Monthly Archives: September 2012

平成日本への道_その3

「アングラ」という日本語の言葉を最後に聞いたのはHBS(ハーバードビジネススクール)で会ったおばちゃんの口からであって、アンダー・グラヂュエイトで、学部生の意味で使っていた。 日本語にはいまは死語であるらしい「アングラ」がもうひとつかつてはあって、こっちはアンダーグラウンド、あるいはアンダーグラウンドアートの略で、公然でない、あるいはそのまんま、「地下芸術」のほうがいっそいいのかもしれません。 1968年の新宿駅西口広場に立ったひとは、機動隊が人垣をつくって規制していて、 「ここは通路です。立ち止まってはいけません。ここは通路です。立ち止まってはいけません。ここは通路です。立ち止まってはいけません。」と機動隊機長が自分の声の連続コピペを拡声器を通じてがなりたてまくっているのを目撃したはずである。 新宿駅西口広場が政治集会場と化していたからで、首相官邸前のような「デモちから」が貯まりようがない川のいち部分のような場所と違って、湖というか沼というか、デモ力がたまりまくりの西口地下広場のようなところは政府から見ると、最悪、まるで反政府パワーの充電池ですやん、のような地形だったので、あわてて得意の欺瞞をでっちあげて、「あれはいっけん広場みたいに見えるけど通路なんだもんね」ということにした。 抗議はしたものの、こちらも頭でっかちのせいで、頭の悪い役人の欺瞞など嘲笑してしまえばよかったのに、真に受けて言い争ってしまった「闘争学生」たちは理屈の腕相撲にまけて去って行くことになったが、「なあーんとなく人が集まっておもろかったから」西口広場にやってきて、芝生や換気塔のまわりでごろごろしたり、プラスティック袋に詰めたトルエンを吸ったり、のんだくれてビール瓶をマジメそうなやつめがけて投げつけてぶつけたりしていたほうの、「フーテン」たちは、追い払われると立ち去り、でもしばらくすると何事もなかったような顔をして、またトルエンを吸って、ときどきは公然とエッチに及んだりした。 この頃の日本には「自由」をおもしろがる雰囲気が少しは残っていたようで、 2chに群がった「仮想優等生」たちがつくった「通報しました世界」とは違う世界に「劣等生」たちは生きていた。 もっとも、よく話を聞いてみると「劣等生」とゆっても大半は「ええとこのぼっちゃん」や「良家の令嬢」がおおかったのでビンボニンはあくまで、マネだけでも、優等生たらんとするのは、その頃もいまも同じなのかもしれません。 赤瀬川原平が公表したオノ・ヨーコの写真があって、60年代だと思うが、まだジョン・レノンに会うぜんぜん前のオノ・ヨーコが、裸で、全身を真っ白に塗って、後ろ向きに立っている。 あるいは赤瀬川原平たちがビルの屋上からトイレットペーパーをぶちまいて、けっけっけ、と喜んでいる。 こーゆーのは簡単に言って欧州人やアメリカ人の「アングラ・アート」の稚ないマネだったが、しかし、よく考えてみると、わけがわからない社会的欲求不満の連鎖によって世界中の(豊かな国の)若者が、無意識に同盟していたわけで、後から来た者が眺めていてオモロイ感じがする。 参考のために小さな事実を述べると、たとえばオノ・ヨーコはいまとは格段に地位と収入が異なって高かった銀行役員の娘だった。 あとでジョン・レノンと結婚したときに、軽井沢にやってくるのは万平ホテルのすぐ近くの、ポール・ジャクレー https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/06/05/ポール・ジャクレー%E3%80%80(paul-jacoulet/ が住んでいたのと同じ通りに、父親の別荘があったからです。 後代からみると、「浅川マキ」というひとは「アングラ」っぽい。 声の強い、喉に力がある感じの歌いかたをするひとで、ときどきすっかり浅川マキの深い声に惚れてしまったテレビのプロデューサーとかに拝みたおされて昼間の番組に出て歌ったりもしていたようで、「夜が明けたら」は小規模なヒットナンバーになったりもしたようだが、本人はそういうことにまったく興味がなくて、それもあたりまえというか、このひとは当時は渋谷の並木橋にあったはずの「天井桟敷」という歌人の寺山修司が主宰していた劇団で歌うことが多かった。