ジオラマを作りながら考えたこと

日本のひとは日本だけで閉じた世界が好きなのだと思う。
大庭亀夫という日本語人格を発明してブログ記事を書き始める前に
カレル・ヴァン・ウォルフレン
http://en.wikipedia.org/wiki/Karel_van_Wolferen
について調べたことがあったが、彼に投げつけられた言葉のすごさにぞっとした。
インターネットの世界だけでなくて、インターネットのこちら側の世界でもひどいものだった。

だいたい「外国人が日本について述べることには意味がない」
「日本のことは日本人にしかわからない」
「おおきなお世話だ」
という日本人の反応は、他の国ならばサッカーを観ればフーリガンになって走り回るタイプのおっちゃんたちの立場だが、日本では遙かに広汎な立場なので、孫正義のようなひとが福島第一事故でいくら頑張っていろいろ提案してみても、
「ご苦労様でした。あとはわれわれ日本人にまかせてくれれば大丈夫ですから、あなたのような外国人はここまでで、おひきとりください」などという人が現れて、孫正義が「外国人が日本のことを考えてはいけないのですか?」と呻くことになる。

この孫正義に日本人らしい親切な忠告を行った人達のいうとおり、福島第一事故は字義どおり大丈夫になって、メルトダウンして地下にもぐった核燃料はないことになり、ぶちまかれた放射性物質は安全であったことになって、秋になれば放射性物質をたっぷりすいこんだきのこで彩られた「五色弁当」がレストランをにぎわせて、銀座の鮨屋にもひとが戻って、食べても即死するわけではないアナゴ寿司で舌鼓をうつひとびとの喜色に満ちた声が響いている。
このあいだテレビをみていたら、通勤外国人たちが、震災前にはあれほど「異様である。日本人はなんであんなもので顔を覆って外を歩き回っているのか」と訝しがっていたマスクを自分達のほうが着用して歩いていて、日本人のほうはマスクをしなくなっていたので、観ていて「ガイジンの放射脳ぶり」に笑ってしまった。
この期に及んでもまだ日本的解決や日本文化の本質に馴染めないもののよーである。

ドイツについて日本人が日本語で日本人に向かって話しかけることと、日本についてドイツ人が日本語で日本人に向かって話しかけることには本質的な違いがあるが、日本のひとは前者は明治以来大好きでも、後者は嫌いである。
日本のひとが英語で英語国民に批判的に話しかけた例は歴史上はいくらもあって、鈴木大拙や新渡戸稲造の巨大な成功をみれば、その習慣を偏狭な日本人たちがよってたかってダメにしてしまったのを残念であるとぼくは思っている。

日本人は、やはり世界で最も異見をもつひとびとであるからで、たとえば数学の世界ではそれはつとに有名で、日本のひとの数学的想像力はいっぷう変わっている、というか、もっとおもいきっていってしまえば宗教的な感じがする。
人間は「違う角度からものごとをみる」ということが極端にへたなので、たまたまフランス語に熟達した日本人がフランス社会を激しく批判したと仮定して、商人たちのようなタイプはともかく、歓迎されないわけはない。
日本人たちに向かって西洋社会の欠点をごたくさゆっているくらいなら、さっさと英語なら英語で向こうにいって文句を言ってくればいいだけのことで、いつだったか捕鯨についていいたいことがあるなら、英語圏の新聞なりなんなりに投稿すれば日本人が意見を述べるのはたいへん珍しいことなので取り上げられる確率が高いし、それもめんどくさければシドニーの街で拡声器をもって「捕鯨のなにがわるい。おまえらだってむかしはやっていたではないか」といつも日本語で日本人世界に向かって述べることをシドニーで述べてくればよい、と書いたら、「どうして、おまえはそういう出来るわけがないことをやれというような卑怯な人間なのか」という「お手紙」がわんさと来てぶっくらこいてしまったことがあった。

女優のヘイデン・パネッティーア
http://en.wikipedia.org/wiki/Hayden_Panettiere
が5人の友達と太地町にやってきてイルカ漁を妨害しにきたのは18歳のときだったと思うが、慈悲深い日本警察の許可もとらずに妨害はいかんではないか、イルカを涙をこらえて撲殺するやさしい心根の漁師のひとたちの気持ちを考えないのか、という話を別にして、日本以外の国では、文句があれば、そこまででかけていって、そこの人間たちに判るように文句を言うのが普通の行動であると思う。

もう3回くらい書いたが、日本人おっちゃんと一緒にマンハッタンの5番街を歩いていたらアメリカが交戦中だったイラク人たちがやってきて「ブッシュに死を!アメリカに死を!」と大音量の拡声器で叫んでいたが、血の気の多いアメリカ人たちも、一瞥を与えて、ちょっと顔をしかめて終わるだけだった。
日本人おっちゃんのほうは、自分でみたものがどうしても信じられなくて「映画の撮影ですか?」と聞かれたりした。

なぜ、イギリスのことならイギリスのことで、日本人の群れのほうを向いた解説者のようなひとが現れて「イギリスの大学システムは特殊なんですねー」とか「イギリス人はこーゆーところが紳士の国である」と述べてみたり、「イギリスが紳士の国なんてとんでもない、わたしはイギリスで暮らしているがイギリス人なんてランボーなだけのアホですよ」という「解説者たち」があらわれて、あまつさえ、それで食えてしまったりするかというと、要するに日本のひとたちは実は世界に興味などもっていないからで、中村伸郎の有名な俳句ではないが、「除夜の鐘、おれのことならほっといて」と思っているのだと思う。

