35%

チェルノブルの事故によってロシア人たちに実感されたのは自分たちにはかけらも自由がなく、あるのは巨大で抑圧的な全体主義だけだ、という事実だった。
そんなことは普通のときでもわかっていたでしょう、というひとがいそうだが、体制のなかにいる人間には意外とわからないものなのはゴルバチョフが辞任した頃に大量に渡ってきたNYCのロシア人たちと話していると事情がよくのみこめる。
ひとつには「なか」にはいってくる情報はいちいちフィルターがかかっているせいで、アメリカの自由といってもみせかけだけで、資本家達に紛い物の自由を玩具のように与えられて自分達は自由だと錯覚しているだけだ、あるいはものごとを観念的にとらえやすい質のひとなら自分達の社会は不自由に見えてもプロレタリアート的な自由はおのずから資本家豚が支配する社会の自由とは異なるのだ、…人間は変革をおこさないためなら、ありとあらゆる口実を設けられるほど本質的には怠け者なのである。

発見される嚢胞の大きさをわざとデータに残っている嚢胞の大きさと異なるサイズにする欺瞞によって前例とうまく比較できないように注意深く発表された福島県の子供達の「良性」嚢胞の35%以上という数字は、しかし、姑息な隠蔽意図を…結果として公表せざるをえない数字が政府側の予想を遙かに越えてしまっていたことにおいて…「放射性物質は『少量』でもおおきな被害をおこしうる」という多数派科学者たちの「自分達の科学常識に基づいた証明できない予測」を明然化することになった。
政府側にいて、福島第一発電所事故という絶対に起きてはならなかった事故が起きたあとの、国家としての日本をなんとか破綻から逃れさせるために、ケーハクと目星をつけた学者や文化人、知識人を総動員して、ありとあらゆる手を使って国家の破綻を避けようと努力している役人たちは、結果をみて愕然としたに違いない。
自失ボーゼン、というほうが近いかもしれない。
なにしろ基準になる大きさを変更してあるので確としたことは言えないが、通常ならこの種類の「良性」嚢胞は5%以下であるはずと思う。
基準の大きさによっては1%以下という人もいるほどなので、35%というのは、どうにも暗い予測なしに誤魔化してしまうにはおおきすぎる数字であるだろう。
インターネットで定点観測のように定期的に眺めている日本の人のツイッタやブログを読んでいると、はっきりと動揺が伝わってくる。
悪ふざけの冗談で韜晦している「学者」、それでもなんとかこの怖ろしい調査の結果を「まだ安全だ」という結論にもちこもうとする「言論人」、それみたことかと嵩にかかる、よく考えてみればなんのために原発事故による危機を叫んでいたのか忘れているのかもしれない「反原発人」、異なる立場で、しかし、動揺は同じである。

ロシア人と日常的なつきあいがあるひとは知っていることと思うが、日本人やアメリカ人がぼんやりと考えるのとは違ってロシア人自身のソビエト連邦崩壊の印象は「チェルノブイリ事故の結果」だった。言い古されたことでこうやって書くといかにも陳腐だがあれほど仲が悪いウクライナ人とロシア人には共通した強い信仰があって、それは「自分が生まれた大地」への信仰である。
政治がどれほど混乱しても、経済が破綻しても、ウクライナ人にとって「わたしが最も愛するのはウクライナの大地」という気持ちは変わらない。
うまく書けないが、それは日本人が「わたしの愛する日本」というときと少しおもむきが違って、どう言えばいいか、自分がウクライナの大地から分裂した土塊であるとでもいうような、不思議で神秘的な感情であるように外国人には見える。
では、将来はウクライナに戻ろうという気持ちがあるのか、と聞くと、「とんでもない!」と一笑に付す。夫婦で「なにをバカな」と笑い転げている。
チェルノブルは、そういうロシア人やウクライナ人たちの「土地」そのものを神のみが実感できる長さの時間に亘って汚染してしまった。

