Monthly Archives: October 2012

平成日本への道_その5

行ってみたことがあるひとは判ると思うが、碓井軽井沢インターチェンジは軽井沢町からはずいぶん離れたところにあって、名前から考えて、ここから軽井沢まで近いだろうと考えるととんでもない目にあう。 あそこはまだ群馬県で、軽井沢自体長野県から群馬県にとびだした「でべそ」のような町だが、それにしても、もっとずっと群馬側にはいりこんだところにインターチェンジはある。 なにしろ高岩山よりも向こうなのです。 カーブをいくつも曲がって山を越えると長野県の(雷鳥の絵が描いてある)標識が立っていて、そこからは下り坂で、浅間プリンスをすぎて両側に鬱蒼と灌木と木が生えた場所をすぎると軽井沢町の南端にはいることになる。 その南軽井沢の広大な道は戦前は実はいまよりももっと広くて幅が差し渡し100メートルあった。 敗戦後すぐはアメリカ進駐軍が接収して滑走路にしていた。 東京から碓氷峠を越えてやってくるのはたいへんなので、夏の避暑にやってくるのに、その滑走路に直接飛来することにしていた。 軽井沢の平坦地におりて、どちらでもかまわない、初めか二番目の角を曲がると、軽井沢で最も有名なゴルフ場の「軽井沢72」に行く道で、左側には押立山がみえる。 この山のてっぺんには多分60年代までホテルが建っていたが、その後、西武の堤一家がまるごと買い取ってヘリポートに使っていた。 いまは噂では(千ヶ滝に広大な別荘を建設中の)ビル・ゲイツがやはりヘリポートに使っているというが、福島第一発電所の事故以来、もう軽井沢の山の家、というよりも日本自体に行くこともなくなってしまったので、ほんとうかどうかわかりません。 あの道はずっとまっすぐに行くと八風山の麓を通って、突然ひらける発地の、春には佐久側の山肌一面にこぶしが咲く、正面には浅間山がみえる道が追分まで続いているが、さきほど述べた「軽井沢72」に曲がる十字路を少し行ったところに、「軽井沢レイクニュータウン」という、なんだか全体が安普請の遊園地であるような、奇妙な別荘地 http://lake-newtown.jp/ があって、その南側の山肌に「あさま山荘」はある。 事件が起きた当時は河合楽器の寮だった建物は、最近の軽井沢の流行にしたがって、 いまは中国の人が買収して所有している。 あさま山荘事件が起きた1972年は日中国交回復の年で、前年から、その頃はまだ中華民国(台湾)大使館だった、いまの中国大使館の前の通りを、右翼の街宣車が中華人民共和国の国旗をひきずりまわしながら走っていた。 通りから少し引っ込んだところに学校があった義理叔父たちは「あんまりうるさいので頭に来て」街宣車が料理屋の駐車場に駐まっている隙に忍び寄って中華人民共和国の旗を日章旗とすり替えていたりしたそーである(^^;) どこの、と書くとすぐにわかってしまうから書かないが、その頃から中国人たちは、女子高校生たちの売春相手としては、もっとも支払いがよかったので、人気があった。 その頃中国人相手に売春していた高校生のなかで、いまはおおきな広告代理店の役員の夫人になっているひとがいて、ニューオータニのバーで話をしたことがあったが、なぜ外国人にそんな話をしようと思ったのか、 「支払いはよかったが何時間も体中なめまわされるので一回売春すると疲労困憊した」と述べていた。 一方で仕事の用事で日本を訪れたわが祖父は、アメリカンクラブのパーティに招かれて出かけてみると隣のソビエトロシア大使館の屋上に並んで双眼鏡でこちらのパーティをうらやましげに眺めている「さびしげな様子の、みなが黒い背広を着た」ロシア人たちを見て、「あの方たちも招かれてはどうですか?」とアメリカ人たちをからかっていたりしたようである。そっくり同じ光景をずっとあとになって義理叔父も目撃しているので、どうも手持ちぶさたの大使館員たちの習慣化した娯楽だったのかもしれません。 この頃の日本では政治勢力としての大陸中国の影はまだほとんど見えてこないが、ソビエトロシアはおおきな影響力をもっていた。 のみならず個々のエリートロシア人たちにとっては東京は「西側世界」につくったオアシスのような場所で、その頃は「東京勤務」はKGBや外務省、あるいはタス通信の記者にとっては夢の任地で、「なにしろロシア料理までロシアより旨いんだから」と言い交わされていたそーです。 前にも書いたが、80年代の秋葉原ではアタッシュケースいっぱいの札束で、屋台同然のパーツ屋の店先で無造作に大量のCPUを買い込んでゆくロシア人たちがよく見られたというが、当時でも、西側からソビエトロシアへの輸出が禁止されているものは、東京で調達するものと決まっていた。 