この「天井桟敷」が日本の「アングラ文化」の中心で、日本社会における非政治的反抗者や脱落者がつくっていた広汎な「見えない文化」のうずまきのまんなかにあった。 この天井桟敷の主人であった寺山修司は、義理叔父たちにインタビューしてみると、当時中学生だった義理叔父たちにとっては「競馬評論家」(^^;)として意識されていて、このひとと後で国会議員になって「なんだ首相じゃねーのかよ」と述べてすぐ辞任してしまって、「日本の国会議員なんてタレントよりも軽いのだ」ということを日本人全体に遍く知らしめた大橋巨泉とは(彼等に拠れば)「天才競馬評論家」で、プロの競馬評論家よりもよほどよく予想があたった。 義理叔父たちはガキのくせに、非公式なブックメーキングをする「くりこま」という喫茶店にいりびたって、寺山修司たちの予想にしたがって馬券を買っていたそーである。 いま、あとからやってきた外国人の眼から眺めると、そーではなくて、寺山修司は天才歌人です。 有名な 「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」 という天才しかつくりようがなさそーな短歌はもちろんのこと、寺山修司は全体の情緒が「短歌的な定型」で出来ていたように見える。 浅川マキと並んで寺山修司にみいだされた。もうひとりのマキ、「カルメン・マキ」のほうは「ノイジー・ベイビー」というヘビメタの赤ちゃんのような曲をきっかけに寺山修司のもとを離れ、寺山修司的な情緒に反逆して、「あんなやつ大嫌い」と言うが、歌人とロックンロール娘では、ほんとうは接合点がなかっただろうと考えて、わしは、くすくす笑いながら何十年も前のカルメン・マキのインタビューを読んだものだった。 寺山修司や澁澤龍彦、横尾忠則、あるいは、宇野亜喜良、和田誠というようなひとびとは「話の特集」という雑誌を背景にもっているように見える。 ひとつの、ゆるい、しかし広汎なコミュニティをもっていたように見えます。 いまは評価がゼロに近いのか、日本に滞在していたあいだじゅうあつめまくって、ほぼどれも全号をもっている週刊誌・月刊誌のなかで「話の特集」だけは欠品がある。 この矢崎泰久というひとが編集長だった雑誌には、いまの人間からみると独特のクサミがあって、ちょっと困るが、それでも団塊世代のもつ無茶苦茶でがむしゃらな自由へのエネルギーが感じられる。 日本の歴史を通じてもっとも「自由へのパワー」があったのは団塊世代が嫌いだった団塊世代のひとたちであると思う、という義理叔父の言葉を思い出させる。 一方では体質的には「フーテン」という言葉に適合している、というか、まあ、そうシャカリキになるなよ、という気分のひとでありながら、一方で、 「自由への長い旅」 http://www.youtube.com/watch?v=PItpmJHvbUU&feature=related 「私たちの望むものは」 http://www.youtube.com/watch?v=o6R13Nx2Nhg のような極めて政治性が強いメッセージと受け取られた曲を多くつくったりした岡林信康のようなひとも「アングラ」と受け止めるひともいたよーである。 ただし、聴いてみればわかるが、これが「政治的メッセージ」の曲なら高田渡が17歳のときにつくって、歌詞を皮肉と気づかなかった自衛隊の広報部が「自衛隊のコマーシャルで使わせてくれないか」とゆってきたという、うまく出来すぎていて、あんまりほんとうの話でなさそーな、「自衛隊に入ろう」のほうが、よっぽど政治ソングである。 しかし、その高田渡にしても、あとで、「軽いうけねらいでつくったのに政治が好きなひとにうけて困った」とゆっていたそーだから、ギターでコードをつくって歌をうたうのが好きな人間が、そうそう政治青年に向かって歌をつくるわけはないよーにおもわれる。 岡林信康が、つくるごとにいちいち「政治メッセージソング」扱いをされたのは、 初めに名前を知られた曲が「チューリップのアップリケ」「手紙」という部落問題を扱った歌だったからだろうが、いま聴いてみると、どちらかといえば、このふたつの歌も、若い人間らしい強い感傷を伴った不正義への怒りが聞こえてくるだけで政治的というのとは違うものであるような気がします。 … Continue reading

