平成日本への道_その2

小津安二郎というひとは、当時は、いまから考えると想像がつかないくらい作る映画の評判が悪かったひとで、最後期は「マンネリ」「世界の黒澤、大船の小津」(大船の松竹映画制作所の内輪だけの高い評価、という意味と思われる)「保守反動」と言われ続けた。
あんな映画は日本という特殊な社会のうちがわだけで受けているので、世界にでればカスみたいなもんだ、とまで言われた。
「ぼくは豆腐屋だから豆腐しかつくれないのさ」と憮然として述べてはみたものの、やはり気にしないわけにはいかなかったようで、「早春」という映画だったと思うが、池部良という、わしも子供の時に電気ビルのてっぺんで会ったことがある(^^)俳優を使って、当時の現実生活に近い設定で映画を撮ったことがあるよーでした。
大会社の選良社員の役だったとおぼえているが、いつもの「現実にはありもしない」西洋の家に遜色のないラウンジや、おおきな門構えのある家ではなくて、当時の会社員の夢である分譲住宅に主人公夫妻をすませることにした。
東京物語においては戦争で夫を失った若い女でさえ同潤会アパートに住んで貰わねば我慢できなかった小津が珍しく現実の風景と妥協した一作だったのだと思われる。

いま、この映画を観るわしの目には、「6畳と4畳半にトイレ」がついているらしい「モダン住宅」のこの家は、スラムというかなんというか、雨風をしのぐだけの犬小屋に対する「ヒト小屋」というものがあれば、これがそうだろう、と思われる体のもので、ボロイ家の印象が強烈すぎて物語のほうは、ぜんぜん頭にはいらなかった。
映画の中でなにが起きたのか、少しもおぼえてない(^^;)
おぼえているのは「やたら家がボロかった」ということだけです。

小津というひとはもともと「安定した日常における不安定な人間と人間の関係」という西洋的なテーマを追究したかった監督で、ビリー・ワイルダーを映画監督の理想とした。
そのためには実質のある「生活」というものが必要なのである以上、人間が人間としてふるまえるだけの空間が確保されていなければ話にならないことをよく判っていたひとでもあって、だから、ゆったりとして、頭のてっぺんから天井までにおおきな余裕がある室内を好んで撮った。
有名な「ロー・アングル」の理由のひとつは、あんがい「西洋的な枠組みのなかで日本の生活を描写する」ための工夫のひとつなのかもしれません。

小津が描いた「落ち着きのある日本」など、その頃の日本にはどこにもなかった、というのは、いまでは西洋の熱狂的な小津ファンたちにも周知のことになっている。
半ば家出した主婦が、自分以外は列車の振動で揺れる一輪挿しの薔薇が揺れているだけの一等車のソファに腰掛けて憂色にふける、あの「日本」は、小津のあたまのなかにだけ存在した日本だった。

「これがデカダンスなんだよねえー」と「大勝烈定食」
http://tabelog.com/kanagawa/A1404/A140402/14000226/dtlrvwlst/3659540/11028698/
を平らげた義理叔父は、欣喜に入っておる。
ここのソースは、企業秘密でさ、と食べ物で満足したひと特有の単純な幸福に目を輝かせながら義理叔父は述べる。
4人の役員しかレシピしらないんだって。
ほんでね、ほんでね。
4人で一緒に旅行することは絶対ないのだそーだ。

王貞治というひとはもともと両親が福建省に出身したひとである。
半藤一利の書いた本によると、王選手は自伝で書いてある出自の前には川向こうの半藤一利の家があった側に住んでいたそうで、「チャンコロ」だというのでものすごくいじめられた、と証言している。
何をみても、どこにも当時のことに触れていないのが、王貞治にとって、その子供時代がどういうものであったかのなによりの証拠である、と書いている。

