これから生まれてくる日本への手紙

あらっぽい、というのとは少し違う。
ぼくの生まれた国は、ちょうどその国が面している北海のようにざらざらとして冷たい光をたたえているような、人間を拒絶するようなところがある。
その、一瞬で低温が生命を奪う「死の海」を渡って交易し魂を照覧しあった歴史のなかに立っている。
それが、だから、ぼくにとっては「故郷」の感じであって、人間の孤独が明瞭な姿で個々の顔に貼り付いているのを見て始めて安んじていられる、というか、人間らしさというものをそういう形で感覚しているのだと思う。

日本がやさしい国だ、と述べるときに、そう言われた日本のひととぼくが述べようとしたことのあいだには(他のすべてのことと同様に)微妙に見えて根底的な違いがあるように思われる。
ぼくが「日本はやさしい国だった」というときには、人間であるよりも、湿り気を多く含んだ空気や、奇妙なほど清潔な通り、すみずみまで磨き上げて、これ以上は綺麗にしようがない、というところまで磨き上げた店の窓、あるいは珍しくおおきなサイズがあるのを発見したジーンズ屋で、試着するときに、いつものぼくのぞんざいさで脱いだままになっている靴を、そっと、いちいち試着するたびに並べて向きを変えて置き直す若い女びとの店員の、試着室のドアの下からのぞいている、信じられないくらい細い指の小さなてのひら、冗談を聞いて笑っても、テーブルから離れるときには、その都度頭を下げて、お辞儀をしてゆく律儀な立ち去り方、もっと言えば、夜更けの、クルマも来ない交差点であるのに、青信号に変わるまで、じっと待っている、仕事帰りの女の子の、頼りないような、決然としているような、このまま風景の一部になりたいと表明しているような、不思議なたたずまい、舗道をいきかうひとびとの造作が小さくて、なにがなしゆで卵を連想させるような、つるっとした顔、そういうすべてのことをさしている。

ドアのノブから男用の便器までなにもかもが異様なくらい低い所にある日本の街や、モニが「かわいい」と言ってよろこんで写真を撮るのを常とした自転車に乗った小さな警官たち、ヘルメットをかむっていても、なんとなく子供たちが遊んでいるように見えてしまう工事現場のおっちゃんたち、というような身体のおおきさに由来する「かわいらしさ」もあれば、銀座から日本橋まで歩いていて裏通りに曲がった途端にあらわれた朝顔の並ぶ蔓棚にみとれてしまったり、あるいはとりわけ金沢の町に行けばそこここに見られる着物を美しく着こなした若い女たちや主婦、レコードを山のように積み上げた店で真空管の奥の光をじっと見つめながらなにごとかを考えている「オーディオショップ」の女主人、神保町ならば、ひとの手で美しく彩色された茶道具の図鑑を多分大正時代と見当をつけるがお調べ願えますか?と聞けば、ただいますぐ、と答えて、あっというまに汗を光らせながら戻ってきて、仰るとおりこれは大正の○○というひとの手になるもので、と詳細な答えを伝える店員さんたち。
日本にはどのくらい居られるのですか?
お上手な日本語ですね。
上田市? 霊験? ああ、丸子がほんとうにお好きなんですね!
それは嬉しい。
わたしは実はあの町の出身なんです。
いまでも一年に二度は戻ります。
と少年のように声を弾ませて話す店員を、いかにも控えめな微笑で、でもはっきりと顔をこちらに向けて、目で話に参加している知的な面立ちのひとびと、日本は英語圏の人間ですら忘れてしまったsubtleという言葉の理解者がたくさんいる国でもある。

画廊に寄って、タピエスの話をする。
あのDVDはいまではタピエス美術館で売ってるのさ。
このあいだ通りかかったときには、もうやらないのかと思ったくらい長かった改修が終わって開いていたので、カバの飲み過ぎで酔っ払っていたけど寄ってみた。
モニさんと一緒にね。
初期の絵が、あんなふうだったので、びっくりしました。
この頃は欧州人のバイヤーは東京には来ないに違いない。
とてもそんな経済じゃないのさ。
欧州の経済は化粧だけがあって、もう顔のほうはなくなってるんだよ。