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平成日本への道_その2

小津安二郎というひとは、当時は、いまから考えると想像がつかないくらい作る映画の評判が悪かったひとで、最後期は「マンネリ」「世界の黒澤、大船の小津」(大船の松竹映画制作所の内輪だけの高い評価、という意味と思われる)「保守反動」と言われ続けた。 あんな映画は日本という特殊な社会のうちがわだけで受けているので、世界にでればカスみたいなもんだ、とまで言われた。 「ぼくは豆腐屋だから豆腐しかつくれないのさ」と憮然として述べてはみたものの、やはり気にしないわけにはいかなかったようで、「早春」という映画だったと思うが、池部良という、わしも子供の時に電気ビルのてっぺんで会ったことがある(^^)俳優を使って、当時の現実生活に近い設定で映画を撮ったことがあるよーでした。 大会社の選良社員の役だったとおぼえているが、いつもの「現実にはありもしない」西洋の家に遜色のないラウンジや、おおきな門構えのある家ではなくて、当時の会社員の夢である分譲住宅に主人公夫妻をすませることにした。 東京物語においては戦争で夫を失った若い女でさえ同潤会アパートに住んで貰わねば我慢できなかった小津が珍しく現実の風景と妥協した一作だったのだと思われる。 いま、この映画を観るわしの目には、「6畳と4畳半にトイレ」がついているらしい「モダン住宅」のこの家は、スラムというかなんというか、雨風をしのぐだけの犬小屋に対する「ヒト小屋」というものがあれば、これがそうだろう、と思われる体のもので、ボロイ家の印象が強烈すぎて物語のほうは、ぜんぜん頭にはいらなかった。 映画の中でなにが起きたのか、少しもおぼえてない(^^;) おぼえているのは「やたら家がボロかった」ということだけです。 小津というひとはもともと「安定した日常における不安定な人間と人間の関係」という西洋的なテーマを追究したかった監督で、ビリー・ワイルダーを映画監督の理想とした。 そのためには実質のある「生活」というものが必要なのである以上、人間が人間としてふるまえるだけの空間が確保されていなければ話にならないことをよく判っていたひとでもあって、だから、ゆったりとして、頭のてっぺんから天井までにおおきな余裕がある室内を好んで撮った。 有名な「ロー・アングル」の理由のひとつは、あんがい「西洋的な枠組みのなかで日本の生活を描写する」ための工夫のひとつなのかもしれません。 小津が描いた「落ち着きのある日本」など、その頃の日本にはどこにもなかった、というのは、いまでは西洋の熱狂的な小津ファンたちにも周知のことになっている。 半ば家出した主婦が、自分以外は列車の振動で揺れる一輪挿しの薔薇が揺れているだけの一等車のソファに腰掛けて憂色にふける、あの「日本」は、小津のあたまのなかにだけ存在した日本だった。 「これがデカダンスなんだよねえー」と「大勝烈定食」 http://tabelog.com/kanagawa/A1404/A140402/14000226/dtlrvwlst/3659540/11028698/ を平らげた義理叔父は、欣喜に入っておる。 ここのソースは、企業秘密でさ、と食べ物で満足したひと特有の単純な幸福に目を輝かせながら義理叔父は述べる。 4人の役員しかレシピしらないんだって。 ほんでね、ほんでね。 4人で一緒に旅行することは絶対ないのだそーだ。 王貞治というひとはもともと両親が福建省に出身したひとである。 半藤一利の書いた本によると、王選手は自伝で書いてある出自の前には川向こうの半藤一利の家があった側に住んでいたそうで、「チャンコロ」だというのでものすごくいじめられた、と証言している。 何をみても、どこにも当時のことに触れていないのが、王貞治にとって、その子供時代がどういうものであったかのなによりの証拠である、と書いている。 力道山と同じ、というか、秘匿していたわけではないから違うともいえるのか、活躍するにつれて、日本では「わるい国籍」であるはずの中国人であることは、なんとなくうやむやになって、中国人だけど頑張ったんだから日本人として遇してあげれば、という、なんだか得体のしれないことになって、最後は国民栄誉賞をもらう。 なんども書いたようにわしは昔の雑誌を蒐集する趣味があって、日本の雑誌もご多聞にもれないが、連合赤軍が南軽井沢の「72ゴルフ」に近い「あさま山荘」にこもった事件の印象を訊かれて、「アカっていう、悪いやつらがいるんですよね。どんどん捕まえてもらわなければ」というような、他の「各界有名人」のコメントに較べると突出して「あんなやつらは許すべきでない」という強い反応をみせているが、多分、これは自分が外国人であって、ちゃんとしていなければ日本社会から認めてもらえない、下手をすれば送還される、という子供時代からの日本社会によるイジメと、恫喝に対する心の反応が固定化しているのだと思われる。 「野球」は当時の日本人の生活には、途方もなくおおきな位置を占めていたようで、義理叔父も神宮球場や後楽園によくでかけたものであるらしい。 球場としては、神宮球場がひろびろとして、気持ちがよくて、いちばんよかった、という。 「川崎球場、なんちゅうのは、ひでえ球場でさ」と、嬉しそうな顔をする。 一応、両翼「90メートル」っちゅうことになってるんだけど、どうみても60メートルくらいしかないんだよ。 レオン、っちたかな、ボールにくいこまれて、ぽっこーんとポップフライ打ち上げたらさ、それが風でふらふらと押されてスタンドにはいっちまうのさ。 「観客も翌日の新聞みると、五千、とか書いてあるんだけど」 数えてみると、11人しかいない。 南海にメイっていう選手がいてね、すげー、気の良い奴で、「へーい!メイ!」って外野席から呼びかけると、ピッチャーが投げてるのに後ろ振り返って手をふったりしてたw 高校生になると大森や府中の競馬によくでかけた。 小田原の競輪にでかけたら、全部まけて、歩いて渋谷に帰ったので死にかけた。 王貞治が「アカ」とはき出すように述べた連合赤軍はおおきな転機だった。 団塊世代は「通過儀礼としての革命運動」というストレス発散装置みたいな、よく訳のわからない社会慣習をつくりあげたが、あさま山荘に「新左翼」がライフルをもちこんで機動隊の機長を撃ち殺したことによって、一挙に全共闘以来の運動そのものの支持が失われてしまった。 日本人は、そこで初めて「ほんとうに革命が起きてしまったら」と考えたのだと思うね、と義理叔父は言う。 暴力とむきあわねばならない。 そんなのは嫌だな。 … Continue reading

