余白_1

いまは「品下って」しまったが、わしガキの頃はジャガーはまだイギリスでは人気があるクルマで、だいたい首の後ろが赤そうで頭の固い傲岸なおっさんが好んで乗るクルマだった。
XJS
http://en.wikipedia.org/wiki/Jaguar_XJS
やXJIII
http://www.youtube.com/watch?v=hVB66Pg1rz8
があった頃のことです。

乗ってるおっちゃんはだいたいにおいてくだらないひとが多かったよーな気はするが、ジャガーはたいへんイギリス的なクルマで、「スポーツ」という言葉そのままだと中古ガイドに書いてあったりするが、そういうこととは別に、たとえばクルマを(あるいはイギリス風のものの見方を)よく知らないひとにとっては、XJ12とDaimler Double Sixの違いがよくわからない、ということがある。
イギリスのひとであれば、相当なクルマ音痴でも、「フロントグリルが違う」「クロームの使い方が違う」「後ろに小さくダブルシックスと書いてある(^^;)」というようなことで、パッと見て気が付く。
それ以前にXJ12とデイムラーではまるで違うクルマやんね、と考えて違いの説明に苦労するひともいそうだが、それはそれでイギリス式価値観にズボッとはまってしまっていて、「えっ、建物に。ふつう、出口なんかあるのか?」と考えているひとでありそーな気がする。

これがレンジローバーになると、もっとものすごくて、レンジローバーはなぜ売れたかというと、狐狩りに使うような丘陵地帯の道なき荒野をどんどん行けて、その実運転している人間は会社はつぶれてしまったのになぜかメイフェアとナイツブリッジには店がある(^^;)コノリーの皮を張ったチョー楽ちんな座席に座って自分の家の居間の椅子と同じ質の車内で寛いでいられる、というので人気がでた。

プリンス・オブ・ウエールズなる人は、いまでは年上の憧れのひとを熱愛するあまりシンガポールの沖合に沈没してしまったが、貴族的な人間で、たとえば他人が足下にも及ばない自分でも力をいれているコレクションをもっているが、その世界的に有名なコレクションは「贋作コレクション」です。
レンブラントの偽物やピカソの偽物のうち、専門家でも鑑定に悶絶するような真に迫った「良作」だけを蒐集して私有の一大美術館をもっている。
もう少しのべると、ミニクーパーというクルマはプリンス・オブ・ウエールズがいなければ市場に存在しなかったはずで、天才Alec Issigonis 
http://en.wikipedia.org/wiki/Alec_Issigonis
がエンジンを横置きにするという物凄いアイデアをもってつくった、このちっこいクルマはBMCが出したときには、全然人気がなかった。
ただひとり、この「ミニ」をひとめみて熱狂的なファンになったのが、プリンス・オブ・ウエールズで、エバンジェリストとなって、友達の顔をみれば、きみ、乗ってみろよ、あんな面白いクルマはないぜ、とゆって奨めて歩いた結果が、そのあとに続くミニの長い興隆の歴史のおおもとであると信ぜられている。

このひとが当時狩りに愛用したクルマはディスカバリでレンジ・ローバーではなかったが、それは正面から一流ではかっこわるいな、というこのすべてにおいて趣味の良いひとの典型的な上流階級趣味があらわれている(^^) 
ダイアナ妃は気の毒だったが、チャールズのような男にはもともとコーンウォール公爵夫人でなければならなかった、レディ・ダイでは無理であった、と思う人が多い由縁であると思う。

レンジ・ローバーはディスカバリと違って、もともとは十分な収入があるから買ってよい、というようなクルマではなくて、もっと下品で辛辣な価値観の体系によって出来たマーケットを念頭においてつくられたので、座席のコノリーにパイピングがあるかないか、皮のなめしが指定できるかどうか、そーゆーチョーバカな理由で値段が激しく異なるクルマだった。
いまのベントレー・コンティネンタルGT
http://www.bentleymotors.com/models/new_continental_gt_speed/
と似ているかもしれません。