一方で、ソビエト連邦時代、ロシア人は自分達の技術について不動の自信をもっていた。
歩兵が展開する最前線のすぐ後ろに緊急不時着しても、(コンポーネントが基本的な工業製品…たとえば車輪がジープのタイヤと同じもの…で出来ているせいで)すぐに修復して再び飛び立って行ける最高速度がマッハ3を越える戦闘機、西側のお嬢ちゃん戦車とは異なって圧倒的な自走性をもつ戦車、言うまでもない、アメリカに対して終始一貫優位を保っている(はずの)宇宙技術、あるいは数学・生物分野でみせる独創性、トルクメニスタンを中心とした、西側諸国の研究に較べて(人間の文明の根源を探求することにおいて)遙かに本質的な考古学、ロシア人の側から見れば科学技術の世界では西側全体を圧倒するほどの科学と技術の先進性だった。

競争原理を放棄した結果の生産性の低下からくる物資の不足や言論の自由のなさ、当時はあまり伝えられなかったが主にドイツを通じて伝わってくる西側の若々しい文化もロシア人たちのフラストレーションの種になっていた。
ソビエト連邦はちょうどいまの日本に似て極端な老人支配国家で政府から商店に至るまで社会の存在意義そのものが50代以上の老人たちのためにあった。若い人間の老人支配からくるストレスは想像を絶するものであったようで、わしは当時の「若者」のロシア人から一枚のジーンズを手に入れるための、あの手この手、(笑ってはいけないのだが)抱腹絶倒の苦戦力闘を聞いてお腹がいたくなるほど笑ったことがある。

1986年、チェルノブイリの事故はすべてを変えてしまった。
マスメディアなどまったく信用するに足りない、と熟知していたウクライナ人やロシア人は、無論、最小限必要な情報を比較的はやく伝播させるための慣習と呼びたくなるほどの習慣をもっていた。
西側では事故の情報がロシア人たちに伝わったのは、スウェーデンからの検出情報による、ということになっているが、少なくともウクライナのインテリゲンチャは即日に起きた事を知っていたようである。
欧州中に散らばっているいま20代後半から30代前半くらいのロシア人やウクライナ人たちは、自然、教育が高い両親のもとで育ったひとが多いが、そのときの「血相を変えた」両親の様子、遮二無二逃げた脱出劇、という「映画のような」子供のときの体験を聞かせてくれるひとが多い。
「両親のおかげでわたしは助かった。大丈夫だと考えた家の子供たちは…」と続く話は、ここには書けない種類のものである。

個々の国民と国家の関係には、「閾値」のようなものがあって、ある一定の不信を越えると理屈よりも感情が冷え込むものであるらしい。
ロシア人やウクライナ人の話を聞いていると、チェルノブル事故後5年ほど経過してソビエト政府は国民に「見捨てられて」しまう。
政府の言論弾圧は許せない、というような言説がどれほど正鵠になされても起きなかった政府からの離反が一個の原発事故によって「感情的」に起きたような印象がある。
西側からみれば、ソ連の国歌の存続を軍事威信にかたよせてみるひとはアフガニスタンでの無惨な敗北を挙げ、経済がすべてさ、という人間は最後期には原料を加工することによって価値が減価された製品ができるまでにおちぶれたソビエトロシアの非生産生を挙げる。
しかし、国土だけではなく「ロシア」というものに多国民の常識では理解できない臍の緒で直截つながったような愛情と誇りをもつロシア人から言うと、国家崩壊の原因はあくまでチェルノブルなのであるらしい。
「政府を愛せなくなった」という。
愛想がつきた、のだろう。

あんまし言いたくもなければ、いまの日本社会の状態では言っても仕方がない感じがするので、何も言わないが、放射能が安全なのは日本の放射能だけで、チェルノブルはまともな世界の一部なので、そうはいかなかった。
「いまでも、まだダメ」なので、興味があるひとは自分でyoutubeなりなんなりを見ればいくらでも動画が出てくる。
行ってみればわかる、ロシアに近い側を旅行するにつれて、不思議なことが起きて、あれほどアメリカビーフを嫌いな欧州の高級レストランに、いまでも、わざわざ「アメリカンビーフ」と狂牛王国のビーフが麗々しくのっている。
レストランのにーちゃんに訊くと、ほら、あれですよ、ロシアのあれ、ともごもごという。
そーか、忘れてた、と思います。
あるいはニュージーランドの鹿肉はドイツ人があらかた買っていってしまうが、それももちろん「あれ」のせいである。