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平成日本への道_その1

日本の知識人、というものを考えるときに小針晛宏という名前を落とすわけにはいかない。 他の「世界」や「朝日ジャーナル」のような雑誌を舞台に活躍した(たとえば鶴見俊輔のような)知識人たちとは異なって、このひとは「数学セミナー」や「大学への数学」のような数学の初学者向けの雑誌、あるいは「京大新聞」を舞台にして活躍した。 いまみても、わかりやすくしようとくだきすぎた奇妙な文章や唐突な議論の展開は「知識人」という呼び方に相応しくないものにみえるが、しかし、このひとの思想には後の日本人がどこかに落っことしてきてしまったかけがえのないものがあって、いつかはブログでもなんでもいいから、あとからやってくるひとのために、サーバーのどこかに刻んでおくべき思想的業績を残したひとの名前なのである。 理想と現実を「本音と建て前」のような詐欺的な欺瞞に切り分けられなかったこのひとは自分たちがおかれている状況に絶望して、自分よりも若い世代に希望をみいだそうとした。 ぶっくらこいてしまったことにはツイッタでときどき会いにきてくれる年長の友達、村上憲郎は小針晛宏から教室のなかで教師と学生として直截やりとりを交わしたという。 なんちゅう幸運なひとだろう、と思うが、あちこちに散らばっている小針晛宏が書いたものを眺めていると、この理想と現実のあいだで押しつぶされて自殺した数学者が真に期待していた世代はもうひとつ下の世代「昭和30年代うまれ」の人間たちだったようである。 いわゆる「団塊世代」に対しては、より若い世代を常に愛していたこのひとらしく、「期待」というよりは「仲間意識」を保っていたように見えます。 昭和30年代生まれのひとびとというのは商業主義のなかで奇妙に美化された世代で、 実相がもう見えにくくなってしまっている。 このブログにはなんども出てくる、もういいかげんどうでもよくなってきたのでばらしてしまうと、わしの日本語と日本文化の先生である義理叔父はまさに「昭和30年代生まれ」だが、 この容色のさえないおっちゃんから聞いた「昭和30年代生まれがみたもの」をここに書き残しておくのも、それほど悪い考えではないだろう。 「舗装がない道があってね」と区名で言えば渋谷区に生まれた叔父が言う。 クルマが通ると埃がまいあがるのだよ。 雨の日は油断してると水たまりの泥水をびっしゃああーんと頭からかけられる。 むかしの日本人の運転は荒っぽいなんてものではなくて、「カミカゼタクシー」という言葉があったんだけど、ふつーの道をさ、時速百キロとかでとばしちゃうのね。 足もとがすううううーと寒くなって、夏でも涼しかったりしたんだよね。 それから記憶が相当美化されているのではないかと思うが、日本橋の三越前で、あれはたしかトラファルガー広場のライオンのコピーのはずの、二頭のライオンの脇に立って雪が盛大にふりはじめた通りを見ていたら、いつもは都電が通る線路を「トローリーバス」が通って、パンタグラフと電線とのあいだに青白い火花が散って綺麗だった。 「そーゆえば、いまになって都電都電て日本のひとは言うんだけどさ、その頃は「あんな邪魔なものをなぜ走らせる。都の職員が給料が欲しいだけだろう」とメッチャクチャに憎まれていて、ほんで廃止になったのね。いまになると「効率主義の犠牲」とかっちゃってるけど、全然ウソなんです。都民の希望がやっと叶って廃止になった」 へえ。 だいたいむかしの東京とかは唖然とするくらいきったない町で、商店街あるでしょ、そうすっと通りからはカッコイイ建物に見えるんだけど、実はそれは芝居の書き割りみたいに建物にどっかの写真かなんかで観たカッチョイイ家の絵を描いた、板みたいなファサードが貼り付けてあるだけでさ、後ろはチョーこぎたねーボロ小屋なんだよ。 そーゆーのを「看板建築」と名付けたひとがいるのだけれどね、なんちゅうか、子供だましというか、投げやりというか、 そーゆー、冗談みたいな建物がたくさんあった。 プロレスがすごく流行ってて、力道山という北朝鮮出身のひとがなぜか日本人あこがれのヒーローでね。さんざん汚いことをするアメリカ人レスラーとかにいじめられて、隠し持ったフォークとかでぶすぶす刺されちゃったりして、血まみれで、えーと、なんちったかな、あのひと、ジョセフ・トルコ! このトルコっちゅう審判がまたマヌケで、カメラの側から必ずみえてるフォークとかの凶器にいつまでたっても気が付かないんだよ。 でも最後には、「カンベンできるのも、ここまでだ。日本人を怒らせるとこわいぞおおおっ、ちゅうんで、空手チョップ空手チョップ空手チョップ!で、エラソーな白人をマットに轟沈するのですな。実はこれ、日本人の自民族観を形成したのだと思う」 ほんとかよ 土曜日は黄金の日で、なんとなれば、午後4時半からサンダーバードがある。 ありっ、日曜日かな?ま、どっちでもいいよね。 ほんで、これが終わると鉄腕アトムで息もつがずに「コンバット!」なのよね。 鉄腕アトム。 そーそー「アトムボーイ」のことよ。 日本では、ちゅうかもともと「鉄腕アトム」という。 あれ、初め実写だったw 飛ぶところとかピアノ線みえててさ、ジェットの煙が上にたちのぼってるw ほんで演ってるの子供なもんだから、くたびれて足がだんだんさがってくるw アニメになってからは、マジで、くらああああい、かなしいいい物語ばっかりで、 いま考えると、なんであんなの子供に人気があったかわからない。 鉄腕アトムは、ロボットなので、人間からいつも差別されている。 「おまえなんかパチモンじゃん」とゆわれて、悔し涙にくれるのね。 でも人間からのロボット差別にたえかねて戦争をしかけても、圧倒的な力で粉砕されて負けてしまう。 パチモンがほんものの人間に勝てるかよ、という結論なの。 … Continue reading