ニュージーランドはやたらとレンジローバーが走っている国で、アメリカ市場の2倍以上に設定された価格であるのに、ご苦労なこっちゃ、とわしは考える。
いまは、その頃とは(運営している会社も所有している会社も変わったので)異なるマーケットかもしれないがわしガキの頃家にやってきたおっちゃんが、アメリカのレンジローバー所有者の平均年収は50万ドルくらいと思うけど、と述べていたのを思い出す。
ニュージーランドでレンジローバーのディストリビューションをしているおっちゃんに訊くとニュージーランドのレンジローバー所有者の平均年収は2000万円がとこで、ほとんどの顧客がローンで買う。
しかも、その半分はローンの審査ではねられる、とゆっていたので大笑い(すみません)したことがあったが、さてそれを「夢」と呼ぶか「虚栄」と呼ぶかは、案外とそのひとがどんなふうに社会と向き合っているかについての自白になっているのではないかと考えることがある。
多分、若いひとがクルマを買わなくなり、あまつさえ、高いクルマを買う人間にむきだしの憎悪の言葉を投げつける日本の社会が正対している問題にも通じているのではないかと思います。

昨日、もじんさんというひととツイッタで話していたら、自分では夏の膝までのパンツのことをいうのだと思っていた「ショーツ」がもじん風にやや遠慮して述べれば「女性の下着」、英語でいえばニッカーズ、アメリカ人の言葉ではパンティ、であることを発見してローバイしてしまった。日本語をおぼえてからずっと「ショーツ」「ショーツ」と書くものすべて及び会話において連呼してきたからで、おもえば、わしは日本語を学習して以来、
「夏はたいていパンティをはいて過ごします。そっちのほうが趣味にかなっていますから」とオオマジメに述べていたことになる。
結婚する前にも、わしが会った日本人の誰も「うちの娘と会ってみませんか?」と遠回しにも述べるひとがいなかったわけである、としみじみと考えました。
みんな、わしのことを変態ガイジンだと思っていたのではなかろーか。

だいたい日本語を矯正するのは義理叔父の役割であって、ツイッタやなんかでも不眠症のひまつぶしに眺めていることが多いと思われて、「信じれる」とでも書こうものならチャット窓がいきなり開いて、「ぶわかもの、『信じられる』ぢゃ」とゆってくる。
高校生の頃クラブでかわいいねーちんと知り合いになって夜中に窓からこっそり忍び込んで、むふむふしていたら相手のおやじが突然ドアを開けて踏み込んできたときのような気持ちになります。
(そんな経験はないけど)

(ほんとよ)

だからすべての責任は義理叔父にあって、ただ懸命に日本語を練習しているだけの無垢な魂であるわしには何の落ち度もないが、それでもembarrassmentは残る。

http://www.youtube.com/watch?v=nL8LYmi6OXc

このブログ記事には何度も出てくるが、カタカナ語の難しさは想像を絶している。
横でみていても「ズボン」が死語なのかどうか、「パンツ」はハラジュクガールズが身につけている草間弥生っぽいデカイ水玉のあれがそーなのか、それとも、おっちゃんの「ズボン」の下で虚しく黄色い染みをつくっているのがそうなのか、さっぱりわからない。
もっとよく話題に上るものを拾い上げて述べれば、わたしだってボーイフレンドの2、3人はいるんですから!と言っている女の高校生のセリフを長野の蕎麦屋のテレビで見ていて、むせて、鼻のなかにそばがはいりそうになって死にかけたことがあったが、よくよく訊いてみると、ただの友達のことで、女びとが英語世界で話の途中で、あっ、男と一緒だと思われたら嫌だな、と考えて「フレンド」を「ガールフレンド」と言い直すのと同じことか、と気が付く。

