平成日本への道_その3

「アングラ」という日本語の言葉を最後に聞いたのはHBS(ハーバードビジネススクール)で会ったおばちゃんの口からであって、アンダー・グラヂュエイトで、学部生の意味で使っていた。
日本語にはいまは死語であるらしい「アングラ」がもうひとつかつてはあって、こっちはアンダーグラウンド、あるいはアンダーグラウンドアートの略で、公然でない、あるいはそのまんま、「地下芸術」のほうがいっそいいのかもしれません。

1968年の新宿駅西口広場に立ったひとは、機動隊が人垣をつくって規制していて、
「ここは通路です。立ち止まってはいけません。ここは通路です。立ち止まってはいけません。ここは通路です。立ち止まってはいけません。」と機動隊機長が自分の声の連続コピペを拡声器を通じてがなりたてまくっているのを目撃したはずである。

新宿駅西口広場が政治集会場と化していたからで、首相官邸前のような「デモちから」が貯まりようがない川のいち部分のような場所と違って、湖というか沼というか、デモ力がたまりまくりの西口地下広場のようなところは政府から見ると、最悪、まるで反政府パワーの充電池ですやん、のような地形だったので、あわてて得意の欺瞞をでっちあげて、「あれはいっけん広場みたいに見えるけど通路なんだもんね」ということにした。

抗議はしたものの、こちらも頭でっかちのせいで、頭の悪い役人の欺瞞など嘲笑してしまえばよかったのに、真に受けて言い争ってしまった「闘争学生」たちは理屈の腕相撲にまけて去って行くことになったが、「なあーんとなく人が集まっておもろかったから」西口広場にやってきて、芝生や換気塔のまわりでごろごろしたり、プラスティック袋に詰めたトルエンを吸ったり、のんだくれてビール瓶をマジメそうなやつめがけて投げつけてぶつけたりしていたほうの、「フーテン」たちは、追い払われると立ち去り、でもしばらくすると何事もなかったような顔をして、またトルエンを吸って、ときどきは公然とエッチに及んだりした。

この頃の日本には「自由」をおもしろがる雰囲気が少しは残っていたようで、
2chに群がった「仮想優等生」たちがつくった「通報しました世界」とは違う世界に「劣等生」たちは生きていた。
もっとも、よく話を聞いてみると「劣等生」とゆっても大半は「ええとこのぼっちゃん」や「良家の令嬢」がおおかったのでビンボニンはあくまで、マネだけでも、優等生たらんとするのは、その頃もいまも同じなのかもしれません。

赤瀬川原平が公表したオノ・ヨーコの写真があって、60年代だと思うが、まだジョン・レノンに会うぜんぜん前のオノ・ヨーコが、裸で、全身を真っ白に塗って、後ろ向きに立っている。
あるいは赤瀬川原平たちがビルの屋上からトイレットペーパーをぶちまいて、けっけっけ、と喜んでいる。
こーゆーのは簡単に言って欧州人やアメリカ人の「アングラ・アート」の稚ないマネだったが、しかし、よく考えてみると、わけがわからない社会的欲求不満の連鎖によって世界中の(豊かな国の)若者が、無意識に同盟していたわけで、後から来た者が眺めていてオモロイ感じがする。
参考のために小さな事実を述べると、たとえばオノ・ヨーコはいまとは格段に地位と収入が異なって高かった銀行役員の娘だった。
あとでジョン・レノンと結婚したときに、軽井沢にやってくるのは万平ホテルのすぐ近くの、ポール・ジャクレー
https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/06/05/ポール・ジャクレー%E3%80%80(paul-jacoulet/
が住んでいたのと同じ通りに、父親の別荘があったからです。

後代からみると、「浅川マキ」というひとは「アングラ」っぽい。
声の強い、喉に力がある感じの歌いかたをするひとで、ときどきすっかり浅川マキの深い声に惚れてしまったテレビのプロデューサーとかに拝みたおされて昼間の番組に出て歌ったりもしていたようで、「夜が明けたら」は小規模なヒットナンバーになったりもしたようだが、本人はそういうことにまったく興味がなくて、それもあたりまえというか、このひとは当時は渋谷の並木橋にあったはずの「天井桟敷」という歌人の寺山修司が主宰していた劇団で歌うことが多かった。この「天井桟敷」が日本の「アングラ文化」の中心で、日本社会における非政治的反抗者や脱落者がつくっていた広汎な「見えない文化」のうずまきのまんなかにあった。