日本は当時、国家社会主義の流れを組む支配層とは裏腹、「広汎な大衆」は戦前から脈々とつづくごく自然な「人民戦線民主主義」的な情緒のなかで生きていたからで、「火炎瓶闘争」時代の日本共産党が公然政党活動にしぼって、それへの反撥やそれやこれやで「反代々木系」という学生運動の「党派」が群立したりして、表層はさまざまな分派や憎しみあい、「内ゲバ」という名前の殺し合いがつづいていたが、全体を覆う社会の感懐、とでもいうべきものは、一貫して「人民主義」「社会主義支持」だった。 (それならばなぜ自民党の一党支配が続いたのか、というひとがいそうだが、自民党は右翼政治家から共産党よりも遙かに過激な革命思想を報じる政治家までを内包する、政党というよりは一個の「集金・配金装置」の総称で「派閥」が政党の機能を果たしていた。そういう日本の世界に特殊な事情を日本人全体がはやくから見抜いていたと思う) この「大衆」の支持にのって、大学生たちを中心とする学生運動は、あるいは「世界同時革命」といい、あるいは「共産主義独裁」と叫んだりしたが、この学生たちが機動隊に蹴散らせて逃げ惑うとき、あるいは店の裏口から逃がしてやり、あるいは二階の娘の部屋に匿って学生たちを庇った「大衆」たちのほうは、学生たちがいうことを字義通り信じているわけではなくて、どちらかと言えば「頭のいい学生さんたちの『はしか』みたいなもんだから」という、当の学生たちが聞けば血相を変えて怒るような理解の仕方だった。 いまの日本からはもう失われてしまったが、自分達の町内にも東大文科一類に進んだ「菓子屋のケンちゃん」がいくらもいた当時の日本では、社会の選良といっても昨日まで自分の家の裏の路地で遊んでいた算数はできるが気の弱い子供であり、大学受験の冬には「がんばってね。風邪ひいちゃダメだよ」と声をかけたいがぐり頭の無口な「良い子」であって、いま「ゲバ棒」を抱えて、拡声器で、なんだかよくわからない「学生革命用語」で反帝だの反スタなどとえらそーに述べていても、どこまでいっても、やはり「菓子屋のケンちゃん」は菓子屋のケンちゃんで、言っていることは妙に現実から遊離して、観念的で、到底うなづけないが、別に、一生懸命なんかやってるんだから応援してやろうじゃないか、というくらいの気持ちをもつのがふつうのことだった。 余計なことを書くと、いまでもタイランドのような国にいくと、学生と街のひとの関係はそうで、「言っている事は『なんにもわかっちゃいない』だが、わたしらの子供のようなものだから」という雰囲気が町中にみなぎっている。 「内ゲバ」というようなものには、徹底的に嫌悪を示して、そこからすでに「学生運動」はもうやらせていてはいけないのではないか、と普通のひとびとが考えだしたころ、絶対反共絶対悪のはずのアメリカのニクソン政権と自分たちにとっては唯一の正統な政治的ヒーローで絶対善であった毛沢東と周恩来の中国が手を握った。 それはおおげさに言えば、当時の「人民民主主義的心情」をあたりまえとする日本人にとっては空が割れて落ちてくるほどの衝撃で、なんだかぜんぜん判らない、というか、 1945年には皇国礼賛の教科書を墨でぬりつぶして、昨日まで天皇中心の価値を集団で絶対正義としていたまったく同じひとびとは「さあ、今日からは民主主義だ」と明るい顔で述べ出すという、よく考えてみれば一種の悽愴な地獄を目撃した日本人は、今度はより小さな規模で、晴天の霹靂に打たれることになった。 その結果、まともな人間ならあたりまえだが、「もう政治なんてわかんないし、どうでもいいや」という心境になっていったが、世界中を驚愕させた、そのニクソンの中国訪問は1972年2月21日で、あさま山荘事件が起きたのは1972年2月19日なのである。 日本中の人間が家庭でも職場でもテレビに釘付け(平均視聴率は50%を越えていた)になったこの事件は、二機隊長の内田尚孝、警部の高見繁光、あと何をしたかったのか、あさま山荘にふらふらと近付いていった男のひとがひとり坂口弘たちの連合赤軍籠城グループによって撃ち殺されている。 義理叔父は学校の近くのレストラン(義理叔父の学校には学食が存在しなかったので学校の近くの料理屋で昼ご飯を食べるのは普通の習慣であったようである)で、みなと一緒にあさま山荘事件をみていたが、連合赤軍が警官を射殺したことを伝えるニューズに歓声をあげて喜ぶ上級生たちに、ひどい違和感をおぼえた、と述べていた。 義理叔父は一生のうちに何度か深夜の通りで反対運動のデモにくわわっているが、どんなに奨められてもガンとして「黒」(この色は無党派であることを示している)以外のヘルメットをかぶらなかったのは、多分、そういう経験と関係があるのだと思われる。 情緒的な結びつきで反体制学生たちを支持していた町のコーヒー店主や近所の課長や係長という中間管理職としてはたらくサラリーマンたちが、上級生たちの歓声を聞いて、「なにかが終わってしまった」「やさしいものが死んで、棘皮につつまれたものがあらわれてしまった」と感じた義理叔父たちと同じことをおもったのは、想像に難くない。 