力道山と同じ、というか、秘匿していたわけではないから違うともいえるのか、活躍するにつれて、日本では「わるい国籍」であるはずの中国人であることは、なんとなくうやむやになって、中国人だけど頑張ったんだから日本人として遇してあげれば、という、なんだか得体のしれないことになって、最後は国民栄誉賞をもらう。
なんども書いたようにわしは昔の雑誌を蒐集する趣味があって、日本の雑誌もご多聞にもれないが、連合赤軍が南軽井沢の「72ゴルフ」に近い「あさま山荘」にこもった事件の印象を訊かれて、「アカっていう、悪いやつらがいるんですよね。どんどん捕まえてもらわなければ」というような、他の「各界有名人」のコメントに較べると突出して「あんなやつらは許すべきでない」という強い反応をみせているが、多分、これは自分が外国人であって、ちゃんとしていなければ日本社会から認めてもらえない、下手をすれば送還される、という子供時代からの日本社会によるイジメと、恫喝に対する心の反応が固定化しているのだと思われる。

「野球」は当時の日本人の生活には、途方もなくおおきな位置を占めていたようで、義理叔父も神宮球場や後楽園によくでかけたものであるらしい。
球場としては、神宮球場がひろびろとして、気持ちがよくて、いちばんよかった、という。
「川崎球場、なんちゅうのは、ひでえ球場でさ」と、嬉しそうな顔をする。
一応、両翼「90メートル」っちゅうことになってるんだけど、どうみても60メートルくらいしかないんだよ。
レオン、っちたかな、ボールにくいこまれて、ぽっこーんとポップフライ打ち上げたらさ、それが風でふらふらと押されてスタンドにはいっちまうのさ。
「観客も翌日の新聞みると、五千、とか書いてあるんだけど」
数えてみると、11人しかいない。
南海にメイっていう選手がいてね、すげー、気の良い奴で、「へーい!メイ!」って外野席から呼びかけると、ピッチャーが投げてるのに後ろ振り返って手をふったりしてたw

高校生になると大森や府中の競馬によくでかけた。
小田原の競輪にでかけたら、全部まけて、歩いて渋谷に帰ったので死にかけた。

王貞治が「アカ」とはき出すように述べた連合赤軍はおおきな転機だった。
団塊世代は「通過儀礼としての革命運動」というストレス発散装置みたいな、よく訳のわからない社会慣習をつくりあげたが、あさま山荘に「新左翼」がライフルをもちこんで機動隊の機長を撃ち殺したことによって、一挙に全共闘以来の運動そのものの支持が失われてしまった。
日本人は、そこで初めて「ほんとうに革命が起きてしまったら」と考えたのだと思うね、と義理叔父は言う。
暴力とむきあわねばならない。
そんなのは嫌だな。

ぼくの学校は、ちょうどロックアウトが終わって3年目だった。
制服がなくなって、学校のなかは滅茶苦茶でさ、ぼくは授業やなんかは、あんまり出なくなっていた。
途中に女学館とか、そーゆー女子校があるせいでミニスカートの制服の女の子ばかりがたくさん乗っていて、数の少ない男ガキのわしらとしては座ってると目の前に腰や胸やむきだしの太腿が、むんむんしていて、アップでおしつけられるので、「エロバス」と呼んでいた学バスがあるんだけどね、それに乗ろうとおもってバス停に立ってると、たいてい友達がやってきて、おい、遊びに行こうぜ、っていう。
ほんでまず「ゆで卵食べ放題」のモーニングサービスがある喫茶店にいって卵を十個くらい食べて気持ち悪くなりながら、今日一日をどうさぼって過ごすか談合してから、青山や目黒に歩いていったものだった。
恵比寿?
恵比寿は、その頃は、ビール工場があるだけで、なああああーんにもないところだったんだよ。
大黒食堂っちゅう定食屋があった。
代官山のほうに行くとさびれまくったクソ商店街があって、カッコイイ模型屋があった。
それだけ。

青山は「青山の名前だおれ」とゆって、演歌とかに「雨の青山」なんちて歌われるわりには人も少ない商売が成り立たないところでさ、いまの引田天功の先代の天功パブとかがあって、そのパブがある青山学院っちゅう大学の近くに東京のガキなら皆知っていた「志賀昆虫普及社」があって、中村書店があった。
その近くに三河屋という、やたらカツカレーがうまい店があって、ポケットのなかにオカネがはいってると、よくそこでカツカレーを食べたものだった。

