やがてやってくる静けさのために_1


インドのひとは「40になれば森にはいる」という。
両手にもっていた仕事をそのまま唐突に、だが、そっと地面に落として、踵を返すように木立のなかにわけいって静かな時間をもつ。
60歳になれば、川の畔にじっと座って水の流れをみつめるのがよい。
なぜなら水の流れには人間の「死」が映っていて、その「死」の相貌を考えることは、そのまま自分がすごしてきた「生」を考えることにほかならないからである。

インドのひとは、そのように述べる。
しかし、それは自分にはできないことだろう。
直感的に納得しやすそうな例を挙げれば、わしの大叔母が個人の飛行免許をとったのは60歳をすぎてからのことだったのである(^^)

子供の頃、「人間が死ぬ」ということのわけのわからなさが、おそろしくて、嫌いでもあった。
よく思い出してみると、眠くなるたびに、自分を深淵までひきずりこもうとする「死」がすぐ近くまで来ているようで、悲しくて、こわくて、自然と涙がでた。
手足を強ばらせた。

わしはいまでも眠くなってくると機嫌がわるくなって、やりたくもない義務をおしつけられたようで、わしが眠くなってきたとみるや、ひとびとは遠巻きになって、モニ以外はわしに話しかけたりはしない。

なぜそうなるのかが長いあいだわからなかったが、あるときモニに眠りと死がいかに近縁かを教えてもらって、なるほど、と思い返した。
わしは、ただ、眠りに落ちるたびに、死への恐怖と戦っていたらしい。
そばによっていもしないのに、うなり声をあげたヘンなひとの魂に牙をむかれた死のほうは、さぞかし迷惑なのに違いない。

「死はおもいもかけないときに突然やってくる」と兼好法師が言っている。
それは遠い旅の行き先にあるのではなくて、きみの隣に立っている。
きみと一緒に、影のようにつきそって歩いていて、突然、けさがけに切りつけてくるのだ。
だから死を将来に予定するのは、まったく浅はかな考えである。

宗教者のおかしやすい過ちは、たいした思慮もなしに「死が終わりではない」といとも簡単に述べてしまうことであって、死が終わりでなければ、生のほうはぼんやりしたつかのまのまどろみにすぎなくなって、たいして緊張してすごさないでもすむものになってしまうことに気が付いていない。
宗教者がたいていだらしのない、やる気があるとも思えない一生を送るのは、そのせいでもあるのだろう。

人間が「彼岸」などはないのではないか、死後の世界などほんとうはないのではないか、と考え始めたのはごく最近のことで、たとえば欧州では、きわめて東方的な思想であるキリスト教がつくった教会が、人間の生を阻害しつづけてきた。
最も最近まで教会が現実的な弊害を社会に与えていたスペインでは、実際、
1970年代まで人間は自由な人間として生きることをゆるされなかった。
歌や踊りまで禁止しておきながら、カトリック教会がなにもなかったような顔をしているのは、1500年におよぶ不誠実の歴史が、人間などは、不誠実を決め込んでいれば、すぐに忘れてしまう、と彼等におしえて、たかをくくっているからである。

死後の世界が存在しない、という仮定は、仮定として追究するだけでも茫漠として、かすかな島影もない大洋を船で横切ってゆくような気にとらわれる。
「死後の世界がない生」について考えてもうまく映像が大脳にあらわれない理由は、世界の言語のほとんどには「彼岸」の存在が染みのように浸透していて、「現世限り」の一生というものを考えることは可能でも、そこからはいっさいの情緒が喚起されないからだろう。
普遍語、あるいは、世界についておよそ過不足なく考える事ができる言語で、「彼岸」を語彙がためこんだ情緒のなかに大きく含有しないのは日本語と中国語と英語、くらいのものであると思う。
なかでも日本語は「彼岸」という言葉自体が浄土宗の衣を直截身につけているのでわかるとおり、語彙のなかに彼岸のある世界とない世界を内蔵していながら、明然としきりを設けている点ですぐれている。
語彙のもつ情緒や論理のベクトルの豪腕にひきずられないで、落ち着いて「死」について考えるにはよい言語であると感じられる。
たとえばロマンス諸語には実質を伴った「死」が巨大な影になっておおいかぶさっていて、到底そういうわけにはいかない。