ニクソン、キッシンジャーと毛沢東周恩来たちがみせた、ただ敵と味方のベクトルを計算して現実を御していくことに集中する「政治」の実相と、連合赤軍がつきつけた「かつての甘い風貌だった情緒の変貌」は、この1972年を境に、日本人を急速に政治から引き離してゆく。 いわば政治そのものに嫌悪を抱くようになった、この日本人の国民性は、自民党の腐敗と自壊を必然的に呼び込み、日本最大の危機の契機のひとつになったようにも見えるが、まだそれはずっとあとになって表面化することである。 60年安保を初めのピークとして、10年以上に亘って日本を覆ってきた「人民戦線的情緒」は、この連合赤軍事件によって、ほぼ完全に終止符が打たれてしまう。 … Continue reading

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L.O.V.E

「東京ポップ」 http://en.wikipedia.org/wiki/Tokyo_Pop は日本人と外国人との関わりを考えるためには素晴らしい映画だった。 初めは酔っ払って友達たちと「偶然いあわせたハクイパツキンのねーちゃんとイッパツやれるかどうか」オカネをかけて、相手をだまして無理強いにセックスをしようとする若い日本人のバカ男と物事をちゃんと考える習慣のない無防備な女の子が、だんだん真剣に恋におちて、ふたりで新しい生活を始めようとする。 ふたりは日本のヒットチャートをかけのぼって到頭チャートの1位になるが、 女のほうは「日本という国には根本的なリアリティがかけている」と考えて、カップルを解消し、カリフォルニアでいちから出直す、という、ちゃんとおぼえていないが、だいたいそういう物語だった。 この物語の初々しさは、「親日」や「反日」の日本人だけがこだわるわけのわからない感情や、国際理解というような空疎な観念から遠いところで、言葉も違えば、考え方もまるで異なる若い男と女が、愛しあって、なんとかお互いを理解しようとして、やがて、そんなことは不可能だと悟って別れてゆくのに、お互いをかけがえのない「仲間」だと感じる強い絆だけは残って、愛情と名付けても友情と名付けても、うまく全部を説明することはできない「魂の結びつき」をつくってゆく過程がいきいきと描かれているところで、それは現実の「異文化カップル」の現実そのものだった。 ぼくには、義理叔父が、このビデオを後生大事にもっていて、一緒にプロジェクタで観ているあいだじゅう涙をぬぐっていた理由がわかるような気がする。 モニとぼくは異なる文化からやってきて、一緒に住んでゆくのに驚くことがおおかった。考え方もちがえば、感じ方も、個人の違いだけではなしに明らかに文化の力でおおきく異なって、そういう違和感や異なり方は、仕草を伴う感情の反応や、あるいは他人にいうわけにはいかないバスルームのドアの向こうがわで起こるようなことでもいちいち異なっていて、あまりのことに、お互いをびっくりさせた。 モニとぼくはフランス語と英語という共通の言語をもっていたが、 言葉も通じないふたりが、やがて愛し合ってゆくようになるのは、不思議なことではない。人間の男と女は議論をつくしてお互いに納得してはじめて肉体関係をもって愛し合う、というふうには出来ていないからで、現にぼくの知っている言語が異なるカップルには横でみていて、お互いに言葉がカタコトでしか通じていないカップルがいくらもある。 そーか、お互いに幻想をもって好きあうのだな、とはやとちりをする人もいるかもしれないが、そういうことではなくて、人間にはお互いになんでも許しあって生きてゆける相手が嗅覚でわかる能力がある。 もっと踏み込んで述べれば、相手がひとりだけならば人間には言葉をまったく使わなくても、少なくとも言葉によるよりはお互いをわかりあう能力をもっている。 無論、異なる文化を背景にした結婚は同じ文化を背景にした結婚とは比較にならないほど離婚する率が高い。うまくいかないほうが、ずっと多い。 第一の理由はやはり言葉で、義理叔父を例にあげれば、日本人でこれほど英語が上手なひとをみたことはないが、それでも子供の頃は、なんだか言語的に「よくわからないがとてもヘンなひと」という感想をもって眺めていた。 普段は割とふつーにしているが、かーちゃんシスターに何かもごもごと述べたかと思うと、次の瞬間、はっきり聞き取れないで聞き返したかーちゃんシスターに明らかに苛立った態度をみせるので、子供のときは、なんという失礼な奴だと考えて、妹とふたりで「失礼なジジイだな」と合唱したりした。 妹もぼくも子供だったので、目の前の大の男が、たかが英語が通じなかったくらいのことで、そんなにショックを受けているのだとはわからなかったのです。 