Daily Archives: November 27, 2012

匿名と真実

アメリカ人がネットで「実名」を選択するのは、そっちのほうが実生活に利益をもたらすからで、特に他に理由はないと思う。 日本の社会には「糾弾体質」とでもいうべき集団サディズムがあって、たとえば酔っ払って職務質問に腹を立てて警官をぶん殴ったくらいのことでも、いいとしこいて正義の味方を気取るひとびとによって実名を大々的にあばかれ、職業を失ったりする奇妙な風習があるので、実名で他人と異なる意見を述べるのは愚行だと思うが、別にアメリカ人は特別に昔から民主主義をやってるから勇気があって正々堂々と意見を言う、ということではないのは、当のアメリカ人がいちばんよく知っているはずです。 実名で不動産ブログを起こして顧客を開拓したり法律ブログを開設してカモの猟場を広げるためにインターネットを使うのは通常のことで、それを匿名でやったのでは後々カネに変わっていかないので何をやっているかわからないではないかというわけで実名でブログを書く。 あるいは、SNSならなおさら、おー、21番街におるのかね、ほんならすぐそばではないか、一緒にビールでも飲まねえ?と述べて、綺麗な(とアイコンから期待される)ねーちんと落ち合う、という展開が常に期待されるが、これも匿名だとやりたくもない「純愛」に終わってしまうので、そういう情けない事態を避けたければ実名のほうがよい、ということになる。 もっとも、この、ねーかのじょおービールのまないー、の場合は初見で「ツイッタではシドと名乗ってるけど、本当はジェームズというのね。ジェームズと呼んでください」ということはよくある。 ルールの許容範囲内であるとみなされる。 でもそれも「シド」のほうが響きがカッコイイな、と思ってつけてみただけのことで、日本のように住所をつきとめて玄関の前にカメラを設置してみなでもの笑いのタネにする、というようなビョーキのひとたちがいて、そんなバカタレたちの相手をしなければならなくなったのでは、いくらなんでも時間の無駄で、敵わないからではありません。 アメリカにも4チャンネルがあるじゃん、というひとがいたが、中年国民がほぼこぞって参加しているのではないかと思われるほど広汎な支持をうけて、その栄誉をうけて創設者は日本国政府を頭からこけにしてるのにお咎めも追徴課税の通知も来ない2チャンネルと、2チャンネルの話を聞いて小規模なコピーサイトをつくって、いきなりカネがなくなって冷笑されているガキの失敗した小サイトと比較できるとおもうのは、どうかしている。 インターネットは英語世界ではあくまで現実と地続きで、ブログやSNSは、どちらかというと情報量が多い電話帳乃至同窓会アルバムみたいなものだと考えた方がイメージに近いと思う。 自分自身について言えば、実名でインターネットに住処があるのは閉鎖的なフォーラムだけで、なんとなく似たもの同士というか、ごくつぶしの集まりというか、ろくでもないひとたちがヒマにあかせて何の足しにもならない書き込みをしている姿を思いうかべれば、それでほぼそのイメージ通りであると思う。 お互いに成長の過程や学校でよく知った者同士なので、スカイプや他のビデオ会議も併用して、なんだこれ?とか、 アフガニスタンの帽子って、ナイツブリッジにも売ってるとこあるのか?とか、そーゆー会話が音声で交叉するなかをテキストもすすむ。 その一方で日本語やなんかのツイッタもすすめているので、「日本て、こんなことやってんだってえええ」 「へえー」 というような気の抜けたやりとりが並行して起きている。 ガメ・オベールが「わっし」という主語で日本語を話すことにしたのは、なるべく胡散臭く真実味が感じられないようにするためだったのは、たいていのひとが気づいた通りだった。なるべく真実味のない話し方をすれば、そこでどれほど深刻なことが語られていても権威主義に欺されやすいひとや自分の頭で考えられないひとは、ついてこられないからで、これはいまでも良い考えだったと思っている。 なぜ真実味が感じられないようにする必要があったかというと、わしの現実生活そのものが真実味が全然感じられないもので、そういう二重構造にしておかなければ、そもそも自分の生活を言葉に書いて考えてみることが出来なかった、ということがある。 しかも日本語でなければならなかった、といまでは自分では判っている。 もともとは神のあるなしということで日本語がよかろうと考えたが、実際にやってみると日本語で考えることには他にも都合がいいことが多かった。 世の中には頭がいいひとがたくさんいるもので、そうやって書いているうちに、わしのほんとうの姿を見破って、このひとはオカネがあるようなことを言っているビンボ人のふりをしているがほんとうにオカネがあるのではないか、とか、ニセガイジンのふりをして日本に住んでいるおじちゃんを創作しているが、ほんとうはほんとうに日本にいるのではないのではないか、とか、こうやって書くだけでもややこしい現実を絡まった糸をほぐすように見いだしていってしまうひとたちがいた。 そうして、頭の良いひとびとのせいで、ばれてくると、こちらでもだんだんめんどくさくなって、実際の生活をどんどんばらしてしまうので、なんだか匿名でやってても実名でやってても同じじゃん、な状態になってしまったが、ここには面白いことがあって、ガメ・オベールという匿名の人格が自分の頭のなかに生じてしまっているので、これは予想外のことだった。 特に日本語では、自分は自分であるよりはガメ・オベールであるよーで、普段、日本語を使う機会がまったくないせいもあって、頭のなかが日本語に移行すると、言語の移行がそのままガメ・オベールへの人格への移行になってしまう(^^;) 匿名が実体を獲得してしまって、たいへん奇妙な感じがする。 「将来のため」に英語を勉強してしまったりするのも悪いことではないが、言語を学習することの最大の楽しみは自分のなかに別の人格が形成されることであると思う。 わしのなかの日本語人格は明らかに日本語のなかに堆積した、というか染みついた、情緒や逃れられない考え方の癖、日本語以外では表現することも不可能な寂しさや哀しみの感情を含んでもっている。 そういうことから類推すると、日本語人が英語を身につけると、英語の、現実がなければ何もないとでも言うような現実べったりなところ、あるいは、この世界にポンっと投げ出されて、野原をひとりで歩いて行くような英語人の情緒を自分の精神のなかに形成することは、「将来のため」というような電卓で計算された未来よりも遙かに重要なことと思われる。 そのとき初めて言語こそが自分という存在の実体であった、と実感できるのだと思います。

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