上越市から富山まで北陸高速道を通らずに、海辺の道を、日が沈み始めた頃にクルマを走らせると、「水平線に沈む太陽」がみえる。
当たり前だが、太平洋側では決して見られないショーで、人間は単純なので、あるいはぼくが誰にもまして単純なので、あの太陽がうねりのおおきな独特の日本海の彼方に沈んでゆく姿をみていると、自然の美しさに茫然となってしまう。
前にもこのブログで書いたことがあるが、富山にはいると、同じ黒い瓦の家が軒並みを揃えた同じ高さで道の両側に並び始めて、日本では珍しい美しい街並をみせはじめる。
何度も考えてみるが、なぜ富山金沢は「軒が揃う」のだろう。
一向宗の土地柄と関係があるのか。
あるいは土地柄のなかに軒を並べさせるものがあるから一向宗の、金沢に至っては日本では(堺と並んで)初めてだったはずの「市民政治」が実現したのか。

ぼくは富山と金沢が大好きで、なんどもでかけたものだった。
富山にも金沢にも、モニとぼくには、良い思い出、日本のひとたちがプレゼントしてくれた輝かしい記憶がたくさんある。
福島第一事故があったときに、ツイッタで、何の脈絡もなく、おまえはニュージーランド人なんだからフクシマの話などせずにクライストチャーチの地震で日本人が死んだ責任をとれ、と言いに来た、ぼくの好きな奇人のマルクス博士(@marukusu_hakase)というひとの友達がいたが、不思議にも当の(留学生たちが出身の)富山で出来た友達たちは、ニュージーランドから電話で話しているときでも、その話題には触れようとしなかった。
いちどだけ、おもいがけずクライストチャーチの町でみかけた金沢の人が、どうしてこんなところにいるのですか?というぼくの問いに、

親戚の子が死んだ留学生のなかにいたのです、
と答えたことがあっただけだった。
えっ、と言って単純なぼくがみるみる涙ぐみはじめると、その人は、自分も涙ぐんでしまいながら、どうかガメちゃんまで悲しまないで、と述べるのがせいいっぱいの様子だった。

日本の美しさや特徴を「曖昧さ」のなかにみいだすわけにはいかない。
ぼくの頭の中では、それはどちらかといえば「抑制の利いた明晰さ」であるようにみえる。
日本語インターネットの世界では、ヒキガエルがつぶれたような声で「正しさ」をがなり立てる、およそ知性からは遠い「賢い人々」が幅を利かせ、普通のひとびとの声を聞き取りにくいものにしているが、幸いにもぼくは日本に実際にいたことがあって、現実の日本の現実の町の、現実の通りに立って話していた日本人の静かな声や微かな微笑や、控えめでいっけん判りにくいやりかたで、しかし明瞭に述べられた決意を述べるひとびとの記憶をもっている。

いまは日本にとって辛い時期で、勇気をふりしぼって、政権担当能力が十分でないことを知りながら、自民党の腐敗を忌んで、権力の座に選んだ政党には無惨に裏切られ、崩壊しか未来のない年金を老人達の生活をおもって払い込み、仕事を終えた休日には疲れた身体に鞭打って被災地の「片付け」にでかけてゆく。
ぼくの知っている限りの「勤め人」は、決して被災地でボランティア活動をすることの自分の健康へのリスクを知らないわけではなくて、大阪大学の菊池誠のような「学者」の「科学的」意見を鼻で笑って、出かけていけば自分の善意が確実に自分の寿命を縮めるのを知っていながら毎週のようにでかけてゆく。
そのうちのひとりは金曜日には官邸前のデモにでかけ、土曜日には電車にのって福島にでかけていっていた。