あるいは同じ理由によって、ぼくが最前まで述べたことと、まったく関係のないことを話し出したりするので「叔父さんは、ひとの話をぜんぜん聞いてないと思う」といって怒ったこともある。 いま考えてみれば、実はその頃はまだ母語なみに英語がわかるようにみえても単語を拾い集めて意味を推測しているにすぎなかった義理叔父は、どうしてもわからないと、あてずっぽうで話しをすすめていただけのことだった(^^) かーちゃんシスターに訊くと、福島第一事故のあとで離婚した「国際結婚」の夫婦は多かったようだった。 「ガイジン」であれば、あたりまえだと思うが、あるアメリカ人の女のひとは、子供たちの手をひいて一目散に故郷のニューヨークめざして逃げたが、旦那さんは、なぜそこまで病的に放射能をこわがるのか判らなかった。 だって、みんな普通に暮らしているのに、どうしておまえだけがそんなに大騒ぎするのかわからない、という言葉が決定的で、 「わたしには、もう夫のことがわからなくなった」と、そのひとは述べたそーである。 自分が好きだったのは、誰だったのか、と何ヶ月もずっと考えました、という。 あんな見知らぬひとが自分の夫だったのだとは考えた事がなかった。 モニは、ぼくが「どうしてものごとを充分に説明しないのかわからなかった」という。 モニが激した感情にまかせて「もう、別れるしかないと思う」と言ったことがあるが、ぼくはマヌケなので、「そうですか」としかいうことができなかったw 実がないとなじられても、愛してないのではないかと言われても、「そうか」としか言わないのでモニはたいへんに悲しかったという。 英語人には「感情をあらわす」という美徳がないので、ほかに反応のしようがないから「そうですか」と述べただけだが、それがモニには途方もなく冷たい人間性の証左におもえた。 同じ英国人か、あるいはニュージーランド人ならば、ロマンティックな激情や、誇張した表現は、真剣な場面ではやろうと考えてもできないので、お互いに不動産屋か事務弁護士の冷静さで事態の行き詰まりを述べあって、相手が「わかりました」と言って踵をかえしてドアを閉めて立ち去れば、そこで初めて歯をくいしばって、それでも間に合わなければ、近隣の住民に聞こえないように窓を閉めてまわってから、世界中で誰よりも愛している人の要求に「うん」と言えない自分の我が儘勝手の不自由さを呪って大声をだして泣くだろう。 そうして、立ち去ったほうも、取り澄ました態度で「否」と述べた相手がきっとそうして身も世もなく泣き狂っていることを知っているだろう。 「ノッティングヒル」 http://www.imdb.com/title/tt0125439/ というアメリカ人がつくったUK人の男とアメリカ人の女優との恋愛を描いた有名な映画があるが、外国人がみているぶんだけ、UK人の世界がうまく描かれている。 アメリカ人と英国人ではまるで別の生き物だが、どうやら自分は難しい恋に陥ってしまったようだと悟ったジュリア・ロバーツ演じる大女優が、ある日ヒューグラント演じる古書店主のもとにやってきて、「あなたの前に立っている女は、(有名なハリウッド女優としてではなくて)恋をしたひとりの女の子としてここにやってきていて、自分が好きになった男の子に愛していると告白しにきているのです」という、ありったけの勇気をふりしぼっての、せいいっぱいの告白をしているのに、じっと自分の内心を見つめながら聴いていた古書店主は、その一世一代の求愛に対して「ノー」という。 女優のほうは、「そうですか」と述べて静かに去っていく。 そこには殆ど英語人にだけ理解できる、身勝手な文明がもつ、どうしようもない哀しみがあって、 ほかの点ではそれほど出来がよいと言えなかった映画全体を救っている。 そして、そーゆーことも、どうしても英語人同士ではないとわからないのではないかと感じてしまう。 どんなにセックスの快楽にとりつかれた人間でも、セックスの相性がいいからといって結婚するバカはいない。 … Continue reading

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平成日本への道_その4