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やがてやってくる静けさのために_1

インドのひとは「40になれば森にはいる」という。 両手にもっていた仕事をそのまま唐突に、だが、そっと地面に落として、踵を返すように木立のなかにわけいって静かな時間をもつ。 60歳になれば、川の畔にじっと座って水の流れをみつめるのがよい。 なぜなら水の流れには人間の「死」が映っていて、その「死」の相貌を考えることは、そのまま自分がすごしてきた「生」を考えることにほかならないからである。 インドのひとは、そのように述べる。 しかし、それは自分にはできないことだろう。 直感的に納得しやすそうな例を挙げれば、わしの大叔母が個人の飛行免許をとったのは60歳をすぎてからのことだったのである(^^) 子供の頃、「人間が死ぬ」ということのわけのわからなさが、おそろしくて、嫌いでもあった。 よく思い出してみると、眠くなるたびに、自分を深淵までひきずりこもうとする「死」がすぐ近くまで来ているようで、悲しくて、こわくて、自然と涙がでた。 手足を強ばらせた。 わしはいまでも眠くなってくると機嫌がわるくなって、やりたくもない義務をおしつけられたようで、わしが眠くなってきたとみるや、ひとびとは遠巻きになって、モニ以外はわしに話しかけたりはしない。 なぜそうなるのかが長いあいだわからなかったが、あるときモニに眠りと死がいかに近縁かを教えてもらって、なるほど、と思い返した。 わしは、ただ、眠りに落ちるたびに、死への恐怖と戦っていたらしい。 そばによっていもしないのに、うなり声をあげたヘンなひとの魂に牙をむかれた死のほうは、さぞかし迷惑なのに違いない。 「死はおもいもかけないときに突然やってくる」と兼好法師が言っている。 それは遠い旅の行き先にあるのではなくて、きみの隣に立っている。 きみと一緒に、影のようにつきそって歩いていて、突然、けさがけに切りつけてくるのだ。 だから死を将来に予定するのは、まったく浅はかな考えである。 宗教者のおかしやすい過ちは、たいした思慮もなしに「死が終わりではない」といとも簡単に述べてしまうことであって、死が終わりでなければ、生のほうはぼんやりしたつかのまのまどろみにすぎなくなって、たいして緊張してすごさないでもすむものになってしまうことに気が付いていない。 宗教者がたいていだらしのない、やる気があるとも思えない一生を送るのは、そのせいでもあるのだろう。 人間が「彼岸」などはないのではないか、死後の世界などほんとうはないのではないか、と考え始めたのはごく最近のことで、たとえば欧州では、きわめて東方的な思想であるキリスト教がつくった教会が、人間の生を阻害しつづけてきた。 最も最近まで教会が現実的な弊害を社会に与えていたスペインでは、実際、 1970年代まで人間は自由な人間として生きることをゆるされなかった。 歌や踊りまで禁止しておきながら、カトリック教会がなにもなかったような顔をしているのは、1500年におよぶ不誠実の歴史が、人間などは、不誠実を決め込んでいれば、すぐに忘れてしまう、と彼等におしえて、たかをくくっているからである。 死後の世界が存在しない、という仮定は、仮定として追究するだけでも茫漠として、かすかな島影もない大洋を船で横切ってゆくような気にとらわれる。 「死後の世界がない生」について考えてもうまく映像が大脳にあらわれない理由は、世界の言語のほとんどには「彼岸」の存在が染みのように浸透していて、「現世限り」の一生というものを考えることは可能でも、そこからはいっさいの情緒が喚起されないからだろう。 普遍語、あるいは、世界についておよそ過不足なく考える事ができる言語で、「彼岸」を語彙がためこんだ情緒のなかに大きく含有しないのは日本語と中国語と英語、くらいのものであると思う。 なかでも日本語は「彼岸」という言葉自体が浄土宗の衣を直截身につけているのでわかるとおり、語彙のなかに彼岸のある世界とない世界を内蔵していながら、明然としきりを設けている点ですぐれている。 語彙のもつ情緒や論理のベクトルの豪腕にひきずられないで、落ち着いて「死」について考えるにはよい言語であると感じられる。 たとえばロマンス諸語には実質を伴った「死」が巨大な影になっておおいかぶさっていて、到底そういうわけにはいかない。 人間は惨めな生き物であって、人間が乗る船は最終の寄港地に着く前に必ず沈没する。人間が搭乗券を買って乗り込む飛行機は、例外などひとつもなく墜落の憂き目にあう。 旅の途中で殺され、漠然と心に抱いていた目的は、達成されないで中断されるためにのみ存在する。 「死」は例外をもうけないからである。 使っている言葉は、その言葉が主観としている人間の存在には意味があることを前提としているのに、現実の自然の法則においては、一個の人間の一生に意識が集団として累積された場合の、誤差として以上の意味を個人の一生にみいだすことはできない。 「いてもいなくても変わらない」存在にしかすぎない。 くだらない例を挙げると、ラガーディアに着陸する旅客機はマンハッタンをなめるように低空で飛んで行くが、そのときに下をみつめていると、自分が購買した建物が見える。 それはいままでの短い冷菜凍死のなかでも、おもいきり全力を挙げなければならなかったビルで、自分にとっては、たかがオカネのこと、といっても、トラウマになっていかねない緊張の結果購買した不動産である(^^;) ところが空からみると、それはそれはちっこい区画にしかすぎなくて、あの数ヶ月の膨大な時間と集中力を費やして、こんなくだらないものを手にいれただけなのか、と考えて気が滅入る。 そんな例はあんまりだと思うひともいるだろうが、哲学上の発見、科学上の発見と言っても、どうも、そういうありかたというものは変わらないように思われる。 マンハッタンのかわりに宇宙に小さな区画をもって、他人がその名前をおぼえていさそうなのが、違うといえば違うだけである。 … Continue reading

