Monthly Archives: December 2012

エンコーと長靴

エルトン・ジョンは時々はっとするようなことを言う。 マイケル・ジャクソンがベルリンのホテルの4階の窓から子供を抱えてあらわれてdangle(日本語がおもいあたらない)して見せたときに、レポーターが、「ああいうことをする邪悪な人間というものをどう思うか」と聞いたら、憮然として、「徹底的な善人でなければエンターテイナーとして、たくさんのひとを喜ばせることなんて出来ないと、どうしてきみは判らないんだ」と答えたりしていた。 E!チャンネルの、一瞬だけ映ったしょもない瞬間にしかすぎなかったが、ぼくは観ていてびっくりしてしまった。 言われてみれば当たり前な、それほど簡単なことに、ぼく自身、気が付いていなかったからです。 人間はまず第一に善意でなければならぬ、と教わる。 言葉をおぼえるかおぼえないかくらいのところで、もう、誰に接するにも善意でなければならない、ひとには礼儀正しくしなさい、他人を悲しませてはいけない、自分が相手をよろこばせるために何が出来るか一生懸命考えなさい、と言われる。 やってみると判るが、そうやって知らない人にも、きゃあきゃあと笑わせるべきオモロイ冗談を考え、モニを抱腹絶倒させ、なにを考えているかほぼ不明な小さいひとはめんどくさいのでくすぐったりほっぺたぶちゅーをして、きゃっきゃっと喜ばせたりしていると、意地悪なことを考えたり、居丈高になっているヒマなど全然なくて、日本語のインターネットでみかける、「おれのほうがおまえより頭いいもんね」のひとびとは、どうやってああいうひねくれた楽しみにひたるヒマを創り出しているのだろうと不思議な気持ちになる。 もしかすると、初めから全然「生活」なんてしていないのではなかろーか。 さっきのマイケル・ジャクソンで言えば、前に記事を書いたことがある。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/10/01/「純粋さ」について/ ぼくは、マイケル・ジャクソンがブルック・シールズと初めてデートしたときの、 “And, man, we exchanged numbers and … I was up all night singing, spinning around in my room, just so happy, you know. It was great.” という、マイケルジャクソンの子供のような喜びかたが好きで、ときどき才能のあるひとびとが思い出させてくれるように、人間はストレートに善良なのでなければならないのだということについて考えた。 人間の意識は厄介で、その実体が脳のなかに蓄積した言語の自己運動である以上、「洗練」ということを好む知性の本質が発達していれば発達しているほど、本来の目的から離れた言語自身の自己の欲求をみたす運動にはいってゆく。 特に日本語のように主に商業主義によって消費物として扱われてきたせいで、あっちをかじられ、こっちが磨滅し、という散々に弄ばれて原型をとどめなくなったのっぺらぼうな言葉の世界では、 … Continue reading

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and we drown

妹のような天賦の才がないのに、いろいろな言語を理解しようとしてジタバタするのは、「美しい表現」が見たいという、ただそれだけのことなのではないかと思う事がある。日本語で、こんなことを書いてもしようがないのかも知れないが、   Shall I say, I have gone at dusk through narrow streets And watched the smoke that rises from the pipes Of lonely men in shirt-sleeves, leaning out of windows?… という英語世界でふつーの教育をうけたものなら誰でも暗誦してみせることができる 詩句は、明らかにこれまでに書かれた英語のなかで最も美しいもののひとつである。 だが、 「死の滴り、     この鳶色の都会の、     雨の中のねじれた腸の群れ、     黒い蝙蝠傘の、死滅した経験の流れ。」      という表現は観念的でありすぎるかもしれないが、極めてすぐれたものであるの       に、もう誰にも読まれはしない。 … Continue reading

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ガゾー (その1)

