哲学的な午後

なぜ古代ローマ人がつくった建築は堅牢かという建築学生がよく抱く疑問への回答として「堅牢でないものは、もう壊れてしまって残ってないから」という冗談がある。
欧州全土に残るコロセウムや水道橋を毎日見せつけられている現代人のタメイキに似た切実な冗談にしかすぎないが、一分の真理はこめられている。

ノストラダムスという人がむかし話題になったことがある。
日本でも「恐怖の大魔王が降臨する」と信じてオカネを借りまくって自分が恐怖の借金大魔王になってしまったひとがたくさんいたと記録されているが、このノストラダムスなる予言者はなぜ当時まで有名であったかというと「予言したことがことごとくあたった」からだった。
ところが歴史をふりかえってみるとノストラダムスのような予言者はうんざりするくらい多くいて、予言がおおはずしにはずれてしまった人は忘却の淵に沈んでいっただけである。
全部あたったと思えば思えなくもないノストラダムスだけが消去法によって残留したので、予言が全部あたったようにみえた、というのは、なんだか古代ローマの建築についての冗談と話の構造がそっくりです。

歴史を通じて人間はものすごくバカだった。
バカなのはあたりまえで、なにしろこの惑星で神経細胞が集中して意識をもつに至ったのは人間が初めてなのである。
なんでもかんでも初めからやってみなければならなかった人間は、追いかけていた獲物の鹿がさっそうと越えていった崖から崖にとびうつろうとしてこけて死んでしまったり、海の向こうに緑の島があるのを見て、あそこにいければ木の実は独り占めではないかラッキーと考えて沖に泳ぎに出てあえなく溺死したりしていた。
なかには鳥をじっと眺めて、どうすれば空をとべるかわかっちゃったもんね、と考えて、木の葉でおおった枝を両手にもって断崖から飛び降りて死んだ人間もいる。

何万年経っても人間はやっぱりバカだった。
自分で「全能である」と定義した自分に似た神をこさえて崇めているうちに、神を自分がこさえたのをすっかり忘れてしまって「なぜ、神は全能であるか?」と必死に問うたりした。
第一、全能とはなにか?
善とはなにか?
人間はいかにして生きていけばよいのか?

落ち着いて考えてみればわかるが、一生懸命生きてみてから考えるのはやむをえないなりゆきだと言えるが、いかにして生きていけばよいか?と事前に考えることにはせっかく与えられた自分の、いちどしかない一生を虚しい予定によって破壊する以外の意味はなにもない。
「人間はいかにして生きていけばよいか?」というのは、だから、根本的に老人の問いなのである。
黙って考えていればいいのだが、老人というものはヒマなので、つい文字にしてしまう。
すると、うっかり読んで感動してしまう気の毒な若者があらわれる。
だいたいの場合、老人が妄想のなかで誤解した人生を歩くことになります。

長く生きてしまったひと、というのは上に挙げた意味での古代ローマのコロセウムやノストラダムスにしかすぎないが、それが見えないことは、結局は人間をますますバカにしてきた、としかいいようがない気がして、気が滅入ることがある。

ずっとむかしの雑誌記事を眺めていたら静岡のパーマン
http://www.bs-asahi.co.jp/parman/
のヘルメットとマントを買ってもらった小学生が、パーマンの恰好でアパートの窓から飛び出して墜落して死んだ、という記事があったが、
人間ももう、いまのモデルだけでも7万年くらいやっているので、多少「飛べるかな?」と思っても不用意に高いところからとびおりてはいけない、というようなことは遍く知られて、あんまり墜落死するひとはいなくなった。

いなくなった理由のひとつは、人間は飛べないので高い所から飛び出すと死ぬ、という事象が簡単で把握しやすいからで、これが物事の生起から結果までが長い事象になると、いまでも人間は次から次に無謀なことをして死んでいる。

