐殺事件と変わらない犠牲者数であったかもしれない。

    しかし最大の問題は、このようなプロパガンダを英米に向けても、意味があるのかということですね。
    英語圏が求めているものは「議論」なのかもしれませんが、日本語圏世界は「問答無用」なのですから(5.15事件の青年将校ではないが)。

    • 意外にもAK版の(1)かつ(2)なら英語人は普通に聞くのだよね。その場合顔をしかめるひとがいるとしたら、それは「いまさら、そんなことを言い出すことの生産性はどこにあるのか?」だと思うが、それは実はそのまま中国の「歴史問題」への姿勢を直撃する。AKさんの視点あるいは「落ち着き」がある種の日本人には欠けている。ということになると思います

コメントをここに書いてね書いてね

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