日本語をベンキョーしていて、最も感動した物語の登場人物の名前は「謎の怪人ナゾー」だった。 こーゆー姿のひとです。 http://wildcats.pupui.jp/mt/archives/000398.html この怪人ナゾーが敵役の物語の主人公は「黄金バット」という名前だが、これは机の上にあった煙草が「ゴールデンバット」だったからで、海野十三といい、この当時の子供向け物語作者は半ば江戸戯作者の気分で暮らしていたのが判る。 ついでに言うと、この写真にある水中モーターってなんだ?と思って調べると、60年代の日本で大ヒットしたオモチャのモーターで、戦艦日向を作って底にペタッと吸盤でこの独立防水のモーターをくっつけると最寄りの小学校の池のなかをゆるゆると戦艦が進む情景が現出するというチョー頭のいい発明なのだった。 マブチモーター製です。 わしもマジで欲しいです。 ついでに言った余計な事のさらなるついでを述べると宇都宮徳馬というひとは不思議な政治家で終生自民党議員として過ごしたが、フランス革命が終わったのは遙かむかしなのに政治家を右翼左翼で分けるのはマヌケがやることと決まっているが、右翼左翼という言葉を使いたければ火炎瓶闘争時代の日本共産党よりも遙かに過激な左翼で革共同革マル派など問題にならないくらい左翼で、あまりに左なので大アジア主義を通って反対側に出てしまって、戦前の右翼の役回りをするほど過激な左翼だった。 このひとは面白いことに政治の志は高いのに、そういう人にありがちな「絵に描いた餅病」に陥る観念的な人間ではなくて、商売がうまいひとで、ミノファーゲンという肝臓のクスリで死ぬまで政治資金を補ったが、このひとが節操を枉げないですんだのはそのせいです。 マブチモーターは大平正芳を養った、というか、 大平正芳はマブチモーターという安定した業績の会社の大株主で、だから宏池会のようなカネがかかる会派に属しながらあまりカネに困ったことがなかった。 ブリジストンというもっと可愛げのないマジな大会社に支えられていた鳩山家と較べると、「マブチモーター」というところが読んでいてシブイと感じられる。 とゆーわけで謎の画像、ガゾー。 「広い、新しい海にでてゆく」という記事につけたこの画像は中東料理屋のテーブルのあいだを踊ってあるくベリーダンサーの女びとです。 日本の人は世界中のことに興味があるが、中東のことはあんまり興味がないみたい、と思うことがあった。 いま40代のイラン人にはイランで人気があった夏目雅子の「西遊記」に狂ったひとが多くて、やはり夏目雅子の三蔵法師が人気があったニュージーランド人と「西遊記トリビア」に熱狂していたりしていたが、日本のひととイランの話をしてみると、覚醒剤なんでしょ?、とゆーよーなくらああああい話ばかりするので、そいつは誤解だぜべービーと呟きながら、「踊るイラン人」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/10/01/踊るイラン人/ というブログ記事を書いたことがあった。 あれから4年経って、このあいだチョー美人のイラン人のおばちゃんと話していたら、もはや欧州風にしていると革命警察に苛められたりするようになったようで、 知識人たちが無責任を決め込んで、政治は興味ない、と述べて、もっともらしげにふるまっていると、イランのようなかつては、といってもついこのあいだまで典雅な文明を誇った地域の超大国でもそこまでいってしまうのか、と考えて暗然としてしまいます。 「ギリオージ」という記事 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/05/02/ギリオージ/ につけたこの画像は、オークランド空港の国内線で到着客のドアをじっと見つめているかわゆいガキ。 この姿勢のまま5分くらい、じいいいっっと待っていたかと思ったら、次の瞬間、 「ばあーちゃああーん!」と叫んで、マシラのごとく走ってばーちゃんの胸にとびこんで抱きついたのであって、なんちゅうドラマドラマしたガキであるか、と見ているほうは感動して涙ぐんでしまうほどであった。 ばーちゃんも、そのまま昇天してしまいそうに幸せそうでした。 この写真は高野山に行ったときに撮った。 