たとえば、両親の無言の期待を感じとって、懸命に勉強している日本人の子供、というようなものを考えると、彼は、自分の将来の一生を豊かにする元になる「ヒマな時間」というものを極力へらそうとするだろう。

田舎の牧場にでかけて馬を眺める、父親と一緒に釣りにでかける、
「ほらね、ここで手元で糸のレイバンサングラスをつくって、向こう側にぐるっと釣り糸をまわすのね。そうやっておいて、5回、いいかい、5回だよ、ぐるぐるぐるとまわして、あとは歯でかんでグッと引っ張れば、ほおら、できあがり」
わしは子供のときノットをつくる糸を「必ず、うしろから」と歌うように言いながら釣り針の後ろから通している友達をみて、へええええ、と思ったことがある。
うしろから、じゃないと魚が釣れる角度にならないんだよ、とこの友達はいったが、わしは前からでも後ろからでもテキトーに糸を通して困ったことはなかった。
オトナになったいまの頭で考えてみると、きっと父と子で、歌うように「必ず、うしろから」と言いながら息子と一緒にノットをつくった父親は、魚が釣れるかどうかよりも、「前からでは息子が指に怪我をする」という心配をしていたのに違いない。

木の上につくられた家のなかで「これがわしらの秘密基地」と考えて、世界を救済する作戦を練る。
裏庭の小川からボートを出して、ゆっくり動くボートに仰向けに寝転がって、まぶしい青空をみる。
プールに飛び込んでしゃにむに泳ぐ。
馬にのって広い公園の、たちこめた朝の霧のなかをかーちゃんや妹と一緒に散歩する。

そういう膨大な「ムダな時間」をふりすてて、彼は勉強するに違いない。
彼は小学校の理科でカエルの解剖をみただけで嘔いたことがあるが、苦労して数学をこなして、医学部へはいる。
生化学の高分子の地図めいた構造式を暗記して、父親のいない教室で釣り糸ならぬ手術に使う糸でさまざまなノットをつくって学習する。

…ほんとうは影のように、外国語で書かれた歴史の本を読んでさえいれば幸福だった「もうひとりの自分」が、ことあるごとにそれと判るように彼の気をひいて、一緒に歩いているのだが、彼は医者になるまで、その「影の自分」に気づきもしなかった。
どうして高校生のときに読んだヘロドトスの「歴史」に、あんなに興奮したのか、自分ではちゃんと気が付かないで終わってしまった。
「歴史ではくえない」と当然のように思っていたからです。

結局、何年たっても慣れない人間の臓器と向かい合いながら、自分の一生が摩滅していって、なくなってしまっていることに、ある日、書斎の椅子に座っていて気が付く。
そうか、おれは、窓から飛び降りてしまったのだな、とやっと思い当たる。

ずっと小さな頃につくった「人間の一生」のイメージがパーマンの衣装にすぎなかったことに気が付くまで60年かかる人間などザラにいる。
そして、もうその頃になれば「影」はどこかに落っことしてしまっていて、いったい、どこまで戻っていけば自分の影に再びあえるのかも判らなくなっているのが普通であると思う。

人間は愚かだが、愚かなままでいるときのほうが叡知にもっとも近付くもののよーである。
わしは人間には実際に「魂」があると思っているが、では肉体のほうはなぜもっているのかというと「世界を感覚するため」だと思っている。
目の前にどんなに美しい花があっても、視覚器がないものには色彩が受容できない。嗅覚器がないものには、匂いがわからない。
花弁にそっと触れて、この柔らかな手触りを言葉に変換すればどんな表現が可能だろうか、と考えることもできない。
風が髪を梳いて、ふっと空気のなかに浮くときの愉快な感覚や、自分が大好きなひとが、そっと自分の身体にふれるときの、もう明日からの世界なんてどうでもいい、と自動的に納得される、あの痺れるような感覚も、魂には縁がない。