三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺したのは、1970年11月25日のことだった。 三島由紀夫というひとは、ある意味では不幸な小説家で、三島由紀夫の書いたものをああ、あれね、という調子で軽くみたり、皮肉な表情で唇の端をゆがませて笑ってみせるというような反応をすることが知的な人間の証拠のようになっていて、それはいまでも続いているように見える。 ぼくが初めて三島由紀夫の小説を読んだのは「春の雪」で、恥ずかしいので小さな声でいうと、英語版だった。 「When conversation at school turned to the Russo-Jpanese War, Kiyoaki Matsugae asked his closest friend, Shigekuni Honda, how much he could remember about it. で始まるその物語は、英語の物語としては、この一文をみればわかるとおり、なんだかごつごつして調子が外れた、やや退屈な物語だったが、ずっと後になって、「美しい星」を読んで以来、ぼくはこの小説家の書いた小説を手にはいるかぎりは全部読む事になる。 熱狂的なファンだったかというと、そんなことはなくて、漱石のようにすっかり耽溺して読み込んでゆくこともできなかったし、透谷のように強い敬意をもって考える習慣の対象にもならなかった。 ただ分厚い鎧のように、当時としても陳腐ぎりぎりだったはずの、擬古典風に装った装飾的な文体、当人は「バロック風だ」と考えたりしたらしいが、ぼくには到底そう思えなかった文体の向こうに、「透明な心」というか、ふるえている子供の魂というか、名状しがたいむきだしの痛々しさがみえて、それがおおきな魅力だった。 当時の文学への評価をみると、それがおおきく政治性を帯びていたことに驚かないわけにはいかない。 どんな時代であったかをふりかえってみると、ベストセラーには「北杜夫」というような名前があがっている。 「ドクトルまんぼう」シリーズという、(皮肉ではなくて)どこが面白いのかぼくには結局よくわからなかったエッセイ集がバカ売れに売れて、自信はないが、どうも当時の中学生くらいのひとびとの「読書への入り口」の役割をはたしていたようにみえる。 ぼくが神保町で買い集めた頃には200円や100円という値段でワゴンに並んでいた北杜夫のこうした本を読んでいて、ひとつだけ驚いたのは、マンガが日本の社会で市民権をもちだしたのは、どうやら、いま信じられているような「新左翼系批評家」が評価しだした、というようなことではなくて、このひとが繰り返し、マンガはおもしろい、そのへんの小説よりもすぐれている、オトナが読むに耐える、となんども述べていたせいであるようにみえることで、初めはまったく取り合わなかった遠藤周作や北杜夫からみれば「先輩」にあたる吉行淳之介までが、だんだんとマンガの市民権を認めてゆく過程が対談やエッセイを読んでゆくに連れて、手に取るように時系列でみえてくるしかけになっている。 北杜夫は偉大な歌人斎藤茂吉の息子で、戦前の東京の山手人なら知らぬひとのない青山脳病院の創設者の孫で、小説家や音楽家、研究者をおおぜい輩出したので有名な麻布中学の出身で、母親が息子に望む職業の代表である医師であったので、このひとの発言は「それならマンガくらい息子が読んでもいいかも」と教育熱心な母親たちに思わせるには充分だったようである(^^) このひとは「楡家のひとびと」というエッセイ群よりも遙かにおもしろい小説を書いていて、トーマス・マンのファンであったそうだが、話のなかで流れる時間が、たしかに「魔の山」といういまでは英語世界ではほぼ忘却された物語のなかで流れている時間にやや似ている。トーマス・マンとT.S.エリオットは、クロスオーバーというか、お互いの書いたもののなかで、お互いの作品についての感想をひそかに述べあっているが、北杜夫の世代のひとにはそれが見えていなくて、その「詩の欠落」が「楡家のひとびと」を表層的なものにしているが、偉大な詩人を父にもちながら、ということも出来るが、当時もいまも、大江健三郎のように意識して西洋型の文学理解に努めた作家は別にして、詩への理解力をもたない日本の小説家に、詩世界と協調してその時代の文学を構築するなどとは高望みにすぎることであっただろう。 もうひとつは、日本の文学者たちは、多分明治時代の文学者の嗜好に淵源をもって、大陸欧州(しかもイタリア・スペインはなぜか落としてしまっている)の、フランス、ドイツばかりに偏った文学理解なので、英語文学というものへの見方が、英語人からみるといつも苦笑させられる大陸人の手前勝手でドイツ人などは往々にして田舎者風の見解から、さらに妙な方向に向かってしまったので、あさっての方角からみてしまって、たとえば英語文学における「詩」の巨大さを最後まで理解できなかったのであるようにみえる。 北杜夫とそれにやや遅れて同じような「ユーモアエッセイ」で売れっ子になった遠藤周作とは一億円をこえる年収で、当時の一億円は大雑把に言えばいまの十億円の価値があるだろうから、60年代から70年代の作家という職業が日本ではいかに「儲かる」ものであったかがわかる。 三島由紀夫は「宴のあと」のようなすぐれた大衆小説も書いているが、次次とたたきつけるように書いていった「純文学」、「金閣寺」「午後の曳航」「絹と明察」「禁色」というような60年代前半の小説群ですでにベストセラー作家の地位を保っていて、ポルノ小説や「ユーモアエッセイ」でめまぐるしく変わる他の長者番付に載る作家たちと一線を画していた。 トーダイおじさんたちの話を聞いていて面白いのは、三島由紀夫の主要な読者が高い教育を受けていない若い女びとたちである、とみなされていたことで、ちょっとぶっくらこいてしまうが、どうやら三島由起夫の「ファン」というのは「女性自身」や「女性セブン」の読者と同一であると思われていたらしい。 … Continue reading

