セキシたち

近代日本はもともと天皇ひとりのために存在する国としてデザインされた。
日本の歴史を学習するひとは誰でも、その不思議なシステムが登場する明治時代にさしかかると、そこで手を休めて、ため息をつくことになる。
自分で読んでいるものが信じられないような気がするからです。

中国の王朝は最後の王朝清に至るまで国家、というよりも中国人の主観によれば宇宙全体が「皇帝」という一個の人間の私有物にすぎなかった。
宮殿の奥深くに住む奇妙な形に萎えた足をした美人から北京の町の埃が舞い上がる繁華街の路傍にある一個の石ころに至るまで、この「宇宙」に存在するものはことごとく皇帝個人の持ち物だった。

少し似ているようでもあれば、まったく異なるようでもある。

明治時代、徳川家から政治権力を簒奪した薩摩・長州・土佐のひとびとは、すでに鳥羽伏見の戦いで日本人の心のなかに隠れ住んでいた「天皇への畏敬」に気が付いていた。
なにしろ精強に戦う優勢な幕軍に遭遇しても玉松操がでっちあげた「錦の御旗」を掲げてみせれば、さっきまで自分達こそ正義だと確信して必死の形相で戦っていた幕府の強者が、そういう言い方をしてしまえばパチンコ屋の新装開店の花輪とたいして変わらない由来の「錦の御旗」をみて、あれよあれよというまに逃げ散ってしまう。
薩人たちが味をしめたのは、当然だと思います。

いざ政府をつくってみたものの困ったことに新政府には「信用」というものがまるでなかった。当時の日本人は、「官軍」の正体が、もともとは無学なテロリストや身分の低い半侍たちの集まりで、その「正義」なるものは、ただ自分達が驕奢に耽り田舎者らしい富貴を貪欲に追及し金で頬をはたいて美しい女と夜をすごすための口実にすぎないことをよく知っていた。
訓練された兵と最新式の兵器という自分達に数層倍の究極の「暴力」を携えて清の大陸に蹲っている欧州人たちの冷笑はまだしも、自分達自身の国民からも、まるで信用がなかった。

はっきり意識していたかどうかは判らないが、出来上がったばかりの安普請の政府の首脳たちが「錦の御旗」の甘い記憶をおもいおこして、「どうだろう、西洋の教会のかわりに天皇をでっちあげてしまえば、そうして国民の顔を全部そっちに向かせてしまえば、なんとか国がまとまるのではないだろうか」と誰かが考えたと思うのは自然な推測だと思います。

虎屋という和菓子屋が皇居の畔の一等地に立っていることには黒川の家に伝わる家伝があって、江戸時代、世間に顧みられることがなくなって困窮を極めた天皇家のひとびとの生活をみるにみかねて、当主が多めにつくった菓子を抱えて塀の外に立っては、「やあ、今日は菓子をつくりすぎてしもうた。とっておいても腐るだけであるから、この大きな家の庭に捨てさせてもらうことにしよう」と呼ばわって菓子を塀越しに放り投げると、天皇家からはひとがわらわらと飛び出してきて菓子を拾って食べた、という。
虎屋はそのころ天皇家を支えた功で明治維新のときに、1869年、初めは神田に土地をもらって東京にやってくる。

明治時代の為政者が考えた手品は、真に驚くべき手品で、日本の支配層の権威の二重性の靄に隠れた遠い彼方で、微かな信仰のような気持ち、ある種のおぼろげな畏敬の記憶の向こうに気息奄々としていた「天皇」という伝統を政治表にひきだして、西洋における「神」の代役をやらせることにした。
のみならず、日本という近代国家そのものが天皇ひとりのために存在する、といういかにも日本人好みの、「崇高なもののために死ぬ」体制をほんの数年で築きあげたのでした。

日本人には絶対的な善悪の彼岸はなくて、ただ行動の美醜のみがある、といろいろなひとが述べているが、この「天皇のために自分達すべての存在の意味がある」という、明治の為政者が、いわば思いつきででっちあげた書き割りじみた社会のデザインは、日本人の、魂のどこか奥にあるイデアのデザインに訴えたもののようでした。
「つぼにはまる」という言葉があるが、そのとおりのようなことになってしまった。

