平成日本への道_その5

行ってみたことがあるひとは判ると思うが、碓井軽井沢インターチェンジは軽井沢町からはずいぶん離れたところにあって、名前から考えて、ここから軽井沢まで近いだろうと考えるととんでもない目にあう。
あそこはまだ群馬県で、軽井沢自体長野県から群馬県にとびだした「でべそ」のような町だが、それにしても、もっとずっと群馬側にはいりこんだところにインターチェンジはある。
なにしろ高岩山よりも向こうなのです。

カーブをいくつも曲がって山を越えると長野県の(雷鳥の絵が描いてある)標識が立っていて、そこからは下り坂で、浅間プリンスをすぎて両側に鬱蒼と灌木と木が生えた場所をすぎると軽井沢町の南端にはいることになる。
その南軽井沢の広大な道は戦前は実はいまよりももっと広くて幅が差し渡し100メートルあった。
敗戦後すぐはアメリカ進駐軍が接収して滑走路にしていた。
東京から碓氷峠を越えてやってくるのはたいへんなので、夏の避暑にやってくるのに、その滑走路に直接飛来することにしていた。

軽井沢の平坦地におりて、どちらでもかまわない、初めか二番目の角を曲がると、軽井沢で最も有名なゴルフ場の「軽井沢72」に行く道で、左側には押立山がみえる。
この山のてっぺんには多分60年代までホテルが建っていたが、その後、西武の堤一家がまるごと買い取ってヘリポートに使っていた。
いまは噂では(千ヶ滝に広大な別荘を建設中の)ビル・ゲイツがやはりヘリポートに使っているというが、福島第一発電所の事故以来、もう軽井沢の山の家、というよりも日本自体に行くこともなくなってしまったので、ほんとうかどうかわかりません。

あの道はずっとまっすぐに行くと八風山の麓を通って、突然ひらける発地の、春には佐久側の山肌一面にこぶしが咲く、正面には浅間山がみえる道が追分まで続いているが、さきほど述べた「軽井沢72」に曲がる十字路を少し行ったところに、「軽井沢レイクニュータウン」という、なんだか全体が安普請の遊園地であるような、奇妙な別荘地
http://lake-newtown.jp/
があって、その南側の山肌に「あさま山荘」はある。

事件が起きた当時は河合楽器の寮だった建物は、最近の軽井沢の流行にしたがって、
いまは中国の人が買収して所有している。

あさま山荘事件が起きた1972年は日中国交回復の年で、前年から、その頃はまだ中華民国(台湾)大使館だった、いまの中国大使館の前の通りを、右翼の街宣車が中華人民共和国の国旗をひきずりまわしながら走っていた。
通りから少し引っ込んだところに学校があった義理叔父たちは「あんまりうるさいので頭に来て」街宣車が料理屋の駐車場に駐まっている隙に忍び寄って中華人民共和国の旗を日章旗とすり替えていたりしたそーである(^^;)
どこの、と書くとすぐにわかってしまうから書かないが、その頃から中国人たちは、女子高校生たちの売春相手としては、もっとも支払いがよかったので、人気があった。
その頃中国人相手に売春していた高校生のなかで、いまはおおきな広告代理店の役員の夫人になっているひとがいて、ニューオータニのバーで話をしたことがあったが、なぜ外国人にそんな話をしようと思ったのか、
「支払いはよかったが何時間も体中なめまわされるので一回売春すると疲労困憊した」と述べていた。

一方で仕事の用事で日本を訪れたわが祖父は、アメリカンクラブのパーティに招かれて出かけてみると隣のソビエトロシア大使館の屋上に並んで双眼鏡でこちらのパーティをうらやましげに眺めている「さびしげな様子の、みなが黒い背広を着た」ロシア人たちを見て、「あの方たちも招かれてはどうですか?」とアメリカ人たちをからかっていたりしたようである。そっくり同じ光景をずっとあとになって義理叔父も目撃しているので、どうも手持ちぶさたの大使館員たちの習慣化した娯楽だったのかもしれません。