行ってみると高野山はロケットの形をした墓があったり、むかし義理叔父に話を聞いたときに「そいつって、ただのスケベオヤジなんじゃね?」とゆって怒られた親鸞聖人の墓所、あるいは、徳川家の墓を見下ろして1段高いところにある豊臣家の墓に、というよりもそのsubtleですらない政治的表現に、高野山という場所の歴史を感じて、面白かった。 義理叔父が東京の地縁しかもたないので日本の知識というと関東ばかりだが、京都人とゆっても村上憲郎では怖いのですべりひゆを誘拐して、京都を案内してもらうといいのではないかと考えます。 日本にいたとき仲良しだった鮨屋さんの握った鮨の写真で、この写真の追加分を頼む前に30個くらい鮨を食べて、大将に「ガメちゃん、鮨は、そんなに数食べちゃダメだよ」と笑われたあとの注文なので、満腹に近くても食べたい、わしが好きな鮨が3つ並んでいる。左からコハダとアジとアナゴで、このみっつはどこの鮨屋にでかけても食べていたよーな気がする。 築地場内の鮨屋によくたくさんのひとが並んでいたが、いちど行ってみたらおいしいと思わなかったので、もっぱら銀座の、決まった店にいくことがおおかった。 名人芸で、うまくお燗をした樽菊正宗や、「ひや」の八海山で、いわしの塩焼きや鮨やでっかい帆立をちょっとだけあぶったのを食べたりするのは、わしの東京における楽しみで、あんな、他のどんな都会にもない極楽がクソ東電のせいで失われてしまったのは残念だと思う。 いまのまま日本のひとが自分で自分の心をだましおおせて、死にもせず、病気にもならず、すごしていければそんなに良い事はないが、仮に放射脳のガイジンどもが考えているとおりになれば、「江戸前」(東京湾という意味です)の鮨文化などはひとたまりもなく滅びてしまうことになって、50年も前の古くさい技術にしがみついたせいで、これほど精緻な長く続いた文化が危険にさらされるなど、現実味というものが感じられなくて、三流SFのようであると思う。 ブログ記事に何度も出てくるように、広尾山まで帰るのがめんどくさくなると、よく日比谷の帝国ホテルに泊まったが、ホテルに泊まるというのは、自分では何もしなくていいということなので、「タクシーで15分なんて、そんなに近いのなら家に帰ればいいのに」と思う人が考えるよりもずっと良いことがある習慣で、特に銀座に行くと有楽町のビックカメラで大量の買い物をする癖があったバカわしは、包装のゴミが大量に出るので、どんなにゴミが出ても部屋の片隅において近所のレストランやバーにでかければ瞬時に綺麗に片付けておいてくれるホテルのサービスが便利で好きだった。 帝国ホテルは日本によくやってくる外国人のあいだでは「日本式」のサービスが行き届いているので有名で、日本のひとがサービスの良い旅館に泊まるのと同じ感覚ではないかと思う。 外国人限定のメンバーシップがあって、宿泊料の割引があり、プールやジムがただになるので、銀座のホテルでいちばん安い、ということもある。 いちど、おもしろがってペニンシャラ・ホテルに泊まったが、部屋がチョーハイテクで、コンピュータに関するものはなんでもあって、ウエザーステーションまであるのがかっこよかったが、それだけのことで、なんとなくファミリーレストランを思わせる、丁寧で礼儀正しいだけでプラスティックなサービスが嫌だったので、いちどだけしかいかなかった。 もうひとつはモニの言う通りで、ただでさえ狭い一階のロビーのレセプションの前にカフェをつくって、それがテレビに出たとかで縁延長蛇の列で、狭隘なロビーの奥のレセプションがビジネスホテルのようだった。 ヘンなホテル、という印象だったのが、モニとわしが日本を発つ頃だったか、あるいはもっとあとにテレビかなにかで見たのを現実のように思いなしているのか、突然ピンクのネオンで縁取りして、巨大パチンコ店みたいになってしまって、ぶっくらこいてしまった。いくらなんでも下品なのではなかろーか。外廊下。 写真は帝国ホテルでただ一度だけモニに強要されて頼んだ和朝食で、モニが自分だけシャンパン付きのいつもの朝食を食べながら、カメラを片手に「ガメ、やっぱり日本食はプレゼンテーションが良くてすごいな」とにこにこしていたのを思い出す。 左下端の梅干しは食べられなかった。 … Continue reading