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日本の古典_その4 RCサクセション(忌野清志郎)

どんな音楽が好きか、どんな音楽を聴いているか?という質問くらい答えに窮する質問は珍しいと思う。 好きだと考えたり、聴いてみて、いいな、と思う音楽は音楽に浸かって暮らしている人間ほど年中変わっているからです。 音楽が好きな人間ほど、聴かれたくない質問のひとつなのだと思われる。 昨日聞いた音楽を思い出してみると このブログ記事にも何度もでてくる Grace Potter & The Nocturnals Sa Ding Ding Miguel Bose ( y Amaia Montero) Shakira (y Miguel Bose) Buika Easy Star All-Stars Mari Boine Sinik ちゅうような面々の音楽を相変わらず飽きもせずに聴いていて、それにうんざりしてくると、インド人たちのFM局やWBGOを聴いたりしていた。 音楽を聴いて、すっかり衝撃を受けてしまった、というのは、 むかしフィフスアヴェニューのラジオ・シティの近くにあったHMVの地下にDVDを買いに行ったら、たまたま流れていた Salif Keita  が最後で、それは考えてみると、もう12年も前のことである。 忌野清志郎を初めて聞いたのは鎌倉の義理叔父の母親の家で、その家にはApple IIがあったりFM7があったり、あるいはPC9801VM2という「テキストVRAM」という面白い工夫がしてあるNECのコンピュータがあったりで、そのうえ、観世栄夫の「井筒」を録画したVHSはあるは、大橋巨泉といまの奥さんだという若いアナウンサーがDJというか、リスナーのダジャレの審査をしているヘンテコな番組から突然 1910 Fruitgum … Continue reading

