語彙と幸福

欧州人はむかしから「幸福とはなにか」という論争が好きで、文学史のようなものですらところどころに「幸福論争」がある。
「幸福」なんていかにも正体が判らない、と考えたからでしょう。

無駄が嫌いなひと、というものがある。
日本の帝国海軍士官は「階段を上り下りするときは必ず手になにかをもって上り下りしろ」と教わるので戦争が終わっても2階建ての家にすむと二階にあがるときには本来二階にあるべきもので一階におかれたものをもってあがる。
ちょっと見渡して二階にもってあがれるものがないと、やりきれないような、運に見捨てられたような、寂寥にとらわれるそーである(^^)

あるいはタクシーの運転手をしていてクルマを止めてお客を降ろしたところで客が乗り込んでくる幸運に遭遇すると一日幸福である、というひとがある。
同じ運転手は路傍で手を挙げているひとを見てクルマを寄せていったのに他のタクシーに客をすいっと掠われると窓を開けて、おもいきり罵る。
ロンドンのタクシーの運転手などはむかしから柄が悪いので有名なので帝国陸軍自慢の速射砲のようにf言葉を連発する。
指をたてたりする。
最近は、アメリカ風に中指だけ立てる運転手も散見されるよーである。

考えてみると、この種類の幸福は「時間の生産性」を基準にしているわけで、「自分の時間がなにもうみだしていない」状態には耐えられない人の幸福感です。
別にそれでわるいことも、なにもない。

幸福の最もよい定義は「一日が質の高い充足で満ちた時間で出来ていること」であると思われる。
だから当然「幸福」はひとによって異なる。

わしは勉強が嫌いな子供ではなかったが、オトナを困らせるために「勉強はなんのためにするのか?」と訊くことはよくあった。
さすがに「将来よい職業につくためだ」というような下品なことを口走るオトナには会ったことはなかったが、「正しい人間になるためだ」という意味のことを言うオトナはいて、子供心に、なんだかそれはヘンな理屈なのではなかろーか、と考えたりした。
わしの「正しさ」への理解では身の回りで最も行動が「正しい」のは犬のJと猫のMとAであって、注意してみていてもMやAが二匹並んで、肩をよせあって、猫族の出エジプトの歴史を勉強したりする姿は見たことがなかったからである。

Aなどはガキわしが冬の夜にこっそり起きて眠りかけたときに考えついた数学のおもいつきが正しいかどうか机の明かりをともして紙に書いてたしかめていると、外側から窓にはりついて虫を懸命につかまえている。
つかまえた虫を端から口にいれて満足げな表情を浮かべたり顔をしかめたりしてる。
Mのほうはテラスの柱の上に座って冷ややかにそれを眺めていたかと思うと、さっさと猫ドアから部屋のなかにはいってカウチでごろんと寝てしまう。
どう見ても幸福に暮らしているので、しかも「正しい」行動で一日を満たしているが、勉強はしているように見えなかった。

夏の北イタリアの湖に面した家で、モニがすやすやと眠っているのを見ながら、テラスに座って、湖を通航する大小の船をぼんやり眺めて、チョーひまをこいているときに、ふと考えたのはベンキョーは、これからあと、ずっと年をとったときでも幸福でいるためなのではなかろーか、ということだった。
チョーひまをこいている、と書いたが、それは早稲田自然文学式客観記述、であって、わしは何もしていないときほど頭のなかでいろいろなことを考えている。
(ほんとよ)
アントシアンのせいで青い、から始まった花についての知識は色彩の定義から始まって、頭の中で「画像」として意識される視覚信号の実体、紫外線が「見える」蜜蜂の世界はどんなふうな色彩で構成されているか、そーゆえば自分でも(物理的意味ではなくて幾何的な意味の)5次元まではなんとか見えるが7次元はどんな姿なのか、巨大蟻が襲撃してくるハリウッド映画があるが外骨格の生き物が大きくなる限界は実際はどのくらいか、その前にあの構造だとデザイン的にゆって食べ物がうまく消化できないのではないか、「15メートル女の襲撃」という有名な映画
http://www.imdb.com/title/tt0051380/
があるが、あの巨大な女びとのニッカーズは誰がいつ作ったのか、それとも穿いてないのかしら、じゃ、いまにも踏みつけられそうになりながら巨大女びとを見上げてる男共が顔をひきつらせていたのは、女びとの身体全体の大きさよりも、…と延々と考えている。
考えているだけで幸福になってしまっては変態だが、ふつーにオベンキョーをすると、ここで変調、というか、自分の意識がぐっと昂揚する方向に考えをもっていくのが容易であって、どうもそのことには「組織だった知識」なりなんなりというオベンキョー世界の産物が関与しているよーな気がする。

幸福は死へ向かって準備する最上の方法で、細胞のすみずみ、魂のあらゆる細部まで幸福にしておくことで人間はいつやってくるかわからない死を、「あんまり相手にしないでよい事象」として感じてゆくもののよーである。

ホールウエイを歩いて小さな人の寝顔を眺めに行ったり、モニが眠っている顔をみていたりするのは、どう表現していいか判らないくらい楽しいことだが、その感情は実は言葉でできている。
猫がモニさんの寝顔をじっと見つめていることもあって、もしかすると猫のことだからほんとうは猫語で構成された感情でうっとりしているのかもしれないが、いまのところの人間の知見では、猫はなにも考えていないので視覚だけで幸福になる、というのは難しいように思われる。
人間は500語くらいから言葉で構成された感情をもつのではないだろうか。
その当然ながら粗野で観念的と呼ぶのも憚られるほど粗放な感情が、10000語を過ぎるころから、ややなめらかな再構成された現実に近いものになってゆく。
そうして(たとえば欧州語ならば)言葉が世界と照応した感情を構成するのは50000語くらいの語彙の集合であると思う。日本語と欧州語を同じ「語彙数」で較べるのは無意味に近いが感覚的に述べて同じ照応を構成できるのは70000語くらいであると感じる。

あるひとが目の粗い麻のような肌をも傷つけそうな一日を送るのに、他のひとが絹のように滑らかな感触の一日を送るのに、彼女もしくは彼がもっている(広義の)語彙数のサイズがおおきく影響するのは、わしにはほぼ自明のことのように思われる。

「退屈」というようなことは語彙が十分に意識をうめきれないから起こる現象で、
単調な繰り返しを強要される場合は別にして、何もしないときに退屈するのは、自分の意識がもちえたキャパシティに語彙のおおきさが届いていないからであるに違いない。

われわれは現実のなかに生きているが、現実とはなにか、というのは昔から人間を狂気に陥れやすい質問である。
そんなことをいっても現実は現実ではないか、というひとは、前にも何回か書いたが、上下が逆に見えるプリズム眼鏡をつけて1ヶ月暮らしてみるだけでもよい。

思考とはなにか、意識とはどんな実体をもっているのか、時間は意識にとってどんな作用をもっているのか、あるいは意識と時間は相補的なものか、というようなことを考えることは人間が自分を「言葉のない状態」に近づける上で有益だと思う。
言葉という観念のベクトルで人間をひきずりまわす怪物に対して、「現実と精細に対応しうるおおきさの語彙」は、人間を言葉の奴隷の状態におくことから守ってくれるのではないかという気がします。

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