この天井桟敷の主人であった寺山修司は、義理叔父たちにインタビューしてみると、当時中学生だった義理叔父たちにとっては「競馬評論家」(^^;)として意識されていて、このひとと後で国会議員になって「なんだ首相じゃねーのかよ」と述べてすぐ辞任してしまって、「日本の国会議員なんてタレントよりも軽いのだ」ということを日本人全体に遍く知らしめた大橋巨泉とは(彼等に拠れば)「天才競馬評論家」で、プロの競馬評論家よりもよほどよく予想があたった。
義理叔父たちはガキのくせに、非公式なブックメーキングをする「くりこま」という喫茶店にいりびたって、寺山修司たちの予想にしたがって馬券を買っていたそーである。

いま、あとからやってきた外国人の眼から眺めると、そーではなくて、寺山修司は天才歌人です。
有名な
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」
という天才しかつくりようがなさそーな短歌はもちろんのこと、寺山修司は全体の情緒が「短歌的な定型」で出来ていたように見える。

浅川マキと並んで寺山修司にみいだされた。もうひとりのマキ、「カルメン・マキ」のほうは「ノイジー・ベイビー」というヘビメタの赤ちゃんのような曲をきっかけに寺山修司のもとを離れ、寺山修司的な情緒に反逆して、「あんなやつ大嫌い」と言うが、歌人とロックンロール娘では、ほんとうは接合点がなかっただろうと考えて、わしは、くすくす笑いながら何十年も前のカルメン・マキのインタビューを読んだものだった。

寺山修司や澁澤龍彦、横尾忠則、あるいは、宇野亜喜良、和田誠というようなひとびとは「話の特集」という雑誌を背景にもっているように見える。
ひとつの、ゆるい、しかし広汎なコミュニティをもっていたように見えます。
いまは評価がゼロに近いのか、日本に滞在していたあいだじゅうあつめまくって、ほぼどれも全号をもっている週刊誌・月刊誌のなかで「話の特集」だけは欠品がある。
この矢崎泰久というひとが編集長だった雑誌には、いまの人間からみると独特のクサミがあって、ちょっと困るが、それでも団塊世代のもつ無茶苦茶でがむしゃらな自由へのエネルギーが感じられる。
日本の歴史を通じてもっとも「自由へのパワー」があったのは団塊世代が嫌いだった団塊世代のひとたちであると思う、という義理叔父の言葉を思い出させる。

一方では体質的には「フーテン」という言葉に適合している、というか、まあ、そうシャカリキになるなよ、という気分のひとでありながら、一方で、
「自由への長い旅」
http://www.youtube.com/watch?v=PItpmJHvbUU&feature=related

「私たちの望むものは」
http://www.youtube.com/watch?v=o6R13Nx2Nhg

のような極めて政治性が強いメッセージと受け取られた曲を多くつくったりした岡林信康のようなひとも「アングラ」と受け止めるひともいたよーである。

ただし、聴いてみればわかるが、これが「政治的メッセージ」の曲なら高田渡が17歳のときにつくって、歌詞を皮肉と気づかなかった自衛隊の広報部が「自衛隊のコマーシャルで使わせてくれないか」とゆってきたという、うまく出来すぎていて、あんまりほんとうの話でなさそーな、「自衛隊に入ろう」のほうが、よっぽど政治ソングである。
しかし、その高田渡にしても、あとで、「軽いうけねらいでつくったのに政治が好きなひとにうけて困った」とゆっていたそーだから、ギターでコードをつくって歌をうたうのが好きな人間が、そうそう政治青年に向かって歌をつくるわけはないよーにおもわれる。

岡林信康が、つくるごとにいちいち「政治メッセージソング」扱いをされたのは、
初めに名前を知られた曲が「チューリップのアップリケ」「手紙」という部落問題を扱った歌だったからだろうが、いま聴いてみると、どちらかといえば、このふたつの歌も、若い人間らしい強い感傷を伴った不正義への怒りが聞こえてくるだけで政治的というのとは違うものであるような気がします。

はっぴいえんどは岡林信康のバックバンドが出発だった。
「見る前に跳べ」というアルバムを聴くと、岡林信康が「反体制フォーク」だとゆわれるのにうんざりして、ロックンロールへ向かおうとしていたのがわかるが、うしろでぎゅわんぎゅわんゆわしているのは鈴木茂であるらしい。
このはっぴいえんどというバンドは、アングラとその後の商業主義に潮の変わり目に立っているバンドで、松任谷由実とはっぴいえんどのメンバーだった、細野晴臣、松本隆、大滝詠一、鈴木茂というようなひとたちが、それまでのいかにもアジア中進国家風の「反米帝国主義」や「怒りの鉄槌」「革命的前進」な世界を、商業主義の漂白剤で洗い落とすように、綺麗に政治性や「若者らしい怒り」や、何日も洗っていない田舎者学生のTシャツのような、きつい臭いのする観念を脱色して、「スマート」で「軽い」文化を導き出してゆく。
注意すればわかるが、よく考えてみると日本の60年代と70年代にサロンの役割を不十分だが代替的にはたした麻布飯倉片町8番の「キャンティ」のような場で三島由紀夫、川端康成、加賀まりこ、安井かずみ、松任谷由実というような名前が醸成してきた「時間」が、前回に述べた「あさま山荘事件」とそれ以前からしつこく続いた中核派と革マルの対立を軸にした内ゲバ殺人事件で社会の支持を失って衰退した「政治的青年」たちの肩肘はって辺りを睨めつける視線が就職した大会社や役所に吸収されていったあと、小動物たちがあたりを用心深くみわたしながら隠れていた穴から這い出してくるように、社会の表面にでてくる。