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明日のための移民講座(その2)

オーストラリアの首相はウエールズ人である。 ジュリア・ギラードは5歳のときに温暖な気候を求めて両親とともにオーストラリアのアデレードに越してきたひとです。 日本に引き写して言うと吉林省に生まれた中国人の両親に伴われて子供の時に岡山に越してきた女の子が日本の首相になるのと本質的に変わらない。 移民として国が受けいれるのは、まず第一に自国に人材がいない技能をもつひとで、日本ならば、この数年人材がなくて苦しみぬいているのは首相という職業だが、中国の人をつれてきて、「今日からあんた首相ね」をすると、次の週にはいきなり日本がチベットとまったく同じ理屈で「自治区」になってしまい。 アメリカが奪還しようとしても「内政問題だから、あんたの知ったこっちゃない」と言われてしまうので、あんまり名案でもないよーな気がする。 JASRACに巣食う「くれくれ族」の狩りに遭って、気息奄々の日本の音楽世界などは、感性が極めて似ているスリランカあたりから大量にミュージシャンに来てもらうと助かると思うが、基幹産業に目をむけるとIT人があまりまくっているインドのひとびとに大挙やってきてもらう、というような方法も良い方法であると思われる。 移民によって日本のIT化を企図する場合には、せこい審査など設けないで、どおおーんとインドのIT企業ごと来てもらえばいいのに、と思う。 日立やT芝などは、あっても、しょもない原子炉をつくったりして碌なことをしないので、まるごと差し上げてしまえばよいのでわ、と考える。 インドの人間の育て方はアメリカのようなやり方と違ってアジア的なので日本のエンジニアのなかにもインド式マネジメントで生き返ってしまいそうなひとがたくさんいる。 中国人は日本人も含めてアジア人をバカにしまくって暮らしている、というか、ほんとうに自分たちに較べると「劣等」だと思い込んでいるひとが多いが、この手の人と話しているとインド人にだけは、隠しても色には出にけり、そこはかとなく漂う劣等感があるよーに見える。 中国人にとって「カッチョイイ教養」というのは、英語がへろへろと話せて、数学、というよりも暗算がばっちしピタと出来ることだが、インド人は実はこの両方とも得意です。 どうもそれで中国人はインド人が苦手であるらしい。 インド人の欠点といえば、いわずとしれて、ムンバイの通りを歩く白人女性はすれ違いざまおっぱいを鷲摑みされないように気をつけなさいとガイドブックに書かれるほどの性的な粗野と男尊女卑だが、これも日本の社会ほどは酷くはないので、返って日本の男びととインド人と気があうのではなかろーか。 …と、いうふうに考えてゆくと、日本が移民を受けいれるさいに、他国並に英語試験を課したほうがよいのが判ってくる。 いまはいろいろもっともらしい能書きをつけて試験をやっているらしいが、子供のときから移民に英語試験を課することの是非を議論する番組をずっと観てきた人間には、歴史性から英語試験がもともと「大量の中国人移民が流入する」ことの歯止めとして採用された制度であることをよく知っている。 言わないだけです。 中国のひとは、呆れるほど英語ができない人が多いので、特別な技能がない中国人移民の流入を防ぐには、いろいろやってみて、英語試験が最も有効であるということになった。 現在は旧英連邦諸国はIELTSで、アメリカはTOEFLの点数をもとに審査しているのだと思われる。 わし自身、論理的には連合王国からニュージーランドへの移民のはずだが、パスポートは(特殊な事情により)「ください」とゆってもらっただけであるし、連合王国とニュージーランドという国はりょーほーともチョーええかげんな国なので、パスポートを両方もっていて、極端に言えば今日はイギリス人だもんねー、来週はニュージーランド人だけど、とゆって暮らしている。 パスポートをジャグって遊んでも連合王国のパスポートで出てニュージーランドのパスポートで帰ってきたりするとえらいことになるが、それだけ気を付ければダイジョーブである。 アクセントを変えて遊んだりする。 第一、無茶苦茶なことにイギリス人たちは、わしがイギリスにいるのだと思い込んでいる(^^) だから自分が移民であると考えてもいまいちしっくり来ないが、移民社会の良い点は毎日、明然と享受しているので、いくらでも述べ立てることが出来る。 まず社会にとって最も重要なことは、他国に行ってハンディキャップをものともせずに幸福な生活を築こう、と思うひとは余程明るい「進取の気性」に富んだひとであるか、何を話しても常に全然関係も脈絡もない返事が返ってくる村上レイのように根本から世の中を誤解しているかのどちらかで、村上レイのような変人は数が少ないから無視するとして、移民が増えると世の中が明るくなる。 前にこのブログ記事で書いたのをおぼえているが、去年のクリスマス、ボタニーダウンズ http://www.aktnz.co.nz/2011/12/19/botany-town-centre-shows-the-way/ というオークランドでいっちゃん大規模なモールの駐車場でぼんやり立っていたら、 インド人の夫婦がふたりででっかい板みたいな箱をもってよろけながら歩いてくる。 その周りを、まだちっこい娘と息子がくるくる走り回っておる。 なんじゃ、あれは、と眺めていたら、そのでかい箱は50インチのテレビだった。 普通は店がその日の夕方にタダで配達してくれるものなので自分のクルマでもってゆく人はいないが、その家族のチョー嬉しそうな様子を見れば明らかで、一刻もはやく新しいテレビをつないで大きな画面で家族で遊ぶのが待ちきれないのでした。 移民は少しでも良い生活をするために他国へやってくるが、その「少しでも良い生活」のうち最も重大なのは子供たちの教育であるにしても、「良い生活」のイメージは簡単で、故国にいるときよりも大きなテレビ、故国にいるときよりも大きなクルマ、故国にいるときよりも大きな家という物理的イメージである。 だから、どんどん消費する。 アメリカ、豪州、ニュージーランドというような国が、ときどき崩壊寸前みたいな経済になってへろへろしているのに、そういうピンチにあっても消費は意外に強くて、逆に消費の強さのせいで経済が持ち直してしまうのは、新しい移民の購買力にかなりを負っている。 あるいは移民を受けいれることの良い点は、ひとつの職能の質がえらい勢いで向上することで、そんなに専門的な職業でなくても、たとえば、客にデタラメをこいてばかりいたニュージーランドのコンピュータ店の店員はインドのひとびとが大挙してやってくるに及んで劇的に向上した。会計、プログラミング、システムインテグレーション、…移民がたくさんくることによって質があっというまに向上した職種は数がしれない。 当然、もともと住んでいる側では「明日から来なくていいからね」になってしまったひとがたくさんいて、移民で社会が活性化されたといっても、活性化されて生産性が向上した社会の陰では、職を失った「誰にも必要とされない人」がたくさん出ることになった。 ついでに述べておくと、この弾き出されてしまった「誰にも必要とされないひと」の半分くらいは、他の国に行って新規まき直しを図るひとが多いよーだ。 不思議なことに、と書きかけて気が変わったが、考えてみればあたりまえで、新しい土地に行けば、連合王国で無用な人であった役立たずも、まるで違うスーパーマンになるチャンスをもつ。 新しい人になって、俄然エンジンが動き始める、という例が多いようである。 多くの人が、くっ、下らない、と述べるだろうが、わしにとっては、世の中なんど、細部しか重要なことはないので、枝葉末梢の些末を述べ立てると、移民の大集団の登場で食べ物の質が向上したのは画期的なことだった。 … Continue reading