この頃の日本では政治勢力としての大陸中国の影はまだほとんど見えてこないが、ソビエトロシアはおおきな影響力をもっていた。
のみならず個々のエリートロシア人たちにとっては東京は「西側世界」につくったオアシスのような場所で、その頃は「東京勤務」はKGBや外務省、あるいはタス通信の記者にとっては夢の任地で、「なにしろロシア料理までロシアより旨いんだから」と言い交わされていたそーです。
前にも書いたが、80年代の秋葉原ではアタッシュケースいっぱいの札束で、屋台同然のパーツ屋の店先で無造作に大量のCPUを買い込んでゆくロシア人たちがよく見られたというが、当時でも、西側からソビエトロシアへの輸出が禁止されているものは、東京で調達するものと決まっていた。

日本は当時、国家社会主義の流れを組む支配層とは裏腹、「広汎な大衆」は戦前から脈々とつづくごく自然な「人民戦線民主主義」的な情緒のなかで生きていたからで、「火炎瓶闘争」時代の日本共産党が公然政党活動にしぼって、それへの反撥やそれやこれやで「反代々木系」という学生運動の「党派」が群立したりして、表層はさまざまな分派や憎しみあい、「内ゲバ」という名前の殺し合いがつづいていたが、全体を覆う社会の感懐、とでもいうべきものは、一貫して「人民主義」「社会主義支持」だった。
(それならばなぜ自民党の一党支配が続いたのか、というひとがいそうだが、自民党は右翼政治家から共産党よりも遙かに過激な革命思想を報じる政治家までを内包する、政党というよりは一個の「集金・配金装置」の総称で「派閥」が政党の機能を果たしていた。そういう日本の世界に特殊な事情を日本人全体がはやくから見抜いていたと思う)

この「大衆」の支持にのって、大学生たちを中心とする学生運動は、あるいは「世界同時革命」といい、あるいは「共産主義独裁」と叫んだりしたが、この学生たちが機動隊に蹴散らせて逃げ惑うとき、あるいは店の裏口から逃がしてやり、あるいは二階の娘の部屋に匿って学生たちを庇った「大衆」たちのほうは、学生たちがいうことを字義通り信じているわけではなくて、どちらかと言えば「頭のいい学生さんたちの『はしか』みたいなもんだから」という、当の学生たちが聞けば血相を変えて怒るような理解の仕方だった。
いまの日本からはもう失われてしまったが、自分達の町内にも東大文科一類に進んだ「菓子屋のケンちゃん」がいくらもいた当時の日本では、社会の選良といっても昨日まで自分の家の裏の路地で遊んでいた算数はできるが気の弱い子供であり、大学受験の冬には「がんばってね。風邪ひいちゃダメだよ」と声をかけたいがぐり頭の無口な「良い子」であって、いま「ゲバ棒」を抱えて、拡声器で、なんだかよくわからない「学生革命用語」で反帝だの反スタなどとえらそーに述べていても、どこまでいっても、やはり「菓子屋のケンちゃん」は菓子屋のケンちゃんで、言っていることは妙に現実から遊離して、観念的で、到底うなづけないが、別に、一生懸命なんかやってるんだから応援してやろうじゃないか、というくらいの気持ちをもつのがふつうのことだった。
余計なことを書くと、いまでもタイランドのような国にいくと、学生と街のひとの関係はそうで、「言っている事は『なんにもわかっちゃいない』だが、わたしらの子供のようなものだから」という雰囲気が町中にみなぎっている。

「内ゲバ」というようなものには、徹底的に嫌悪を示して、そこからすでに「学生運動」はもうやらせていてはいけないのではないか、と普通のひとびとが考えだしたころ、絶対反共絶対悪のはずのアメリカのニクソン政権と自分たちにとっては唯一の正統な政治的ヒーローで絶対善であった毛沢東と周恩来の中国が手を握った。
それはおおげさに言えば、当時の「人民民主主義的心情」をあたりまえとする日本人にとっては空が割れて落ちてくるほどの衝撃で、なんだかぜんぜん判らない、というか、
1945年には皇国礼賛の教科書を墨でぬりつぶして、昨日まで天皇中心の価値を集団で絶対正義としていたまったく同じひとびとは「さあ、今日からは民主主義だ」と明るい顔で述べ出すという、よく考えてみれば一種の悽愴な地獄を目撃した日本人は、今度はより小さな規模で、晴天の霹靂に打たれることになった。
その結果、まともな人間ならあたりまえだが、「もう政治なんてわかんないし、どうでもいいや」という心境になっていったが、世界中を驚愕させた、そのニクソンの中国訪問は1972年2月21日で、あさま山荘事件が起きたのは1972年2月19日なのである。

