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美人について

子供の頃、牧場に立って空を見ていたら、白雲がユニコーンの形をつくって駈けてゆく姿になったのを見て驚いたことがあった。 そういう出来事を目撃した時の常で、記憶のなかでは随分ながい時間だったことになっているが、実際には2,3秒のことだっただろう。 「美しいひと」というのは、あのときの積雲のいたずらのようなものではないかと考えることがある。神様の一瞬の気まぐれ、あるいは天使がほんのいっときよそ見をしているときに、偶然が意地悪くはたらいて、この世のものとは思われない美しいひとをつくってしまうのであるに違いない。 美しいひとは、肉体の輪郭はおろか、肌の輝き、眼の色、髪の毛の質に至るまで美しい。 目の前にあるのは現実でも、どちらかというと幻に似ている。 幻でないのなら、きっと自分の頭がどうかしてしまっているのだろう、と考える。 いつか知り合いのパーティにでかけたら、よく知っている声がきこえて、 「ガメが引きこもってばかりいるのは、あれは、モニさんを寝取られるのが怖いに違いない」と言っている。 相手は、まさか、と言って笑っていたが、盗み聴きしてしまった当の本人は、 案外そうかもしれないな、と考えて、へえ、と思った。 モニというひとはさまざまな魅力があるひとだが、どんな男にとってもわかりやすい平凡な意味での女としての魅力もあるひとで、たいていのひとはドギマギして、いまにもひれ伏すか腰を抜かしてしまいそうなふうだが、なかには一目で恋い焦がれてしまって、「どうやってでも手中にしたい」と考えるひともいる。 「手中にしたい」というところで、もう旧弊で願い下げな感じがするが、恋に狂う男や女というのは意外と凡庸な情緒のひとが多いので、どうしても、そういう理解の仕方に傾くもののようです(^^;) そういう、男が本人だけが誰も気がついてないと思うたぐいの態様で、なんとかしてモニの関心をひこうと思ってあれこれ懸命にモニに働きかけるのを見ているのは、心配になることはないが、鬱陶しいと思うことはあって、結婚してからも、人間にはそうそう分別はありはしないので、たいして変わらないといえば変わらなくて、めんどくさいからひとにあわなくなっているのではないかとおもうことがある。 モニ自身は、もっとはっきりとそういうことが嫌いなので、それでパーティのようなものが嫌いなもののようである。 何の本を読んでも「自分が美しいとしっている女は興ざめである」と書いてあるが、モニにはあてはまらないようだ、というよりも、モニが美しいひとであることはごく自然に誰でも得心していることで、それほど自明なことを本人が知らない、というほうが考えにくいように思える。 美しいひとと結婚するというのは、いろいろな点で奇妙なことだが、たとえばモニのお気に入りのでっかいサングラスを外してくつろいでいるときには、ちょっと見回すとほぼ必ずカメラや携帯をこちらに向けているひとがいる。 そんなバカな、いくらなんでもそんなことがあるわけがないという人がいるだろうが、現実にそうなものは仕方がない。 レストランで話しながら、ふと厨房のほうをみると、いつのまにかシェフがこちらに向かってカメラを構えていて、眼があうと、バツが悪そうに右手を挙げて挨拶したりする(^^)  日本のフェリーで三脚を立てた一眼レフを正面からじっとモニに向けて写真を撮っている団塊おじさんがいて、いかにもモノ扱いされているようで不愉快だったので、ふたりで頭からコートを被って顔を隠してしまったことがある。 何分かそうして、なんて失礼な奴だろう、やだね、あんな人、とコートの下で言い合ってから頭を出してみたら、そのひとは相変わらずまだこちらに向けたカメラを平然と覗き込んでいて、なんだか暗い感じのするその無遠慮な執拗さにぞっとしたこともあった。 そこまで不躾なひとは少ないが、視界の隅にカメラを構える人が映るのは年中で、落ち着かないと言えば落ち着かない。 モニが12歳くらいになってからいままで、いろいろなひとが撮ったモニの肖像の数は、どのくらいになるだろうと思うと、なんだかおもしろいようなおもしろくないような曖昧な気持ちになります。 むかしは美人というのは、基準が歴史や文化の背景によってつくられるもので、時代や場所によって同じ姿や容貌のひとが美人であることになったり凡庸な容姿のひととみなされるのだろう、と考えていた。 