囲繞地

メイルボクスにことんと音を立てて落ちる一通の手紙のうしろにはたくさんの「投函されなかった手紙」があると考えるのはやはりよいことである。
ぎくしゃくと子供が書いたような字でびっしりうまったいちまいの便せんの背後には、何枚もの、まるめられてゴミ箱に捨てられた、おもいのたけや、告白や、投げつけるような感情をそのままたたきつけた言葉が書き連ねられた便せんがあることを判らないと、ひとから送られてきた手紙をちゃんと理解して読むことはできないのではないかと思う。

人間の言葉は、たくさんの沈黙でできている。
人間の言語は人間には決して自分の考えている事や感情を表現することはできないのだという悲哀の表現であり、寂寥の表明である。
ねえ、きみにもわかるでしょう?という顔で語りかけられる言葉の卑しさ、いやらしさを思い出してみればわかるが、人間は伝達を口実にして、世界や自分への不信と理解の拒絶を言葉を使って述べているにしかすぎない。

12歳。
シャンパーニュの森。
真っ青な月の光で照らされてじっと立ちすくんでいる木の群れを集会に集まった精霊たちを目撃しているような気持ちで見ていた。
それはコバルトブルーで染め抜いた強い青い色の月の光で、怯えた気持ちで、しかし目は釘付けになって、夜更けの森を見つめていた。
ほとんど18世紀の絵画から抜けだしてそこにいるとでもいうように、おおきな壮麗な角を生やした鹿がこちらを見て立っていた。

そのときに、ぼくはあの音、「沈黙の音」を聴いた。
ずっとあとでそれは、人間の体内の臓器や循環器が立てる音が内側から聴覚に反映して聞こえるのだと学校の教室で教わったが、そういう正体はどうでもいいと思う。
この世界に「沈黙の音」が存在することに、ぼくは驚いていた。
その発見は、長くぼくの思考に影響した。

自分には饒舌な人間への嫌悪があると思う。
雄弁家はなおさらダメである。
「如才がない」という言葉がそこに加わると、いてもたってもいられないほど嫌だと考える。

声の大きなひとの言う事など聞いても仕方がない、という気持ちがある。
大きな声で話す人の言う事は、経験上、口の端にほんの少し唾がたまっている、だらしのない感じがする形の唇がぱくぱくと動いて、この世の中で何度も繰り返された、いっけんはもっともらしいが、その実ケーハクな、プラスティック製の才気で出来た言葉の羅列にすぎないからである。

前には「聞き取りにくい声」を聴きに行くのだと述べたが、ほんとうは、沈黙をこそ聴きたいのであるだろう。
音にかえて発声される言葉を囲繞する何千何万、いや、何億という言われなかった言葉、のみこまれて、広場から踵を返してひとりで歩み去っていったひとの胸にわだかまった言葉を聴きたいと考える。
そこにしか人間が人間に対して伝えたかった、せいいっぱいの、切実な言葉はないからである。

人間はあるいは1本の管楽器にしかすぎない。
喉に共鳴器官をもって、鳥のような声でさえずり、「笑う」という不思議な発作をもち、起きてからまた眠りにつくまで、右からあらわれた言葉を左に貿易して、自分が考えたことを述べたように錯覚してひとりごちる。
この楽器を演奏しているのは、沈黙からこぼれ落ちた言葉であって、(言葉のもともとの機能を考えれば、あたりまえだが)特に楽器自体が考えて音をたてているわけではない。

どんなに良い音を立てても、楽器は楽器なので、それが「良い音」であるという以上の感想をもつ必要をぼくは認めない。

ただ、どこかにそこだけ冷却された光がさしているような沈黙があって、言葉の真の姿をみせている場所に遭遇しないかと願うだけである。
饒舌な思想から逃れて、感情も情緒も消滅した、静かな場所に、じっと立っている沈黙の音を聴きにいかねばならない。

あまり時間が残っていないし、この世界には人間を愛してくれたものはもう何も残っていないのだから。

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