日本中の人間が家庭でも職場でもテレビに釘付け(平均視聴率は50%を越えていた)になったこの事件は、二機隊長の内田尚孝、警部の高見繁光、あと何をしたかったのか、あさま山荘にふらふらと近付いていった男のひとがひとり坂口弘たちの連合赤軍籠城グループによって撃ち殺されている。

義理叔父は学校の近くのレストラン(義理叔父の学校には学食が存在しなかったので学校の近くの料理屋で昼ご飯を食べるのは普通の習慣であったようである)で、みなと一緒にあさま山荘事件をみていたが、連合赤軍が警官を射殺したことを伝えるニューズに歓声をあげて喜ぶ上級生たちに、ひどい違和感をおぼえた、と述べていた。
義理叔父は一生のうちに何度か深夜の通りで反対運動のデモにくわわっているが、どんなに奨められてもガンとして「黒」(この色は無党派であることを示している)以外のヘルメットをかぶらなかったのは、多分、そういう経験と関係があるのだと思われる。

情緒的な結びつきで反体制学生たちを支持していた町のコーヒー店主や近所の課長や係長という中間管理職としてはたらくサラリーマンたちが、上級生たちの歓声を聞いて、「なにかが終わってしまった」「やさしいものが死んで、棘皮につつまれたものがあらわれてしまった」と感じた義理叔父たちと同じことをおもったのは、想像に難くない。
ニクソン、キッシンジャーと毛沢東周恩来たちがみせた、ただ敵と味方のベクトルを計算して現実を御していくことに集中する「政治」の実相と、連合赤軍がつきつけた「かつての甘い風貌だった情緒の変貌」は、この1972年を境に、日本人を急速に政治から引き離してゆく。
いわば政治そのものに嫌悪を抱くようになった、この日本人の国民性は、自民党の腐敗と自壊を必然的に呼び込み、日本最大の危機の契機のひとつになったようにも見えるが、まだそれはずっとあとになって表面化することである。

60年安保を初めのピークとして、10年以上に亘って日本を覆ってきた「人民戦線的情緒」は、この連合赤軍事件によって、ほぼ完全に終止符が打たれてしまう。

あとから来た者には、それはどちらかというと「政治の死」であるよりも、ひとつの共同な「情緒の死」であるようにみえます。

ぼくの新しい友達、ドイツに住む画家の「眠たい人」のために余計なことをもうひとつ書き足しておくと、10日の間つづいた平均視聴率が50%を越える「化け物ニュース」のあいだじゅう、テレビの前に座った日本人は、機動隊員たちが手にもっている発泡スチール製らしいカップからラーメンみたいなものを食べているのを見て「あれは、なんだ?」と訝っていた。
あさま山荘事件の実況のあいだじゅうテレビ局に問い合わせが殺到した、この見慣れない食べ物はいまでは世界中で売っている(前年から売り出されていた)「カップヌードル」で、この製麺会社のやや素っ頓狂な思いつきは、そうでなければ「へんな発明百科」のような本に載ってオモしろがられるだけで終わったかもしれなかったが、この「あさま山荘事件」で、それまでパッとしなかったこの新製品は爆発的に売れるようになってゆく。

このあと、連合赤軍内部の凄惨なリンチが明らかになったりして、日本社会全体の新左翼運動に向ける気持ちは芽生えたばかりの反撥から、げんなりした気持ちに変わり、やがては、ちょうどあとでオウム真理教事件のときに再び経験することになる「わけのわからなさ」の感情に変わってゆくが、あとからきたものの目には、「あさま山荘事件」は「政治的感情への共感の終わり」という点で象徴的であると思う。

この事件のあと、日本は自分達の「パブリック」という感覚に、おおきな欠落をつくったまま放置していくように見えます。
それはやがて腐敗した官僚組織という怪物を生み、日本の生産性を根本から阻害してゆく。
今度この記事で政治・社会の時間の線をたどるときには、その官僚組織のまんなかにいた若い上級職官僚の姿を通して平成へと向かう日本の姿が少しでもうまく書ければ、と思っています。

でわ

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