肉体をもってこの世界にうまれてくる人間が観念や思想を扱うのが極端に苦手なのは、要するに人間の一生というものの意義が「感覚」にあるからではないだろーか。
記号化された世界を組み合わせて正体を明らかにする能力が人間は生まれながらに退化しているとしか思えないが、それには理由があるのでなければならない、と考える。

この頃、ツイッタやブログ記事で、だんだん自分の生活の実態をばらすことがおおくなって、だらしがないというか、口元がゆるくなってカッコワルイというか、自分で考えても「要するに、もうだいぶん飽きてるんだな」と考えるが、マリーナから船をだして、沖にでて、のんびりモニとふたりで眠っていると、世界自体はどうでもよくはないが、世界について考えることには、いよいよ意味がないのではないかと思えてくる。
どーでもいーや、と思う事がだんだんおおくなるようです。
それよりも海岸の道をただ夢中になって走ったり、ゴルフのスイングが(円弧を描かないように)フラットに振り抜けるために集中したり、テニスが抜群にうまいモニの返したボールが、なんど試合をやっても自分が走りかけた方角と正反対のコートのコーナーに決まるのでボーゼンとしたり、馬さんに正面からむきあって、今度わしを振り落としたら、おまえの来世はロバであろう、とじっくり言い聞かせたり、そーゆーことをやって毎日をすごしていたほうが哲学的であると思われる。
哲学とは頭ではなくて手や足がこの世界に触れてうみだしたものであるべきだからです。

人間は広大な空の下で、ひどくちっぽけな存在にしかすぎないことは、ニュージーランドのような国の原野を、クルマを降りて、しばらく歩いてみれば、どんな人間にもわかる。
物の「おおきさ」というものは、人間の理性が把握しているよりも遙かに重要な意味があって、笑い話のようだがハチドリと象の時間は、だから、無論、まったく異なっている。
では人間に最適な時間はどのようなものか、ということは自然のなかにひとりで歩みいっていかねば、どうしても理解できない。
そういう空間や時間の把握でさえ、絶えず五感で修正することなしには狂気に陥る仕組みになっているところが、人間の難儀な点であると思います。

This entry was posted in 宗教と神. Bookmark the permalink.

One Response to 哲学的な午後

  1. ガメさん、こんにちは。 

    もう一人の自分> おそらく日本に生まれた多くの人は、これを克服すべき対象だと教えられて育ちます。「これはお前の心の弱い部分であって、それを抑え込むことが成熟するということだ」というふうに。
    そしてそう教えられた人は、そのうち何かを判断する時に、社会規範やその場の雰囲気を参照して、感情の一歩手前で処理をするということを覚えるようになります。僕は社会の中で生きていくということはそういうものだと思って生きてきました。

     だからガメさんの文章を読んだときは吃驚してしまった。
    何故ってそこには、今まで打ち克つものだと考えてきた「もうひとりの自分」というものが、耳を傾けて対話すべき大切なひとであると書かれていたからです。どの記事だったかは正確には覚えていないのだけれど、これを読んだ時とても心が軽くなったのを覚えています。

     それというのも、それまで「彼」の声を無視する度に現実が遠のいて、迷路に迷い込んでしまったように何もかもが、理解できなくなってしまうという経験を度々していたからです。しかし、そんな風になるのは自分が人間として劣っているからだと考えていました。

     今になって、「彼」や「彼の声」というものは自分にとって道標や命綱のようなものだったのだと素直に思えるようになりました。
    今まで、これは意味が無いものだと、見ないように聞こえないように、そして触れないようにと心のどこかの鍵をかけてしまっていたものが、実は自分にとって大事なものであると、ガメさんの文章を読んで少し気付くことができたのかもしれません。

     ガメさんの日本語は、今日本に溢れているこちらの顏も見ず話も聞かずに耳元で怒鳴るような、或いは礼儀正しくはあるが呪いをかけるような強ばった日本語とは随分質が異なってすごく柔らかな感じがします。上も下もなくて、文章を読んでいると友達のとなりに座って話を聞いているような気持ちになってきます。ガメさんいつも有難う。

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s