そのあとに起きた事は日本人なら誰でもよく知っていて、「御真影」という天皇の写真を火事になれば校長がそれを守る為に焼死するほどに崇敬させる学校で育ち、皇居端を路面電車が通ればいっせいに頭を垂れて皇居をみないでやりすごすことを毎朝の日課と命じられて通勤した日本人は、やがて天皇ひとりに価値が集約される世界を日本からアジア全体、世界全体と拡大するために、カルト教団が激しい拡大運動を起こすようにしてアジアの諸国家で戦争を繰り広げる。

この戦争は特に1941年12月以降は歴史に例をみない無謀なもので、直截の敵であった欧州とアメリカ合衆国とがナチと必死の戦いを繰り広げているあいだの100日くらいは、それでも欧州戦線にすべてが投入されたあとの、劣悪な装備に訓練されていない兵と、もともと宗主国の権利を守るために戦うということそのものに懐疑的な植民地兵の混成だった軍隊を相手に、いわば火事場泥棒の戦いを戦って連戦連勝していったが、ナチの守勢が明らかとなると、だいたい1942年の晩秋(ソビエトロシア軍のウラヌス作戦は1942年11月19日発動、第3次ソロモン海戦は1942年11月12日)くらいから、ナチが坂を転げ落ちるように戦力を失ってゆくのにつれて、もともと第一世界大戦に本格的に参入をしなかったことによって「国家総力戦」への国家的な想像力を欠いていた日本は、グレンデルに背骨から粉砕されるフロースガール王の家臣たちのように、ひとりひとりの日本人の肉体が粉砕されてゆく戦いのなかで断末魔の悲鳴をあげることになる。

傷ましいのは、その悲鳴が「天皇陛下万歳!」であったと、この期に及んでも国家によって喧伝されたことで、戦場から生還した若い兵士たちが、どれほど繰り返し「みな、母親を呼びながら死んだのだ」と述べても、結局その証言は国家の官僚たちに塗り替えられて天皇の名前を呼んで「美しく」死んだことにさせられてしまった。
いま劇場で自分が死ぬときにさえ「天皇陛下バンザイ!」と叫ぶ、あの観客の目をおおわせる非人間的な若い兵士たち、日本人の「非人間性」の象徴になっている日本人兵士たちは、
戦争を背後で「指導」した官僚たちのプロパガンダの、いまに残る虚しい余韻だと、ぼくはおもっている。

戦争が終わると、これもまた驚くべきことに、天皇は「わたしは神様はやめた」と言い出した。明日からは人間になる。わたしは昔からイギリスの王達のように君主は人間であるべきだと信じていたのさ。

天皇の個人としての人格に好意と敬意とを強く感じ、側近として戦争を通して必死で天皇を守り抜こうとしたひとびとのなかにも、天皇がまったく責任をとろうとしないことによって、衝撃をうけ、失望して天皇と二度と会おうとしないひとが多くあった。
普通の「庶民」のあいだにも、たとえば文芸評論家の江藤淳の祖母は「今上(きんじょう)は、こんなことになって、明治様に申し訳ないとは思わないのだろうか」と述べて、以後、昭和天皇について何かを言うことを忌んだという。

1946年1月1日、昭和天皇は、いわゆる「人間宣言」を行う。
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」

これによって、日本人全体が、その一点に顔をむけて生まれて死ぬ事のみに価値をみいだしてきた玉座は、からになって、日本人はこの日以降、天皇ではなく、この誰も座っていない王座を見つめて一生をすごすことになった。

この日まで、日本の支配層があれほどこだわり、固執し、広島と長崎に原爆を落とされた後でさえ、そのために戦うことを正義とした「国体」とは天皇個人のことだったが、
この日から後は、国体、すなわち「日本」というときの、その「日本」の実体は、この玉座が抱えた虚しい「不在」のことになった。

福島第一事故は、政府が国民を守ろうとしないことによって、外国人だけではなく、日本人をも驚かせた。
国の内外で事態を息をのんで見つめる人間達の自然な疑問は、
「この政府は何を守ろうとしているのか?」ということでした。

結局は日本人の価値の信仰は伊勢神宮のあの有名な「nada」信仰にあるのだ、と言えば機知としても安っぽすぎるというべきだろう。
日本人は、天皇がそそくさと立ち去ったあとの、そうおもってみればやや恥ずかしげにもみえる、かつての天皇が座っていた「不在の空間」をいまも凝視している。
過去のぼんやりした記憶に悩まされながら、あの空間を守らねばならないのだ、という妄念に似た強い意志だけが、日本という、不思議な、そして他の国の国民にとっては、ほぼ理解不能な決意に満ちた国を支えているのだと思います。

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