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明日のための移民講座(その1)

渋谷のTower Recordsに行った帰りに駅前のスクランブル交差点の向こう側にたちはだかる「人間の壁」をみて、ぎょえええええー、と考えたことがある。 信号が変わるとチョー短いスカートの高校生やゲイのヘアドレッサーみたいな感じのひとがおおい日本の若い男びとや、そーゆーひとびとがファランクスをなして、どおおおおおーと攻めてくるので、足がすくむ。 「壁」がわしのいるところに到着すると、意外に低い壁で、だいたい肩くらいまでしかないので、180センチちっとだがだいたいにおいてハイヒールを履いているモニも同じで、ときどきぶつかられるのは閉口だが、それでも信号が変わりきらないあいだに向こう側にたどりつけるのを発見して安心する。 日本は土地の大きさを考えると人口が無茶苦茶に多い国で、山ばっかしで、しかもばかでかい山が行儀良く並んで細長い島の真ん中を通っているせいで、北島などはあんまり山がないニュージーランドに較べると平野が極端に少ない。 それでも平野のおおきさを無視して山を含めた国土でみるとニュージーランドは人口は400万人で、国土のおおきさは7割なので、日本の国土でニュージーランドと同じ感じをだそうとすると、570万人くらいがニュージーランド人からみた日本の「適正」な人口ということになります。 こどものとき、親の家のライブリで百科事典を読んでいて、日本の項目に 「人口が1億3000万人」と書いてあるのをみて、冗談だろう、と考えた。 一桁まちがえているのではないかと思った。 人間(しかもコンジョワル)がうじゃうじゃいて、人間が多すぎて住みにくいので有名で、人間がどんどん他の国へ流出してしまうので名前が売れたイギリスですら人口は6000万人で、まだその倍もある。 ひょええええー、と思って、自分にとっては叔父である、あのヘンテコな日本人のおっちゃんがやってきた国は、なんとも凄まじい国であるよーだ、と考えて戦慄した。 行って見ると、日本人は日本という予想よりも遙かに平野が少ない国に、うまく住んでいて、地下鉄が滅多矢鱈に発達していて、しかも山手線というループがうまい具合にまわっていて、その都市計画のうまさに感心したが、しかし、東京のひとの多さは聞きしにまさっていて、地下鉄もバスもパスにして、全部歩いてか自転車で移動するようになるまで時間がかからなかった。 おおきくなってからは、タクシーを常用した。 移民をうけいれなければ人口の老化を解決できないのは、日本では、もう30年も前からわかっていることだった。 そもそも人間が65歳くらいで死ぬことを前提にした思想の産物である年金制度の問題は、さらに前からわかりきっていて、日本の政府がどういう理屈でダメになるとわかりきっている問題に手をつけなかったのかは、外から来て調べてみたものにはわかりにくい。 何度も述べたように、40年くらい前の日本の雑誌を読むと、「フランスの老齢化」について、やや嘲笑気味に述べてある記事がいくらもあって、いまで言えば団塊世代のひとびとは、人口ピラミッドの形からみて、自分達が60歳になれば必ずフランスよりもひどくなる、と熟知していたはずである。 それが、30年前になると議論が雨散霧消して、蒸発してしまう。 先見の明があったわけではなくて、当時のどこの先進国でも同じ議論「フランス型に向かう人口構成」が大問題になっていたのに倣って、ニュージーランドでも「2000年を迎えたときの人口構成比シミュレーション」が発表になって大騒ぎになったのは1970年代の終わりだった。 1970年代は、1973年に日本もまきこまれた産油国から発したエネルギー危機があり、ニュージーランドにとってはそれとは別にイギリスが英連邦を裏切る形でEECに加盟してしまうという大事件が起きて、ただでさえニュージーランドは「国自体がつぶれるんちゃうか」の時期で、当時の首相マルドゥーンは「Think Big」という誇大妄想狂的というか観念的で現実が全然理解できないお題目だけの経済発展政策によって苦境を切り抜けようとして公共事業にカネをばらまいて、ますますニュージーランドを大ピンチに陥れてしまう。 いま70歳代後半のニュージーランドのじーちゃんやばーちゃんと話していると、ホームローンの変動金利が年利24%になった、というようなホラーストーリーがいっぱい聞けて、国がぼろくなると、ニュージーランドのようにそれまでは富裕であった国でも、どのくらい滅茶苦茶になるか、ということがよく判ってベンキョーになります(^^) 解決するには移民をうけいれるしかない、ということになった。 こーゆーふーに述べると、「自分達自体移民なんじゃん、けっ」とゆって悪態をつきだして後は何も聞いていない日本のひとがよくいるが、そーゆーアホな態度では国は沈没してしまう。 頭の悪いティーンエージャーではあるまいし、ニュージーランドの先住民と欧州系人の関係はまた別の問題で、議論が生産性をもつためには問題は「ゆっくりとひとつづつ」考えてゆかねばならないのだと思われる。 ニュージーランド人はちょうど日本人と似て、もともと、たいへん閉鎖的な国民性です。 xenophobiaという。 イギリス人の外国人嫌いは欧州では有名で、まして、遠くのアジア人などは人間だと思っているかどうか疑わしいアンポンタンが社会のすべての階級にいきわたっていて、わしがアジア人ならイギリスに住むのは絶対嫌だが、ニュージーランドも似たようなもので、わしガキの頃(80年代後半から90年代前半)は、とにかく「外国人は見たくない」ひとがたくさんいて、おおっぴらに外国人の悪口をいいまくっていた。 ここでいう「外国人」は主にオランダ人たちを指していて、日本のひとが考えるような「仲間同士のきつい冗談」というような暖かみが少しでもあるものではなくて、底冷えのするような敵意で、その頃はパブで袋だたきにされるオランダ系移民、というような話をよく聞いたものだった。 南のデニーデンに行くと、中国人たちがいて、このひとたちはむかし金鉱や炭鉱を買ってやってきたひとびとと、その鉱山で働いていたひとが多く、富裕なひとが多い。 「外国人」といえば80年代までは、そのくらいで、わしガキの頃の「移民」に対する感想は主に「オランダから来た人々が気の毒である」というものだった。 それが将来の人口比と経済の停滞の問題を解決するために、主にビジネス人たちが政治家を動かして移民の受け入れを増やそうというのだから、大変な騒ぎになった。 それまで何千人という単位にしかすぎなかった移民数が1992年には26000人、1995年には55000人、というふうに急速に増えていった。 初めに目立ったグループは日本人たちで、これはすでに80年代に始まっている。 いま考えてみると多分、その頃の「日本人の洪水」というオーバーで悪意に満ちた表現は、オーストラリア人たちの日本人への凄まじかった敵意を常時何十万人(いまは約50万人)という数でオーストラリアに住むニュージーランド人たちが持ち帰った結果で、わしガキの頃は、近所のひとに「町には日本人がいっぱいいるから注意しなさい」と言われたりして、たしかに下町に行くと日本人たちが大勢いて、日本語でおおきな声で話していたが、あれは多分語学留学生たちで、「移民」ではなかったのではないかと思う。 他には中年以上の日本人たちがたくさんやってきて、そこいらじゅうで大きな家を買い占めていたのを思い出す。 だいたい通りでいちばん高い家を買って、「白いベンツ」を買って、なんだか退屈そうにクルマに乗って町を流してあるくので、よく気味悪がられていた。 ゴルフ場に行くと日本のひとたちが「アスホール」「アスホール」とお互いに言い合いながら、我が物顔でのし歩いている。 とんでもないひとたちだ、と丁度ニュージーランドに来ていたばーちゃんが顔を真っ赤にして帰ってきたのも、この頃で、日本人である義理叔父があせって、よく話を聞いてみると「あっ、そう」という日本語のことで大笑いしたりした(^^) 義理叔父が聞き合わせてみると、退職した公務員、会社員、というひとびとが多くて、日本の公務員ってなんでそんなにカネモチなんだ?とよくおとなたちの話題になったが、どうも、汚職のオカネを日本で使うと拙いのでニュージーランドにもってきている、とか、そーゆーことだったという話だったりした。 そのうちに韓国人と中国人たちが大量にやってきた。 … Continue reading

