言葉のない思惟

人間の愚かさの根源は、自分が死ぬことはわかりきっているのに、そこから逆算して自分の一生をすごせないことにある。
そのうえに30歳の自分にとって17歳の自分はほぼ他人なのだから、50歳の自分にとって30歳の自分も、人間の精神時間の流れ方を考えれば若い自分を振り返ったときのようにアカの他人とまではいかないだろうが、兄弟というか、そのくらいは違う自分であるだろう。
つまり簡便に述べると(言い古されたことになるが)20歳の夏の一日は、その日一日のことで繰り返すことができない。
せっかく睡眠というものがあるのだから、小規模で明日に連続されることが一応保証されている死だということにして、一日をその都度リフレッシュされた一生のように生きられればよいが、人間の意識は疎漏なので、一日一日を稠密な意識で埋め尽くすというわけにはいかないのを、われわれはみな経験的に知っている。

眠っているときの大脳はかなり忙しくて、どうやら記憶の棚の整理をしているらしい。右のものを左、反応した大きさで揃えたり、内容で揃えたり、索引をつけたりで、なかなか忙しいのだという。
ぼくはほとんど夢を視ないが、数少ない夢をてがかりに考えてみると、ある夢においては言葉が介在していないことがあるよーにみえる。
ヘルプ・ミーと言っているのに村人がみんなクマさんになってしまっていて、誰も助けにきてくれない、という怖い夢を視たこともあるから、言語が介在する夢が存在するのはたしかだが、思い出しにくいのに強烈な色彩的印象を残している夢のなかには、「言葉のない世界」に属しているものがあったような気がして仕方がない。
いまは、人間の夢には言語が存在しない動物の夢と言語が介在する人間の夢と両方が存在するということにしてあります。

ところで動物の夢をみる自分がいるということは動物の生を生きている自分が存在するということだろう。
あたりまえではないか、というひとがいるのかもしれないが、全然あたりまえではない。
思惟で存在を保障されている「我」の傍らなり足下なりに、動物の生を生きている「我」がいては近代の「人間」の定義に照らして甚だしく都合がわるいと思われる。

死から逆算させることを拒んでいる生は、この動物としての「我」ではないかと疑うことは、困ったことに理屈にかなっている。

ぼくはよく自分の語彙がとどかない自我(と呼びうるかどうかは判らないが)というものが人間の一生において決定的な役割を果たしているのではないかと狐疑する。
神や悪魔と名乗っているものは、案外とそこに眠っているかもしれないからです。

でも、そうだとすると、人間などは救済の可能性がない存在だということになってしまうが。

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