いまでは日本人は事情がわかるにつれて「放射性物質が安全だと信じている愚かなひとびと」という汚名を着つつあるが、ツイッタでも少し書いた、ふりかえってみると、日本人は実は心の底では全員が「放射性物質は危険である」と知っていたのではないか、と考えることがある。
こんなことは西洋の理屈で育った人間に言えば、わしのほうが頭がおかしいのではないか、と言われそうだが、しかし、どうしてもそう思えるときがある。
嚢胞調査の結果発表からこっち、なにごともなかったかのようなふりをして、ツイッタで軽口ばかりを延々と述べている自称科学者(あれほど科学的方法を尊重しない態度では最早科学者とは呼べないだろう)大学教員や政府人、放射能をこわがる母親たちを「放射脳」とまで呼んで嘲笑した日本人たち、わけても「インターネット市民」たちも、実際には、初めから「放射能は危険だ」と思っていたのではないか。
有名な例では戦後のブラジル日系社会で起きた「勝ち組」騒動がある。
いまでは用法が逆になってしまっているが、もともとは「勝ち組」という言葉は、日本が戦争に負けたのに、それを信じたくないばかりに「勝った」と強弁にもならぬ妄想をつくりあげて「負けたことを認めなければ現実に対処できない」という日系人たちを集団で襲撃したりしたグループがあって、それを「勝ち組」と呼んだ。
「戦争についての情報が不足していたから」という説明がなされるが、ブラジル人の話は、それとは異なって、「負けを信じたくなかった」という色彩のほうが強いように感じられる。
「負け組」の多くは移民社会のなかの(いまの意味での)「勝ち組」であったこともあわせて、福島事故への反応と照らし合わせると、やや興味深い。

いまの日本人は、母親が死んだことを決して認めない子供のようだ、と考えることがある。
現実を直視する辛さというものは「現実」が厳しく受け容れがたいものである場合には、人間の許容の限界を超えてしまう。
仮に「放射能は安全である」という意見の反対の極をとってツイッタ上などで見ていくと、「1000万人の人間が死ぬ」「日本中が病におかされる」と書いてある。
そしてものごとの理として、そういう極端にみえる意見は「放射能がまったく安全である」という意見と同程度には真実であるはずと思われる。
どちらも現実ではないだけで同じ数直線の上で対称の位置を占めてゼロを挟んでにらみあっているだけなのだと思う。

仮に嚢胞調査が示唆しているものが現実である場合、瓦礫をばらまくという不思議な決定をくだした日本がどうなってゆくかということを考えていると、暗い気持ちになる。
津波瓦礫と放射能瓦礫の区別もつかないのか、と嘲笑するひとがいるが、それは産廃業者の歴史を見れば、一目瞭然、世間知らずの理屈にしかすぎない。
日本に限らないが商売人というものは「政府の姿勢」というものをジッと上目遣いに見ている。
「あっ、こりゃ、ビシビシやる気だな」と感じればネコをかぶっておとなしく規範通りに商売するが、「あんまりやる気ねーな、こいつら」と思えば、びっくりするような大胆な違法行為にまで及ぶ。
税の徴収や法の適用には書かれていることとは別に「運用」というものがあって、そっちのほうがよっぽど響く、と身にしみて知っているからである。

「瓦礫を全国で焼却する」と聞いて、ピンとこないようでは業者失格だろう。
政府が表向きに述べていることと実際に示唆していることの違いがわからないようでは「業者」などやれるものではない。
ノーテンキな学者や知識人たちの支持まであるので、今回はやりたい放題であるだろう。