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ガメ・オベールに名をかりて

ガメ・オベール、というのはほんとうの名前ではない。 あたりまえではないか、と言う人もいれば、えっ、そうなのか、と思う人がいるところが世界というもののおもしろいところで、ほんとうの名前のわけでない、と初めからわかっていたひとには、ガメ・オベール、という名前が「ほんとうの名前だ」と考えるひとの存在が信じられない。 ほんとうだと思っていた人のほうには、そんなインチキな名前で他人を欺していたなんて酷い、という人もちゃんといて、この頃はもうなくなったが、よく怒りに満ちたコメントをもらったりしたものだった。 もう、とっくに削除されている記事が多い、初めのほうから読んでいた人、たとえばナスやネナガラ、josicoはんなどは知っているが、このブログ記事は、初めはゲームブログで、義理叔父がひょんなことから知り合いになったひとの運営するゲームサイトのはしっこにボタンがあった。 そのひとの会社では義理叔父は、なあんとなく自分が書いているようなふりをしていたりしていたらしいが、それはぼくの身元を隠しておいてやりたい、という気持ちがあったからだと思われる。 あるいは、そのあとではサイトにやってくるひとたちは、サイトの運営会社の社長が書いているのだと「証明」したりしていたが、それは義理叔父とぼくには好都合で、 うっかり社長が書いたのがばれたような「証拠」をつくっておいたりして遊んでいた(^^) ガメ・オベールは、もちろん、game overで、実際にもゲームばかりやっているぼくが、何度も何度もコンピュータスクリーン上に見た言葉で、ゲームブログにちょうど良いと考えたのだった。言葉遊びが好きなので、別にGamay Auberという表記をつくったがワインが好きなひとは知っているように、gamayはブドウ種で、Auberは、たとえばフランスでは比較的ありふれた姓である。 日本でなら、作曲家のDaniel Auber http://en.wikipedia.org/wiki/Daniel_Auber が有名だろう。 大庭亀夫のほうは、むろん、game over(ガメ・オーバ)を日本風に姓・名の順になおしたものを漢字にしたのでした。 なにごとによらず慎み深いぼくは、自戒をこめてオオバカメという意味をこめてあるのもいうまでもない。 初めは日本人のふりをして書いていて、ちょっと妙なことでばれて(頭の良い人がいて気が付かれてしまったことがあって)、その次は欧亜混血だということにした。 そのうちにめんどくさくなって、生活のまんま書くようになってしまったが、予想されたことでなかったとは言わないが、今度は、実生活を何分の一か書いただけで、 「そんなことが現実のはずはない」というひとがたくさん現れた。 広尾山に家があるううう? その上に軽井沢に別荘をもってるうううう? それで、日本に住んですらいないってえええ???? バッカじゃねえの、というわけで、嘲笑・罵倒のコメントやなんかが山ほど来た(^^) そのうちにもっと面白いひとたちが来て、ぼくが「ニセガイジン」だと「証明」したが、何百人も束になって「イジメ」に来たそのひとたちから少し離れたところには、ぼくが記事や写真に忍ばせておいた「動かぬ証拠」をみて、驚いたひとたちも立っていたようだった。 日本に住んでいるひとには判るはずがないものが多かったので、ちょっと狡かったが、嫌がらせを専門に生きているひとたちが考えるのと違って、従兄弟やぼくは、こういう「バカ反応」を楽しんでいても、実際に話しかけたいひとたちにまで、「ほんとうではないのではないか」と思われるのは、少し、寂しい気持ちがしたからである。 書くことがなくなってくると、そのうちに書いてしまうだろう「ごぼう」事件はおもしろかった。 義理叔父は、ぼくと友人たちよりもずっと深刻に受け止めていたが、ぼくのほうは、ああいうふうにもっていけば、そりゃ、そうなるでしょーよ、と思っていたので、義理叔父が日本の社会におおきく期待していたほうを傷ましいと感じた。 