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A Big Swell

金正恩が延坪島を砲撃したとき、世界中の「東アジアウォッチャー」が「あっ」と思ったはずである。 あ、と思ったのはなぜかというと、ウォッチャーであるのに「あっ」と思っていてはマヌケだが、理由があるにはあって、総書記に就任早々延坪島を砲撃するということには、 「これからは軍事恫喝路線は収拾して経済を再建してゆく」というメッセージがこめられていたからだった。 そーだったのか、とウォッチャー木村たちがぶっくらこいているころ、青瓦台では李明博たちが顔をしかめていたに違いない。 こちらはなぜ顔をしかめていたかというと、せっかくいろいろにさまざまにおためごかしを述べながら、「隣国として支援しようとしてもしきれなかった北朝鮮を一身を投げ出して、巨大な経済的出費をものともせずに、同胞を救いたい一心でついに半島統一の形で人道的統一を行う韓国」という図式をつくる準備をしてきたのに、この時点で経済路線に転換されると「中国の影響下にある北朝鮮」が固定してしまって韓国には良いことはなにもなくなってしまうからです。 それでは北朝鮮が中国傘下の子会社みたいな国になってしまう。 青瓦台は慌てて朴正煕の娘、朴槿恵に連絡をとったに違いない。 「このままでは、われわれはアメリカの影響下にとり残されてしまう」 竹島上陸はこの頃に決まったに違いないので、任期満了で次を考える必要がない李明博が、自ら竹島に上陸することで、アメリカ主導型の米日韓の安全保障の枠組みなんか、もうやってられるかよ、という韓国からアメリカへの強烈なメッセージだった。 むかし、ヒラリー・クリントンからニュージーランドへの不思議なメッセージが届いたことについて書いたが https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/24/ヒラリー・クリントンの奇妙な提案/ そっちがそういう考えなら、わしらにも考えがあるというか、韓国人は、アメリカ人たちに対して「やる気あんのかよ」と思っていたところなので、もう、なんだか防御線を後退させて、あとは遊撃的に防御するからダイジョブだとかいかにも眉唾なことを述べているアメリカに頼りきるのはやめて、アメリカ主導だけでやるのはヤンピだ、という韓国の歴史的意思表示が李明博の竹島上陸だった。 韓国の最大の悩みの種は、もともと、この「やる気が全然ないアメリカ」で、IMFを通してアメリカとの強い結びつきで経済を復興してきた韓国は、経済の復調とともに、しかし、急速に中国との直截的な関係を重視するようになってきていた。 韓国の経済の実態はサムソンそのものだという笑い話があるが、そうそう笑ってだけいてよい話ではなくて、サムソンという会社はもともと日本型の財閥型経済であり社会だった韓国そのものを根本から変えてしまった。 一方でサムソンは言わずと知れた日本の電気会社群相手に完勝した先端情報家電の会社で、英語世界では洗濯機や冷蔵庫も売っているが、ほんとうの商売はスマホやLAN対応のプラズマや液晶画面のテレビで、こういう業界の実態を知っていれば簡単にわかるが、台湾や中国本土もひとつの業界をなしていて、この経済世界を通じて韓国は「東アジア圏」をつくろうとしている。 たとえばディジアがノキアから買い取ったQt http://en.wikipedia.org/wiki/Qt_(framework) などを共通基盤にする、というようなかっこうでこれからますますリソースの共有化が起こっていくだろう。 中国は中国で、20年前には日本に役割を担ってもらうべ、と想定していたが、最近は台湾や韓国のほうが優秀なので、先端技術を吸収して経済のコンプリートセットをつくる相手としても都合がよくて、韓国との距離をぐっと縮めてきていた。 中国と韓国の水面下での接近はアメリカが眉根にしわを寄せるに十分なものだった。 アップルとサムソンの訴訟をめぐる(訴訟そのものではない)やりとりにも、そういう雰囲気がみてとれます。 しかし北朝鮮だけは、あんたにあげるわけにはいかないのさ、という韓国の中国に対するデモンストレーションが竹島上陸だった。 もちろん、それはアメリカと北朝鮮に対するデモンストレーションでもあった。 北朝鮮の「冷静になりなよ」という極端に冷淡なコメントは、そうした政治的利害を忠実に反映している。 中国・韓国・日本の3国には、やたらめたら感情的で、ちょっと火をつけてやれば、「ポンッ」と燃えて集団で喚き廻る頭の弱い、「歩く政治的油紙」みたいなトンマな「愛国人」「自称右翼」がいっぱいいるので有名だが、竹島ならば、このうまく使えれば便利だが、こっちの政治意図をちゃんと読んでくれないので通常は邪魔なだけの「愛国者」たちも、あさっての方角にものごとをうけとって見当違いのあばれかたをしないであろう。 ちょうどヒラリー・クリントンが「捕鯨」「対日戦争の記憶」を暗喩として、太平洋外交の基調底音として響かせながら外交を進めているのと同じように、東アジアにおいては常に「反日」「日帝支配の記憶」は安全なカードだからです。 金正恩が軍幹部とこれみよがしにつるんで、やたら軍を賞めまくって暮らしているのは、半島人であれば、誰にでも一目瞭然、経済振興路線に舵をきって、ここで軍隊にむくれられるとえらいことになるからだが、この経済路線によって、北朝鮮がまるごと懐にころがりこんでくる可能性をつかんだ中国は、金正恩に協力して、軍隊を抑える側にまわっている。 半島のことを一緒に考えて助けてくれる、わしの友達の「よん」さんも経済振興がうまくいくかどうかわからない、とわしの問い合わせのメールに答えていたが、うまくいかない場合は多少あらっぽいことが起こって、半島は韓国主導で統一されることになる。 いずれにしろ、アメリカの影響力排除に、中国・台湾・韓国・北朝鮮の地域全体が動きはじめたことで多少の紛争が起きる可能性が高くなっているよーである。 アメリカは、それによって国防策を変えることはないにしても、日本の「沖縄基地返還」からはじまって、中国が「や、やっぱりまだやる気おおありだったのね」と驚愕させられたオスプレ配備にまで国民的な反対感情を形成する日本に深く失望している。 わりと単純な感情というか、「あんた、同盟者じゃなかったの?」という、そのへんのおばちゃんたちがもちそうな感情であって、こういう感情は解決優先度がとても低いアンノイアンスに過ぎず、政策に影響するわけはなくても、長期的にはかなりの影響力をもつと考えてよい。 尖閣は竹島と別の問題で、この問題は中南海からやってきた問題だが、しかし、旧安全保障の枠組みから新しい安全保障の枠組みに地域が移行する途中で、宙ぶらりんのまま漂っている日本を政治駆け引きの場として利用するにしくはなし、とみなが考えている点では竹島と同時期に自称中国本土人のオチョーシモノたちが上陸したことに必然性がないわけではない。 ここまで書くと「日本は、どうなってるんですかあー?」と思う日本のひともいるだろうが、日本は国内における右翼の衰退以来、アジアとの「絆」を失ってしまっている。 なんだか役所の作文みたいな外交ばかりをしていて、外交的機能不全に陥っているので、この点でも「古く」なってしまっているのでしょう。 ちょうど、江華島事件 http://en.wikipedia.org/wiki/Ganghwa_Island_incident の頃と半島や大陸との関係が逆になりつつあるような趣になってきている。 竹島や尖閣諸島への日本の政府・マスメディアの反応を眺めたかぎりでは、これが反応なら人民解放軍は「局地なら意外とやれるかな?」と考え込んでいるかも知れず、まきこまれなくてすむ紛争にまきこまれないためには、国民ごと、もう少し目を見開いてしっかり自分の国のまわりを見た方がいいがなあー、たとえば北とかも、と思わないわけにはいかないのです。