人間は惨めな生き物であって、人間が乗る船は最終の寄港地に着く前に必ず沈没する。人間が搭乗券を買って乗り込む飛行機は、例外などひとつもなく墜落の憂き目にあう。
旅の途中で殺され、漠然と心に抱いていた目的は、達成されないで中断されるためにのみ存在する。
「死」は例外をもうけないからである。

使っている言葉は、その言葉が主観としている人間の存在には意味があることを前提としているのに、現実の自然の法則においては、一個の人間の一生に意識が集団として累積された場合の、誤差として以上の意味を個人の一生にみいだすことはできない。
「いてもいなくても変わらない」存在にしかすぎない。

くだらない例を挙げると、ラガーディアに着陸する旅客機はマンハッタンをなめるように低空で飛んで行くが、そのときに下をみつめていると、自分が購買した建物が見える。
それはいままでの短い冷菜凍死のなかでも、おもいきり全力を挙げなければならなかったビルで、自分にとっては、たかがオカネのこと、といっても、トラウマになっていかねない緊張の結果購買した不動産である(^^;)

ところが空からみると、それはそれはちっこい区画にしかすぎなくて、あの数ヶ月の膨大な時間と集中力を費やして、こんなくだらないものを手にいれただけなのか、と考えて気が滅入る。

そんな例はあんまりだと思うひともいるだろうが、哲学上の発見、科学上の発見と言っても、どうも、そういうありかたというものは変わらないように思われる。
マンハッタンのかわりに宇宙に小さな区画をもって、他人がその名前をおぼえていさそうなのが、違うといえば違うだけである。

あるいは自分は子供に自分の形質なりなんなりを残すためにうまれてきたのかというと、わしには、そういう考えはやや品がなさすぎるように感じられる。
科学者のなかには、「人間はDNAの乗り物だ」と下品な上にケーハクな思想を述べてとくとくとしている者がいるのは承知しているが、それは機知ですらなくて、いままでずっと正面から眺めていたものが、下から見たら違うふうに見えました、と述べているにしかすぎない。
それを新しい知見であるように思い込んでしまうのは、要するに頭がわるいからだろう。

死はだから、自分の魂や心から絶対に一歩もでてゆかない問題なのである。
他人と共有することができないし、それは鏡のなかの自分の顔であって、誰か他人の顔を借りてきて考えてみるというわけにはいかない。

ひとつの考え方は、このブログ記事で何度も述べたとおり、魂が世界を感覚として受容するために自分はこの世界に生まれてきたと仮定することだが、言うまでもなく、この「仮定」は魂の不滅を前提にしている。
魂などは神様の悪い息がかかった言語の妄想であって、そんなものはないのさ、という前提をうけいれてしまえば、あとに残った、些少な「生きることの意味」の選択には、
たとえば自分がひそかに「このひとを自分は愛しているのだ」と思い詰めて考えていたひとが、ある日、立ち寄ったカフェの帰りに、先週のスタンダップ・コメディが可笑しかったことや、角に新しく出来たコーヒー店の、シトロンのタルトがおいしかったことを言ってきみには天使にしか見えない笑顔で笑ったあとに、その当の相手が、よく聞き取りにくい声で、「わたしは、あなたを愛してるの」とささやくように述べて、きみが、びっくりしてたちどまって、みるみるうちにあふれてきた涙が、頬を濡らすにまかせる瞬間がある。

自分は、この瞬間にであうためにいままで生きてきたに違いない、と考える。
須臾のときが永遠と拮抗する、人間の生というものがあれば、死があっても、別にかまわない、と思うことで、もしかしたら、人間の長い惨めな一生は、たったそれだけのためにあるのかもしれません。

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