だが放射性物質の問題は強弁すれば無害であるとまでいいきれるのが何故であるかを考えてみればよい。
子供が「宇宙は有限だ」「無限だ」と口を尖らせて言い争うのは、わしのいた小学校では日常の光景であった。有限か無限かでコーフンして取っ組み合いの喧嘩をするバカガキどもは日常普通の光景であったとゆってもよい(^^;)

放射性物質が環境化(狭い空間ではなくて全体のおおきさが計量できない生活空間に常在する)すると、どういう結果になるかは、誰にもなにもわからないから「放射能は有害だ」「無害だ」と、有害・無害でコーフンして喧嘩になる。

有害だと主張する人間の予想を越えて放射性物質が永遠の害をなす可能性がないかと言えば、ある、としか言いようがない。
あふれてくる有害物質にふたをするどころか社会流通という「エアコン」をつけて日本中に流しているのである。
なにが起こるか予測がつくひとはいないだろう。
その「予測がつかない結果」のなかには有害だと述べてきたひとの予想をまで越えて被害がおおきい、ということもありうる、と嚢胞調査の結果は教えている。
歴史のあちこちに散見される当時の人間の想像力を越えた現実というものの酷(むご)さを思い浮かべて、頼むからそうならないでくれ、と祈る気持ちになります。

This entry was posted in 福島第一原子力発電所事故. Bookmark the permalink.

2 Responses to 35%

  1. AgathaChrio says:

     言葉の流れとしていつもの大庭さんとはなにか違うように感じた今回の記事。こういうことを表現するのに、日本語は適していないのではないかとすら思うくらいでした。
     言葉がそうなら、日本人の頭もそうなのでしょう。
     私の世代は、ソ連や中国の大気圏内核実験華やかかりしころで、何かあれば、プルトニウムだストロンチウムだと報道されていました。小学校の帰り道、雨にぬれると放射能で禿になるぞとはやされつつも、そんなことはあるまいと強がって傘を差さずに歩いていたのが、ずっと忘れられずにいました。
     今となってみると、そのような核種をどのように計測していたのかなどと勘繰ってもみたくなるのですが、ともかくプルトニウムとストロンチウムは誰でも知っていた言葉だったことには違いないと思います。
    では、その後40年ほどを経て、同世代の人たちは皆忘れてしまったのでしょうか。
     いえ、忘れているのではない、何も信じない多くの日本人は、自分の知識や学習したことにも真の信頼を置かないのではと思うに至っております。
     35%という静かだがはっきりとしたメッセージがこの先どうなっていくのか。これだけ具体的でも、基づくものがはっきりしない我々の想像力を越えているという可能性は十分高いように思われるのです。

  2. tamakichi says:

    ガメさん、こんにちわ。

    大阪では、大都市の人口密集地の風上で汚染瓦礫を焼却するという、普通では考えられないことを行います。
    地域住民には、「説明会」と言う名の「ただの通告会」を行い、大阪市民に対しての説明会では、市長自ら「ここにあつまった反対派の意見を聞いて、どうこうするつもりは無い。議会で決めること」と発言する有様。
    健康被害が起こっても、焼却由来の被害と判断できないから、補償もなし。
    会場に居座った反対派には、機動隊による強制排除で怪我人も出ました。

    かつて大阪では、臨海の工業地帯などの煙が、西から東に流れ生駒山脈にあたり、そのあたりの地域住民に喘息被害などをもたらしました。

    焼却後の埋め立て灰の基準値は、2,000ベクレル/1kg。
    100ベクレル/1kgの瓦礫に、混ぜものをして10ベクレル/1kgにする。
    それを焼却して、濃縮が(最大でも)33倍くらいあるので、330ベクレル/1kgのはず。
    あれ、基準は2,000ベクレル/1kg?
    明らかに、100ベクレル/1kg以上のものを持ち込むつもりなんでしょ?と市民が質問しても有耶無耶に終わる。

    日本はとうとう、黙っていると、静かに殺されてしまう国になってしまいました。
    ガメさんの言われるように、1割の人が騒ぎ出すまでは、大きく変わることは無いのでしょう。

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s