ずっとずっと歩いていって、むかしは多分道の反対側にあったアンデルセンもすぎて表参道も越えていくと雪印乳業が直営してる「SNOW」っちゅうパンケーキ屋があってね、ぼくはそこで初めて「パンケーキ」を食べた。
え?
あっ、ガメ、日本じゃ「パンケーキ」と「ホットケーキ」は違う食べ物なのさ。
ホットケーキ、は、もっと分厚いの。
ベーコンとか一緒についてこないのね。
ホットケーキのほうは、もっとずっと前から、たとえば鎌倉ばーちゃんにつれられて帝国ホテルで食べたりしてた。
その頃は、帝国ホテルって、ぼくにとっては「ホットケーキ屋」さんだったのね。
わけがわからん?
友よ、この日本の天と地のあいだには、外国人の哲学では説明出来ないことがいくらもあるのさ。

突然、商業主義が生活になだれこんできた。
ぼくが18歳くらいのときのことだ。
それまでは団塊世代の影響で、「まともな頭なら恥ずべきこと」とされていた男の学生がファッションを「決める」というようなことが、よいことになってしまった。
ちょっと田舎の学生と東京出身の学生のあいだに時間的ギャップがあった。

ちがうちがう。田舎の学生のほうが、はやくファッションをきめだしたんだよ。
ぼくと友達が駒場にいたころはまだ、「おれのジーンズはなあああ、こう見えてもアメ横で1500円で買った安物なんだよ」
「おお、おぬし、あまいわい。わしのはダイエーで1000円だし」とゆって、ボロイ服装を競っていたものだったが、田舎から来た奴はヘーキで雑誌「ポパイ」から切り抜いた写真もって東京中をうろうろして、写真通りのかっこうをしてましたw
なんだか、社会全体が夢からさめた、っちゅうか、瘧がとれた、っちゅうか、そーゆー感じの変化だった。

全共闘にはじまった新左翼運動自体よりも、運動の終焉によって、日本はものすごく変わったんだと思う。
ふりかえってみると、1945年の敗戦は、戦争に負ける、という、その真の病勢をずっと社会のどこかに潜ませていて、1972年ごろになって一挙に症状をみせだしたのかもしれない。
それは見方を変えると鬼畜米英を唱えてボロ負けをこいた大東亜戦争が、大学構内を主戦場にした(w)ヘルメットに顔タオルの反米帝闘争に姿を変えて、とうとうそれも連合赤軍事件で息をとめられた、ということなのかも知れなかった。

そこから先の日本では「理想」を述べるのはすべからくダサイことになった。
ものごとを真正面からみつめるのはカッコワルイことだとされた。
本質は、負け犬になりきることが、かっこいいこととされたのかもしれない。

大学に行かなかった、とか、そーゆー理由で全共闘運動に乗れなかった「最終団塊」のひとたちが、新左翼運動がダサクなったのを見てとって、敏捷に日本の新しい時流に乗り始めた。
簡単にいうと「軽くいこうぜ文化」かな。
人生とか革命とか辛気くさいこと考えるのやめて、暗い人間は卒業して、明るくケーハクに暮らしましょう、という文化があっというまに広がった。
糸井重里、南伸坊、渡邉和博というようなこの頃にあらわれて大きな影響力をもったひとたちは、世代的には、この「最終団塊」のひとたちなんだけど、3人とも、大学に行ってないのね。
嫌なことをいうなあーとおもうかもしれないが、ぼくは日本のような学歴社会では、
これは重要なことだとおもってる。

自分の同世代の大学生たちが、政治的正義を叫んで、機動隊員たちに「自分が大学にはいれなかった落ちこぼれだからって、逆恨みしておれたちの革命を邪魔すんじゃねーよ」と悪罵を投げつけていたりするのを苦々しくみつめていた「学歴世界の敗者」たちが、解禁された商業主義にのって、どっと日本の社会を「本音主義」に変えてしまったのだともみえる。