ついでなので述べておくと、「イギリスもの」の論述者のなかでも日本語で「わたしはロンドンで差別されてて気持ちが暗い」というようなのは、話があっている、というか日本語で日本人世界にむかって述べることに必然性があって、ほんとうはどの国対象にもある(もちろんニュージーランドに住む外国人たちのものもあります)expatサイトのようなところで仲間をつくりながらやったほうが良いとはおもうが、それはおかしいとは思わない。
ヘンなのは洋風弁当みたいなものをつくってるひとがヘンだと述べているので、
宝塚の「ベルばら」や日本風のカレーが流行るのは日本のよいところだと思うが、
日本風のカレーとベンガルのカレーを混同して「カレーの本質」というようなことを述べ始めるひとが出てくると、歴史的にいって日本語世界自体に福神漬けがついていないカレーを食べるインド人は邪道で許せないというひとがいっぱい出てきてしまうのでやはりいまのような世界に対する正しい認識がないとにっちもさっちもいかなくなってしまう、(簡単な例で言えば作ったトヨタやソニーが売れなくなってしまう)時代にあっては有害でしかない。

ええええー、と思うかも知れないが、しかし、日本にはしたり顔で福神漬けのにおいのする欧州事情を述べたりする「欧州通」は何千人もいるのです。

自分がタミヤのジオラマなどはむかしから大好きなので日本のひとの、むかしは「箱庭的」などと呼んだ、タミヤ・ジオラマ的世界観は、嫌いではない。
子供のときにエウクレイデスの幾何学が大好きでたのまれもしないのに最初から最後まで証明しながら読んでしまったりしたのも、まったく同じ性癖によっていて、自分で自分を考えても「ひきこもりで、閉じた、安定世界」が好きなのだと思う。
日本についていえば、日本社会の自閉的な傾向について「鎖国経験をもった結果」というひとがいるが、考えてみれば、島国である連合王国でエリザベス女王が「スペインが攻めてくっかもしんないから鎖国する」と述べたとして、イギリス人が言うことを聞くかというとエリザベスが国外追放されて終わりだっただろう。
オカミの命令一下、あっというまに鎖国をして、海外の日本人町などにいた日本人の帰国を厳禁して、すでに海外にでていた同胞の帰国の道まで断ち、あまつさえ、じゃがたらお春の、子供でも嘘っぱちに決まってると考えそうな「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」というような爆笑文をマジメに信じてお春の「不幸」に涙を流すことが流行した国には、「鎖国」を魂の根本のところで支持する文明の深い根があったに違いない。

しかし、世界を拒絶したまま日本が生きてゆけるかというと、良い悪い、好き嫌いは別にして、世界をやりすごすことそのものが無理である。
江戸時代の終わりの黒船でわかるとおり、自分のほうでひきこもっていても民生委員のクソばばあは、やってきてしまう。
日本はアメリカの町内になるので、アメリカ訛りの民生委員がやってくるに違いない。あるいは雨戸を閉じて、欧州通の欧州の話に「欧州もいいが、実情はこうだな、やっぱり日本の方が良い国だ」などと思いつつ読み耽っているあいだに区割りが変わって、町内がいつのまにか中国になっていて、中国訛りの民生委員のおじちゃんが来るのかもしれない。

いずれにしても、こういうことに良し悪しや正しい正しくないをもちこむのはムダで、世界というのは自分の世界におしかけてくるものなのだから対処するしかない、と思い定めないとうまくいくわけはない。

そう考えていままでも日本人の友達その他と話してきたが、どうも、各人が英語なら英語、フランス語ならフランス語で、向こうのほうにでかけていって、「相手の言語で思考して議論する」場をつくるしかないよーな気がする。
中国人たちは、すでにそうしている。
インド人も英語世界において、そうである。
日本では、おおむかしは、そんなことをすると日本のアイデンティティが失われる、という不思議の説をなすひとがいたよーだが、どちらかというと、そうすると文明の違いが浮き彫りになって強化されるほうだったことが分明ないまでは、消滅したもののようです。

日本が無茶苦茶ひどかった過去の評判をほぼ帳消しにしたのはアニメが物語を通して日本の文明を懸命に説明したからであると信じているが、アニメには説明してもらえないことがあって、
それは仮構した存在には託せない、物語からははみだしてしまった、日本人の日常の気持ちであると思う。

自分が今なにを考えていて、何に苦しんでいるか、あるいは社会にどういう歪みが拡大していて、年金を払ったりしていれば自分は暮らせる見通しがない、と英語なら英語が、スペイン語ならスペイン語のアクセントが響いている広場まで歩いていって、ありゃ、変わったひとが来たな、と思ってこちらに顔を向けているひとたちに向かって、(ここが大事だが)彼等の言葉で述べれば、10億人よれば菩薩の知恵という、いま日本で解決不能のまま社会を押しつぶそうとしているたくさんの問題も解決しそうだ、とぼくは見込んでいる。
いっぽうで、そうしなければ日本はいま抱え込んでいる問題の重みで圧死してしまうだろう、と考える。
「維新」の党、などといういかにも日本ローカルな、田舎染みた名前の党派を旗揚げして若々しい80歳の老青年の頼もしいお言葉を傾聴するより、日本語に内在する知恵ばかりに頼らないで、他の言語や、その言語が具現化した社会の知恵を思考にとりこんだほうがずっと楽だろう、と思うのです。

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