ヴァイオリンとバイオリンの正誤などは、どっちでもいいんちゃうの?と思うが、メンドクサイのでマンハッタンのVillageをビレッジと書いたら、ブログを読みに来たひとが、ヴィレッジと書いてくれないと検索にひっかからないので困った、という。
なるほど、と思います。
あるいはcocasianという言葉は日本での初出が「コーカシアン」なのでコーカシアンが、と書くと、メールでコーケージアンでしょう、と教えてくれるひとがいる。
日本のひと自体は、いったいどうやって表記を決めているんだろう、と思って調べて見ると、新聞社はほぼ記者クラブと同体の報道ギルドがガイドラインをつくっていて新聞記者たちがもたされているIMでは、だっちわいふ、からダッチワイフへ変換したりは出来ないもののようである。
産業に関係があるカタカナは経産省がガイドラインを策定していてコンピューターは間違いでコンピュータである、というように延々と書いてあります。

Costcoをコストコと呼ぶのは、どうやっても心理的抵抗がおおきくて無理だと思うが、それならインターネットの「ト」だって困るだろう、と言われる。
言われてみればコスコは日本では新しいものなので、どうやってもコスコだが、インターネットのほうは無意識のうちにinternetではない日本語のインターネットで、
internet->インターネットとちゃんと「翻訳」しているのである。
コスコはアクセント上、翻訳されないまま頭のなかにあるので、「コストコ」とゆわれると奇妙な感じがする、というよりも咄嗟には「Costco」と判らないものであるらしい。

ややこしいことを言い出すと、歴史的にはカタカナは日本語の構文上取り外し可能な部分(たとえば 名詞)に日本語のアクセントと互換性があるような抑揚をもたせて流通させることで、「西洋」の受容を簡便にする働きがあった。
ピア(peer)という言葉を知らなくても、ピア・トゥ・ピアはちゃんと知っていて、
若いエンジニア同士が話をするときに不便をかこつことはない、という点ですぐれていた。

しかし、インターネットの普及以来 (なにしろアフリカの子供たちが午後の空腹に耐えるためにユネスコが配ったコンピュータでハッキングに熱中する時代なのである)ひとつの分野での象徴的な言葉をカタカナにすれば必要な情報が得られる時代が終わってしまった。
もっと言うと英語西欧語の世界はひとつの巨大な情緒を共有しつつあるように見えるが、なるべく数を絞った要点を理解するのに向いている「カタカナ受容」では、もっと簡単に言えば「要点を理解する」という姿勢では、いまの世界では理解不能に陥って事実上の鎖国に陥る危険性がおおきいと思う。

日本人はかつて中国文明を模倣して自分達の文明の基礎としたときに漢字から音を剥ぎ取って自分達の発音にあてがって文明から意味だけを奪取するというかなり荒っぽいことをやった。脱亜入欧を唱えるにあたって、やはり同じ企画をもったが、うまくいかなかった。遣唐使方式で都会も田舎も貧富も区別せずに優秀な若い衆を外国に送り込んで文明を摂取しようとしたが、西洋文明の要点だけでは本質がまるでわからない性格も災いして、最も効率的と信じて最も危険な部分をのみ輸入してしまった。
福島第一事故は、要するに、そういう粗野の結果なのだと思います。

ニュージーランド人の友達が聞いたら「ガメ、あたま、ダイジョブか?」というに決まってるが、夏の午後、浜辺の町を散歩して、通りに出ているテーブルに腰掛けてメニューもみないで、ちべたいSauvignon Blancと夏牡蠣を食べていると、なんにも考えないで生きてゆけるのはなんという贅沢だろう、と思う。
日本のことを考えると、そう思う。

