議論の始めに(その1)

ものごとを考えるには、前のめりになってリキんではダメで、脳裏から去らせてもダメで、眼のはしっこのところでそれとなく視界にいれながら待ち受け状態にしておくのがいいのである、とわしのガッコの先生はえらそーに述べるのだった。
16歳のわしは、なあああにをエラソーに、このハゲめが、と考えたが、
意外やこのハゲの言葉はいまに至るまでわしの頭にこびりついているのであって、この発言もまだときどき思い出しては、そーだろーか?と考える。

焦眉、というが、四六時中眼の焦点がおもいきりなにかに合っている人は、ものを理解するという点で、てんでダメで、というのはダジャレのつもりだが、ともかく、ダメである。
見ようとすると見えないのはOS劇場と同じだからな、とトーダイおじさんのひとりが、家に帰ってからおよそ30分をリサーチに要した歴史的な比喩を用いて同意していたが、そんな所に通ってたのかあのひと、ということを別にしても、年をとると、いろいろ思い当たる事があるらしい。

小林秀雄の文章に志賀直哉をべったほめにほめた文章があって、そのなかに「ああいう何も見ていないような眼は、なんでもありのままに見てしまうからおそろしい」という趣旨の文章があったよーな気がする。
小林秀雄本人は通勤ラッシュの階段で立ち止まって夏の青空の積雲をハッタと睨み付けている鋭い目のジジイがいるので、こんなところで人波をブロックしやがって傍迷惑なやっちゃなあ、と思ってよく顔をみたら小林秀雄だった、という鎌倉人の証言もある。
「焦眉ハッタ」型のひとだったのでしょう。

焦眉ハッタ型であったのに、そーゆータイプの人物がだいたいにおいて陥る「なんでも観念、現実の細部がなんぼのもんじゃい。正しさバンザイ!」のひとにならなかったのは、ただひらすら頭がよかったか、友達の中原中也の恋人と駆け落ちをしたりする、小林秀雄の生涯を貫いてみられる地熱のような情熱が小林秀雄を「観念的な人」にすることを阻んだのであるに違いない。
ここまで書いて思いだしたが、小林秀雄というひとは、気に入りの掛け軸を、あるときいきなり日本刀でまっぷたつに切ってしまったひとでもあった。
毎日、眺めているうちに贋物であるのに気が付いて癇癪を起こした、というのです。

正しいこと、の難しさは、論理的に正しくてもダメで、その正しさを言語の側で納得して、うまく言い当てられて「当たり」の感覚が生じるのでないと正しさとして不合格であることにある。
なんのこっちゃ、と思うひとがいるかもしれないが、誰がどう考えても自明であるはずのことが、ほんとうは正しくなかった、などということは人間の歴史をふりかえってみれば年がら年中で、現につい最近までは太陽は地球のまわりを回っていた。
科学全般に関して「がんばろう」だったアリストテレスやヒッパルコスの天動説はなんだかよくわかんないまま、多分、こーゆーことだんび、でそれを修辞にのせて誰をも論破できるようにしただけのものなので、喧嘩と議論の区別がつかなくて論破が勝負のいまの日本語世界の多くの論者と同じでどーでもよいが、クラウディオス・プトレマイオスの本を読んでもまだ地球が全宇宙の中心であることを疑えるひとは、頭が悪いのだと思う。

あるいはジョルジュ・キュビエの精細で科学的精確さに満ちた議論を眺めたあとでもなお進化論のほうが正しいと考える人は科学的に不誠実なのだと思われる。

プトレマイオスとキュビエの鉄壁の、完全無欠の「正しさ」を見れば、人間にとっての「正しさ」は一個の巨大な罠であることのほうが遙かに多いことは容易にみてとれる。

なんらかのきっかけで、自分達が正しいことを確信した十万人乃至百万人の人間が「正しくない」人間を集団で攻撃する、というのは人間の世界ではよくあることだが、日本語の世界ではそれが「自明」「絶対真理」であると意識されるところまで容易にいってしまう。

ツイッタでも述べたが、西洋の学校の「いじめ」は日本の学校のいじめよりも酷くて陰惨だが、よく観察しているといじめるほうは何百人に膨れあがっても自分達が悪いことを知っている。間違ったことをしているという事実を拭いがたい真実としてわかっている。
ところが日本では、「おまえが悪い」と合唱しているあいだに気持ちが酔っ払ったようになるかなんかして、いじめている相手のほうが全面的に悪いので、自分たちは「絶対善」なのだと実感するようになるものであるらしい。

わしは、むかしからこのブログ記事を読んでいる人なら、ああ、あれのことか、と思い当たるかもしれない、いくつかの実験を友達たちと相談してやってみたが、それはまるで戦前の日本人たちが狂泉の水を飲んで、まったくわけのわからない狂気にとらわれてゆく姿がビーカーの底に映し出されるように瓜二つだった。
日本人は極めて知的な文化をもっているが、その知性がいわば人間性というものにおいて「無効」なところに根本的な問題があるのではないか、と考えさせられた。
観察していたひとたちは、口々に「日本人はもういっかい戦争をやるだろう」と述べあっていたが、いまそんな話をこんなところで述べても、みな一笑に付すだけなのが判っているので、ここでは述べない。

日本のひとの国民性を悪い方に受け取ると、正しさにそういう属性がある場合は、たとえば「反原発」のひとも「原発推進」のひとも、ほんとうはダイスを振って出た目で決めているのと本質的に同じなのである。
「たくさんのひとがどちらを先に正しいと感じたか」によって、行き先のほうが先に決められてしまい、あとは無数のひとびとが寄ってたかって「現実」のほうをつくりあげてゆく。事実でない現実をつくりあげるなどというのは「編集」ということを考えたことがあるひとなら熟知しているとおり途方もなく簡単なことで、現実など騙し絵ほどの苦労もなく「生み出せる」ものであるのは、どちらかといえばジャーナリズムのABCにあたることであると思う。

そのうえに、もちろんこれは日本のひとに限らないが「歴然たるウソをまぜておく」のがお手の物の職人のような他人を中傷誹謗する才能があるひともいるわけで、実際、わしがインターネットでであったひとのなかにも、そういうひとがいたが、特に「名前がある」ひとの場合は、手もなくぞろぞろとついて歩いているフォロワーの群れの方は信じてしまうので、このひとはいろいろな人に対して、その手を常用しているようだった。

ではどうすれば日本語が狂気としてではない「正しさ」を取り戻せるか、現実に対して有効になりうるか、ここで自分が考えた事を演説のように述べるのではなくて、せっかくここまで一緒に歩いてきたのだから、この頃は全然お返事書いてねーじゃんなコメント欄や、ダジャレばかりのツイッタを改善して、お友達たちと一緒に考えたいと思う。
これがその第一回目で、集中して討議したりせずに、のんびり、思い出したように、この問題に立ち戻るのがよいと思うが、それにしても始めなければ何も起こらないので、
この記事をここに置いておくことにする。

出来れば次の記事からは、ツイッタで交換した意見や、コメントへの返信を織り交ぜて、話がすすんでいくといいなあ、と希望します。

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