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餃子

中国のひとが普通にレストランで「焼き餃子」を食べるのは最近のことであるらしい。たとえばオークランドで観察していると東北地方系の店は、伝統的な、皮の厚い、水餃子と蒸し餃子が中心で、20個でNZ$6(400円)ちゅう感じです。 具は、本来は野菜が中心だそーだが、「それはむかしはビンボだったからだよ」だとかで、キャベツとか、野菜ばっかしの餃子は徐々に、というのは世代が若くなるにつれて、廃れていっていまは豚肉が多い餃子がやはり人気がある。 上海人のにーちゃんに訊くと、「でも豚はさー、殺すときに『血抜き』しないと不味いんだけど、ニュージーランドでは、そういう屠殺の仕方が残酷だから違法だとかで、ダメなんです」という。だから、いまいちである。 ニンニクとかいれてごまかすっきゃない。 薄皮の焼き餃子は最近の中華料理の流行で、家から比較的近い、というか行きやすい 「グランドパークレストラン」ちゅうような店 http://www.grandparkrestaurant.co.nz/ に行くと、飲茶の時間に「4個NZ$5.5」でメニューにあります。 5.5ドルは、380円ちゅうような値段なので、よく考えてみると、ニュージーランドでは無茶苦茶(高額)な値段である。 スタイリッシュな食べ物のよーだ。 新しいメニューの扱いのにおいがする。 どーも伝統的な「餃子」とは別のものであると意識されているよーで、わしが最前から中華料理店の「焼き餃子」は日本からギッてきたレシピに違いないと考えるのは、主にそーゆーことによっている。 因みに、「薄皮」と書いたが、グランドパークレストランを例にとると、ふたりいるシェフのどちらが作るかによって、形まで違う(^^;) ひとりは日本の餃子よりも薄い皮をぱりぱりに焼いて、銀座の「天龍」みたいなところよりも十倍おいしい。 もうひとりのシェフは、薄皮シェフと厨房において尖鋭に対立しているもののごとくであって、もっちりとした皮の餃子を少ない油で焼く。 わしは、どっちもうめえだな、と感じるが、日本のひとはなんとゆっても薄皮のパリパリであるのかも知れません。 東北系の店は一般に「餃子20個6ドル」と窓や壁に書いてあって、注文するときにゆでて欲しいか、スープにいれるか、蒸してもらいたいか、あるいは焼いて欲しいか述べることになっているので、「焼き餃子」自体は、そーとーむかしから普及しているものであるよーです。 「日本では、焼き餃子は残り物とかをそうやって食べるのであって、中国には焼き餃子はないと聞いたけど」とゆってみると、あんまし英語がわからないおばちゃんが、首を傾けて、「それはヘンな話だのお」とゆっているので、もしかすると、戦争前とかの「おおむかしの話」が、東北地帯、満州ではなくても、たとえば北西の張家口のようなところでは日本の勢威がおおきかったので、そういう町での記憶がいまに伝えられているのかもしれません。いつだったかコンピュータ会社に出資してくれと言いに来た福建省のおっちゃんとロス・アンジェルスのディムサム屋で話しているとき、北のほうの饅頭ってなんにもいれないものなんでしょう?と聞いたら、「いれたくても、むかしはなかの餡をつくるカネないよ」とゆってニッカリ笑ったりする。 なんだか、そーゆー、いろいろな、あんまり追及して考えないほうがよいような理由があるもののよーでした。 わしが初めて日本以外の町で日本風「焼き餃子」を見たのはシンガポールの台湾料理屋だったが、最近ではマンハッタンでも、あそこにもここにもあって、 むかしチェルシーのわしボロアパートのテーブルの椅子に腰掛けてブログに書いた 「老山東鍋」の1ドルで5つ皿に載ってくる焼き餃子は、わしの好物だった。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/09/26/太陽が昇るとき%E3%80%80%E3%80%80wish-you-were-here/ https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/05/17/食物図鑑%E3%80%80その4%E3%80%80マンハッタン篇/ たいして中華料理が好きでないわしが餃子ばかりはよく食べるが、それは淵源をさかのぼって考えると「ドラゴンボール」の記憶によっているらしい(^^) むかしむかしオークランドのドミニオン通りで、英語が「水」さえ通じないレストランで、 ダンダンミー(担々麺)を頼んで、それだけでは足りるわけはないので、ダンプリンを頼もうと思ったら、これが全然通じない。 困ったなあ、英語わかるひと誰かいないかしら、と見渡しても誰もいないので、わしの後ろに延々と列をなしている中国人たちも、みな、ニコニコしていて、しかし、さっぱりわからねえ、という顔でわしをみつめているだけである。 ドラゴンボールを思い出して、あっ、チャオズ!と思って、「チャオズ、プリーズ」というと、あれこれ推測してもわからないので困じはてていた店の主人の顔が、パッと明るくなって、「チャオズ!チャオズ!」「オー、チャオズ!」という。 後ろの列からも「なんちゃらかんちゃら、チャオズ!」という笑い声がしている。 拍手が起きそうな雰囲気であった。 義理叔父は銀座の「天龍」という店が好きだが、わしはMSGで頭痛を起こすので、ダメであった。ほかにも義理叔父には好きな餃子屋がいくつかあって、神保町にお供させられると、ほとんど必ず「スヰートポーヅ」 http://tabelog.com/tokyo/A1310/A131003/13000637/ という店に行く。 行くとふたりでわしは「大皿」義理叔父は「大皿ライス」を食べたものだった。 味噌汁は義理叔父がわしから取り上げてひとりでふたつ飲みます(^^;) 義理叔父は若いころには、この「スヰートポーヅ」から近い「北京亭」にもよく行ったそうで、まだまだ中国人と言えば「チャンコロ」とヘーキで口にする日本の社会の時代空気のなかで昂然と周恩来の肖像を掲げ、箸袋をみれば「シナは中華人民共和国の蔑称です」と印刷してある、その親父さんの心意気と、いやしい叔父のことなので、もちろん餃子がうまいのもすっかり気に入って、古本屋に行けば必ず、まだその頃は「モーツアルト」と呼んだ「李白」珈琲店とともに、寄って時間を過ごしたものだそーだった。 餃子のような食べ物には、誰でもが、たくさんの思い出をもっている。 それは中国東北でのようなそれだけを大量に食べる「主食」(主食、という思想自体は日本だけのものだが)ではなくて、さりとは言えども「おかず」でもありえない「日本の餃子」の不思議な地位のせいでもあるだろう。 餃子が日本中のあちこちで頬張られるようになったのはせいぜい60年代のことで、 … Continue reading

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