福島第一事故のあと、日本の若い友人たちは善意をみせることをためらわなくなり、正しいことをすることに過剰な羞じらいをもたなくなったようにみえる。
「カッコイイ青年」になるのが嫌でたまらなくて老女に席をゆずれなかったKさんは、いまは老人をみるなり考えもせずに立てるくらい恥知らずになった、と言って笑っていた。

「職場では口にできませんけどね」と笑いながら、放射性物質の危険性についてもインターネットでみかける大学の科学系教員などよりは遙かによく勉強して知っているようでもある。

むかし、このブログで、日本の経済はいまのような予選決勝法を盲信して、タカをくくって現実を認めない高慢な態度のままでは市場を失ってゆくしかないだろう。硬直して集団で誤った考えを正しいと信じ込む習慣を変えなければ、あるいは日本は途方もない事故を起こして破滅にひんするだろう、と述べて、おおぜいのひとに「お前は神様のつもりか」「ばかばかしい」と言われたことがあった。
今度は、また笑われても、日本はどうやら零落の底をついたらしい、とここに述べておきたいと考える。
財政は相変わらず「国債がいくら増えても国内調達だから大丈夫」という5歳児でももう少しマシなゴマカシをおもいつきそうな奇妙な理屈のまま病状がすすむ一方であり、経済は国家社会主義経済的な計画が完全に失敗した結果のコンピュータ関連産業での壊滅を始め、クルマの次に乗り移る舟の見当もつかない状態にいまの日本はある。
まだ「日本」という大きな船は2015年くらいまで、この暗夜の航路をすすみつづけるに違いない。

最近でたエコノミストの(日本が世界二位の経済大国に躍進する、と述べて初めは嘲笑され、やがては予見が現実のものになったことによって驚嘆と賞賛の声をあびた1962年版に続く第二番目の)「次の50年」で最も暗い予測の対象になったのはほかでもない日本だった。メディアン年齢が57歳では、それも当然、と言えなくもない。

でもぼくは冷菜凍死の世界においても、結局はそこへでかけていって「手触り」や「風のにおい」で決めてきた。
義理叔父の遠い先祖にあたる戦国の田舎武将であったひとは、戦闘の場にたって、戦場を眺めると、これから起きる戦闘が最初の姿から最後の姿まで「視えた」そうである。

ぼくの「日本は風向きが変わったようだ」という意見には何の数字の根拠もない。
ましてインターネットに跋扈する、極端に頭のわるいひとびとのように「教科書」のどこに書いてあるか、を問われても、見せられない限られた人間だけに閲覧を許可される「教科書」にすら、日本の零落がどうやら終わりに向かうようだ、と思わせる記述はなにもない。
些細な手がかりすら記述されてはいない。

ひとつだけ言うと、日本はこの50年間、過度に個々人の魂を枉げて、若い人間の弾力のある生命を去勢してきたとも言えるが、一方では「ミーイズム」の浸潤が社会の深部にまで広がることがなかったほとんど世界ゆいいつの国でもある。

いずれ日本の若い勢力は日本をここまで繁栄させてきた「自由主義の仮面をつけた国家社会主義」を否定してゆくだろう。しかし一方では西洋型の民主主義も言論の自由も強制よりは暗黙の同意によって制限してゆくに違いない。
「日本のアイデンティティはなにか」という問題を手がかりに自分達の方法を生み出してゆくと思う。

その先になにを日本がうみだしてゆくかは、ぼくにはまだ判らないが、日本の同世代の友達と話していると、なんだか、自分でも理解していないやりかた、言葉はよくないが「天命」とでもいうようなやりかたで、もうこれからどうしなければならないかを知っているように思えることがある。

2015年には水底に足が付くようだ、と思う根拠はただそれだけだけれど、
日本という国の不思議な歴史をおもえば、
それで十分であるような気もするのです。

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