楽園追放

人間の生活を送っていて最も楽しいのは「知的興奮」の瞬間であることは認めざるをえない。このブログで何度も書いているように、わしは人間は肉体という現実への「感覚器」を獲得するためにこの世界に生まれてくるのだと信じているが、それでも、どちらかと言えば魂の問題に属する知的興奮というものは肉体の存在感に打ち勝ってしまうほど激しい愉楽である。
数学はこのやや人間には刺激が強すぎる陶酔の宝庫であって、「数学者」と名が付くひとに知的興奮ジャンキーとでもいうような、まともな人間であるにはやや軽躁でいまにもひきつけを起こしそうな物腰の人が多いのはこのせいであると一般に信ぜられている。

誰でも知っている非常に有名な例だけでも、「ピタゴラスの定理」(Pythagorean theorem)と名前が付いている「直角3角形の斜辺の長さをcとし、その他の長さをa、b
、としたときにaの2乗とbの2乗の和はcの2乗に等しい」という定理
http://en.wikipedia.org/wiki/Pythagorean_theorem
や、
オイラーの等式(Euler’s identity)
http://en.wikipedia.org/wiki/Euler%27s_identity
のような異常な感じがするほどの簡潔さに数式の記述のあとにたどりつくと、人間はいてもたってもいられない、そもそも魂が浮き足だって地上から離れたがっているとでも言えそうな異様な興奮にとらわれる。

あるいは書き手の日本語の巧みさにつられて午後から読み始めたのにいつのまにか明け方になっているのも気づかずに「俊頼髄脳」を読んでいて、例の惟規の近代人の黎明のような臨終の言葉に漂着して、はて、これは日本語に夢中になりすぎたあまり幻覚を視たのではないかと何度も読み返したり、英語ならば、言語を音楽に変換する天才であるT.S.Eliotの

Shall I say, I have gone at dusk through narrow streets
And watched the smoke that rises from the pipes
Of lonely men in shirt-sleeves, leaning out of windows?…

という詩句が頭に浮かんで、その情景のそれまで考えてみなかった思いがけぬ静かさに打たれたりする。

そういう感動に較べれば知識や数式を処理する上での技量などは付録のような知性で、とるにたりない、というか、ばかばかしいものである。

論争的な知性というものは、相手を言い負かすに足ると自負している自分の頭のなかの知識なり知識の組み合わせが、すでに包装されて昆虫採集の標本のようにピンでとまってしまっているところが非知性的である。
わしや、わしの種族のひとは、引っ込み思案の閉じこもりであって、自閉的というか世界からみると調子が外れたひとが多いが、数えてみると、その割には意外と口を利いた友達の数が多いのは、たとえば大学と名前がついている、古めかしくて中庭の芝生が美しい建物のなかの食堂で、次から次に刺激的なことを述べる人間がたくさんいたからである。
まだ行った事がない人やこれからも行く予定がない人のために述べると、大学という場所はおよそ実生活の役には立たない場所であって、将来経済生活を送るためには阻害的な場所であると思う。
入学することによって「より有利な地位」や「より高い年収」が約束される職業訓練校のような(例えばアイビーリーグのような)大学もあることはあるが、同じ「大学」と名前が付いているだけのことで、本来の大学は他に例を求めると「阿片窟」が最も近い存在だろう。
過剰な知的刺激という、人間の魂の健康には最もよくないものへの過度な露出によって知的刺激なしでは暮らせなくなった「知的刺激ジャンキー」たちが、瞬息の間も刺激なしでは生きられない知的刺激依存症の虚ろな眼を光らせて誰かが、コーフンできる議論をもって魔窟の入り口からはいってくるのを待っている。
それが「常温核融合」というようないかがわしい匂いがする話であっても、わっと餓鬼の群れのように群がって、ガリガリボリボリと貪り食う。

そういう依存症者の集合であるから、当然、なかには到底大学という収容施設の外にだすと危険な人間も含まれていて、そういう人間には因果を含めて大学のなかに閉じ込めるかわりに「准教授」や「教授」というような名前を与えて、給料まで払ってやることもある。

大学の外でも無論事情は似たようなもので、テーブルの上に上半身を屈み込ませてさっきまで熱心に話し込んでいると思ったら、突然、ふたりとも身体が裏返しになりそうなほどの哄笑の発作に襲われたりしているのは、あれは、そういう種族のふたり連れであって、さっきから人間の世界を根本で動かしている究極の原理について話し合っていて、その途中、あまりにくだらない機知をおもいついたので、おもわず口にしてしまい、魂がひきつけを起こしたような爆発的な笑いに囚われてしまったのである。

もう判っていることなどはどうでもいい、と彼等は言うだろう。
もう判っていて教科書に書いてあることを、そう、したり顔でいわんでくれたまえ。
退屈なやつだなあ、きみは。

世界のところどころには、ちょうど何の気なしにふり出したバットにあたったボールがそこだけ違う物理法則に属してしまったように弾丸のような速度で、(しかも殆ど感じられないほどの軽い手応えで)弾き返されてスタンドの上段に消える瞬間に似た、ほころび、というか、そこだけ神がナマの顔をのぞかせているところがある。
人間の言葉はもともと分かりきったことを生存のために集団記憶するためにつくられた凡庸な記号だが、その言葉に拠ってすら、「神がいる綻び」に魂が直かに触れることがある。
そのときの自分の魂が突然宇宙に向かって解放されて、あまつさえ、宇宙と相同になってしまう瞬間の恍惚は、たくさんのひとが記録している。

人間の肉体にすべりこんで、食べ物を味わったり、穏やかな陽射しとそよ風のなかで「大気」というものの得(え)も言われない触感を楽しんだり、あるいはやさしい人との性的な興奮に何もかもが大渦巻きになる激しい官能に没入したり、「世界に触れにきた」、人間が魂と呼んでいるものの正体は、そうした宇宙の綻びからさしている人間にとってはゆいいつの故郷や究極の父がさしのべている暖かな知性の光にふれたときの、その「魂」と呼ぶものの反応を見れば明らかであると思う。

せめても、ちょうどリフトに乗り合わせた者同士のように、お互いにお互いを尊重して、少し身を縮めて、手がふれあえば、いやこいつは失敬くらいの礼儀は述べて、到着する階のドアが開いて、また肉体を脱ぎ捨てるまで、気楽に、仲良くしていくのがいいのではないだろうか、と考えます。

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