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2 wrongs

A かき氷にウイスキーをかけて食べるとうまい、というのはたしか義理叔父とトーダイおじさんのひとりに教わったのであると思う。 鎌倉ばーちゃんの家でころころしていたら、ガメー、ガメーと呼ぶ声がするのでいってみたら縁側で長瀞の天然氷とかいうのをしゃりしゃりと削ってかき氷にしたやつにオールドパーをぶっかけて、いいとしこいたおやじがふたりで悦にいっている。 きみも食べてみよ、というので食べたら無茶苦茶うまかった。 軽井沢のひとと話していると、50年くらい前までは軽井沢駅の真ん前に氷室があったという。そこで出来た氷を東京に売っていたそーである。 ゴルフクラブの72やなんかを通ってくる「100メートル道路」は、戦争後すぐはアメリカ軍と家族が東京から避暑にやってくる飛行機のための滑走路になっていて、このアメリカ人たちにも軽井沢の天然氷は喜ばれた。 もっというと1938年にはヒットラーユーゲントの大団体が軽井沢で日独友好の大会を開いたのだそーで、軽井沢の土屋写真館という写真屋さんに行くと、そのときにとった写真を売っている。 いまは軽井沢銀座というチョー田舎臭い名前がついている軽井沢のメインストリートにはハーケンクロイツと日章旗が並んでいて、随伴のナチ将校たちが木陰で寛いでいる写真もある。 野尻湖にいったときに、出かける前の東京で、その昔じーちゃんが別荘をもっていたというスウェーデン系アメリカ人に野尻湖の話を訊いたら、そもそも野尻湖の外国人村はこのときのナチ歓迎の雰囲気に嫌気がさしたひとびとが集団移住したのが始まりだそーだった。 ところで、なんで軽井沢のナチ大会の話なんかをしているかというとそこに集ったドイツ人もかき氷を好んで食べた、というからです。 かき氷は西洋ではビンボくさい食べ物で、あんまり好きな子供はいないと思う。 アイスブロックは好きな子供がいても、かき氷が好き、という子供は少なくともぼくは見たことがない。 むかし、義理叔父と一緒に葉山を散歩していて、義理叔父と従兄弟がおいしそうにかき氷を食べているのを、おえっ、「カルピス」っていうのか、気持ちわりー、と思いながら それでもお行儀良くテーブルの反対側に座って、ひとりだけコーラを飲んでいたのを思い出す。 後年、「カルピスソーダ」を好物とした無敵十全外人大庭亀夫にして、その頃はまだ「カルピス」というヘンな名前(語感から、なんとなく馬のおしっこのようなものを考えてしまう)と、「空飛ぶ怪物カル」からしぼりとった精液でもあるかのような、ぶ、き、み、な形状とにおそれをなして手が出せなかったもののよーである。 「ポカリスウェット」もそうだが、もうちょっと名前を考えてくれれば初めから抵抗なく飲めたのにー、と思う。 期待の4WDに「Pajero」(マスかき野郎という意味です)と名前をつけてスペイン人・南米人たちを即死させた日本の会社人の命名センスなので、仕方がないと言えば仕方がないが、フランク・マンコビッチに改名を迫って腐らせるくらい名前に関心があるのなら、自分たちが苦心して開発した商品を輸出するときくらい、相手方の国ではどういう意味になるか、くらいは聞いてから命名したほうがよかったんじゃないかなー、とは思う。 義理叔父が熱狂的に好きな宇治ミルク金時も含めて、かき氷をほんとうには好きになれなかったが、いまぼくのいるニュージーランドという国は夏で、夏になると、なぜか「かき氷」のことを思い出す。 「東一番丁
ブラザー軒
硝子簾がキラキラ波うち、
あたりいちめん氷を噛む音

 死んだおやじが入って来る
 死んだ妹をつれて
 氷水喰べに、
ぼくのわきへ」 「妹は匙ですくう
白い氷のかけら
 ぼくも噛む
白い氷のかけら
 ふたりには声がない
 ふたりにはぼくが見えない」 「おやじはひげを拭く 
妹は氷をこぼす 
簾はキラキラ
風鈴の音
 あたりいちめん氷を噛む音