ユーミン(松任谷由実)の「あの日に帰りたい」がオリコンヒットチャートのベスト10に入るのは1975年のことで、1975年ならば、さきほどの「はっぴいえんど」は解散して3年がたっていて、細野晴臣が「トロピカルダンディー」を出し、大滝詠一の「ナイアガラレコード」がはじまり、松本隆は「木綿のハンカチーフ」を作詞して、150万枚を売った年である。

あとで、「はっぴいえんど」細野晴臣が、他の「汗臭くない」ミュージシャンたちとつくってゆくコミュニティのなかで突出したアレンジャーだった松任谷正隆と結婚するユーミンは、なかでも、ただれた腫瘍を切除するようにして政治性そのものを切除して「見ない」ことにした世代の伴走者だった。
この世代、義理叔父たちの世代にとっては、ユーミンは歌手というよりは生活にしみとおった、もっと違う何か、であったはずで、それほどユーミンが好きでなかったはずの義理叔父でさえ、「悲しいほどお天気」という曲を聴いて、なんだか、ずっっっうと遠くをみるような、奇妙な顔をしていたのを見たことがある。

なんでも面白がって実地に見物にゆくケーハクなわしは、義理叔父が好きだ、と述べていた歌にでてくる横浜の「山手のドルフィン」に行って見たことがあるが、チョー・クソなレストランで、これを小道具を動員して、あたかもかっこよさげな場所に仕立てあげたユーミンなるひとは、相当才能があるのではなかろーか、としみじみ考えたりした。

前に書いた、赤坂の「ディスコ」ビブロスは、デビッド・ボウイが山本寛斎とチークダンスを踊っていたり、レオン・ラッセルが女人を物色に来て二三人みつくろって帰ったり、「日本の女びととイッパツやるなら、ビブロスに行け」と言われた、と証言するひとがいたりして、ファッションモデルたちが毎週木曜日になるとなぜか二階席から札束を中に派手にばらまいて、わっはっはをするロンドンブーツをはいた成金おっさんや、階下できゃあきゃあゆいながら一万円札を拾ってあるくファッションモデルたちや、不良ガイジン娘、あるいは隣の「ムゲン」とつながっている隠し通路で女びととイッパツやっているひとがいたりして、なかなか国際的なみだれっぷりだったというが、この当時の不良はほぼ「良家の子女」に限定されていた。
土曜日になるとあちこちで春をひさいでいた売春女子高校生も「F葉どまり」というほど有名女子高校生に限られていたはずで、薄気味の悪い語彙をつかってわるいとはおもうが、他におもいつかないので使うと「庶民」には無関係もいいところの世界だった。

ところが、連合赤軍が崩壊するのとときを同じくして日本のなかで何かが壊れたもののようであって、同じ頃から「ディスコ」がふつーの若い人間がいくところになってゆく。
このたびは、あまやかされた良家のクソガキどもと違うところは、庶民は庶民らしく計算高かったことで、良家のクソガキが、先の人生なんて、まったく考えてない滅茶苦茶、まだ鳥居坂の高校生なのにアメリカ人の男とイッパツやりつづけたい一心でアメリカに行ってしまってあえなく行方不明になってしまったり、当時絶頂期であった芸能人の女びととの同棲生活に夢中になって三田に口ヘムおやじが建立したご本尊の大学がある附属高校をあっさり「もうこなくていいからね」と退学になったりしていたのと比較すると、保身は万全、「一流大学」の学生に無事なりおおせてから、昨日までの「受験生ルック」をかなぐり捨てて、「なうい」にーちゃんに変身し、出自を悟られないようにおっかなびっくり「デスコ」に大挙して通い始める。

そーゆー欲望がむきだしにもなり打算的にもなって、どんどん話が下品になっていった週末のなれのはてが、後年の「ジュリアナ東京」で、軽井沢の町で、子供みたいな若い女びとたちを年がら年中つれこんでいるそーだ、と噂がたった奇妙な髪型の中年おやじが企画したものだそーだが、その「お立ち台」だかなんだかがあるティスコに行ってみたオーストラリア人のおばちゃんは「田舎の集団乱交セックスパーティみたいでげんなりした」と述べていた。