美術の解説本のようなものにも当然のようにそう述べられているし、信じやすい理屈でもあった。 ところが幕末の日本人が書いたものを読むと、西洋人の女たちを初めてみるのであるのに、その美しさにびっくりしてしまっている。 福沢諭吉というひとなどは渡米して百科事典よりなにより驚いたのは若い女の美しさで、この、なにごとによらず物怖じするということがなかった幕末の啓蒙家は、写真屋を連れてサンフランシスコの町を歩き回って、これは、と思う美貌の女びとを呼び止めては写真を撮ったもののよーである。 一方ではハワイ大学で教員をしていた中国系アメリカ人の女のひとは「源氏物語ですら肌の白さを美の基準にしているところをみると、日本人はむかしから白人崇拝の悪い傾向があったようだ」という論文を書いて物議をかもしたことがあって、遠藤周作という作家が大憤慨しているのを読んだことがあるが、いくらなんでも、憤慨するまでもなく、 珍説にすぎないのは誰にでも明らかであると思う。 注意して眺めていると、人間の美にも「絶対の基準」というものがあったようで、そのときによって、ふくよかで乳房が小さいほうが美人とされたり、瓜実顔の引目が賛美されたり、あるいは現代の世界のように眼がぱっちりと張っていて、瘦せて腰がくびれていたほうがいいというようなその時代の傾向とされるもののほうが返って観念的な誇張であったのだと思われる。 ひとつには、自分が生まれた家にもモニが生まれた家にも、写真のかわりというべきか、遙か昔に描かせた肖像画という悪趣味なものがいくつもあって、それを見ると、家に「周囲が困るほどの美人であった」と伝わっている人の肖像は、意外なほど現代的な面立ちで、世紀を越える眠りからさめて絵画のなかから、よっこらしょといまの世界に降り立っても、数ブロックも行かないうちに求婚者があらわれそうな人がいて、観念的な時代や地域による嗜好とは別に、人間が普通に美しいと感じる面立ちなり姿なりというものがやはりありそうに思える。 いまでもモニにあまり笑い話でもなさそうな顔で嫌みを言われるが、もともとはアフリカ人たちの褐色に太陽が凝縮したような姿が好きで、週末に遊びにでかけるのもアフリカ人の女びとが多かった。 誰でも知っているとおり、アフリカ人には現実とは到底信じられないほど美しいひとがいて、まるで女神のように輝くひとを見つめたり抱き合ったりしていると、頭がぼおっとしてくるほどだった。 こうやって書いてくると、なんだお前は人間の外形ばかりをみて内面を見ないのか、ケーハクなやつだな、と言われそうだが、居直るというわけではなくて、実際、外形以外で女びとを好きになったことはないようでもある。 それは自分では判らないが異常なことであるかもしれなくて、母親がたまたま美しい人であったのと関係があるとすれば、そこには心理学的な理由が潜んでいるのかもしれない、と思うことはある。 小さいひとに自分の指をつかませて、飽きもせずにあやしているモニは相変わらず女神が嫉妬に狂いそうなほど美しいひとで、小さいひとに敵意を抱きそうなほどだが、モニもやがては年をとって、しわがうまれ、髪の輝きが失われてゆくのだろう。 もっとも長いつきあいの配偶者はお互いの眼には若いときの姿で見えているという。 案外としわも体のたるみも眼に映らないのかもしれないが。 神様のいたずらで、一瞬の時空の気まぐれのようにこの世界に生まれてきた「美しいひとたち」は、その美しさによって、周りの人間を驚かし、動揺させ、悲しませ、酷いときには破滅に陥れる。 むかしから(このブログ記事にも何度か出てくる)「絶世の美女」という古色蒼然とした表現を使いたくなる娼婦の友人がいるのを憶えているひともいるだろうが、あのひとなどは、自分の美しい顔と肉体にあわせて演技をすることはあっても、ほんとうは繊細な磁器をおもわせる容貌とは異なって、いわば「男」のような性格で、カシノで会うと、ブラックジャックテーブルに向かう他人の足を止めて、とにかく一緒にいっぱい飲もう、ひさしぶりだろ、と邪魔をしにくるのは、どうやら「ガメが相手だと自分の性格を捏造しなくてすむ」からであるらしい。 あたまに「高級」という形容がつくにしても娼婦という職業の選択は、魂と肉体が乖離していることと関係があるのかもしれない、と自分でも述べている。 … Continue reading

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