 死者ふたり、
つれだって帰る、
ぼくの前を
 小さい妹がさきに立ち、
おやじはゆったりと
 ふたりには声がない、ふたりには声が 
ふたりにはぼくが見えない、ぼくが見えない」 というのは高田渡が曲 https://www.youtube.com/watch?v=TdqtFNliuOM を付けて有名になった菅原克己の「ブラザー軒」という詩だが、かき氷には、なにがなし、日本の夏を哀切に思い出させるところがあると思う。 セミの声や天にとどきかけている積乱雲、あれはテングサの臭いだそうだが、ぼくにはいつも「日本の海のにおい」として意識される、かすかに生臭いような不思議な海のにおい。 あるいは、イギリスの家ならとんでもない不作法で座敷牢にいれられそうな、縁側に従兄弟と並んで種をぶっ、ぶっ、と吹き飛ばしながら食べる三浦の西瓜。 ぼくが考える「日本の夏」には、いつもそこにかき氷があって、思い出すたびに、なつかしいなあ、と思う。 … Continue reading

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遠い町へ

日本語とのつきあいはまだ続いているが日本とのつきあいはなくなってしまった。 収入源を仕事というのだとすれば、ぼくの仕事は冷菜凍死ということになるが、日本には投資はしたことがない。長野県に2軒、東京に1軒、神奈川に1軒、家を持っていたが、これらは自分が腰をおろすための家で、自分がいるだけの家を投資に数えるひとはいないだろう。 遠くから見ていると、日本のひとにとっては福島第一原子力発電所の事故はもう過去の苦しみで、ちょうど衆院選挙でシャワーを浴びたような気持ちであるらしくて、また自民党の政権にもどって心機一転というふうにみえるが、ぼくは「放射脳」なので、あんまり行ってみる気がしない。 めんどくさいのと、あんまり正体を詮索されるのが嫌なので前には書かなかったが、ぼくはもともと日本とは深い縁がある。 子供のときに住んでいたことがあるし、そのあとにも少し住んでいた。 イギリスからニュージーランドに毎年移動する途中でも、半分くらいの年は成田泊まりで移動して、成田を通って移動するときには、義理叔父の実家に幾晩か泊まって、そういうときは従兄弟と日本で待ち合わせをして、ふたりで日本の町のあちこちにでかけたりしたものだった。 だんだん日本の社会のことがわかってくると、軍隊じみたところが嫌だったり、現実の社会で顔をあわせる親切で礼儀正しい「気品がある」という言葉が最も適切におもえるひとびとと異なって、まるで江戸時代の泥田から抜け出てきた化け物のような、なんとも形容しがたい、ただ他人への攻撃の戦法にのみ長けたインターネット上で会う、「会う」というよりも、こういうひとたちは電柱の影から躍り出てくるようにして殴りかかってくるだけだったが、見ているだけでやりきれない感じにさせられるひとびとが飛蝗の群れ方で群れていたりしてげんなりさせられたりしたが、そういうときでも、広尾山の家を出て、モニとふたりで青山や銀座に遊びに出れば、やっぱり日本はいいなあ、と思うことが多かった。 知り合いの画廊に寄って新しく仕入れられたタピエスにコーフンしたり、天野忠夫のぜんぜん訳わかんない小さな彫刻に爆笑したり、どんな小さな美しいものも見逃さない画廊の主人と一緒にでかけてむかしの作家の簡素な別荘に見とれたりしたのは良い思い出である。 あるいは、もう名前を忘れてしまったが、と書いてから思いだしたがたしか「アグニ」という名前の、キャノンデールがはいっていたビルの7階にはインドのホテル王と住友商事が共同でつくった、長い美しいカウンターのあるタンドリ料理屋があって、その店に行くと、シェフたちがモニと一緒に写真を撮りたいといって料理も客もそっちのけでモニと並んで写真を撮りまくるので大笑いしたりした。 無間地獄から這い出してきた上半身だけのゾンビの群のような印象のあるインターネット上のある種の日本人からは到底想像ができないことには、現実の町で会う日本のひとびとは、不思議なくらい性質のよいひとびとで、シドニーのような町でも、これの5分の1でも人間の品性がまともなら、あの「山出し」という言葉がぴったりきそうな荒っぽい町も、さぞかし良い町になるだろう、というようなことをよく考えた。 裏通りの古くからある一杯飲み屋で樽菊正宗の八勺銚子を傾けたり、白髪ネギを浮かべた鶏のスープを飲んで、あるいは六本木の裏通りでモニとふたりでマオタイ酒を飲みながら鍋にはいった鶏そばをつついたりするのは、たまらないほど楽しいことだった。 福島第一原子力発電所の事故で汚染された瓦礫と津波による瓦礫を机の上の地図上で綺麗に切り分けて、まったく別のものとして扱えばいいと述べて日本政府のひとはすましているが、机上の空論であると思う。 現実のものごとは現実に即さなければまともに計画することはできない。 産業廃棄物の業界を少しでも調べれば、たとえ(そんなものはないが)長野県で出た津波瓦礫でも、それを九州にもっていって焼却するのは机上の理屈とは別の理由で危険だろうと思う方が普通である。 そういう考え方を攻撃するのは簡単で、攻撃者は「では瓦礫が不正に処理されるということを証明してみろ」と述べるだけでよいが、理屈の是非で遊ぶのが好きなひとびとが喧嘩と議論を混同して格闘を楽しんでいるあいだに日本中が放射性物質で汚染されてしまって取り返しがつかなくなるのがおちだろう。 チェルノブル事故を体験したウクライナ人やロシア人たちの理屈は簡単で、「すべてを閉じ込めるしかない」というものだった。 