そーゆー「ディスコ大衆化」の流れにのれば、マーケットには「ダンスミュージック」の需要が澎湃と湧き起こるので、全共闘世代では宇多田ヒカルのかーちゃんである藤圭子の演歌が人気があったが、まさか演歌で踊るわけにもいかなかったようで、かといって英語はよくわからないし、いまいち洋モノは気がはいらん、というので、あとで軽井沢で自殺する加藤和彦のサディスティック・ミカ・バンドや坂本龍一や高橋幸宏たちと細野晴臣がつくったY.M.O.が有名になってゆく。
Y.M.O.の曲は歌詞がないのにヒットチャートいりした日本の曲の嚆矢だと思うが、それは、ディスコという背景があって、踊る、ということが日本の文化にはいってきたからであろうと思われる。

その頃、ロスアンジェルスでY.M.O.のコンサートを観に行ったひとの話によると、日本では「Y.M.O. アメリカでも熱狂の大歓呼!」とかちゆわれた、そのコンサートは「観客が全部日本人で愛国集会みたいだった」という。
家に帰ったら
ルームメイトに「あれは創価学会の集会だったのか?」と訊かれたそーです。
創価学会の集会なら、もっとずっといろいろな人種がいるはずだと思うが。

ちらとデビッド・ボウイの名前が出てきたように、70年代になると、都会のませたガキを中心に、エリック・クラプトンのいたクリームを中心とした「ブリティッシュ・ブルース」や、ジェフ・ベック、キング・クリムゾン、タワー・オブ・パワー、
シカゴ、とゆーよーなグループをコピーすることから始めた「真正ロックきちがい」たちが日本にもあらわれる。
ほんの少しあとに「グラム・ロック」、デビッド・ボウイ、T・レックス、ロキシー・ミュージック、も日本にやってきて、先刻の「ビブロス」のガキどもは原宿の「グラス」や「ゴローズ」で調達したロンドンブーツやラメのジャケットで身を固めていたよーである。
その頃、原宿セントラルアパート一階の「レオン」で、キチガイガキたちの「いいとこどり」をしようと目論んで通りに面した椅子に腰掛けていた面々には、全回にも述べた糸井重里のような商業主義の波に乗ってやってきた「コピーライター」、あるいは「コピーライター的もの書き」たちもいたはずである。

ものごとは大衆化してゆく。
大衆化すれば最大公約数は低いところに落ち、より現実的で、打算的…この場合は、たとえば若い男にとっては、どうやったら自分の保身を保ちながら綺麗なねーちゃんと効率よく割安でイッパツやれるか、という命題…に落ちてゆく。
ようするに退屈な日常の理屈に浸食されて「愉快な時間」は水底に向かって静かに沈降する。

義理叔父は、ある日、渋谷から井の頭線に乗ろうとして、前に述べた若い芸能人と同棲していたKOな学校の遊び友達が、はちまきハッピ姿でビラ配りをしているのを見て、あわてて周り道をして、決して打算の結果ではないものの、途中で妙な風のふきまわしでがんばってトーダイなんかにはいってしまった我が身を恥じたそーである。
駒場に向かっていた足をとめて、駅の反対側にでて、階段を下りて、そのままずっと宮益坂から青山通りをあるいていった。
その日は、一日中、自分が嫌いだった、と義理叔父は述べている。
昼間から「ラドリオ」に行ってのんだくれていた。

世界もおれも、両方なくなっちまえばいいのに、と真剣に願った。
理由なんて、わからないさ、と叔父は言うが、
わしには、なんとなく、わかるような気がする。
ぼんやりわかるだけではなくて、いま生きているこの世界が「なくなっちまったほうがいい世界」だと考えながら、あてもなく通りを歩いている叔父の同族が、いま、この空の下にも、いたるところにいるような気もするのです。

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3 Responses to 平成日本への道_その3

  1. DoorsSaidHello says:

    「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨ててたまるか祖国は要らん」字あまり。

    • DoorsSaidHelloどん

      身を捨てなければならん祖国はたまらんけど、どんなに捨てても「祖国」は魂のどこかに残ってしまうのかなあー、とショパンの伝記を読んで考えました

      >「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨ててたまるか祖国は要らん」字あまり。

  2. DoorsSaidHello says:

    わたしの祖国はなんだろう。国家でも体制でもない、子ども時代の思い出のまとまりのような、おぼろななにか。にほんごでしか語り得ないやわらかな。眠っている小犬のようにそうっと胸に抱いて、そのあたたかさだけを支えに暗い夜道をひとりで家を背にして歩いて行く小さな子どものような気持ちで、行く手に何があるのかも知らず。

コメントをここに書いてね書いてね

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