ぼくのほうは、賭に勝って、約束どおり何につかってもよい、限度額が月300万円の義理叔父の会社の「法人カード」を手に入れたので、はっはっは、やった、というだけのことで終わってしまった。 ちょっと、びっくりしたのは、義理叔父が現実の世界で反応しようとしたことで、 インターネット・セキュリティの世界のひとたちは知っているように、どこの国でも、ログなどはアングラでいくらでもでまわっている。 IPアドレスとタイミングから本人を特定するのはわけもないことで、しかし、そういうことは嫌いなので、我慢してもらうことにしたりしていた。 ひとりだけ、義理叔父が驚かせてしまったが、あとのひとは(義理叔父によれば) 会社の人を使って「監視」しているだけなのではないかと思う。 義理叔父の欠点は、日本への愛情が強すぎることで、「バカな奴には我慢できない」と言ったりする。ぼくからみれば、ながいあいだ成功した会社の持ち主をやってきたので、なんだか「王様」みたいになってわがままなだけだが、むかしは、(主に日本語をなおしてもらうために)パスワードを共有していたので、ぼくの知らないうちに、えらいことを書かれて慌てたりした。 日本語の世界とは、あまり関係がないのだから、考えてみると「慌てる」必要はないわけだが、ぼくには、その頃からjosicoはんやナス、ネナガラ、すべりひゆ、というネット上の大切な「友人」がいて、多分、そのひとたちの存在のせいで、「ガメ・オベール」という存在が自分の生活のなかでも意味をなしてきていたのだと思います。 現実のぼくを見て知っているひとびとは、もちろん、いうまでもなく、記事や写真に 「ウソであったとしたら、あるはずのないもの」を発見してメールをくれたひとたちは、かなり大勢いて、ぼくは、自分でやったことであるのに、 「世の中には賢い人がいるものだ」と驚いたりしていた。 ところが、上に書いた、「お友達たち」のほうは、意表をつかれた、というか、 … Continue reading

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これから生まれてくる日本への手紙

あらっぽい、というのとは少し違う。 ぼくの生まれた国は、ちょうどその国が面している北海のようにざらざらとして冷たい光をたたえているような、人間を拒絶するようなところがある。 その、一瞬で低温が生命を奪う「死の海」を渡って交易し魂を照覧しあった歴史のなかに立っている。 それが、だから、ぼくにとっては「故郷」の感じであって、人間の孤独が明瞭な姿で個々の顔に貼り付いているのを見て始めて安んじていられる、というか、人間らしさというものをそういう形で感覚しているのだと思う。 日本がやさしい国だ、と述べるときに、そう言われた日本のひととぼくが述べようとしたことのあいだには(他のすべてのことと同様に)微妙に見えて根底的な違いがあるように思われる。 ぼくが「日本はやさしい国だった」というときには、人間であるよりも、湿り気を多く含んだ空気や、奇妙なほど清潔な通り、すみずみまで磨き上げて、これ以上は綺麗にしようがない、というところまで磨き上げた店の窓、あるいは珍しくおおきなサイズがあるのを発見したジーンズ屋で、試着するときに、いつものぼくのぞんざいさで脱いだままになっている靴を、そっと、いちいち試着するたびに並べて向きを変えて置き直す若い女びとの店員の、試着室のドアの下からのぞいている、信じられないくらい細い指の小さなてのひら、冗談を聞いて笑っても、テーブルから離れるときには、その都度頭を下げて、お辞儀をしてゆく律儀な立ち去り方、もっと言えば、夜更けの、クルマも来ない交差点であるのに、青信号に変わるまで、じっと待っている、仕事帰りの女の子の、頼りないような、決然としているような、このまま風景の一部になりたいと表明しているような、不思議なたたずまい、舗道をいきかうひとびとの造作が小さくて、なにがなしゆで卵を連想させるような、つるっとした顔、そういうすべてのことをさしている。 ドアのノブから男用の便器までなにもかもが異様なくらい低い所にある日本の街や、モニが「かわいい」と言ってよろこんで写真を撮るのを常とした自転車に乗った小さな警官たち、ヘルメットをかむっていても、なんとなく子供たちが遊んでいるように見えてしまう工事現場のおっちゃんたち、というような身体のおおきさに由来する「かわいらしさ」もあれば、銀座から日本橋まで歩いていて裏通りに曲がった途端にあらわれた朝顔の並ぶ蔓棚にみとれてしまったり、あるいはとりわけ金沢の町に行けばそこここに見られる着物を美しく着こなした若い女たちや主婦、レコードを山のように積み上げた店で真空管の奥の光をじっと見つめながらなにごとかを考えている「オーディオショップ」の女主人、神保町ならば、ひとの手で美しく彩色された茶道具の図鑑を多分大正時代と見当をつけるがお調べ願えますか?