事故があって汚染された地域から汚染された瓦礫なりなんなりをいっさい出さないことしか方法はない。 ウクライナ人やロシア人たちの「自分たちへの土地」、その土地の土そのものに対する異常なといいたくなるくらいの度外れた愛情を知っていれば、その決心がどれほどの懊悩の奥から出てきたか判ると思う。 瓦礫で言えば、瓦礫を汚染地域から出してしまえば他の汚染されていない廃棄物と一緒に流通してしまうのは当たり前なのである。 津波ででた瓦礫と福島第一事故で汚染された瓦礫をわけて考えられるのは、原子力発電所の事故で汚染された瓦礫が事故地から拡散されないで、その場で処理される場合だけであると思う。 福島人はいまや沖縄人と本質的に同じ立場におかれている。 福島の問題は実はそのまま日本の問題であるのに、福島以外の地域の日本人は福島と他の地域は別だという不思議な前提をつくって、日本人の(普段であれば)美点である「おかわいそうに」の感情で遠巻きに眺めている。 その全体の構図は沖縄の基地の問題はそのまま日本の問題でしかなくて、沖縄の基地が引き起こしている問題を解決しようとすれば、虚構の積み重ねで築いた日本の防衛体制そのものを投げ出すしかないのだということを認めない日本のひとの「沖縄問題」の、沖縄人にとってはやりきれないという言葉ではいいたりるはずのない本土人の欺瞞の構図と極似している。 不確定な要素が多い問題をあつかうときの基本的な考え方は「致命的なことを避ける」ことだと前にも書いたことがある。 回復可能なことについては集中力がなくなってもよいし、ある程度みこみにしたがって行動してもよいが、回復不可能なことを避けなければならない。 まして、それが自分たちの「国土」というような、かけがえがないどころか、自分たちが拠ってたつ基盤についてのことであるならば、絶対に回復不能な失敗は避けなければならないのは当たり前であると思う。 日本の社会は福島第一事故以前に、自分たちの社会に住む人間から「時間を収奪する社会をつくる」という致命的な大失敗を演じている。 子供の頃の塾通いに始まって、異様なほど長い労働時間、明らかな都市計画の失敗に原因する、通常の限度だとされる30分を大幅に超える通勤時間、時間が目に見えず意識にものぼりにくいリソースであることを利用して、日本の社会は個人から徹底的に「時間」を収奪してきた。 その結果、さまざまな異常なことが起こったが、遠くから眺める者にとっては、人口の減少もその当然な結果の部分的顕れにしかすぎない。 時間を収奪してしまえば家庭が成立する時間もないので、少子化人口減少の次に起きるのは家庭そのものの消失であるだろう。 見合いや職場結婚がおおかった社会で、そうした日本風の習慣が消えて、そうなれば、ひとひととの自然の結びつきによって結婚するなり結婚を別に一緒に生活してゆくなりしてゆくようにならなければカップルに子供がいる生活は生じないが、ちょっと笑い話じみてしまうが、詩人のグレイが述べるとおりもともと恋愛をするためには莫大な時間が必要であるのに、日本の社会では落ち着いて他人を好きになる時間も、ゆっくりと流れる時間の流れも、どちらも存在しないので、「婚活」という滑稽で、どういえばいいか、索漠として身もふたもない習慣が出来てしまった。 瓦礫がばらまかれて、役人たちが「無知な輩」を睥睨しながら述べる「震災瓦礫と津波瓦礫の区別もつかないバカなのか」が産業廃棄の現実を通ってもほんとうならば良いが、仮にほんとうでなければ、あるいは机の上で組み立てた理屈に見落としがあれば、放射性物質が全国に行き渡って、それで終わりである。 意識のうえで福島はすなわち日本のことだと理解して、汚染は極力狭小な範囲に閉じ込めるというのとは丁度ぎゃくの、意識の上では福島人をあわれみながら、現実の汚染は自分たちにも及んでいるという風刺劇ふうの、しかも不可逆な事態を引き起こすことになるだろう。 もちろんぼくは「さよりさん」や下地真樹さんのようなひとたちが、いまや日本では孤立無援であることを知っている。 ずっとむかし、遙かなむかしの、このブログを始めた6年前から繰り返しのべてきたように、日本の社会は手の中でこねくりまわして作り上げた理屈や、「絵に描いた餅」というが、綺麗に餅の絵を描ける軽薄な「賢い人」を崇拝しすぎる傾向をもつ。 日本の社会の殆どの問題は、広い意味では、そこに帰着する。 それは多分古くは中国から、19世紀以降は西欧から、次々に観念を輸入しては咀嚼、あるいはまる呑みこみで嚥下しなければならなかった社会の宿痾であるのかもしれないが、現実と知が剥離してしまっていて、地図にルートを書き込んでもう大陸を横断してしまったと決め込む冒険家のような、言うに言われない滑稽さ、当事者にとっては救いのない悲劇をもたらしつづけている。 そういう社会のなかでは、どれほど「さよりさん」や下地真樹や内藤朝雄が拳をふりあげて叫び続けても、見えざる無数の手によって舞台に押し上げられ、スポットライトをあてられ、最後にはブーイングとともに観客席にひきずりおろされて八つ裂きにされるだけのことだろう。 日本という国の近代の歴史にはそんな例は無数にある。 ついこのあいだまでエラソーを述べていた日本の知識人や作家が恥も外聞もなく「だんまり」を決め込んでいるのは、もちろん、こういうときこそ世間体など捨てて臆病でなくては生き延びられないのを熟知しているからである。 … Continue reading

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