義理叔父のお友達が書いてきた「国破レテ山河ナシ」という(多分)日本の社会ではクリシェにしかすぎない冗談が、胸に迫ってきてしまう。

あまりにチョーあたりまえなので、口にするのに気が引けるが、どんな国の人間も、どんなにへまをこいても、頭に血が上り体中をアドレナリンが奔流してキチガイジミテあばれまわって徹底的に「膺懲」されても、生まれ育った森や田園や川や海さえあれば必ず立ち直ってやっていける。
自分たちが住んでいる「母なる国土」が、その一木一草が、どんな国民にとっても回復力のすべてで、だからこそ「国権国家」という妄想はこれほど長いあいだ人間を支配してきたのだと思う。

初めから最後まで徹頭徹尾支配者のケーハクな思いつきと非人間性ばかりで出来ていて、やりきれない思いにさせられる高木俊朗のインパール5部作のなかで、ゆいいつ感動的な箇所はチャンドラ・ボースを信じて日本軍と協力したインド人たちが国境線を越えた途端に突然いっせいに土に跪いて、やがて大地に口づけを始めるところだと思うが、ドイツ軍のモスクワ攻略作戦の初期に友軍などとっくにいなくなった橋の入り口にただ一台陣取って、ナチの大群を釘付けにして(ロシアでは伝説的な英雄の)最後には爆死した4人の重戦車KVの戦車兵たちも、このブログ記事に何度も出てくる(^^)、撃墜王・リディア・リトバク
https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/08/19/fokker-dr-1/
も、もちろん真に守りたかったものは国家などではなくて、自分がその上で育った祖国の土であり、森であり、どう言えば良いのか、その自然の一部としての自分の家族であり友人であり恋人であったのだと思われる。

いくら安全だと言われても、自分なら出された皿の上の野菜はどこから来たものだろう、と考えてしまう。
お茶をだされて口をつけてから、しまった、と考えるだろうと思う。
放射性物質が危険であると認めないために、ありとあらゆる自分の知識を動員して、挙げ句の果てには情緒の仕掛けを利用して「あぶないのではないか」と述べるひとを黙らせる巧妙な工夫に熱中するひとがたくさんいるのは当たり前のことで、日本が自分のアイデンティティならば、放射能によって日本が汚染された考えることは、他でもないアイデンティティの否定で、自分自身が否定されたように感じられて、到底認められないのでしょう。
「放射脳」という言葉で放射性物質の害を心配するひとびとを冷笑的に攻撃する口吻がどう隠しても戦時中に「鬼畜米英」に一心同体にならない隣人のパーマをした髪をつかんでひきずりまわした「隣組」の「愛国者」たちに似てきてしまうのは、要するに「あなたはわたしを否定するのか」という憤りが同じであるからに違いない。

上にあげた3つの文が、離ればなれになりながら、同じ余白に書かれているのだと 感じて並べてみた由縁であると考えます。

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One Response to 余白_1

  1. AK says:

    「報道ギルド」とは、言い得て妙ですね。最近は例えばFTの原文もネットで読めますので、彼ら日本語報道ギルド(メディア)が和訳紹介する際に都合の悪い部分を省略するなどの姑息で背信的な情報操作が全て分かるようになり、日本の将来に少しだけ明るい兆しを感じます。

    ところでよくご存じのとおり、カタカナ語の難しさは、必ずしも英語由来のものだけではないことです。「カステラ」のルーツはポルトガル人がCastillaと紹介した南蛮菓子(らしい)ですし、「バウムクーヘン」はドイツ人のユーハイムが紹介したもの。で、風月堂「ゴーフル」はフランスのGaufreを日本風にした菓子ですが、英語のWaffleとなると通常は「ベルギーワッフル」を指しますので注意が必要です。
    「パンツ」も「ショーツ」も「パンティー」も下着の名称と化し、「ニッカーズ」は定着せず、さすがに「ズロース」(drawers)は死語になりつつあるかと思いきや、最近、国家公安委員長が衆院内閣委員会でスマートフォンのセキュリティ対策について「ノーズロ 状態になってる」と答弁して健在ぶりを再確認させられたりします。

コメントをここに書いてね書いてね

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