と聞けば、ただいますぐ、と答えて、あっというまに汗を光らせながら戻ってきて、仰るとおりこれは大正の○○というひとの手になるもので、と詳細な答えを伝える店員さんたち。 日本にはどのくらい居られるのですか? お上手な日本語ですね。 上田市? 霊験? ああ、丸子がほんとうにお好きなんですね! それは嬉しい。 わたしは実はあの町の出身なんです。 いまでも一年に二度は戻ります。 と少年のように声を弾ませて話す店員を、いかにも控えめな微笑で、でもはっきりと顔をこちらに向けて、目で話に参加している知的な面立ちのひとびと、日本は英語圏の人間ですら忘れてしまったsubtleという言葉の理解者がたくさんいる国でもある。 画廊に寄って、タピエスの話をする。 あのDVDはいまではタピエス美術館で売ってるのさ。 このあいだ通りかかったときには、もうやらないのかと思ったくらい長かった改修が終わって開いていたので、カバの飲み過ぎで酔っ払っていたけど寄ってみた。 モニさんと一緒にね。 初期の絵が、あんなふうだったので、びっくりしました。 この頃は欧州人のバイヤーは東京には来ないに違いない。 とてもそんな経済じゃないのさ。 欧州の経済は化粧だけがあって、もう顔のほうはなくなってるんだよ。 上越市から富山まで北陸高速道を通らずに、海辺の道を、日が沈み始めた頃にクルマを走らせると、「水平線に沈む太陽」がみえる。 当たり前だが、太平洋側では決して見られないショーで、人間は単純なので、あるいはぼくが誰にもまして単純なので、あの太陽がうねりのおおきな独特の日本海の彼方に沈んでゆく姿をみていると、自然の美しさに茫然となってしまう。 前にもこのブログで書いたことがあるが、富山にはいると、同じ黒い瓦の家が軒並みを揃えた同じ高さで道の両側に並び始めて、日本では珍しい美しい街並をみせはじめる。 何度も考えてみるが、なぜ富山金沢は「軒が揃う」のだろう。 一向宗の土地柄と関係があるのか。 あるいは土地柄のなかに軒を並べさせるものがあるから一向宗の、金沢に至っては日本では(堺と並んで)初めてだったはずの「市民政治」が実現したのか。 ぼくは富山と金沢が大好きで、なんどもでかけたものだった。 富山にも金沢にも、モニとぼくには、良い思い出、日本のひとたちがプレゼントしてくれた輝かしい記憶がたくさんある。 福島第一事故があったときに、ツイッタで、何の脈絡もなく、おまえはニュージーランド人なんだからフクシマの話などせずにクライストチャーチの地震で日本人が死んだ責任をとれ、と言いに来た、ぼくの好きな奇人のマルクス博士(@marukusu_hakase)というひとの友達がいたが、不思議にも当の(留学生たちが出身の)富山で出来た友達たちは、ニュージーランドから電話で話しているときでも、その話題には触れようとしなかった。 いちどだけ、おもいがけずクライストチャーチの町でみかけた金沢の人が、どうしてこんなところにいるのですか?というぼくの問いに、 親戚の子が死んだ留学生のなかにいたのです、 と答えたことがあっただけだった。 えっ、と言って単純なぼくがみるみる涙ぐみはじめると、その人は、自分も涙ぐんでしまいながら、どうかガメちゃんまで悲しまないで、と述べるのがせいいっぱいの様子だった。 日本の美しさや特徴を「曖昧さ」のなかにみいだすわけにはいかない。 ぼくの頭の中では、それはどちらかといえば「抑制の利いた明晰さ」であるようにみえる。 日本語インターネットの世界では、ヒキガエルがつぶれたような声で「正しさ」をがなり立てる、およそ知性からは遠い「賢い人々」が幅を利かせ、普通のひとびとの声を聞き取りにくいものにしているが、幸いにもぼくは日本に実際にいたことがあって、現実の日本の現実の町の、現実の通りに立って話していた日本人の静かな声や微かな微笑や、控えめでいっけん判りにくいやりかたで、しかし明瞭に述べられた決意を述べるひとびとの記憶をもっている。 いまは日本にとって辛い時期で、勇気をふりしぼって、政権担当能力が十分でないことを知りながら、自民党の腐敗を忌んで、権力の座に選んだ政党には無惨に裏切られ、崩壊しか未来のない年金を老人達の生活をおもって払い込み、仕事を終えた休日には疲れた身体に鞭打って被災地の「片付け」にでかけてゆく。 ぼくの知っている限りの「勤め人」は、決して被災地でボランティア活動をすることの自分の健康へのリスクを知らないわけではなくて、大阪大学の菊池誠のような「学者」の「科学的」意見を鼻で笑って、出かけていけば自分の善意が確実に自分の寿命を縮めるのを知っていながら毎週のようにでかけてゆく。 … Continue reading

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