霞町と笄町の区別もつかない田舎者の田中康夫が「都会的」な小説の「なんとなくクリスタル」を書いて、「下品な本音」が大手をふって歩くようになり、世界の森羅万象がまとめられ要約され「ハウツー」化されて、最後には、きみをびっくりさせた「東京いい店やれる店」というような、ぶっくらこいちまう、身も蓋もないタイトルのガイドブックがベストセラーになる日本は、ひとつづきのイベントでできているが、なぜ日本人が昭和の終わりに思想と名をつくものをすべて捨てて、もっといってしまえば真剣にものを考えることまで放擲して、つくり笑いと、他人にみせるためだけの「ハッピーフェース」で武装するだけの民族になったかを、きみが理解するためには、もっと他の要素を述べなければ到底理解できないだろう。

ありゃ?
品川の駅すぎちゃったな。
ぼくは、むかし、よく背が低くて子供みたいで、なんだか少し上を向いて楽しそうな顔をして、ちょこまかちょこまかホームを早足で歩く江藤淳をこの品川駅でみかけたものだったが、まあ、いいか、新橋で降りよう。
このあいだ話したインドネシアラヤをみせてあげるよ。
できたら、そこで東声会やデヴィ夫人の話が出来ると良いと思ってる。
日本が右翼の衰退とともに、どうやって「アジアとの紐帯」を失っていったか、そのことがどれほど日本にとって禍根となったか、きみに話しておきたいんだ。

もう、話したって、どうにもなるわけじゃないけどね。

This entry was posted in 日本の社会. Bookmark the permalink.

4 Responses to 平成日本への道_その2

  1. 古い歴史は一生懸命勉強するのに、新しい歴史は「もう、話したって、どうにもなるわけじゃないけどね。」ってなっちゃうのが悲しい。History will teach us nothink?

  2. 猫屋 says:

    ども。
    おじさんの話、ポスト団塊世代でバブル前に日本脱出したアタクシには、とてつもなくなつかしい。(団塊とポスト団塊の間には意識断層のズレがあると自分は思ってるのね=プリでもいいけど)
    ま、守備範囲がちと違うので、猫屋的パンケーキはソニービルの地下のカウンターだったし、アップルパイのアンデルセンは御茶ノ水でもお世話になった。ジーンズはアメ横の古着か原宿の原田(だっけ?)、あるいは近場のエドウィン。新橋のインドネシアラヤの昼飯はサテ付き目玉焼きが乗ったナシゴレン。ちかくに中国粥のおいしい店もあった。
    こうやって考えてみますと、バブル以前の1980年代に欧州移住したアタクシは(ポンペイの住民たちと同様)、マンマ昭和の歴史なのれすね(まだ生きてるけど)。。。今東京に帰っても巣鴨と浅草以外はほとんどまったく知らない街です。

    ただ一点突っ込みを入れたい点がある。1970年代中期の首都圏女子高校生制服のスカートは長めがトレンドだったと記憶いたします。風紀委員が床上何センチ以上ないとダメとか計っていた。例外はたしかアオガク付属でちと短めだったように思う。この点に関しましては、おじさんのアーカイヴ掘り起しをお願いしたい所存でございます。

    んちゃ。

    • 猫屋どの、

      義理叔父に確認しました(^^) 「女学館短大のおねーさんたちのスカートがすげー短かったのね、ということでした。
      他のガッコでは聖心インターの一部女の子がちょーミニで「健康に悪かった」そーでした。
      (その頃に、いまのエッチなおじさんの素地が出来たもののよーである)

  3. ingenuo says:

    金沢は東京とはかなり違って、中高生がパチンコや競馬するなど好きなようにやっていたのは少なかったと思います。
    東京では小学生か中1くらいのチビが三つ揃いを着て競馬場にいたそうです。
    高校時代、東京で下宿していた人が毎月の仕送りをいつも1日で競馬に使ってしまい、学校に空の弁当箱を持って行き物乞いをして大変辛かったので、卒業してからは更生し、不動産会社で土地転がしをして目出度く早期退職できたそうです。

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s